※峯が生きててヒロインは龍5時点の大吾の妹設定です。




















































兄の失踪、風邪、環境の変化、気疲れ、心細さ、孤立感、それに峯義孝さん。
心の真ん中にずしりと居座りつづけているストレス要因を並べ立てて、どれひとつ自分の力量では如何ともしがたいのだと思い知らされる。これらの原因に対して、自分がアプローチする力はなく、ただ流されて保護を受けているだけなのだ。せめて風邪だけでもよくなれば、峯さんにかかる負荷を減らすことができるだろう。
……いや、だけど、もしかしたら彼にとって、わたしが寝込んでいるという状況は、手間がかかるという点を除けばかえって安心できることなのかもしれない。わたしがわがままを言って外に出ることこそ、彼には一番面倒だろうし──風邪をひいて臥せっているうちは、彼のプライベートな空間を好きにうろつかれることもない。
(……)
汗をかいた顔を触り、ためいきをつく。
居場所がないということを実感して、いやになる。そして、そんなことを愚痴っぽく思う自分自身に対しても。


月曜日の昼。
ゆっくりベッドを降りると、床暖房の効いたフローリングが心地よい。加湿器と空気清浄機は作動音が一切しないため、青い電源のライトがついているのでなければ動作に気づかないままだっただろう。
汗を吸ったやわらかいTシャツを脱いで、用意されていた新しいTシャツを身に着ける。
肌ざわりのよい、清潔なひんやりとした余韻を裸体に残す。これはすべて峯さんの衣類だ。わたしがいま穿いている、ゆるゆるのスエットも。裾を折り返して、腰の紐をきつく縛って着用している。
峯さんはそんなわたしに「すみません」と一言詫びたけれど、詫びなければならないのはわたしのほうだ。いくら、数年前に兄の部下だったからって、こんなに甘えてしまっていいものだろうか。
着の身着のままでお邪魔したため、そのときのワンピースはきれいに畳んでチェストの上に置かれている。下着も洗ってワンピースの下に隠すようにして返却されていた。
峯さんがどんな顔でわたしのブラを洗濯機に放り込んだのか想像もできないが、とはいえそこに置いてあることが事実だった。
わたしは、廊下に出るときは、一応ブラくらい着けなければならないと思った。風邪のときには、こんな最低限のマナーすら億劫になる。
廊下に出ると、リビングの光が、無機質にぼうっと床に照り返していた。わたしは、お手洗いを済ませて、その光に吸い寄せられるように、リビングに入った。峯さんが、こちらに背を向けるかたちで、キッチンに立っていた。
ぐつぐつぐつ、とミルクパンが煮えている。ガラスの小皿が三つ並んでいて、その中で使用する分の調味料が確保されていた。
彼はこちらに振り向かない。鍋の様子を真剣に見定めているらしい。彼は火を止め、例のガラスの小皿に取った調味料をいれると、ミルクパンに蓋をした。そうして、ゆっくりこちらに振り向いた。
「どうです、気分は」
「……お陰様で随分回復してきました。熱も引きましたし」
「だが、それは解熱剤の薬効かもしれません」と彼はいい、わたしに鋭い視線を投げかけた。彼は、わたしの容態を目視で察知できるらしい。だが、すぐに顔をそむけた。
「飯は食べられるでしょう。リビングにどうぞ」
「ありがとうございます。おいしそうな匂い……」
「それはよかった」と、彼は淡々という。わたしはなんだか、自分がとても場違いな発言をしたような気がして、口を噤んだ。この人と雑談なんてできる日が、果たしていつかくるのだろうか。


リビングの電気をつけると、黄色っぽい照明が無機質な室内を照らしだした。テレビとテーブルとソファだけの部屋。テーブルにはNYの経済紙が置いてある。
わたしは、床に腰を下ろした。この部屋は、あまりにがらんどうすぎる。彼が普段過ごしている部屋は奥にある一室なので、リビングに家具を置く必要がないのだろう。
前は──峯さんが兄の部下だったときは──この人の家は、都内一等地の7LDKのマンションで、現代アートや無機質なラグ、都会的な家具や、いくつもの外車のキーが照明に反射していた。生活感がない、豪奢で、高級ホテルのような家だった。
だが、いまはどうだろう。3LDKほどであろうこのマンションは、生活感がない、というよりも、本当に生活していなさそうな感じがする。匂いとか、物音とか、気配がしない。物もない。まるで、隠棲しているみたいだ。実際彼はそのつもりだったのだろう……兄からの依頼がくるまでは。


