木曜日の朝。
部屋を出ると、どこかうそ寒い沈黙が、しんしんと降りかかっているように感じた。扉を開けてリビングに入ると、テーブルの上に一枚のメモが置かれていた。わたしは髪を耳に掛けながら、それを手に取った。“九時には戻ります. 峯”とだけ、そこには書かれていた。万年筆で走り書きされたそれ──神経質そうな字体だけど、終結にすべてはねがつけられている。縦に長いシルエット、だけど濃いインクのライン。こういう字を書く人だったんだなぁ、としげしげとそれを眺める。
わたしは、それを持って、キッチンに入った。火の気のない朝のキッチンはひんやりしている。
わたしは、冷蔵庫に寄りかかった。
冷たいと思ったのに温かくて、峯さんの腕の温度を思い起こした。









食事の支度を済ませて待っていると、9時前に、確かに彼は帰ってきた。
峯さんは、わたしが勝手にキッチンを遣ったことを怒るかもしれないと思ったが、なんにも言わなかった。部屋に戻ってジャケットを片づけてくると、洗面所で手と顔を洗い、リビングに戻ってきた。それで、彼はテーブルの上の朝食の支度を一瞥し、わたしにゆっくり視線を戻した。
峯さんは、微かにこわばった顔をしていた。
ひとりきりで、恐ろしい事実を抱えている顔だ、とわたしは思った。
兄になにかあったのだ。


「峯さん、おかえりなさい……コーヒーをどうぞ」
「……ありがとう」
「勝手にお台所をお借りしてすみませんでした。すべて元の位置に戻しておきましたから──さあ、お掛けになって、お食事にしませんか」
わたしは、すっと血の気が引いていくのを感じながら、彼の着席を促した。峯さんは、体を休める必要がある。わたしが気づかなかっただけで、彼はゆうべのうちからずっと出かけていたのではあるまいかという推測が、いまでは、確信に変わっていた。なにかを、確かめに行ったのだ。一晩かけて、この寒空の中。
峯さんは、わたしに促されても、坐ろうとはしなかった。わたしを、静かに見つめていた。だからわたしも坐らず、彼に一歩近づいた。兄はきっと死んだのだと思った。峯さんの無表情な顔は、重大な秘密をくちびるの奥にしまいこんでいるように見えた。


さん。驚かず聞いてください──お兄さんのことです」
「はい」
峯さんは、わたしに淡々と説明をした。
峯さんは、昨夜、兄が極秘で入院している病棟まで足を運んだらしい。
昨晩、兄が撃たれたこと──集中治療を受け命は助かったこと。
出血が多かったが、脊椎の損傷を避けていること。
母が付き添いしていること。過労のため深く入眠していたことを話してくれた。


「だが、問題が解決したわけではありません。今後、抗争はより激化を見せるでしょう」
「……」
わたしは、膝の力が抜けたようになって、テーブルに手をついた。
よかった。兄は死んでいなかったのだ。病院にいるということは、少なくとも今後命を落とすことはないだろう。兄は助かったのだ。
はあ、と吐息を漏らして、わたしは峯さんに目をやった。
兄が助かったというのに、峯さんは、まるで兄が死んだかのような顔をしているように見えた。まるで、一番恐れていたことが起きたと言いたげな、蒼褪めてこわばった顔だった。
「峯さん?」
「……安心されるのはまだ早いですよ。この状況で、あなたの身はもっと危なくなったということです。まだここにいてもらわねばなりません」
「峯さんにはご迷惑をおかけしています。でも、わたし……正直ほっとしています。毎晩兄が命を落とす夢を見ていたんです。だから、少なくとも正夢にならずに済んだのだと……」
「なぜ?」
「病院にいる以上、危険に晒されることはありませんもの──兄の命は助かったんですもの。そうでしょう?」
「だが、私にはそうは思えません。あの人の責任感ならば、這ってでも事態の収拾を図ろうとするはずです。あの人はそのときこそ、本当に危ないような気がしてならない」
「そりゃあ、兄はあの仕事をしている身ですもの。いくらでも危険はありますし、わたし共も覚悟しなければなりません。でも、今回は無事だったんです。それだけでもよかったと思います」
「そうでしょうか。私はそう思うことができない」


