半日子会社へ出向したあと、昼下がりにわたしは会社に戻ってきた。
この数日ずっと会長の顔を見ていない。
仕事が多忙を極めていたため、ゆっくり物事の整理をすることはできないまま、時間だけはするすると流れていってしまう。
終電に揺られながら、夜を映す黒い窓硝子に、会長の姿を思い描く。
いつも遠くから見かけた横顔よりも、わたしを見て眉をひそめる顔ばかりが浮かんでくる。
孤高に見えた横顔が、わたしに向けられて目があったとき、孤独そうに見えて。
思い出すたびに、喉の下が熱くなる。


会議室でプロジェクタの用意をしているうちに、お偉方が入ってくる。
会長は後のほうから、風を切るような早足で入ってきた。外出先から戻ってこられたばかりのようだった。その瞬間、意識した指先が硬く強張ってしまう。室内の雰囲気もより張り詰めたものへと変貌する。皆が会長を恐れているのだ。
全員が席に着いたのを確認してから、会議が始まった。
わたしは部屋の隅っこにある末席に、片瀬さんと並んで坐り、プロジェクタの気を遣いながら話を聞いていた。
照明が落とされ、スクリーンに白い光と映像が映される。
途中、片瀬さんが冊子を配るために、そっとわたしの隣から離れた。
「………」
暗闇の中、プロジェクタの光の端を浴びた会長の姿に、ふと視線が止まってしまう。
会長は指を交差させた手で口元を覆い、卓上の資料を眺めながら部下の話を聞いている。
顔の半分を隠している黒く濃い陰影から、彼の顔立ちがとても整っていることを思わせた。


(……ほんと、かっこいいなあ……)
まるで、ドラマの中の俳優に見とれているみたいに。
そんなことを思う。手が届かない人。同じ部屋にいることすら、不思議な気がする。
ときおり、鋭く指摘して部下を戸惑わせる態度も、神経質そうな表情も、すべて作り物のような気がした。あれはすべて演技なのではないか。隙がなさ過ぎて、同じ人間だとは思われない。
数日間お傍を離れていただけで、わたしの感覚は、すべてかつてに引き戻されていたようだ。
送ってもらったり、食事を共にしたことなんてすべて夢の中のように思われた。
たまに廊下で鉢合わせて、通りすぎぎわに一礼する対象。普段は遠くから見ているだけ。お声を掛けてもらうなんて夢にも思わない。
名前を覚えられていることすら知らなかった、そんな頃に、すっかり戻ってしまった気がする。
「……」
顔を伏せ、自分にそう言い聞かせる。


顔を上げたとき、どきんとした。
会長がこちらを見ていたから。
(……見えているわけない)
わたしのいるところに光は届いていないのだから。


だが会長には、たしかにわたしが見えているのだ。
暗闇の中から、数秒間、彼と見つめ合っていた。
まばたきも忘れて。


彼が顔を背けた瞬間、気道に呼吸がひゅう、と一度にたくさん入ってきた。
無意識に息を止めていたらしい。胸が苦しい。息を止めていたからではなくて、もうどう言い繕ろっても、自分をだますことはできないのだと思い知ったから。
目があった、それだけのことなのに。……とても、苦しい。




*




(わたしはたぶん、どうかしてる)


視界がくらくらする。
疲れているらしくて、タウリナーを買ってきて一息に飲むと、頭だけが冴えて、かえって体のどこが不調なのかをはっきりと悟った。モチベーションが上がらないので、仕方なく仕事を中断して部屋を出た。
資料室に行って見よう。なにか行き詰ったヒントがあるかもしれない…。
扉を開け、書架に阻まれた細長い部屋に入り、バインダーを手に取る。
興味深い記事の途中、顔の前に、しゅっと爽やかな香りが漂った。


(まさか、)
振り向くと、扉のところに守衛さんが立っていた。
香りなんて、全然しなかった。気のせいだったのだ。彼は、あと半時でここを閉める旨を告げて立ち去った。
ふたたび一人になり、書架にずるりともたれかかる。