「お口に合えばいいのですが」
と峯さんがリゾットと常温の水を持ってきてくれた。わたしは、緊張しながらそれを食べた。とても薄味で、普通においしかった。病院食のように、きちんと計量し、栄養面を考えて作ってくれたのだろうという味だった。峯さんは、わたしのはす向かいに坐り、本を手にとっていたが、わたしの食思を確認するためにときおりちらと視線をよこした。


「おいしいです。普段からよく料理されるんですか」
「いえ、実に久しぶりのことです」
なるほど……機械みたいに正確に切り揃えられたたまねぎをスプーンですくいながら、そんなふうに思った。こんなに几帳面に料理する人だから。もしもうすこし大ざっぱなところが見受けられれば、普段から料理している人なのかな、と思っただろうけれど。
そんな人がわたしに時間を割いて料理を作ってくれたのだ。まったくありがたいことだった。兄が信頼している理由がよくわかる気がする──わたしはその恩恵を受けるほど価値のある人間ではないけれど。
すべて食べ終えると、峯さんはわたしに青い錠剤を出してきた。わたしがそれを飲み込むまで、彼はわたしから視線を離そうとはしなかった。出されたものをすべて胃に収め、手を合わせてごちそうさまでしたというと、峯さんはトレイに食器を片づけ、キッチンに去った。シンクで水を使う音がする。皿を洗ってくれているのだ。
「峯さん。ありがとうございました」
彼は、きゅっとカランをひねり、濡れた手を3枚取ったペーパータオルで拭いながら、「いいえ」といった。袖をまくりあげた腕の筋肉や手の大きさが、既視感となって、わたしの記憶に流れた時間というものを一瞬流し去った。数年前も、こうして彼が手を拭っているところを見かけたことがあった。
だが、彼はもう、あの頃の彼ではない。
「汗をかいているでしょう。浴室を使ってください」
「はい、お借りしたいです」
「……たしかに、かなり回復したようですね」
ペーパータオルを捨て、彼はこちらに歩いてくる。
1メートルは距離を置いて立ち止まったが、ひそめられがちな柔らかな眉や、どこか沈痛めいた翳りを浮かべる切れ長の瞳、高い鼻梁や薄いくちびる、濃い影をたたえる姿は、もっとぐっと迫りくるような凄みがあった。わたしは、一歩後ずさりたくなるのを、すんでのところでこらえた。


「けさ、お兄さんから連絡がありました」
峯さんは、わたしを見下ろして目を細める。「あなたのことを訊こうとはされませんでした。あの人なりの気遣いなのでしょうね」
「兄は、無事でしたか?」
「ええ。心配はいらないと」
「……」
「……」
わたしが顔を曇らせると、彼は目を逸らして、顔を背けるように窓のほうを眺めた。
「兄は、なぜこんなふうに、突然失踪したのでしょう?なぜ、わたしを峯さんのところへ預けたのですか?」
「私も、深い事情はなにも伺っていないんですよ。あなたと同じように」
「……」
「だが、日々の動向を私なりに探っていました。失踪の件は裏切り者を炙り出すためでしょう。近江連合の金と武器の輸送状況を見ていると、内通者の存在が明らかでしたから」
「兄はどこにいるのですか?」
「国内とだけ」
「峯さんはご存じなのですか?」
「ええ。といっても、お兄さんが話したわけではありませんが。私への連絡はすべて逆探知をしかけておりますので」
「……」
「私は死んだことになっている身です。つまりこの場は誰にも知られていない……あなたを預かることに関しては、ここが安全であることは保証しますよ」
「あ……はい」
「……」
「峯さんは……ずっと兄と連絡を取り合っていたのですか?」
「ずっと?今回の件のことですか」
「あ、いえ──
「数年前、お兄さんを裏切り、死んだ私が、いつのまにお兄さんと和解したのかということですか」
峯さんは、相変わらず窓を眺めていた。遠い、薄い青空が、細い窓枠ごしにたゆんでいる。
わたしは、ぞく、と体の中枢が冷え込んだような気がした。
峯さんに対する違和感。
彼が本当に生きているのか、死んでいるのか、夢やまぼろしではないかと、ずっと疑いつづけていたのだ。