わたしは、峯さんをちらと見た。彼は、ひどく遠い目をしていた。
わたしを見ているようで、わたしをすり抜けた先を見据えているのだ。そこになにが映っているのか、わたしにはわかるような気がした。
峯さんは、3年前の、あの病室で横たわる兄の姿を、ずっと見つめつづけているのだ。
あのときの想いや、過程や、苦痛が、呪縛のように彼にまとわりついているのだ。
だから峯さんは一度たりとも安心したことがない。
できるはずがないのだ、とわたしは思った。






食後、食器を片づけたあと、わたしたちはコーヒーを飲んだ。
車を買おうと思っているということを伝え、車種やメーカーの特徴について質問すると、彼は回答と共にそれがわたしの生活に適しているかどうかについてもコメントしてくれた……「私はあなたが車を持つことには反対ですが」という前置きもしっかり添えて。
「峯さんは、お車はどうなさったんですか?たくさんお持ちでしたけれど」
「あらかた処分しました。今の生活に、派手な車は必要ないのでね」
「そうなんですか。わたし──あの黄色いスポーツカーがとても好きだったんです。あれも手放されましたの?」
「ええ。それにあれは、そう大した車じゃありませんよ」
「いいえ。わたしにとっては、勝手な話ですけど、思い出深い車なんです。前に兄が撃たれたときも、峯さんは病院まで送り迎えしてくださいましたでしょう。あのときあの車が、どんなに救いだったことか」
「……」
峯さんは、コーヒーを一口飲んだ。音もなく嚥下した喉許が、微かに上下する。そのとても長い睫毛の下で、ふしぎなほど美しい瞳が、光を湛えたガラス玉のように見えた。


「あなたを、自宅に招いたことがありましたね」
と峯さんはいった。
わたしは肯いた。
3年前のことを思い出していた。
兄が本部で撃たれて、延命措置をとっているが助からないかもしれない状況下だった。母は一言、「私のせいだね」とつぶやいた。兄はまるで、骸骨のように見えた。死相というものだったのかもしれない。峯さんは兄のことを眺めていた。柏木さんまで喪い、気が狂いそうな日々だった。数日たち、峯さんは、看病で疲れているでしょうと、わたしを食事に連れ出してくれた。そして自宅へ呼んでくれたのだ。あの外車のキーが並んだ美しいマンションに。そして、わたしの話を辛抱強く聞いてくれた。彼はわたしをいたわり、自宅まで送り届けてくれた。今夜は白峯会で看病いたしますから、どうぞゆっくり休んでくださいといって──


「ええ。一度だけ。今後のことについて助言してくださいました。感謝しています。あのとき、わたしはめちゃくちゃな心境だったんです。峯さんが助けてくださらなかったら、もたなかったんじゃないかと、いまでも思います」
「それはあなたが、私があの晩あなたを誘ったわけを、ご存知ないからそう言えるのです」
「?……」
「あなたは、私がほんとうに親切心だけで誘ったと考えているのですか」
「……」


思いがけない反応に、わたしが当惑していると、峯さんは、浅くため息を吐いた。
「あなたは疑うべきです。世の中には、打算や欲望を驚くほど狡猾に隠すことができる人種がいるものです。あなたは、どうも警戒心というものが希薄なようだ。心配になりますよ」
峯さんは、コーヒーカップにくちびるをつけ、目を伏せながら一口飲んだ。白い、まどろみの中で見るような陽光に似た、あたたかい湯気が、峯さんの奥二重の目蓋のまえに、漂っている。会話の内容とは打って変わり、平和で、穏やかな光景だった。
「わたし……信頼している人とそうでない人には、線引きして対応しています。峯さんのことを信頼していますもの……だからそう見えるんです」
峯さんは、わたしの言い分を聞くと、ふふ、と薄く笑った。
穏やかな、優しい、張り付いたような嘘の笑顔。
それが嘲笑であることを、わたしは肌で感じ取った。


