土曜日の朝、


いつもより早く目が覚めた。


ベッドから下りて、部屋の中を見渡してみる。絹のベッド、タブレットPC、充電中の携帯。読みかけの本。ささやかな化粧品。買ってもらったお洋服。貸してもらった部屋着。それから、寝込んでいるあいだにはなかったのに、あの手鏡はいつのまにやら棚の上に用意されるようになっていたものだ。それだけの部屋。だけど優しく守ってくれていた部屋。
ベッドカバーやシーツを剥がし、布団を畳んでまとめておいた。剥がしたリネンは浴室で手洗いし、浴室乾燥機に掛けておく。
そうこうしているうちに、峯さんが奥の寝室から出てきて、「おはようございます」と低くささやいた。
どこか蒼褪めた顔をしているのは、寝起きのためなのだろう。髪は後ろに掻き上げられているけれど、整髪料がなく柔らかく毛先が揺れている。ヘンリーネックのカットソーや薄手のスエットを身に着けていると、いつもと雰囲気がまるで違って、若々しいが、こわいお兄さんというふうに見える。だが、シャワーブースへと消えていき、出てくると、シャツにスラックスを着けた、ぱりっとした大人の男の姿になる。彼は、キッチンに立ち食事の支度を始め、わたしは、そのかたわらでコーヒーを淹れた。ここでこうすることも、もう最後になるのだ。そのことが頭の真ん中を巣食っているから、峯さんの顔を見るのがなんだかつらい。笑顔でなごやかにお別れしたいのに。
食事が済むと、わたしは、借りていた部屋を掃除した。ぴかぴかにしたあと、手を洗った。次に、化粧をした。髪を整えて、峯さんが買ってくれたお洋服を着た。荷物をまとめると、小さなハンドバッグと紙袋だけになった。
部屋を出ると、峯さんが玄関で立っていた。


「忘れ物はありませんね」
「ええ」
「車はもう回してあります。行きましょう」
「はい」
峯さんが、先に玄関のドアを開けて出ていく。
わたしは靴を履いて、屋内を振り返った。
殺風景な、がらんどうな部屋。だけど峯さんと生活していた息遣いや体温が、確かに、刻み込まれている。
もう二度と来ることはない部屋。
お世話になりました、とお辞儀して、玄関を出ていった。






峯さんは、実家の門番にわたしを引き合わせると、振り返ることなく帰ってしまった。
久しぶりに実家に戻ると、縁側を熱する陽光の匂いや、台所で菜を刻む気配、わたしを呼ぶ声がする。懐かしくて、温かくて、それなのにばつの悪いようなよそよそしさも感じてしまう。心を、外に置いてきたからかもしれない。時間が経てば、またこの家に住むわたしに戻っていくのだろう。
母は、若衆に差し入れるため、お重に料理を手早く詰めていて、わたしもそれを手伝った。
母は、峯さんの話をすると「ふん、この数年のうちで、あの男も頭が冷えたようだね」といった。その表情の優しさから、前よりも態度が軟化して、いまではある程度の信を置いているのであろうことが伺えた。
峯さんは、わたしをあずかる件について、母とも直接やりとりしていたらしい。やはり自分だけが蚊帳の外であったのだと再確認する。そしてそうなった要因は、自分が身の振り方を判断できなかったことにあるのだ。つぎからは、自分の身は自分で守れるようにしようと思う。もう甘えたり、もたれかかるだけの存在であることはやめよう。自分でも選択肢をいくつか用意しておけるようにしよう。
そうする必要があると気付いたのは、呆れとも叱責ともつかない視線があったからだ。
峯さんがわたしを見つめていたからだった。




*




峯さんと共に住んだマンションの住所を調べて礼状を送ったが、住所変更されており舞い戻ってきた。
兄に頼み込むと、電話番号は「自分で訊くんだな」と教えてくれなかったが、メールアドレスだけは入手することに成功した。
なんて送ろうか、机に頬杖をついてあれこれ考えて、形式ばった文章をつづって送信してみる。
だが峯さんから返信はなかった。
一週間たっても返信はなかった。


(無視かぁ……)