「……」
「……私が都内に潜んでいるのも、いつかあの人の役に立てる機会がくるだろうと考えてのことです」
「……」
「あなたのことは、なにがあっても必ず守ります」


峯さんは、独白のように低くささやくと、くちびるを固く閉ざした。
わたしは、彼の想いや苦悩の一端を垣間見た気がした。それは、まるで実際の体験のように、深く心に圧し掛かる苦しみだった。
わたしは、なんだか息が詰まって、言葉を失った。




*




火曜日の朝。
顔を洗って廊下に出ると、峯さんが、ジャケットを着ながら玄関に立っていた。裾を払うと、彼はわたしに振り向いた。玄関は昏く沈んでいたが、朝の冷え冷えとした清潔な空気と共に、遠くから射す青い陽光の気配がした。
「どこかにお出かけですか?」
「ええ。」
「お気をつけて……」
「いつまでもあなたに、私の部屋着を着せておくわけにもいきませんね」
と彼は、わたしの全身を眺めていった。いつも日替わりで峯さんのスエットを借りて着ているが、特に不便や不都合を感じたことはない。この上質の生地のやわらかさが、着心地がよく気に入っている。それに、シルエットもいい。
そのことを伝えると、彼は「そうですか」と目を伏せた。
「私の書斎のタブレットPCで、買い物してください。化粧品やら本やら、お好きにどうぞ」
「でも、どこにも出かけられませんもの。化粧も必要ありません」
「それはあなたが、風邪で臥せっていたからですよ。回復したからには、可能な限り普段どおりの習慣を守るようにしてもらいたい。私はあなたに不自由させたくないのです」
「はあ……」
「よろしいですね。受け取りはこのマンションの管理棟を指定しておいてください。カードはこちらを。名義はカードの名前で」
突然押し付けられたブラックカードに面食らって、わたしは落っことしてしまいそうになる。カードの名義は知らない男性の名前だった。少なくとも峯さんの名前ではなかった。こうして彼は身を潜めてきたのだと思いながらも、わたしは、他人のカードなんていうものを預かったことに、呆然としていた。
「でも、わたし」
「女性ならば当然、必要な物も多いはずです」
「……」
峯さんは腕時計を確認すると、さっさとドアを開けて行ってしまった。わたしは所在をなくしたカードを見下ろし、とぼとぼと部屋に向かって、二度寝しようとした。だが、峯さんが帰ってきたとき、このままカードを使わずにいれば、彼は怒るかもしれない。彼にとってみれば、わたしの遠慮はただの怠慢にしか映らないだろう。わたしは、全然ほしくなかったが、しばらく考えて、やっぱり化粧品と衣類とを注文させてもらった。


夕方。峯さんは、まだ帰ってこない。
浴槽にたっぷり湯を溜め、体を洗って首まで浸かった。
風邪はほとんど治ったといっていいと思う。まだ咳が時々出るけれど、それよりもときどき、ぞくっと襲ってくる悪寒が不快だった。いくらあったかくしても、湯につかっていても、芯まであたたまることはできない。体が硬縮しているようだ。
濡れてまとめた髪がひとすじ、首にまつわりついている。
それを指に取ると、つやつやした雫をたたえていて、清潔な、植物のような香りがした。峯さんと同じシャンプーやボディジェルを使っているし、彼と同じ洗剤で洗った衣類を身に着けているということを、今更ながらに考えて、何とも言えない罪悪感を覚えた。峯さんに大変な厄介になっているということと、お嫁入り前の身で、付き合ってもいない異性の住環境にいることが、果たしてどういうことなのかを、苦々しく思ったからだった。
兄が無事に帰ってきて、ここを出てお世話になりましたと告げるとき、いったい自分はどんな気持ちでいるのだろう。きっと気まずい思いをぶら下げたまま、逃げるように峯さんの前から立ち去るのではないか。
こんなに世話になっている御恩を返すには、いったいどうすればいいのか、わたしにはわからなかった。
家に帰ったら、まず一番になにか、貯金も飛ぶような贈り物をさせてもらおう。
だけどそれだけじゃ足りない。
もっとなにか……峯さんが安心できるようなことはないだろうか……