「本当のことをいうと、3年前のあの晩、失礼ながらあなたを抱こうと思っていたんです。下心だったんですよ」
「………」
「あなたが、なんの疑いもなく付いてくるのを見て、密かに笑っていたものです。あまりに不用心だったんでね」
かちゃ、とソーサーにカップを置き、峯さんはテーブルの上で両手の指を絡めた。
彼がなぜそんなことを言うのか、わたしにはよくわからなかった。
わたしを試そうとしているのだろうか?


「でも、峯さんはとてもそんなふうには見えませんでした。そんなことを仰っても、信じられない気持です」
「だが、それが事実なんですよ。先ほど打算や欲望を隠すことができる人種がいると話しましたね。つまりあなたは、私に騙されていたということです」
「……。峯さんが、実際にそうなさっていたら、そう思えたでしょうけれど……。峯さんに騙されたなんて、わたしにはとても思えません」
「当時、六代目は助かるとは思えない状態だった。あなたを手に入れ、姐さんの同意を得られれば、名実ともに東城会を自分のものにできる。そんな筋書を、あなたも一度くらい疑いはしませんでしたか」
峯さんは、ゆっくりわたしを見た。
わたしは不意に、この人が、3年前の彼とはまるで違っていることを、改めて認識した。3年前、確かにこの人は得体のしれないところがあった。だが、いまでは彼が、そのような打算を抱くはずがないように見えた。
わたしはやはり、心から信頼しているのだ。
「でも、峯さんは、とても親切にしてくださいました」
「……」
「なぜですか?なぜ、そうなさらなかったのですか?兄への義理があったからでしょう?」
「……」
「それとも、わたしが、あまりに魅力がなかったからでしょうか?」


峯さんは、無表情だった顔を、不機嫌そうにむっとさせた。
そうして、喉許までせりあがった言葉を、ぐっとこらえたように見えた。


「いや、なにを言うのです。あなたは──あなたは」
「……」
「とても──きれいな人だ」




わたしが驚いているのを見て、
峯さんは、眉間のしわを解いた。
つぎに、さらにますます強く眉根を寄せた。とても複雑そうに、怒ったような、悲しいような、沈痛の面持ちとなっていた。
「………私は、あのとき既にあなたのお兄さんを裏切っていた男です。まさか義理立てして手が出なかったわけではありませんよ」
「………」
「………」
「じゃ、なぜ──
「………」
峯さんは、なんともいわなかった。さまざまな想いが、彼の中を駆け巡っているのかと思った。
もっとこの話題を掘り下げたかったが、わたしにはとてもできなかった。峯さんを苦しめる結果になるようにしか思えなかったからだ。
コーヒーはすっかり冷めきっていた。
あたりさわりない会話をそこそこに、わたしはコーヒーカップを洗いにキッチンへ向かい、峯さんは書斎にいった。
そしてそのまま、こもりきりになった。








