三月だというのに、冬が帰ってきたようにその日は寒かった。
ぶるりと身震いして、歩むスピードを速めたとき、携帯に着信があった。
会長からだった。

「はい」


電話なんて珍しい……。
電柱の傍で立ち止まり、彼の声に神経を集中させる。
運動の後なのか、それとも電話だからなのか、すこしだけその声は粘りがあるように感じられた。


『いまどこにいる』
「自宅の、近くです」
『……暫くのあいだ、新宿には近づくな』


それだけ言って、通話は途切れた。
ツー、ツー、という電子音が後に残される。わたしは、携帯の画面をしばらく眺めていた。
不意に背後に気配を感じ、振り返ると、新宿方面へ走るパトカーが目についた。
そのサイレンは不吉な暗示のように、ちかちかと街を赤く照らしていた。






*




「これを峯会長へ」
と預けられた書類を持って、会長室に向かう。
わたしはまだ在籍している形になっているので、社員証でビル内を自由に出入りすることができる。だからわたしにお使いを頼んだと社長は言ったが、けれど、峯会長がわたしの部屋に来たことが本当の理由だろうと思う。つまりわたしは、社内で会長の愛人だと見なされているのだ。わたしをお使いに出せば、峯会長のご機嫌伺いになるという打算があるのだろう。
ふしぎと全然悔しくないのは、会長だけは理解してくれているからだと思う。
なんにも言わないけれど、仕事のこと、いつも見てくれている気がする。
わたしはもっと、頑張らなければ。


会長室の扉をノックすると、中から短く「入れ」という声が聞こえてくる。
わたしが突然やって来たことに、どんな顔をするのだろう。
いつもの仏頂面で睨まれるのかな……
そう考えながら、扉を開けて一礼する。
会長は会長席に坐り、手を組んでそこに額を掛けていた。
わたしを一瞥するまでもなく、「か」と言う。


「こちらを会長へと……」
「……そこに置いとけ」
「はい」


(……)
なんだろう、なにが違うんだろう。
いつもと様子が明らかに違う。
会長が冷たいのはいつものことだけど……。


書類をそっと彼の手元に差し出して、わたしは、そのまま突っ立っていた。彼の反応を待っていた。部屋の中はしんとしていて、外の気配すらも聞こえてこない。ただ会長がひどく苛々していることが、肌にじわりと伝わってくる。
「なにをしている?早く行け」
「……会長、あの」
「なんだ」
「……、なんでもございません。社に戻りますが、ご用があればお申し付けください」
「用があればきみ以外の人間を使う。愛人ヅラでうろつかれたくない」
「……。」


ちくん、
と胸が痛んだのは、会長がわたしを突き放すことを言ったからではない。会長の様子が明らかにおかしいのに、そのことをわかっているのに、それでも自分がすごすごと引き下がろうとしていること、だった。これ以上ここにいることで、自分が傷つきたくないから。


「……、すこし一人にしてほしい」
「……、お疲れですか?」
「ああ。いや……、大丈夫だ」
「……」


顔を上げると、手の甲に隠れていた目元が現れる。深い陰影を湛えたその顔には、険しさと苦渋が入り混じっているように見えた。
一歩近づくと、ふわと会長の気配が、彼の香りとともに伝わってくる。氷のような、こわくて、怪我しそうな、それ。いつも気圧されて、黙り込んで、下を向いていた。かつての自分の感情が鮮やかに再現されて、いまでも恐ろしくなる。
もう一歩近づくと、会長が横目でわたしを見た。
すごくこわい。
拒絶されることも、もしかしたら単におせっかいであるかもしれないことも。
手を伸ばして、こめかみの近くの髪に触れると、わずらわしげに片手で振り払われた。


「触るな、なんなんだ」
「……、ごめんなさい……。」
「……」
「……」


「きょう、待っててもいいですか?」
「……」
「……」


会長の影を帯びた顔、睫毛のシルエットが浅くまばたいた。
彼からは、何の音も聞こえてこなかった。ため息も、呼吸音も、袖の衣擦れも、何も動かさず、ただ宙を眺めているのだ。


「…きょうは行かない」
「……そうです、か……」
「なにかと物騒だ。早く帰れ」
「はい、」
「……
「はい」
「ありがとう」


彼の手が伸びて、わたしの、先ほど打ち払われた手を握った。
硬くて、冷たい手をしていた。


「はい……、」
「……」
「……」


あれ……、
なんでわたし、泣きそうになってるんだろう。
悲しいのか、切ないのか、よくわからない。
泣くのをこらえていると、胸がとても詰まってしまう。
いま、とても苦しかった。
会長はわたしを見上げなかったけれど、腕を伸ばしてわたしを抱き寄せてくれた。
そっとやわらかく、どこか遠慮がちに。


「……おまえを、悲しませたくない」
「はい……」
「だから、一人にしてほしい」
「……はい」
「……」
「……」

「はい」


わたしの手を、すり、と撫でて、握り締める手。
握りかえすと、彼の手がわたしの手の熱を吸った。


「……すこし疲れたな」
「はい」
彼の髪に手を伸ばすと、こんどは振り払われなかった。
しなやかな艶が指先を通って、整髪料の香料がふわと立ち上がる。坐ったままの会長の頭をそっと抱きしめる。男の人の匂いと、体温が、抱きしめているわたしをかえって包み込むようだ。


──抱擁は、ストレスが大部分解消されるらしいですよ
──抱擁することでオキシトシンが出て、ストレスが減るとか……


“きみは試したのか?”