ベッドの上に横たわり、目を閉じていると、峯さんのマンションのベッドを思い出す。発熱があり、寝込んでいるさなか……わたしの頬の温度を確かめる、長い指の感触があった。
薄く目を開けると、死んだはずの峯さんが、わたしを無表情で見下ろしている。
わたしは、夢かしら、と口走った。
峯さんは、薬の封を切りながら笑った──“あなたにとっては、そのほうがよかったでしょうね”


でも、夢じゃなくてよかった。


(もう、二度と会えない……)


すごく近くにいてくれる気がするのに。




*




もう一度メールを送ってみたが、やはり返信はなく、年が明けて正月。


一方的でもいいやと、年始のあいさつをメールで伝える。


元旦は、東城会本部で新年を祝う集会があり、その後兄もつかの間の休息が与えられる。兄が実家に顔を出し次第、家族そろって亡き父の墓前にあいさつし、家内安全、一族繁栄を願う。その後、近所の氏神様を祭る神社に初詣し、500円玉をお賽銭にして、かなり私情を挟んだ願掛けをした。
どうか、家族が今年一年無事に過ごせますように。
それから、峯さんにとってよい一年になりますように。
あと、メールが返ってきますように、と。


500円のお賽銭が効を成したのか、峯さんが気まぐれを起こしたのかはわからない。
その日の午後、峯さんからメールが返ってきていた。


『明けましておめでとう御座います。東城会にとって益々のご躍進の年となりますようお祈り申し上げます。  峯義孝』


「えっ」


何の気なしに携帯を見たら、そんなメールが入っていた。
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。兄はお屠蘇をまずそうに飲んでいたが、妹の狼狽は奇異だったらしく、不審げにわたしを一瞥した。わたしは、逃れるように二階の自室に上がって、ベッドに横になった。


(明けましておめでとう御座います、東城会にとって益々のご躍進の年………)


わたしは、文面を繰り返し読んだ。最初は返信する気はなかったが、どうしても気になることがあったので、親指で文字をつづった。
『躍進を祈るのは、東城会だけにですか?』
来ないだろうと思った返信は、5分ほどして返ってきた。


『無論さんも含めてのことです』
「………」


どうしようか迷って、もう一度返信画面を開く。


『お会いしたいです』


だが、それから返信はこなかった。




*


2月になり、多忙の日々がつづく。
家業の手伝いを行ううちに、一日一日は矢のように過ぎていく。こんなことを母はやっているのかと目を回すけれど、お稽古だけで毎日を送っていたころよりはハリのある生活を送っている。
夕方、兄の代筆をするために墨を擦っていると、玄関のほうから母が呼ぶ声がしてきた。


行ってみると、なんと峯さんが立っていた。
彼は、わたしを呼ばれるとは想定していなかったらしい。
なんだか、無表情は無表情でも、具合の悪そうに、しまったという顔をしているように見えた。


「お久しぶりです」
と峯さんはいった。わたしも肯き、一礼した。
母が峯さんに渡すための書類をまとめている間、お相手せよということだったらしい。
峯さんに家に上がるよう勧めたが、彼は固辞した。だから、庭のほうを案内することにした。
縁側に坐るよう勧め、まず自分が坐ってみせると、峯さんは不承不承腰を下ろした。すぐお手伝いさんがきて、熱いお茶とお菓子を出してくれたので、峯さんは無言で会釈した。暗い色合いのスーツを着た彼は、まるでお葬式の帰りのように陰気そうに見える。二か月ぶりに姿を見たが、痩せたとか、太ったとか、そういう変化は全然なかった。硬そうなシャープな輪郭に、冬の鈍い陽光が照っている。庭を眺める横顔のくちびるを、淡いため息が湿度となって、白くけぶった。


庭は真冬とはいえ苔が生し、一定の湿度と温度が保たれている。綴れ織りを広げたような深い緑色の苔は、触ってみたくなるような、いかにもしっとりとした生命力があり、いじらしい愛らしさが感じられる。
いまの季節にちょうど蕾をつける梅や、あでやかな椿の花々はないけれど、侘びた石と緑の景色がわたしは好きだった。