(こんなんじゃ、だめだなぁ……)
仕事もうまくいかないし、峯会長がいつも傍にいる気がしてしまう。
無意識にその存在を求めているのかもしれない。
落ち込んでいるからいけないのだ。前向きにならなければ。仕事にもっと熱意を持って。会長のことは置いといて……


「手を止めなくていい」
──
しゅっ、と。
あの香りが、後ろから、ごく微かに漂ってくる。
その瞬間、空気がぴんと凍り付いたような気がした。


「いまから非公式でパーティーがある」
低くひそめた、苦い声。
「日航東京の中庭だ。社員証で入れる」


気配で、彼がけわしい顔をしているのがわかる気がした。
「手が空き次第来い」
「……はい。かしこまりました」


そっと振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。
頭がくらくらする。わたしはたぶん、どうかしている。




*




仕事をなんとか終え、ホテルまでタクシーを飛ばしたのは、もうパーティーも終わったであろう時間帯だった。
お世話になった方々にご挨拶だけでも……と思いながら、夜空の見える中庭に出ると、まだたくさんの人たちがグラスを片手に親しげに話し合っている。


(よかった、まにあったみたい)
直属の上司と普段から遣り取りしている同僚たちに挨拶を済ませ、疲れて乾いた喉にシャンパンを流し込む。
そっと輪を抜けて、端っこに立ち、まるで給仕のように、背景の一部になりながら休むことにした。
円柱状にくりぬかれた中庭は、金色の光と緑のつつじの壁に囲まれている。
風がなく、ちっとも寒くない。きっとここは昼間はガーデンウエディングの式場になるのだろう。暗闇に紛れているが、フランス風の趣を感じる。


「……」
会長はいないのだろうか……目の届く範囲にはいらっしゃらない。
二杯目のシャンパンをもらったころ、通路をよこぎって会長が姿を見せた。
誰かが彼に声を掛ける。彼は一言だけ返し足早に行きすぎる。
そうして少し離れたところで立ち止まり、振り返って大勢の輪を眺めていた。


「?……」
なにしているんだろう?


腕を組んで彼は周囲に視線を這わせている。
わたしも彼の視線に合わせて同じところを見る。
人、人、人……なにを見ているのだろう。


あ、そっか、誰かを捜しているんだ。


そう思ったとき、会長が突然こちらに視線を向けた。
どき、とした。
彼がこちらに向かってまっすぐ歩いてきたからだ。


(捜してたのって、……)
「ここにいたのか、」
「は、はい」


彼は、近くを通りがかった給仕を顎で呼び寄せ、シャンパングラスを手に取った。
金色に揺らめく水面に、細かい星のようなあぶくがシュワリと弾ける。彼のグラスに呼応して、わたしのグラスもシュワリと音を立てた。
「珍しいですね、会長が飲んでいらっしゃるの」
「……」
「お車は会社に置いていかれるんですね」
「そうだ」
「お迎えは手配されましたか」
「いや」
と言いながら彼は、一歩わたしに近づき、くるりと背を壁に向けた。
となりに並んで立っている。右頬、右腕に彼の気配がじんわりと感じられた。
「きょうはここに宿泊する」
「そうなんですか?」
「ああ。は終電に駆け込むのか」
「そうですね。あと十分ちょっと……」
「……もう諦めたらどうだ。タクシーなら取ってやれるが」


ちらと顔を上げて会長を見る。
高いところにある横顔が、前方を眺めてじっとしている。
輪のほうから、ワハハ……と笑い声が響いてきた。
そろそろ、このパーティもお開きだろう。


──あとすこしでいい」
ひそめた声が、右斜め上から降ってくる。


あとすこし……、わたしもそれを望んでいる。
浅く肯くわたしに、会長は切れ長の静かな瞳をこちらに向ける。
シャンパンのシュワリという音が弾ける。シュワリ、シュワリ……


無言で見つめ合っているうちに、手つかずのシャンパンが、どんどん気を失ってしまう。