夜、食事の用意を整えてから、意を決して書斎に向かう。
冷たい暗褐色の扉をノックをして「峯さん」と声を掛ける。返事がないのではないか、と予感したとおり、しんと沈黙だけが返ってくる。わたしは、10秒ほど突っ立っていたが、もう一度ノックして、扉を開けた。
扉は、意外なほど簡単に、音もなく、すっと開いた。
峯さんは、デスクに向かって、わたしに背を向ける形で坐っていた。
電気もつけていなかったが、パソコンのモニタが3台もあり、その青白い光で、室内はほの明るい。モニタには、難しいグラフや数字や英文が並んでいて、仕事をしているのだと思ったが、そうではなくて、ただ、彼はそこに坐っているだけのように見えた。
「峯さん」
肩にそっと手を置くと、峯さんはわずかに顔を上げて、視界の端でわたしを一瞥し、また顔を背けた。
「峯さん。お仕事中失礼します。お食事の用意ができましたけれど、いま、召し上がりますか?」
「……失礼。あなたに、そのようなことをさせてしまいましたね」
「時間だけは、たっぷりありますもの」
わたしは頬笑んだが、彼は、わたしを見ようとはしなかった。
彼のこめかみのあたりに、細かい汗が、朝露の玉のように光っていることに気がついた。
「峯さん、どうなさったんですか?お加減が悪そうですけれど……大丈夫ですか?」
わたしは、ティッシュをとって彼の額をぬぐった。
峯さんは、されるがままになっていた。そして、じっと黙りこんでいた。
頬の温度を確かめると、ひんやりと蒼褪め、こわばっていた。
「お寒いんじゃありません?」
わたしは、自分が着ていたカーディガンを脱いで、本来の持ち主である峯さんの肩に掛けた。峯さんは、暗闇にむかって、そっとまばたきをした。長い、しなやかな睫毛が動かなければ、まるきり彫像のようであっただろう。触れた頬までが、青銅のように硬い感触をしていた。
「大丈夫です」
と彼は、低くささやいた。
峯さんの傍に立っていると、同じシャンプーやシャワージェルの香りとともに、男の人の肌の匂いがした。兄と似ているようで、すこし違う。懐かしいのに、知らない匂い。


「兄のことを考えていらっしゃるの?」
「……」
峯さんは、黙りこんでいたが、「ええ」とやがて、かすれた声を漏らした。
「……。峯さんは、ゆうべ病室で、兄をご覧になりましたか?」
「ええ。眠っておられたので遠目にですが」
「兄は、どんなふうでしたの?」
「……3年前と同じです。チューブに繋がれて──
「だけど、容態は3年前とまるで違っています。あのときは本当に危篤状態でしたけれど……今回はそうではありません」
「ええ」
峯さんは、小さくうなずいた。
わたしは、彼の肩に手を置いた。カーディガンの下で、筋肉がぎゅっとこわばって、シャツがするりと盛り上がる感触がした。
3年前の出来事を、彼はまざまざと思い描き、過去の自分を追体験をしているのだ。
あのときも、兄が撃たれたことが引き金だった。


「……峯さん、どうかこちらを向いてください」
「……」
「……」
わたしは、自分が涙声になっていることに気がついた。
峯さんの苦痛を想像して、勝手にわかった気になっている。
そうすることで彼の重荷をすこしでも分担することができれば、いくらでも背負いたいけれど、峯さんはわたしにはそんなことは望んでいない。むしろ保護しなければならないわたしという存在は、彼にとって更なる負荷でしかないのだ。
さん」と彼は小さくわたしの名をささやいた。
彼は、モニタからそっとわたしに顔を向け、椅子から立ち上がった。
眉間のしわが、一本の柱のように、彼の表情の真ん中に黒い影を落としていた。
「あなたにはどうやら、心配かけてばかりのようですね」
峯さんは、目蓋を伏せ、そっとまた、わたしの顔を見つめた。
そして、自嘲するように目を細め、微かに口許をゆがめた。


峯さんは、なにか言おうとしている。
心の内にあるものを、わたしに伝えようとしている。
彼の沈黙の中に浮かぶ表情のこわばりから、そんなふうにわたしは感じた。
峯さんのこめかみが、ぴくとひきつるのが見えた。長い睫毛が、ぱち、とまばたきをする。切れ長の、信じられないくらいきれいな瞳が、仄かな翳りの中で、わたしを探るように見つめている。
その瞳は、時を止める魔力を秘めていた。
わたしは、ぼうっとなって、彼の言葉を待っていた。
気を張らなければ意識を奪われてしまう。峯さんの瞳の魔力に、わたしはいつも目を逸らしつづけてきたが、今度ばかりはそうはせず、魅せられたように見つめ返すしかなかった。
もしいま、目を逸らして待つのをやめてしまったら、きっと一生、後悔するような気がしたから。