「あれから平和にお過ごしですか」
ふわっと呼気のように浮上したかに聞こえた、低いかすれ声。ざらざらした余韻を残すようで、耳がくすぐったいような気になる。
「はい。平和そのものです。峯さんはいかがでしょうか?」
「ええ、こちらも変わりありません。ところで近頃、本家に出入りされているようですね」
「はい、手伝いのために。といっても、給仕や雑用しかできませんけれど」
「会長の妹がいれば場が華やぐと評判のようで。出入りの若衆が洩らしていましたよ」
「そんなことありません。邪魔ばかりしてしまって……。でも、てっきり峯さんには叱られると思いました。本部に女子供が出入りするなんて、東城会の威厳にかかわりますことでしょう?」
「そんなことはないでしょう。あなたはただの女子供ではなく、かつての代行の令嬢で、現会長の妹君です。堂々としていればいい」
「ええ……」


そうよね──
わたしは、身のすくむような思いがして、弱々しく微笑した。
代行の娘で会長の妹で──だから峯さんはわたしを守ってくれた。わたしは峯さんが何者でも好きになっただろうけれど、峯さんはそうではない。初めから対等な関係ではなかった。わたしだけの一方的な気持なのだ。
だったら、迷惑にならないように押し殺してしまったほうがいいのかもしれない……。
言おうか言うまいか迷いあぐねて、顔を上げる。そのとき、庭を見ていたはずの峯さんが、わたしを見つめていた。気だるそうな、どこか怒ったような、その顔。切れ長の瞳が、目が合った瞬間、わずかに大きく開かれた。


「……もう、お目にかかれないのかと思いました」
わたしの訴えに、彼は、ふたたび目を細める。
「……できれば、そのつもりだったのですが」
「……」
「……」


気まずくなったときに、母が書類を束ねてやってきた。「お見送りしてさしあげな。堅気には丁重にするもんだ」というものだから、いたたまれない空気を噛みしめながら、峯さんを車道までお送りする。


ケヤキの枝と枝が、天蓋のように差し交す小道をふたりで歩いた。
鈍い木漏れ日が、小鹿の背のような水玉模様を描いて、峯さんの髪を茶色っぽく照らしている。
彼はとても美しかった。まるで、永遠につづく美しさのように感じられた。
夢の中で見たそれよりも、ずっと生々しく、ずっと迫力があった。
人を寄せ付けない人だからこそ、かえってその端正な容姿が皮肉めいて美しい。
白いなめらかな玉砂利の車寄せに、見覚えのある車が停まっているのが見えてくる。
彼は、じゃり、と立ち止まり、「ここで結構です。お邪魔しました」といった。
「ええ。お気をつけて」
というと、峯さんは「さんも」と短くいった。


「……」
「……では失礼します」
「はい……」
峯さんは、二秒ほどわたしを見つめていたが、顔を背けるように車のドアを開け、中に乗り込んだ。素早くドアを閉めたあと、エンジンの起動音がぶるんと響き渡る。
小さな声で、さようなら、とつぶやくと、ものすごい喪失感に襲われる。
今度こそ本当に、二度と会えないような気が、真実味を持って迫ってくる。
きっともう会うことはない……たとえ近くにいたとしても。
この人には幸せになってほしい。そのためには彼は、自由でなければならない──極道社会との縁は、兄一人とで充分だ。


車は、徐行で動き出した。
そのまま行ってしまうと思ったが、運転席の窓がわたしの前にくると、車体も停止した。
車の窓はスモークが掛けられていて、ドライバーがどんな顔をしているか見ることができない。
ふしぎに思った瞬間、すーっと音もなく、窓ガラスが下りて、中の仏頂面が現れた。


「ところで、気になっていたのですが……」
「え……?」
「車を買うおつもりだと言っていましたね。いまもそうなのですか?」
峯さんは、冷静にわたしの様子を観察している。
わたしは一瞬呆気に取られたが、機械的に肯いた。
「ええ。そのつもりですけれど……。?」
「だったら、以前とは状況が違っています。あなたはいま本家に出入りしており、いわば東城会の表に立つ身です。走行中に狙われれば逃げ場がないくらいは想像できることでしょう──つまり、私は反対です。車はお持ちにならないほうがいい」
「……ええ。わかります」
「わかりました、ではなく、わかります、か」
峯さんは、侮蔑的な上くちびるを歪めて微笑した。「頑固な人だ」
「峯さんのご忠告も加味して検討したいと思います。まだ買わないという判断には至っていませんけれど」
「……。どうしても買うおつもりなら、防弾ガラスは必ず設置してください。特殊車両整備を行う業者を知っていますから、手配は私がやりましょう」
「ありがとうございます……けれど、これ以上峯さんのお手を煩わすわけにはいきません。それに、予算が許さないと思いますもの。きっと、防弾ガラスだけで車以上の値がつくんじゃありません?」
「……。金なら心配をする必要はありません。さん、あなたは、なぜ車を買おうと思ったのですか。車に特別、ご興味がおありで?」
「いえ。ただ、自分でも活動範囲を広げられたら、と思って……」
「だったら、私の車を差し上げましょう」