……目を開けると、会長が目を細めている端正な顔が、わたしの顔の下にあった。
上から見下ろすと、その凹凸のある顔の、睫毛が細く長いことに気づかされる。
わたしは、一歩退いた。
つないだ手が、するりとほどけた。


「帰ります」
「……ああ」


扉に手を掛けて、振り返る。
会長はわたしを見ていた。五秒ほど見つめ合って、わたしは一礼して扉を閉めた。
もう振り返らなかった。
早歩きで帰りながら、堪えていた涙がぽろぽろと落ちてくる。
どうして泣いているのだろう。
好きな人のことを想っているだけなのに。








*




翌日、まだ夕暮れの時間に、会長がわたしの仕事部屋にやってきた。
ノックもなく、突然扉を開けて入ってきたのだ。
わたしは驚いて、言葉を失ってしまう。
だってまだ、業務時間内なのに……。


「どうしたんですか?」
「顔を見に来た」
「え……」


会長はこちらにスタスタやって来て、いきなりわたしを抱き寄せた。
ほんの一分前は、仕事の画面とにらめっこしていたのに、いきなり彼の胸に抱かれていて……びっくりして、硬直してしまう。
恐る恐る見上げた彼は、作り笑いのような微笑を浮かべていた。


「いやなのか?」
「いやじゃないですけど、でも、まだ業務中です」
「ああ……」
と彼は言う。ふっと鼻で笑って、「そうだな」と言った。
「だがそんなもんもどうでもよくなる。あすには辞めさせる」
「えっ?」
「わかったな」
「え……ちょっと、待ってください。わたしは……」
「週明けには大幅に人事異動する。この会社も一度叩き直すか……、どうも無能が多くて困ったものだ」


混乱して立ち尽くすわたしに気づき、彼は横目で一瞥してから、苦々しげにくちびるを歪めた。
「心配するな。手当はやる」
「……正当な給与しか受け取りません」
「おまえは働きたいのか。……それもいいだろう。……ひとつ会社もやろう」


……茫然としているわたしをよそに、彼は携帯を取り出して、系列会社のうちの一つについて調べさせた。電話を切って、「あす、早速ビルの下見に行って来い。元麻布にある」と言った。


「……会長はわたしのこと応援してくださってるんじゃなかったんですか?」
じわり、じわり、と体温が上がってくる。
これは怒りなのか、悔しさなのか、判別がつかない。頭だけは、蒼褪めているのがわかった。


仕事中、行き詰まるわたしを見守ってくれていたじゃないですか。
間違えば注意してくれたじゃないですか。
“きみならうまくやっていけるだろう”と言ってくれたじゃないですか……


「……そうじゃなかったんなら、……わたし、頑張れません。これまでのようにと、言ってください」
「……」
会長は不快そうに眉をひそめて、わたしを見下ろした。冷たい眼差しに、鋭い光が宿っている。その厳しさは、いつも以上に感じられた。


「くだらん。すべて、些末なことだ」
「……」
「おまえが俺についてこないなら、……それもいいだろう。だが……」


言葉を失うわたしを、会長はじっと見下ろしていた。だが、やがて、顔を背けた。すっと身を引いて、距離を置いた。その一歩分の距離が、まるで異次元の境界線のように思えた……。


「ひどく残念だ」


まるで能面のような無表情で、丁寧なくちびるの動きで、そう、つぶやいた。
一歩引き、また会長とわたしは、遠くなる。
彼はわたしに背を向け、扉のところへ歩いていった。
もう手を伸ばしても、届く距離ではなかった。


「………──会長、」
真っ直ぐに伸びた後姿が、ぴくりと立ち止まる。
彼は一度振り返った。……ぞっとするような、無表情だった。
わたしが口を噤んだのを見て、会長はまた歩き出す。扉を開け、出ていった。


「……」
そのときわたしは、きっとこれは何かの間違いだ、と思っていた。
あすになったら辞めさせるなんて、嘘に決まっている。なにごともなく、あすはくる。同じ日を繰り返す。


これきりなんてわけがない。
(……そうでしょう?)


業務時間が終わり、退勤してから、すぐに会長に電話を掛けた。
だが彼は出なかった。
その番号に二度と、出ることはなかった。












何も知らずにわたしがベッドに横たわっていたとき、
峯会長は、ミレニアムタワーから飛び降りた。