だが、彼が口を開くことはなかった。
沈黙を破り、わたしの携帯がけたたましく鳴り響いたためだ。
わたしは、呪縛から解かれ、はっとなっていたが、峯さんは、暗い顔をさっと背けて、椅子の背もたれに手をついた。
「お兄さんではありませんか。どうぞ出てください」
「あ……はい」


彼のいったとおり、電話の主は、兄からだった。
わたしが急いで電話に出ると、兄の声より先に、びゅうっと強い風が受話器にあたる音が響いた。久しぶりに聞いた兄の声は、夢の中よりも鮮明で、なんだか抑揚がなかった。『元気か?』と訊ねた、懐かしいその声を、わたしは一生忘れないだろう。わたしの安否を確認した後、兄は、峯さんに代わるよう伝えた。峯さんに携帯を差し出すと、峯さんはわたしを一瞥し、軽く肯いて受け取った。
たぶん、わたしも峯さんも、そのとき、ひとつのことに気づいただろう。はじまりがあれば終わりがあるように、いつか予感していたことだった。思っていたよりもずっと早く、片が付いたのだ。
これでもう終わり。
わたしは峯さんと離れ、また元の生活に戻らねばならない。
峯さんが、「ええ。……いえ、問題ありません。ええ。それまで、妹さんをお預かりします」と話すその背を、わたしは、くちびるを噛みながら眺めていた。









*


金曜日の午後。


火曜日に注文させてもらった衣類に袖を通し、化粧をして髪を整えると、そこには、いつものわたし、日常生活を送るわたしの姿が、鏡に映っていた。
すこし痩せたけれど、前よりもずっと化粧のりがいい。栄養バランスもいいし、きちんと睡眠をとる生活がつづいたからだろう。
峯さんは、車を回してきますといい、その後改めて部屋まで迎えに来てくれた。
玄関を出て、エレベーターで地下に降りると、ロビーの裏手に、マットカラーのアウディが停められていた。峯さんは、助手席のドアを開けてくれると、運転席に回って乗り込んだ。わたしは、シートに滑り込んで、ドアを閉めた。そして、きつくシートベルトを締めた。
兄はゆうべ病院を抜け出したらしく、改めて入院し直しているという。きのうの電話は、脱走先からのものだったのだ。峯さんは苦々しげに、「ご無事でよかった」と一言漏らした。とにかく、無事に済んだらしい。万事が解決したわけではないけれど……兄の暗い声を思い出して、また不安な気持に襲われる。この事件もまた、様々な因縁を残していくのだろう。


病院は、都心から一時間ほど車を走らせた郊外にあった。
わたしと峯さんは、兄の入院している病棟まで共に向かったが、峯さんは、病室まで付き添うつもりはないらしく、「ここで待っているので、あなたはどうぞ、行ってください」といった。
「どうか峯さんも兄を見舞ってやってくださいな。喜びますわ」
「家族水入らずの場面でしょう。さすがに遠慮しておきますよ」
諦めて奥の個室に入ると、兄の側近がいて、その奥に兄と母がいた。
兄は床上でも仕事に追われていたものの顔色は悪くなかった。電話口で難しい話をしながら、わたしを一瞥して頬笑んだ。
母は兄の補佐をしているらしく、万年筆を魔法の杖のように操り、次々に指示をしたためては、隣室で待機している弁護士を行ったり来たりさせていた。ばたばたと紙や着信音が鳴り響く中で、ルートに繋いだ点滴が落ちる様まで慌ただしく時を刻んでいるように見えた。
峯さんのマンションでゆっくり日々を過ごしていたことが、どれだけ呑気なことであったか……危険や喧騒から隔絶されていたことを改めて実感する。守られるだけの自分を足手まといのように感じることもあるけれど──受動的に構えるから卑屈な傾向に陥るのだ。ではどうすればよいのか、実行できるよう考えていく思考過程の訓練をしていかなければならない。
わたしも喧騒の中に混じって、二、三手伝いを済ませた。わたしはまた来ることを伝え、病室を出た。
待合室で、ソファに坐らず、峯さんが腕を組んで立っている。
わたしに気づくと、彼は車のキーを握りながら「出ましょうか」といった。


