「どこへ行きますか?」
パーティーを抜けてホテルの赤い絨毯の通路を歩きながら、背の高い会長を見上げる。
「まだ酒は?」
「はい、大丈夫です」
「……」
ふか、ふか、と絨毯にヒールが食い込むたびに音が鳴る。
会長はすこし前を歩いた。うつむいた彼のうなじが、襟足の髪とスーツの黒いシャツの隙間から覗いた。筋肉質な首筋だ。


「……なら、俺の部屋がいい」
うつむいていた頭を上げて、振り向きもせず会長は言う。
一瞥もない言葉はするりと余韻を残さす通りすぎるので、それが聞き間違いではないのかと思った。
だが彼がスーツの懐からキーカードを取り出すのを見て、これが現実であることを知った。
「……」
終電も過ぎた時間なのだから、ホテルのバーもじきに店じまいするだろう。
これは意味などない状況なのかもしれない。そうわかっていても、心の中で自問自答した。
これでいいのか、と。
会長はたぶん、そうなってはわたしに興味をなくすのではないか。
彼の体がわたしを求めたとしても。肉体と精神は別のものなのだ──特に男の人は。
“もしそうなってしまったら”……それだけを想い出に生きていける強さが、わたしにはあるのだろうか。
わからない、だがあのとき、“いいえ”と言ったことを、わたしはいまでも後悔している。
そうしなければ彼が失望することが、直感的にわかっていたから。
だが、これからは自分の気持のほうを大切にしよう。それならばどんな悲しいことが起きようとも、己の選んだ道であると、納得がいくだろう。


エレベータで最上階まで向かい、目的の部屋まで歩いていく。そうしている間、会長はずっとわたしの前を歩いていた。物言わぬ背中を追いかけながら、相変わらずふか、ふかとする自分の足音に心もとなさを感じていた。
突き当りの立派な白い扉の前で、会長は立ち止まる。
カードキーを挿し、扉を手で支えながら、わたしに先に入るよう無言で促した。


小さく会釈して、中に入ろうとしたとき、会長の手がわたしの背をやんわり押した。
「!」
触れられた瞬間、体に電流が走ったかと思った。
ただ一瞬、背中に触れられただけなのに。
彼の手形に、そこが焼けてしまったみたいに、感触が刻まれている。


「好きなところに掛けろ」
「はい、」
とても広く美しい内装のスイートルームが目に飛び込んだ。リビングルーム、ベッドルーム、ゲストルームと続いている。複雑な幾何学模様のカーテンや、それに調和するクッションやベッドカヴァー。会長のあす着るらしき衣類が、コートスタンドに掛けられている。
ふさふさした毛足の長い敷物に立ち、ぐるりと辺りを見渡すわたしを、彼は横目で眺めていた。わたしの動向を冷静に観察しているのだ。それに気づいているけれど、部屋の中が物珍しくてきょろきょろしてしまう。
都内一流マンションの、一番いい部屋。ということは、日本一いい部屋ということになる。デザイナー、プランナー、清掃係、製作会社、いろんなその分野のプロの技術が結晶してるんだなぁ……なんて、そんなことを思った。


「すごいお部屋ですね」
「……ワインがある。飲むか?」
「はい。あ……すみません」
真紅のワインを底に含んだ、大ぶりのクリスタルグラスを手渡される。
会長はすでに一杯飲んで、二杯目を自分で注いでいる。
くん、と香りを吸い込むと、芳醇なぶどうの皮とコルクの匂いがした。
おいしそう。
だが口に含むと、唾液が出るくらい渋くて酸っぱかった。
「……」
「まずいのか」
「……複雑な味がします」
「飲み慣れないうちはそうだろう」
ふ、と片頬を歪めて彼は侮蔑的に言う。


一番手近なところにあったソファに坐ると、会長はその斜めに腰を下ろした。
テーブルに置いた、黒くくすんだワインボトルを、ふたりで眺めている。
その沈黙を幸福だと思った。
それぞれの心が、同じ位置にあるようで。


「……
「はい」
「空腹だろう。会社からそのまま来たんじゃないのか」
「いえ、大丈夫みたいです」
空いてるはずなのに。全然、空いていない。
胸がいっぱいだと、お腹も空かないんだなぁ…と思った。


──他の男の部屋でも平気で来るのか」
「えっ……」
じろ、と目を見据えられる。
思いがけないことを言われて目が泳ぐ。グラスの軸を指で撫でながら、まるで叱咤されている気分をごまかした。
「いえ……そんなことは。会長だからで…す」


どき、どき、どき……心臓が、震えている。
指先も、膝も、感覚がない……。
「……」
「……」
「ずいぶん俺は信用されているらしい」
自嘲気味に笑う彼に、なぜか少しだけ傷ついた気がする。
そうじゃない、そうじゃないのに……


