翌日の朝は、一寸先も見えぬほどの濃霧で、窓から手をかざすと、細かい粒子でしっとりと濡れた。わたしは、凍えるような空にため息をこぼし、連絡がつかない彼に不安を抱きながら、それでも朝食をとって会社に向かった。
一連の動作のすべてを、いまでも、朝食の小さいパンのやわらかさとか、霧を吸い込んだ肺から体が冷えていく感覚とか、バスの中の匂い、窓から見た街の風景や、触った自分の頬の感触などを、小瓶に封じ込めるように記憶している。
ときどき、蓋を取って、自分で再現してみる。
日常と何ら変わりないそれぞれだが、記憶から蘇らせてみれば、それは特別なもので、新鮮で、悲しくて、大切だった。


会長がいなくなって、会社はあっという間にすべて潰えた。
始めは、なんとか持ちこたえようと努力していたけれども、資金や証券の持ち逃げや内部抗争などで分散し、いまはもうない。
その終焉の呆けなさは、フロント企業らしいと言えるかもしれないと、思う。


わたしは、東城会の堂島会長のお話を伺う機会を得た。
どんなロボットみたいな人だろうと思ったが、疲れた微笑が印象的な、若いけれど貫禄のある、それでいて優しそうな人だった。
……この人が、会長の兄弟分の人。
会長が尊敬していた人……。
会長とは、正反対の、情感の豊かそうな人だ。
この人に憧れた会長の気持を想像すると、切なくなった。
「お力になれることがあれば……いつでもお知らせください。こちらでなにかわかれば、ご連絡します」
と堂島会長は言った。
彼を待たせてあるリムジンから、威厳のある和装の女性が姿を見せた。
その人は、オートクチュールの、銀糸の帯揚げをしていた……。






事件から半年たって、わたしは久しぶりに片瀬さんと会った。
彼女はいま、別の企業の秘書職に就いているらしい。
会長がいなくなって、社の存続に一番力を入れていたのは彼女だった。そうして一番早く見切りをつけたのも彼女だった。他の人材があまりに使い物にならず、ひとりが努力しても、どうすることもできなかった。


「いくらなんでも、遺体も上がらないのはおかしいです」
九月のからりと晴れた青空の下。清涼な風が吹いて、片瀬さんのつややかな栗色の髪をなびかせた。
「リチャードソンの遺体もないのでしょう。忽然と姿を消すなんて……東城会が噛んでいるのでは?」
「堂島会長とお会いしましたが、ご存知ないようでした」
「そうですか……組織的なものを感じます」
「そう思います」
白くほっそりとした横顔に、ごく色味を抑えた薄化粧が施されている。それは彼女の持つ顔立ちの美しさに知性を添えている。
わたしは、彼女のことがたまらなく羨ましかった。片瀬さんのようになりたいと何度も思った。
……そんなことをふと、思い出した。


「………私のせいかも、しれません」
と片瀬さんは言った。
「あのとき、あんな電話をしなければ……」
不意に、彼女は声を詰まらせる。
彼女はその苦しみを、ずっと抱えていたのだ。わたしは、片瀬さんと会長はとても似ていると思っていた。クールで仕事のために生きていける人なのだと。だが会長には感情があった。片瀬さんにもあったのだ。ただそれを押し殺していただけだったのだ。
「……私、会長は生きておられるのではないかと思うのです」
毅然と髪を耳に掛けながら、片瀬さんは言う。
「すぐ死ぬような方ではありませんでしたから」
「はい」
……わたしも、そう思う。
きっとまだ生きていて、どこかで、なにか難しいことをしているのだと、思う。


「もうお目にかかることはないかと思います」
と彼女は言った。
「さようなら、お元気で」
「さようなら」


残暑の日差しの中、かげろうに揉まれて見えなくなるまで、彼女は見送ってくれていた。
ひとり、港区を歩く。
会長のいない街は、まるで最初から峯という人がいなかったように、なんら変化がなく、うだるような熱気を湛えている。巨万の富を動かしていたにもかかわらず、経済に目に見えた影響があったわけではなく、なにもかもが、幻だったような気もした。
みんな消えていってしまった。わたしも消えていってしまう。
会長の痕跡が感じられた場所に残っている人はもういない。
そうして、その痕跡すらも、もう無くなった。








ある日、
会長の夢を見た。


会長と外国と思しきカフェにいた。
手に、クリムト展のチケットを持っている。
彼は難しい顔でエスプレッソを飲んでいたが、ずっと彼を見詰めるわたしに対して、いやそうに一瞥する。
すこし居心地が悪そうに眉間を寄せながら……一瞬だけ、微笑した。


目が覚めて、
枕に顔を押し付けて泣いた。
体中が熱を持ったみたいだった。
半時ほど泣いて、泣き疲れて、泣きながら顔を上げたとき、
時間の経過を感じた。
会長がいなくなったと知ったばかりのわたしと、いまのわたしは、違うのだと。


ピンポンとチャイムが鳴った。
「書留です。サインお願いします」
「……」
泣きはらした顔に気づくことなく、配達員はつぎの目的地まで颯爽と消えていく。


差出人を見ると、知らない外国人の名前だった。アメリカから発送されたもので、あちこち流れ着いてきたので、封筒がすこし捻じ曲がった跡がある。ニューヨークの消印と、青いエアメールのシールが、くしゃくしゃになっていた。
胸騒ぎがした。
中には小切手が入ってあった。
ドル表記の数字と、几帳面そうな尖った筆跡の、見慣れたサイン。
神仏に祈ったことなんてないけれど──
神さま、と思った。




*




郵便物転送の手続きを済ませ、ホテルとチケットの手配もして、午後にはタクシーで羽田空港まで向かった。
何日か逗留することになるであろうが、ニューヨークならば現地で何でも揃うだろうから、衣類は二日分だけに留めておいた。あとはアイマスクと、ノートパソコンと、文庫本。ハンカチと、リップクリーム。それだけ入れると、小型のトランクケースはいっぱいになる。
フライトまで空港内を歩いていたら、ニューヨーク美術館でクリムト展をやっているというポスターが貼られていた。
あの名画が、東京の後、ニューヨークに巡回しているのだという。
行けそうならば、ぜひ行きたいと思う。
つぎはきっと印象も変わっているだろう。


トランクケースを引きながら、つるつるした未来都市的な造形の通路を歩く。
窓硝子ごしに、青空に淡い淡いうろこ雲が広がっている。
秋晴れの気持のいい日だった。
すべてが優しく、豊かなものに感じられた。






“いやなのか?”
よく彼はそう、確認した。
あの、裏切りを覚悟したような、どこか冷めた瞳。その声。
手紙の一枚もない、小切手だけの郵便に、
まるで詫びているような、彼の苦痛を感じた。
“俺を愛してるか?”


いつか会長も、いやになるほどわかるだろう。


時が掛かっても、
見つからなくても、
信じられなくても、
悲しくても、死にそうになっても、


離れていても、抱きしめてあげるから。









2014.01/15〜02/04