三月になった。
仕事はとても忙しいけれど充実もしている。
いままでやらせてもらえなかったことも任されるようになった。社内は若い人だけで構成されているし、遠慮や縦社会がないぶん結束力も連帯感も強い。


社長も白峯会の幹部らしいけれども、誰よりも努力家の好青年だ。
(この人が会長に認められた人か……)
その精悍な横顔に峯会長の面影を捜してみたりした。


会長は毎日管理に子会社に来ているそうだが、その姿を見たことがなかった。
同僚に、気を遣って顔を見ないで済むようにされている気がする。
(……考えすぎかな)


残業も済ませ、港区の本社を出て、私用で新宿まで向かう。
予約していたワンピースを受け取りに行くためだった。
そのついでにちょっと神室町に寄っていこうと思った理由はなぜだろう…。
数年間寄り付いたこともなかったのに。賑やかで猥雑な音や、気持のよさそうな顔で出入りしている会社帰りの人たち、ドレスを着た女性を見ていると、なんだかあの群れに混ざりたくなったのだ。
単に人恋しかったのだろう。


七福通りのパーキングで、あの黄色いスポーツカーを見かけた。
人ごみの見せたまぼろしではないか──そう思って遠巻きに眺めていたけれど、……きっと会長の車だ。
(……だってあの車って確か、日本に数台しかないやつだった、はず……)
見間違いじゃなければ、あれは会長の車だ。
こんな街にどうしてだろう。すごい偶然だなぁ。
なんて考えて立ち止まって車を見ていると、
後ろから「おい」と声を掛けられた。


「…………!!!!」


「なにをしている」
峯会長が、そこには立っていた。
口から心臓が出るかと思うくらい驚いた。
彼は据わった目をしている。
氷のような無表情は、わたしを見下ろしているうちに訝しげに歪められた。
「わ……わたし、峯会長のお車かなと……」
「そんなことは見ればわかる。なぜここにいる」
……会長だ。
本物だ……。
丸一週間姿を見ていないだけだったのに。
毎日、その姿を思い浮かべていたけれど、
頭の中の彼よりも、実物はもっともっとかっこよかった。
本物だ……。


こんな街角で、約束もしていないのに鉢合わせたことに感動しているなんて、わたしは馬鹿者なのだろうか。少なくとも会長は、そう思っているような目でわたしを見下ろしている。
「会長……お会いしたかったです」
「……」
会長は、チッと舌打ちして、鼻梁に皺を寄せた。
いつも以上に虫の居所が悪いらしい。
だがそれすらもわたしには懐かしかった。


「なぜここにいる?何度も言わせるな。誰かに誘導されてきたのか」
「え?いいえ、わたし、新宿に用があって。服を予約していて、それで……」
「伊勢丹か」
「はい。それで、なんとなくフラフラと」
「……フラフラと、か。どうだかな」
ふっと冷笑し、皮肉そうに片頬を吊り上げた。
「まあいい。寄り道せず帰れ」
「会長は?」
「俺ももう行く」
「お仕事ですか?」
「…違うが」
「だったら、一杯飲みに行きませんか」
がしっ、と突然手を掴んでそう言ってみる。
会長は非常に嫌そうに手を引いた。
だがいまだきつく、わたしの手が彼の指を掴まえている。
絶対に離さない。
そう固く意志を持ってぎゅうと握りしめる。
さすがに振り払おうとはせず、諦めたように会長は眉をひそめて目を閉じた。


──……、……わかった。だから離してくれ」
「!、……よろしいのですか?」
「よろしいもクソもないだろう」
既に酔っているんじゃないだろうな、と一言付け加えて彼は言う。
酔っていたらこんなことできません、きっと。
とはいえ、自分でもこの行動ぶりには驚いている。
体が勝手に動いてしまった、としか言いようがなかった。


「その裏に店があったな」
「はい」
街中にいるだけなのに、いろんな人たちが視線を投げかけてくる。
会長はとても目立つのだ。
不愉快そうにしているのは、人の目が煩わしいからなのだろうか。無言で歩きだす背中に早足で付いていった。
歩いて二分ほどのところにある、バンタムの扉を開ける。
からんからん、と心地よいベルの音と共に入ると、清潔な空気とほの暗い雰囲気に包まれた。神室町の雑踏から隔絶された気分だ。店内には誰も客がおらず、しんとしている。
わたしたちはカウンター席に坐り、彼がマッカラン、わたしはスカイビールを注文した。


「仕事のあとの一杯は、おいしいですね」
「……」
本当は、味が全然わからない。喉にぱちぱちと通る炭酸の味が気持いいけれど。
緊張しているけれど、昂揚もしているし、それでいて必死でもあった。
一秒でも長く、この時が続いてほしくて。
「マッカランって、甘い匂いがするんですね」
微かに、ドライフルーツのような香りがする。照明を浴びてなお深い琥珀色のそれは、大きなロックアイスに絡んで、いかにも重そうなとろみを感じさせた。
「シェリーの香りだそうだ。その樽で熟成されると聞いたことがある」
「へえ、いい匂い……」
「飲んでみるか?」
「えっ?いいえ……」
彼は薄く冷笑した。そんな振りをされるとは思わなかったので恥ずかしくなる。
「……」