「会長は、誰でも呼ぶんですか?」
「俺が。そんなわけがないだろう」
ふ、と薄笑いを浮かべる顔を見て、ぞっとする。なんとなく薄ら寒くなる。
彼は、指先で鼻筋を撫で、くちびるを覆った。ワインボトルを眺めて、しばらく黙り込んでいた。
「……誰も呼ばない。自分が寝泊まりする場所へは」
「……」
「……」
「じゃあ、どうして、……」


こく、と自分の喉が引きつる。
無意識に、体中に力が籠っていた。熱心に彼の横顔を見つめていた。
「……」
目を伏せた目蓋に、つやのある睫毛が縁どられている。それが持ち上げられ、二重目蓋が折り畳まれて、暗い瞳があらわになった。
「こういうことは面倒だな」
「こういうことって……なんですか」
「……男女関係の話だ」


自分が赤くなっていることを自覚するほど熱いけれど、会長は苦痛を噛み締める顔をしていた。


「恋愛による結束を俺は信用しない」
「……」
(……ああ……)
「風化してやがて消えていくものだからだ」
「会長は、そうなんですね」
「……きみは我が社のためによく働いてくれている。と同時に内情を知りすぎだ。その意欲が恋愛感情がゆえでなければいいと、思う」
「もしそうだったら、どうされるんですか?」
「……なんだって」
「もしそうだったら、どうするんですか……」


角ばった長い指が、コン、とグラスを大理石のテーブルに置いた。
「異動を命じるだろう」
「………」
「裏切りかねないからだ。特に女は移り気だ、……仕事上でもきみの代わりは何人でもいる」
「………」
「………そう、なのか」


お腹がしくしくと痛い。
きっと、とてもつらいことがあったのだ。
とてもつらいことが。
たとえば長年築き上げた信頼をぶち壊してしまったり、思いもしない屈辱的な疑いをかけられたり。そんなことが。
いままで、ただ失恋しただけなら、こんなふうに痛みはしなかった。


「はい。異動を命じてください」


低い、淡々とした声でそう答えると、会長は目元をギリッと細めた。
──来週から、子会社に席を用意しておく」
「はい」
「待遇はやや下がるが……出向という形を取っておく」
「はい」
「向こうに行っても、変わらず励んでほしい」
「はい」


わたしは、泣かない。
涙なんか見せない。
悲しいからと言って涙がすぐに出るほど、もう若くはない。
涙の代わりに、どっと苦痛が押し寄せる。胸が、張り裂けそうだ。


「……
名前を呼ばれて顔を上げると、
する…と彼の仕立てのよいスーツの生地が、衣擦れの音を立てた。
彼が、わたしの顔に手を伸ばしたからだ。


……
手は、とても大きかった。
わたしの頬の温度よりも、それは温かかった。
硬く乾いた、男の手をしていた。
その硬さに触れたことで、自分の頬の柔らかさが感じられた。


「……すまないな」
声にならない掠れ声が、薄く開いたくちびるの隙間から漏れる。
その言葉は、独り言のように、くちびるからそっと零れただけで、彼の舌の上に留まった。


会長の声を拾った鼓膜が、微かに耳鳴りしている。
彼は無表情な瞳をしていた。
僅かに寄せられた眉根の陰影だけが、彼にも感情があるということを示していた。


その手に手を重ねると、
ごつごつと筋張った手の甲が、僅かに、震えた。


「はい」


わたしの声も、声にならない。
凍り付いた心が、まだそのままになっていて、うまく反応することができない。
会長は、体をかがめて、わたしの顔に顔を近づけた。
彼のスーツの鈍色を映した影が、上から降ってくる。
視界に、彼のくちびるが映った。
頬にあてていた指を顎に添え、ゆっくりくちびるが寄せられる。


(会長の匂いが、する……)
目を開けたまま、そんなことを感じていると、彼のくちびるが、ぴたと近づくのをやめた。


瞳を見る。
つややかな精神的な瞳に、底知れぬ闇が透けている。
見詰めているというよりかは睨まれている気がする。
目を伏せると、彼も目を伏せた。
──くちびるに、感触が重なる。
とても感情的な感触が。
──音もなく結びついたくちづけは、すぐに離れた。


(とても、想いつづけていました)
(とても、とてもです)


ふたたびくちびるに、まるで発作のように、彼の薄い、熱を持ったくちびるが重なった。
だが触れた途端、衝動を押さえつけるように、ぐっと堪えて、それはまろやかな、優しいものへ変化する。
音も立てず口角まで深くついばまれたとき、体にやわらかく衝撃が走った。
重ねただけなのに、腰が砕けてしまったような気がした。


──好きだ」


吐息だけの言葉。
暗くて、力強い視線。美しい容貌。
悔いるようにひそめられる。
…心が、掻きむしられた。
彼がいま、幸福な状態でないことをはっきりと感じた。


ごまかすように、キスの衝動によって顔が寄せられる。
微かなワインの香りを湛えたくちづけは、熱く、ほろ苦い味がした。