さん」
という声が聞こえた気がして、わたしは、浴室の液晶テレビの電源を切った。だが、それは気のせいだった。しんと耳に、静寂の振動が伝わって、もう一度電源ボタンを押した。ちょうど好きな歌手がテレビに出ているところだった。だけど、うわの空の頭では、心地よいサウンドもなにも響いてこない。
兄は大丈夫だろうか、なぜ自分はこんなふうに誰かの厄介にならなければ生きていけないのだろうか、気丈に振る舞うけれども母の嘆きはいかほどのものだろうか、と考え、かぶりをふるう。


鼻をつまんで湯船の中に頭まで沈み、お湯の中で膝を抱えて丸くなった。


できることが限られている現状だからこそ、方向性を決めよう。ただひたむきに、兄の無事を祈る人になりたい。不安や恐怖よりも、信じる気持ちで過ごしていきたい。わたしは雑念が多すぎるのだ。すっきり割り切ることがとてもむずかしい。


息がつづかなくなって、お湯から顔を上げようとしたとき。


ざぶっ、
いきなり大きな両手が、わたしの体を湯船から引き揚げた。
目の前にけわしく美しい顔があって、息が止まった。
峯さんだった。
わたしと同じシャンプーと衣類の香りがした。


怒気をはらんだ彼の顔は、
わたしを見つめるうちに、すっと無表情になった。


「失礼」
と彼は、わたしを掴みあげていた手を放した。
ずる、とわたしの体が浴槽のなかに沈み込む。
わたしを抱き上げたその袖は、わたしの体から滴ったお湯で、ひどく濡れていた。
彼は顔を背け、すぐに浴室を出て行った。


嵐のような出来事だった。


液晶テレビから流れる知らない歌、峯さんが出入りしたために入り込んだ冷気、自分が丸裸だということ。
わたしは、しばらく湯船の中から出ることができなかった。




「先ほどはすみませんでした」
意を決して脱衣所から出ると、キッチンのところに寄りかかるようにして、峯さんが立っていた。
すでに着替えを済ませた彼は、だがやはりきちんとしたシャツと綿のスラックスを身に着けている。腕を組んでいたが、筋張った指先でペットボトルを取ると、それをわたしに差し出した。
ここにきてからというもの、飲み物といえば、常温のミネラルウォーターかスポーツドリンクしか与えられなかったが、それは、100%フルーツジュースで、しかも冷えていた。わたしがそれを受け取ると、熱っぽい手に心地よかった。
「いえ……でも、びっくりしました」
まだ心臓がドキドキしている。峯さんは眉根を寄せ、「でしょうね」といった。
「何度か声を掛けたのですが、返事がなかったので……まさか殺されているのではないかと」
彼は、すう、と鼻腔から息を吸い込んだ。
「……」
「……」
「TVをつけて、お湯にもぐっていたので、峯さんのお声が聴こえなかったんです。こちらこそすみませんでした」
「……」
わたしは、ちら、と峯さんを見上げる。彼は横顔のまま、気難しげに、怒ったように黙りこくっている。わたしは、裸を見られたという大ショックを忘れることはできなかったが、彼の心的負担の軽減を図るために嘘をつくことにした。
「峯さん、わたし──もう気にしていません。峯さんのこと、お医者様のように思っているんですもの。わたしの病態も経過も治療方法も、すべて把握してくださったでしょう?そんなことより、ご心配をおかけしてすまなかったと思います」
「だが、私はあなたの医者ではありません。ただ症状に合わせた風邪薬を差し上げただけですよ」
「そうですけど、でも、そのくらい信用しているということです。まるでお兄さんのようにも思っているんです。だから、本当に全然……」
「私のことを、信用しないでもらいたい」
わたしがびっくりしていると、彼は、「いや……、」と口をゆがめた。「あなたの兄など、恐れ多いことだ」
「……」
どうしよう。ますます、眉間のしわが濃くなってしまったではないか。わたしの対応は間違いだったのだ。
「とにかく、申し訳ありませんでした」
峯さんはそれだけいうと、パソコンのモニタが並ぶ書斎へと、ゆっくり歩いていった。
彼のことを案じているうちに、たしかに、裸を見られたことなどきれいに忘れてしまっていた。


