くちびるが離れても、キスしているときの熱や一体感は、見詰めあっている間も続いていた。
どきん、どきん、どきん、
鼓動が激しくて、鼻腔で呼吸するのがつらい。口から息を吸い、吐くと、はあ…、はあ…、と呼吸音が洩れた。過剰に興奮しているのがわかって、とても苦しくて恥ずかしい。
会長は鋭い目をしていた。視線が、わたしの顎に下り、また瞳に戻ってくる。
わたしの状態を観察している目。
それは微かに軽蔑しているように感じられた。
「……


すう……。
会長の鼻腔が匂いを嗅ぐ、長い音がした。
わたしの吐息を吸ったのだ。
……」
もう一度。
痺れるように苦く、ざらざらした、掠れ声。
くすんだくちびるがそう呟き、ふわとわたしのくちびるに帰ってくる。
「好き、だ」
ああ……。


髪をやさしく撫でる手が力を持ち、指先が地肌を探る。頭を手のひらで一掴みにすると、彼はわたしをソファの背もたれに押し付けた。体が、背もたれのクッションと、会長の圧し掛かる厚い胸に挟まれる。
顎を支えていたほうの指が、しなやかに首筋をなぞり、鎖骨と鎖骨の間のくぼみで止まった。
どっくん、どっくん、どっくん、と、太い血流が会長の胸を叩いている。
圧し掛かられたわたしの太腿に、会長の硬い腹部が触れている。その下、──更にベルトのバックルのすぐ下──が彼のスラックス越しに硬く、太くなっていて、わたしの内股の柔らかいところに食い込んで、痣ができそうなほどだった。
彼の怒張を感じるだけで、ぞくぞくと体が震えて、声が洩れそうだった。
くちびるが、ふやけそう……。
互いのため息が湿度になって、くちびる同士がしっとりとなめらかなキスになる。
丁寧で、やさしくて、すこしだけ激しい。
キスというよりも、くちびるで気持を伝えられているような気分だった。
(きもちいい……)


ひくりと、彼は顔を険しくさせた。
むさぼるようにキスしていたのを突然やめたその顔に、冷静の波が、一気に返ってきたようだった。


「……」
「会、長」
「……」
「……あ、あの……」


わたしをじっと見下ろしながら会長が──べつのことを透けて見ていることが、わかる。
白昼夢を見ているような、なにかに深く絶望したような、そんな、暗い目をしていた。
くちびるに灯ったキスの温度が、拭われたようにさっと冷えていく。
こめかみに微かに筋を立たせて、彼は、奥歯を噛み締めた。


「会長。会長、大丈夫ですか……?」
「……ああ」
「会長」
「……」


くっ、ときつく目を閉じて、二秒し、目を開ける。
そのときには冴え冴えとした、冷静な瞳に戻っていた。
彼はわたしから体を起こし、立ち上がると、ソファから離れて部屋を横切り、窓べで立ち止まった。
「……」


真夜中の窓硝子に、会長の顔が青白く映っている。
ぞっとするほど、近寄りがたかった。
「会長」
「……」
「……」
「タクシーを手配する約束だったな」


懐から薄型の赤い携帯電話を出して、それを耳にあてる。タクシーを横付けさせる旨を伝えて、携帯は素早く閉じられた。
無表情な顔が、窓硝子に映りつづけている。
……なんで、どうして。
力なくうつむいて、わたしは乱れた襟元とスカートの裾を正した。


「……なにを考えていらっしゃるのですか?」
「……」
さっきまで、体温まで一緒で、ぴったりと同じ気持だったのに、
いまは触れられないし、以前以上に赤の他人に見える、背中。


「やはり恋愛は信用できない」
「……」
「きみもやがては俺を棄てる」
「そんなことありません」
わたしは、素早く口を挟んだ。それ以上のことを彼に考えてもらいたくなかった。
「どうして、そんなことを仰るんですか?」
「ではきみは仕事を辞められるか?」


しん、と静まり返ったのは、わたしの胸の動悸だったのかもしれない。
会長は振り返り、わたしを見た。疑いを孕んだ、きびしい眼差しで。
「どういうことですか?なぜ辞めなければならないのですか?」
「代償を支払わせれば誠意と受け取ることもできる。それに職があっては多方面から利用される危険性がある。自分の女に自立されると厄介だ」
「……」
「辞めるのか、辞めないのか」


この人は、何を言っているのだろう。
さっきまであんなに必死にキスしていたのに……。
心が繋がりあっていると思ったのに。
「……辞めません」
「……見ろ。おまえも、同じだ」


(辞めたらきっと会長こそ、わたしに興味を失くすじゃないですか……)
そう言いたかったけれど、何も言葉が出なかった。
なぜこうなったのか、ひとつも状況把握できていないからだ。
わかるのは、
たださっきともう様子が違うこと。
そして、もう戻らないこと。
だった。


「もういい。タクシーも着いただろう。支払いはしてある」
「……」
「行け」
「……、かしこまりました。どうもありがとうございます」


バッグを掴んで、早足で部屋を出て、扉を閉めた。
エレベータが来るのを待ちながら、涙も出ないのに顔を擦った。
いっそ本当に涙が出てくれればいいのに。
さっきまで幸せで息苦しかったのに、いまは心がバラバラになったようだった。
会長はたしかに“好きだ”と言ってくれた。
──だがそれは彼にとって状況でしかないのだ。


(お腹が痛いな)
(…すごく痛い)
くちびるに触れると、冷たくて、硬く強張っていた。
会長はわざとわたしを試しているのだろうか。
わたしを責めるようでいて、何かと戦っているように見えた。


(まるで自分を、いじめてるみたいに)








*


月曜日、子会社へ出社すると、部長が簡単なあいさつの場を設けてくれた。
親会社では個室で業務についていたということで、こちらでも個室を用意してくれたらしい。
同僚はとても親切な人たちだった。
頑張って、その優しさに報いようと思う。


会長のお傍には、もういられないけれど……
案外平静でいられるのはなぜだろう。
きっと、あんなことがあっても、あの晩のことが宝物になっているからだ。
“好きだ”
「………」
もうお話できることも、ないかもしれない、のに。


廊下を歩いていると、曲がり角のむこうから
「つまり峯会長のお手付きなんだって……」
という声が聞こえてきた。


引き返して個室に戻り、ため息をつく。
本当にそうならよかったのに。