わたしが、ぎょっとしていると、峯さんは、エンジンを切り、突然ドアを開けて車から出てきた。そして、わたしに鍵を差し出してきた。
「え?いいえ、そんなの、いただけません。受け取れるはずがないじゃないですか」
「なぜです。あなたの望みは叶えられますが。それに、この車に乗ってくれるなら、一応私も安心できる。ボディもガラスも防弾仕様にしていますからね。これであなたに選択の余地はないはずです」
「いえ、でも、そんなことをしていただく理由がありません。いけません峯さん」
「意地張らず受け取ってください。あなたは、すべて自分でなんとかしなければ気が咎めるのでしょうが、しかしそうするだけの術をお持ちでない。車の購入をあきらめるか、私から中古車をもらうか、どちらか妥協しなければならない」
「でも、峯さんに決めていただく理由はないです。わたしにも選択の余地はあるはずですもの。峯さんにいただくくらいなら、兄から譲ってもらいます」
「お兄さんはあなたが車を持つことは断固として反対だそうです。許容されないでしょう」
「それは峯さんには関係のないことではないかと思いますけれど」
「そう言い切れるほどあなたは自分の背景を把握できているのですか。あなたの周囲は、目に見える関係だけではないのですが」


静かに、淡々と、抑揚なく言い争いをした。
峯さんは一歩も引かなかった。わたしも引かなかった。こんな言い合いは初めてだとわたしは思った。
冷静に、だが微かな怒気を瞳に浮かべて、わたしを見下ろしている顔。もう堅気のはずなのに、まるきり筋者だ。
わたしが彼に恋愛感情を抱いているのでなければ、根負けしてしまっただろうと思うほど、迫力があった。


「……もらうことに抵抗があるならば、お貸しすることもできますよ。あなたが乗りたいときに使ってくださって構いません」
「……。どうして、そこまでしてくださるのですか?」
「?……」
「わたしが、堂島の妹だからとはいえ、そこまでしていただく価値はありません。峯さんが責任を負う必要は一切ありません……。逆にわたしが、その価値がある人間になる必要を負うみたいで、とてもつらいのです」
「……」
「ご親切にしてくださるのはありがたいですけれど……」


ああ……言ってしまった。
弱々しく訴えたあと、意気消沈して、うつむいていたが、峯さんがどんな顔をしているのかが気になって、そっと様子をうかがった。
峯さんは、もっと怒った顔をしてわたしを睨んでいた。
筋者どころか明王様みたいな顔をしているのだ。
ひっと声が出なかった自分を誉めてやりたい気分だ。


「なにもわかっちゃいませんね」
だが、穏やかな声だった。
聞いただけで、ざわ、と皮下で細胞が騒ぎ立つ。
「あなたは、充分価値のある人間ですよ。自分を否定して何が残るのか、私にはわからない。卑屈な、弱い人間のすることです。二度とそのようなことを口にしてもらいたくはありませんね」
「峯さんが仰ったんですよ。わたしには、自分で自分のことができるほどの術がないと」
「だがそれは事実でしょう。それがあなたの価値を決めるわけではない」
「血筋が、それほど大切なことですか?わたしみたいな平凡な人間でも?」
「血筋か」峯さんは、くちびるの端をついとゆがめ、嫌な顔をした。「確かに、あなたが堂島家の人間でなければ、私はあなたを守りはしなかったでしょうね」
「……」
「ただ、あなたが別の人間性を持っていたら、私はこれほど関わりはしなかったでしょう。それだけは断言できます。……馬鹿で軽薄な女だったらよかったのにとさえ思う。そうだったら、これほど苦労することはなかったしょうから。守るにせよ、腕ずくで部屋の一角にでも監禁しちまえば、それでしまいだ」
「……」
さんこそ、血筋というものを重んじすぎているのではありませんか。私が、あの人の妹というだけでここまですると思っているなら、あなたは間違っている」