彼が何と言おうと、峯さんは誠実で、わたしをとても心配し、大切にしてくれているのに──
わたしは、彼が、あの事件からずっと、自分自身をいまだに責めつづけていることを知った。






*




初めて峯さんと顔を合わせたのは、4年前、まだ兄と彼が盃を交わす前のことだ。
兄に連れられて家にきた彼は、昔からいる任侠派とは違って、都会的でスマートで、俳優かなにかのようだった。母は、胡散臭げな顔をしていた。峯さんが帰ってから、わたしは兄に聞いたことがある。峯さんって、どんな人なのって。兄は、ひとしきり彼のことを誉めたあと、顔を曇らせた。
“だが、峯なぁ……自分に厳しすぎるところがある。そこが少し、心配だ……”


日付が変わって、水曜日になっていた。
ベッドに坐って、携帯をさわりながら、兄のことを思い出していた。兄からの連絡はいまだひとつとしてない。わたしは、立ち上がって部屋をでた。キッチンにいって、水をもらおうと思った。
ひっそりと静まり返った廊下を歩いて、キッチンの電気をつける。なにか飲みたい。水切りバスケットからコップを取ったとき、鼻腔の奥が、つん、となった。
不安で不安でたまらなくなった。この寒空の下で兄は生きていられるのだろうか。いまこのときも助けが必要な状況ではないだろうか。
心臓がばくばくとして、立ちくらみを起こしてシンクに寄りかかる。震える指で胸を掻き毟ったとき、背後から、きい、と扉の開く音がした。


さん。……」
「……」
さん?どうされましたか」
「あ……いえ。すみません。ちょっとぼうっとしていて」
体がすくんで動けなかったけれど、峯さんの存在を認識すると、関節がやわらかくなり、ゆっくり振り返ることができた。
わたしは、すごい顔をしていたらしい。峯さんはわたしを見るなり、ぴく、と顔をこわばらせて、まっすぐ大股で歩み寄ってきた。
「大丈夫ですか」
がし、と肘と肩を、うしろから支えられる。わたしは、生唾を飲みながら、なんとか肯いた。


「深呼吸できますか?」
「……」
「不安でつらいのですか」
「……」
指先の震えは、痙攣のように大きくなり、突然ものすごく寒くなって、息苦しくなった。目の前がくらくらして、立っていられなくなって、やがて峯さんの声も聞こえなくなる。視界がひっくり返ったかと思った。猛烈なめまい。だが、わたしは倒れていなかった。峯さんが、しっかり抱き留めてくれていたからだった。目を開けると、峯さんのくちびるが見えた。薄いこわばったくちびるが、「さん」と呼び、彼の手が、わたしの体幹を支えていた。


「……」
「深呼吸してください」
「……、はい」
「大丈夫ですよ。お兄さんの足取りも先ほど掴めました。生きていらっしゃいます。安心してください」
「……はい」


すうー、と息を吸うと、すこしずつ楽になった。
峯さんは、わたしに「歩けますか」といった。彼に抱きかかえられたまま、おぼつかない足取りで歩き、リビングのソファに横になった。まだ指先とくちびるが震えている。
峯さんはキッチンにいき、コップを持って戻ってきた。
「過換気を起こしかけていたようですね。これを飲んでください」
「……あ、すみません……」
中はぬるいスポーツドリンクだった。
わたしは、ごくごくとそれを飲んだ。
一杯飲み干し、あおむけになって目を閉じていると、突然、どっと汗が滲んできた。
失われた水分と電解質が、末梢までいきわたったのだ。


「……峯さん」
「はい」
峯さんは、毛布を持ってきて、わたしの腹部から下半身に掛けてくれる。
だんだん、体が温まって、大丈夫だという判断ができた。
体を起こすと、峯さんがわたしを見下ろして立っていた。
彼は、とろみのある生地のTシャツに薄いスエット、丈の長いカーディガンを羽織っていた。すべてわたしが今着ているものとまるきり同じものだ。峯さんの部屋着なのに、彼が着ているのを見るのは初めてだった。ラフな着こなしなのに、なんだかすごくおしゃれにみえる。