病院を出ると、日が暮れはじめていた。
病室に滞在したのはせいぜい15分程度であったように思う。峯さんのマンションで生活しているうちに、冬が厳しくなり、日没が早まっていたのだ。風は凍るようだし、街路樹は葉を無くして丸裸になっている。峯さんのマンションの中では、空気や気圧の変動など感じることもなく、快適に、安全に過ごしていた。彼もまた、真綿で包むような配慮をもって、わたしを守ってくれていたのだ。
車は、来た道を戻るのではなく、また別の道を走り出していた。
峯さんはむっつりと黙り込んでいる。車内の清潔な空気の奥、まるで秘密のように、ごく微かに、体温に溶けだした男の肌の香りがした。鼻腔が、その香りを嗅ぎ分けると、わたしは、たまらないような気持になった。
この沈黙が永遠につづけばいいのに。
ずっとこのままドライブしていたかった。言葉はいらなかった。ずっとそばにいたかった。


「お兄さんはどうでしたか」
「元気そうでした。二週間で退院できるそうです」
「……姐さんは?いつ帰るようにといいましたか?」
「あすの、朝……」


峯さんは、また黙り込んだ。わたしも、何もいうことはなかった。頭がぼうっとするのだ。無心で景色を眺めていると、峯さんはようやく「そうですか」といった。
「ずいぶん、急ですね。あと一週間ほどかと思いましたが……」
「ええ。峯さんには、本当にお世話になりました。あすまで、改めてどうぞ宜しくお願いいたします」
「もちろんです」
「……自宅に戻ったら、峯さんのマンションに、お礼をしに伺ってもよろしいですか?」
「礼には及びませんよ。その必要はありません」
「こんなにお世話になったんですもの、お礼させていただかないと気が済みません」
「私は潜伏のため、定期的に住居を転々としている身です。あなたが帰り次第、また引っ越す必要がある。あのマンションは引き払います」
「……」
「気持だけいただいておきますよ」
「もう、お会いできないんですか?ずっと?」
「……。もし連絡が必要なら、お兄さんを通してください。あの方にはお伝えしていますから」
「……」
知らないうちに車は、大きな橋を渡っていた。
濃い群青色の湾が、かなたで波打っているのが見えた。いかにも風が強く、海は荒れて、岩にぶつかって砕け、白く泡立っている。
あす帰ったら、もう峯さんとは会えなくなる。
ふしぎと落ち着いていられるのは、3年前の喪失があったからだろう。あのとき、峯さんの訃報に絶望したが、いまは違う。彼は生きている。息をし、思考し、熱を持っている。死んで一生会えないのと、どこかで生きているという差があるのだから、当然といえば当然かもしれない。
それに、生きている限り、一生会えないと断定すべきではないのだ。


「……ずいぶん大回りして帰るんですね」
「ええ。夜は、こちらのほうが人目につかないのでね」
「この道は初めて通りますけれど……あれは商店街かしら?思いがけないところに町があるんですね」
「そうですね」
「峯さんは、このあたりもお詳しいんですか?」
「ええ。といっても、来るのは20年ぶりですが」
車は、放射線状に伸びた街灯を浴びながら、どんどん町を進んでいく。古い交番や、物静かな家々からは、なにかしら物悲しい風情が感じられた。
「20年前……ではもしかして、このあたりが峯さんの故郷なんですか?」
「そうです。出てきたころから、なにも変わっちゃいない」
峯さんは、アクセルを踏んだ。坂を行くと、黒ずんだ小学校とグラウンドが見えてきた。
峯さんは冷たいほど無感動な横顔をしている。きっと彼はこの町にいい思い出がないのだろう。わたしは、なにかを見つけたくて、窓から景色を眺めていた。もし、峯さんの面影を見つけることができれば、わたしは、それを抱きしめたかった。