峯さんは、ちっとも優しい顔をしなかった。
こわい顔をしつづけていた。
怒りをぶつけられているのではなく、いわば教育のためにわざとそういう顔をして、叱られているような気になった。


そういえば、初めて会ったとき、峯さんは軽蔑の視線しかよこさない人だった。
すごく丁寧で、すごく冷たくて、憎まれているのかとさえ思った、あの態度。
一体いつから、こんなに心配性な人になったのだろう。


さん」
「……」
「それよりあなたはまだ、答えを出していませんね。車についての選択肢は提供しましたよ」
「え。あ……」
「諦めるか、譲り受けるか、借りるのか。あなたが選んでください。どうぞ」
「……。いずれにしても、左ハンドルの車なんて自信がありませんし……」
「練習すれば問題ありません。最初のうちは広い土地で乗ってみれば慣れるでしょう」
「……。」
お借りするのも抵抗があったが、峯さんはいずれかを選択し、約束しなければ気が済まないだろう。わたしは、彼をちらと見上げた。こわいくちびるが、への字に曲がっている。
「じゃあお借りします。よろしいんですか?」
「ええ。このまま置いていきましょう」
「いえ、たまにお借りできればいいので」
「……。では、その際に車をお持ちします。いつにしますか」
「え、じゃ、じゃあ……来週の日曜日はご都合いかがでしょうか」
「日曜なら、夕方から空いています」
「ではその日お願いします」
「ええ」


これは、大変なことになってしまった、とわたしは思った。
峯さんは車に乗り込むと、今度こそ本当に去っていった。
どうしてお借りするなんて言ってしまったのだろう?ぶつけたりしてしまったら大変ではないか。峯さんは構わないというだろうけれど、こうしてどんどん迷惑をかけてしまうのはいやだ。


次の日曜日かぁ……


(……)


あ……あれ?


「……あ、」


これって、もしかしてデート……?








「………」
……いや、期待するのは、やめよう。
舞い上がっていい相手ではないのだから。あの人は、あの、峯さんなんだから……






自分にそう言い聞かせてみても、なんだかそわそわして、指先が微かに震えて、とても落ち着いてはいられない。




夢じゃないかしら、
ほんとうに約束したのかしら、
くちびるを噛んで、手にクリームを擦りこんでみたり、雑誌を取って広げてみたり。とても落ち着かない気持ちでソファに坐っていると、兄がリビングに入ってきた。たまたま近所で仕事があったらしく、きょうは家に泊まるようだ。お風呂に入りに行って、30分後、Tシャツとスエットの姿で、またリビングに戻ってくる。ほかほかときれいな水分をまとった兄からは、シャンプーとボディソープの匂いが漂っていた。
兄はテレビをつけ、ナイターの野球観戦をしながらビールを開ける。テーブルには、母が出した、つまみの焼き竹の子の角皿が置いてある。テレビを見ながら、お酒を飲んでいるその姿。
不意に、幼い日に見た、父の姿を思い出した。




「きょう、峯がきたろ」
いきなり、兄がそんなことをいう。
わたしは、考えていたことを読まれていた気がして、どきっとして兄を見つめた。
「おまえも食べないか?」
竹の子を刺した楊枝を差し出されるけれど、わたしは首を横に振る。
「峯さん、必要な資料を取りに来られたみたいで。用が済むとすぐお帰りになりました」
「へえ」
「……それが、どうかしたの?」
「や、さっき峯から電話があってな」
「え……」
「日曜、妹さんをお借りしたいって──
「へっ……」
「別に俺の許可取らなくていいからって言っといたよ」
「……」
「もう話はついてるんだろ、デートか?」
「……」




いいよな、と茶化しながらも、兄も複雑な胸中なのか、お茶を濁すようにビールを呷って黙りこんだ。ますます居た堪れなくなって、わたしも黙りこんでしまう。
デートか、デートじゃないのかなんて、わたしにもわからない。峯さんだけが答えを握っているのだ。
でも、もしデートだとしたら、兄はどんな顔をするのだろう。
すこしだけ不機嫌そうな横顔は、父も生きていたらこうだろうか、と感じさせた。