「さっき、兄は生きているって……本当ですか?」
「ええ」
「兄はいまどこに……?」
彼は、教えてくれないだろう。きのうもそうだったように、国内であるということしか言えない立場にあるだろう。だが、峯さんは逡巡するように目を逸らして、もう一度わたしを見つめた。
「こちらです」
峯さんは、ポケットから小型のタブレットを取り出して、わたしに見せてくれた。液晶に映るマップには、ジグザグに交差していくつかのドロップピンが表示されていた。
「これは?」
「金を下ろされたようですね」
「お金?」
「ええ。あちこちのATMから、別々のキャッシュで三千万……」
「三千万?そんな大金……武器でも買うんでしょうか?戦争するつもりなのでしょうか?」
「三千万では、しけた武器しか買えません。ねらいは読めませんが、元から複数のキャッシュを持ち歩いていたことから、当初の計画通りに動いておられるということでしょう」
「……」
「……さん。これで納得できましたか」
「……は、はい……」


峯さんは、ゆっくりわたしの隣に腰を下ろした。
ソファが、ふわっと軋んで、わたしの体は、重心である峯さんの体に傾きかけた。
彼は、わたしを安心させてくれたが、彼のほうは、誰にも慰められてはいないのだと思った。
そういう横顔をしていたから。


「ごめんなさい。みっともないところをお見せしましたね」
「いや。あなたの立場なら不安も大きいでしょう、当然です」
「わたし……実は先日、兄と大喧嘩したんです」
「……」
「いい歳をして、おかしいでしょう?それきり会っていないんです。とてもひどいことを──いってしまったものですから。兄が帰ってきたら、まずそのことを謝らなくちゃ……今回の件で、すごくそう思いました。峯さんのお蔭です」
「だが、お兄さんは怒っていらっしゃらないでしょう」
「そうでしょうか」
「ええ。必要なら、私も一緒に謝罪して差し上げますよ」
「ふふ……ありがとうございます。世話が焼けますでしょう」
「……あなたのような妹がいて、うらやましい気がする」


峯さんはそういって、わたしのことを一瞥した。
茶色っぽく澄んだ、美しい双眸だった。
硬質のつくりのなかで、睫毛だけが柔らかく、たわんだ。彼がまばたきをしたという残影を刻んで。
「……峯さんは、ご兄弟は?」
「いません。いや、実際のところはいるのかもしれませんが」
「?」
「この業界では、孤児なんて珍しくもないことでしょう」
「……。お調べになってみませんの?」
「ええ。自分と血を分けた人間なんて──吐き気がする」
わたしは、鼻をすすった。ぴりぴり、と強く、硬く、冷たい空気が流れてきた気がした。
だが峯さんは、案外穏やかな顔をしていた。
「わたしは、峯さんと血を分けた方がいらっしゃるなら、お会いしてみたいと思いますけれど」
「きっと、いたとしても、どこかでのたれ死んでいることでしょう」
「いいえ、きっとしあわせにお暮しだと思います。すごく優しくて、誠実で、真面目な御方に違いありません」
「……」
「……?どうされました?」
「いや、あなたのお兄さんにも、そのようなことを言われたことがあったので」
「え?そうなんですか?あはは……きっと他の人も同じ意見だと思いますよ」
「いえ。あなたと、お兄さんだけです」
そういって峯さんは、無理に頬笑んだ。「やはりご兄妹ですね」


……なんで、笑ったのに、きゅっと胸が切なくなるのだろう、と思う。
峯さんの微笑には、そのような作用があった。
あまりにもきれいで、うそみたいに柔らかかったからかもしれない。


わたしと峯さんは、そこから半時ばかり、とりとめのない話をし、おやすみなさいと告げて、部屋に戻った。
まだ、心臓がドキドキしている。
ベッドに横たわり、携帯を開いた。
そうして、兄にメールを綴った。
ここへきて毎日、メールだけは送りつづけている。
一通も帰ってはこないけれども、
もしかしたら目を通してくれているかもしれないと願って。




お兄さんへ

──きょうもお加減はいかがでしょうか。食事はちゃんと取っているでしょうか。

わたしは元気です。けさ、母も大丈夫だと申しておりました。

きょうは、新しいお友だちができたように思います。
こちらは楽しく過ごしていますから、心配しないでください。
そしてどうか、気を付けて帰ってきてください。
謝りたいことがあります。先日の件のことです。
それに、お話したいこともあるのです──わたしの、新しいお友だちのこと。
お兄さんも知っている、優しくて、誠実で、真面目な、あの御方のことです。