マンションに戻ると、18時を過ぎていた。わたしと峯さんは、共に食事を作り、同じテーブルで晩餐を取った。野菜のごろごろした薄味のポトフで、ベーコンから出る塩味や、ぴりぴりする胡椒が、とても美味しく、とても熱かった。峯さんは、熱いものでも平気で口に入れるのでぎょっとするが、涼しい顔で平気で食べつづけていた。薄いくちびるが静かに動いている様子や、スプーンを上げ下げする仕草が、なにかしら男性的で美しく、無駄がなかった。彼は自分の空間や手足の長さを把握しきっているのだという印象を受けた。食後は食器を洗い、交互に入浴を済ませた。そして、なんとなくリビングに戻ってきた。峯さんは、ダイニングの椅子の背もたれに手を掛けて立っていた。わたしは、ソファに坐った。
「あなたもあすはお帰りになられる」
「ええ……」
「ささやかながら、祝いたいところです」
彼は、戸棚からグラスを取り出して、「やりますか。ブランデーしかありませんが」といった。
「いいんですか?いただきたいわ」
「ええ。氷やソーダ水は?」
「いえ、いりません。ストレートで」
「酒は弱くはないでしょうね?」
「一杯程度ならなんともありません」
「それを聞いて安心しましたよ。どうぞ」
峯さんも自分のグラスを片手に、わたしの隣に腰を下ろした。やわらかいソファが沈んで、体が峯さんのほうに傾いてしまうので、姿勢を正して坐りなおす。
グラスの中には、3cmほど、濃いセピア色のブランデーが注がれている。きっとおかわりはもらえないのだろう。だからそれを、ちびちび舐めるように口に含んだ。ぎゅっとこわばるような苦味の後に、とろけるような甘味が、風味となってふわっとした余韻を残す。背伸びして味わってみたけれど、おいしいという感想にいきついた。でも正直すこし、渋いけれども。
峯さんは一口飲みこんだあと、そっとこちらを向いてわたしを眺めた。
目が合うと、複雑そうに、苦い微笑を浮かべた。
「……おいしいブランデーですね」
「それはよかった」
「……」
峯さんとお酒を飲むなんて……実は想像したことならあったけれど、実現するとは思わなかった。ただ、想像と違って、なんだか、酒というよりも、薬でも飲まされいるような気分になるのはなぜだろう。これを飲まなければ治らない、と監視されているような気分になる。それが、すこしだけ可笑しくて。お酒の場でも圧迫感をかもしだすなんて、本当、峯さんらしい。


「……さんは、お兄さんと喧嘩なさっていたといいましたが」
「!」
「きょうの面会で、和解できたのですか?」
「あ、いえ……まだです。なかなか謝れる状況ではなくて」
「そうですか」
峯さんは、ぎしっとソファを軋ませて立ち上がると、テレビのリモコンを手に取った。それを操りながら改めて坐ったとき、ふわっと彼のボディジェルの香りが、風となってわたしの顔を撫でていった。テレビ画面は、ニュース番組を映し出した。ちょうど東城会と近江の抗争を報じているところだったが、それほど大した情報が漏洩しているわけではなさそうだ。兄はまだ、失踪していることになっていた。
「さしつかえなければ教えてくれませんか。喧嘩の内容を」
「……」
「あなたが一体、なぜお兄さんと喧嘩などしたのか、興味があります」
「……」
ブランデーの水面には、気泡ひとつなく、濃い色をぼうっとたゆませている。わたしは、できればこのまま、ブランデーを見つめて黙り込んでいたかったが、峯さんがわたしをじっと見ているので、それは許されはしないだろう。
「あの……峯さんがお聞きになったら、きっとお困りになると思います」
──私が?なぜ?」
「峯さんが原因なんですもの」