「はい」
「仕事はどうだ」
「皆さんに助けていただいて、お蔭様で順調です」
「どこにいっても、きみならうまくやっていけるだろう」
「……」
そうかな、と思いながら、スカイビールを口に含む。
すこし、沈黙があった。いつ彼が“帰る”と言いだすかしれない、恐々とした沈黙に感じられた。
「会長はいかがですか?引き継ぎなどもしておりませんが、後任の方は……」
「いや……後任はまだ作っていない。俺がすべてまかなっている」
「そうですか……」
「……」
グラスを見下ろしていると、大切に封じ込めていた景色がよみがえってくる。


あの会長室。静けさの中でパソコンを叩く音。コーヒーの香り。
顔を上げれば見える、目を伏せる会長の姿。
怯えながら伺っては、そのなかに嬉しさも感じていた。


そんなことを思いだして、すこし微笑する。
思い出にするには、まだあまりにも生々しすぎる。
「考えてみれば、わたしがいた時期はちょっとだけでしたね」
「……」
「日数は少なくとも、濃くて充実していました」
「……」
「会長にも片瀬さんにも、いろいろ教えていただきましたし」
「後悔していないなら、よかった」


……長く目を閉じて、開く。
記憶が近すぎて、思い出すと溺れてしまいそうになる。
「後悔しているのは──そのことではなくて」
言葉が続かなくて、わたしは手持無沙汰な指でコップを軽く揺すった。しゅわ、とあぶくが水面に浮かんでくる。
「なんだ。言え」
「……言いようによっては、もっと信じてもらえたのではないかと」
「!………」


ぴく、とこめかみを強張らせてから。
会長はグラスを手に取り、その中身を見下ろした。わたしの拳ほどある大きなロックアイスに、ピシ、と亀裂が入った。からりからりと、いい音が鳴る。
「……
と顔を上げながら会長は言った。ムスッとした横顔をしている。
「はい」
「出るか」
「あ……はい」


もう、お開きか……
しょんぼりしながら肯いて、脚の長いスツールから下りた。
店を出ると、ざわざわした神室町に遭遇する。
店内が瀟洒だったので、この差に面食らうが、この街は酔っ払いにとても優しくできている。しらふだったらなんだか落ち着かないところなのに。
お酒を含んでいるというだけで、あそこで歌ってる酔っ払いや、言い争っているホストや、客の腕を引くキャバ嬢や、こわそうな外国人たちと、同化することができるのだ。
「会長、代行を呼びましょうか?」
「いや」
「ではわたし、そこでタクシー拾ってきますね」


足早に七福通り西へ出ようとするわたしの肩を、会長は無言で掴まえた。
「…余計なことはいい」
「え?」
そうつぶやいて、彼はわたしを追い抜かし、先を歩きはじめる。
一瞬付いていっていいのかと迷ったが、ともあれその背中を追いかける。
Mストアのある角を曲がると、とたんに人ごみは途絶えて、しんとした暗く広い道につながった。
(吉田バッティングセンターって、こんなとこにあったんだ)


前のほうからカップルが歩いてきて、会長の顔を見て道を譲った。後ろを付いていくわたしに彼の顔は見えないが、たぶん、とてもこわい顔をしているのだろう。
(……ここって……)


坂道を見上げると、壮観なくらい、お城みたいな建物がずらずらと並んでいる。
STAY、ご休憩、フリータイム、ジャグジーバス、ご朝食無料……ピンク色のネオン、古めかしいデザインのパネル。
そういえばさっきからカップルしか見かけない、かも。
きょろきょろなんてしていられなくなって、平静を装って会長の後をついていく。
こういうところって、不倫とか、風俗とか、そんなただれた関係の印象があったけれど。若くてかわいいカップルが入っていくのを見かけて、そうか、と思った。ああいうふたりなら、いやらしい感じがしない。……でも、ここを歩いているわたしと会長を客観視したら、きっと、ただれた関係のほうに属しているように見えるんだろうな……。会長、ヤクザだしなぁ……
といっても、会長がこんなところ行くわけない。
潔癖そうだし。誰が何をしてるかわからない場所なんて、死んでも嫌そうだし。
だからわたしが緊張したり、恥ずかしがる理由など一つもないのだ。
通りすぎるだけなのだから。


とつぜん、会長が立ち止った。
その背中にぶつかりそうになって、急いで足を止める。
顔を上げると、会長が冷たくわたしを見下ろしていた。
どき、
としたのは、冷静に見えたその目が、逆に焦っているように感じられた、から。


「ここがまだマシか」
と会長はゆっくりと呟いた。
目の前にある、白い建物。シンプルなデザインで、『HOTEL ホワイト』という立て看板が立っている。
たしかに。一番、きれいだ。なかなかおしゃれだし、第一変な看板が出てない。


同調して肯いたら、会長がぎゅ、とわたしの手首を掴まえて、引っ張った。
全身の体温がかーっと上がるのがわかった。
まるで掴まれた手首が急所であるみたいに。


「………あまり余裕がない」
と会長は、やはり穏やかな口調で言う。
口調は低く優しく、ゆっくりとしているが、
目が……暗くて、光がなくて、ギラギラしている。
しかもそんな顔が、壮絶にかっこよかった。
「こんなところで…すまないな」


そう囁いた会長の清潔なくちびるから、シェリーの甘い香りがふわりとした。
全身から、くたり、と力が抜けた。