峯さんは怪訝そうにわたしを睨んだ。わたしは、ますます黙り込んでしまいたくなる。
「それは聞き捨てなりませんね。どういうことですか」
「……。そんなふうに睨まれては言い出せません」
「……失礼。だがこれは、もともとの顔です」
「……」
「……」
「ええと……峯さんが原因というと、まるで峯さんが悪いみたいですね。ごめんなさい、そうではなくて、峯さんが話題になったときに兄妹喧嘩になってしまったということです」
「……」
「つまり……」
「……」
「……」
「つまり、なんです?」
「つまり──この3年間、わたしは、峯さんが死んだものだと思っていたんです」
「……」
「兄は、峯さんが生きていたことを、教えてくれなかったんです。今回、峯さんに匿ってもらうようにいわれて初めて、あなたがご無事だったことを知ったのです。それで……」
「それで喧嘩になったと?」
「ええ……わたし、怒ってしまって。兄はいつもそうなんです、あのとおり無口でしょう?立場を考えれば、兄も大変だったろうって、いまなら思えるんですけれど」
「……」
「……」
「お兄さんは、私のまえではそう無口な御方ではありませんが、あなたのまえでそうなのならば、兄貴らしく振舞いたいとお考えだからなのかもしれませんね」


峯さんは、グラスにくちびるをつけ、するりと飲み干した。空になったグラスをローテーブルに置いた横顔に、酒気による赤みは感じられない。酒はたぶん、彼にとって娯楽ではないのだろう。
「それに、そんなことで怒るものではありませんよ」
と静かにいう彼の横顔こそ、怒っているように見える。
「兄にも事情があったんだと、冷静になると理解できるんですけれど。でも、急に匿ってもらえだなんて言われて、わたしも混乱したんです。混乱を言葉にしたら、怒りになってしまったみたい」
「なぜ?わかりませんね」
「なぜって兄は──峯さんが死んだと、わたしがあんなに落ち込んでいたのを見ていたのに──隠しつづけていたんですもの」
「……」
「……」
……。


これでは、もはや、峯さんのことが好きだと自分で暴いているようなものだ。
とても恥ずかしいし、峯さんも居た堪れない気持になっているだろう。だが、ふしぎな満足感があるのも事実だった。この3年間、ずっと後悔していたから。だがいまは、伝えることができる。峯さんは生きているのだ。たとえ、もう会えなくなってしまっても。
「ごめんなさい。こんな話を聞かされても、困らせてしまうだけですね」
「いえ、そうでもありません。だが──
「わたし──峯さんが生きていてくださったことが、本当に嬉しいんです」
「……」
「ここにきて最初は、峯さんが生きておられるとは、まだ、信じられなかったのです。風邪を引いていたから判断力が鈍っていたということもありますけれど……。でも……いまはやっと信じられます。峯さんが生きてるって。兄の無事を確認して、やっと、憑き物が落ちたように、すうっと理解できたような気がします。本当に、ご無事でいらしてよかった」




自分の気持を言葉にしたら、体がふっと軽くなったように思えた。
ああ、わたしは、このひとが好きだ。
この数日で、その想いはもっと強くなった。峯さんの存在をそばに感じ、その苦しみを間近に見たからかもしれない。苦しまないでほしい、幸せになってほしいという願いが、愛着形成に繋がったのだ。だが、わたしが願わずとも、峯さんは強い人だから、自分の力で回復できるだろう。生きてさえいれば、時間が苦しみを包んでくれるに違いないのだから。




「……」
峯さんは、目をやや大きく見開いて、わたしを見つめていた。
ゆっくりうつむき、そっと顔を背けた。
「そんなふうに言っていただいては、困りますね」
「あ……ごめんなさい」
「いや……構いませんが」
「……」
「…………ありがとう」




峯さんが、吐息混じりに低くささやいた横顔を、わたしは、黙って見つめていた。
言葉のいらない、やすらかな沈黙が、あたりを包みこんでいた。


テレビに表示された時計が、もうすぐ深夜0時を指してしまう。
この生活が終わろうとしている。でも、もう大丈夫……たとえ二度と、会えなくなったとしても。

生きていて、こんなに感謝する人がいる。

それがひとつの道しるべとなり、わたしを支えつづけてくれるだろうから。