病み上がりの体で出勤すると、普段は平気なはずの業務が気だるく感じられる。
マスクの下で小さく咳をして、ルーチンワークを作成して会長にメールする。
土曜日、通勤中雨に濡れてしまってから風邪をひいて、日曜日はずっと寝込んでいた。酩酊しているような気分だった。とても気持ちが昂揚していたからだ。
何度も繰り返し、心の中で会長の声と姿を思い浮かべた。
“ではつぎは、俺の部屋に来るか”
熱に浮かされた錯覚じゃないかと、何度も自問自答した。


月曜日にどんな顔をすればいいのだろう、
……なんて考えていたけれど、まだ本調子じゃないし、きょうは顔を合わさないほうがいい。治ったと思うけれど、もしかしたら伝染してしまうかもしれないし。
きょうは呼び出しがあっても、事情を話して個室で仕事させてもらおう。
「体調管理ができていない」と怒られそうだけど。


だが、きょう一日、呼び出しのコールがくることはなかった。
けほん、と咳が出る。へんな具合にこじらしただろうかと思いながら、薬を飲むために給湯室に水を取りに行った。
コップを持って立っていると、通路のほうから片瀬さんの声が聞こえてきた。
あすのスケジュールを確認する声。二人ぶんの足音。会長も一緒なのだ。
通路にでて一礼すべきだったのだろうけれど、なんだか気恥ずかしくて、コップを持ったまま息をひそめた。
「ああ。それでいい」
という、機械的な低い声が、片瀬さんの声のあとに響いてくる。


足音がかなり遠ざかってから、込みあげてきた咳がこぼれた。
「………」
(……聞こえてなかったよね?)
そっと通路を覗くと、もう足音も聞こえてこない。
わたしは、ポケットからのど飴を取り出して、マスクの下の化粧の禿げた口元に、ぱくりと放り込んだ。


終業時間を迎え、いつも小一時間は残業するけれど、体調を案じて定時で会社を出ることにした。
いろんなオフィスから人の話し声やコピー機を作動させている音など、仕事をバリバリこなしている気配がする。
自分だけさっさと帰るのも気が引けるけれど……音をひそめて咳をすると、レモンキャンディの匂いがした。
きのう早いうちに休日診療を受けていてよかった。お薬がなかったら、たぶんきょうつらかったはず。さっさと帰って消化によいものを食べて眠れば、病み上がりの気だるさも消えるだろう。
そんなことを考えながら、誰もいない通路を歩いていたら、ふと視線を感じて振り向いた。
すぐうしろに会長が立っていて、心臓が止まるかと思った。


「か、会長。お先に失礼、します」
うろたえながらもそれだけを口にする。
会長は能面のような無表情だった。眉間に、かげろうのような、あるかなきかの皺が見えるが、目に力がなく、わたしを見下ろしながら別のところを透けて見ているようにぼんやりとしていた。
「帰るのか?」
「はい」
「……」
「……?」
会長の言葉を待って、その高い鼻筋の影と瞳を見ていると、不意に土曜日のことを思いだして恥ずかしくなる。“会長のお話聞きたいです”……なんて、“好きです”と言ったものと同じようなものではないか。


「ついでだ、送って行く」
少したってからようやく漏れた声は、掠れていた。
一日の業務をこなしたあとだが、彼の顔に疲労感は微塵もない。けれども声に、それは滲んでいる気がする。年齢以上に老け込んでいる、その声。きょうは特にそれが、顕著だった。
低くて、微かに湿り気があって、ざらついているのに、聞き取りやすい。ドスが利いている、というのだろうか。
「え……」
「……なにか用事が?」
「いえ、でも、きょうは結構です。ありがとうございます」
「なぜだ?」
「わたし風邪気味で。……もう治ったんですけど。咳がまだ出るので、伝染してしまうかもしれません」
──それは嘘だ」
「!?嘘じゃないです、こんな体張った嘘つきません、マスクまでしておりますのに」
「……」
「???」


ふう、
と短くため息をついて、彼は顔を背けた。
遠くのオフィスで、電話のコール音が鳴っている。それは二度ほどで途絶えた。その間ずっと会長は黙って、窓べを眺めていた。じわりと橙色を帯びた、夕暮れの光が、彼の顔の輪郭を照らしている。
「いまから会合がある。きみの家の傍を通るんだが」
「……」
「都合でも悪いのか?」
「……で、でも。あの……恐れ入ります。それでは、お願いいたします」
じろ、と睨まれて、喉がひくりと強張った。
なんで、そんなに、ぴりぴりしているんだろう……。
早足で歩きだす彼の背中を追いながら、拒絶されているみたいだ、と思った。


会長の車はきょうも黄色いスポーツカーだった。助手席に坐り、シートベルトを締めるとき、いつも“こんなことがあるのだろうか”と思う。もう何度か乗せてもらったのに、車内の冷たく心地よい空気を吸い、左となりに会長の無言の圧力めいた存在感を肌に覚えると、心はいつも、遠くから眺めているだけだった頃へ遡った。
……わたしは憧れていて、恐れていて、近づかないようにしようと思っていた。
それなのにいまこうして、当たり前のような顔をして助手席に坐っていなければならないのだ。
わたしがお礼を言ったり、緊張しているふうなことを気取られると、会長はむっとする。だからわたしは、助手席にいるときの演技をする。
それは会長のビジネス上のパートナーであり、都会の女であり、助手席という特権に恐れを抱かない演技だ。
たぶん会長がここに乗せる女性はみな、そうだったのだろうと思った。
だがもしかするとそんな女性たちも、わたしと同じように演じているのかもしれないとも思った。


「……?」
不意にシートベルトのねじれに気付いて、金具をただすために体をよじる。
後部座席が目に入った。革張りの広いシートに、オートクチュールで有名なブランドの紙袋が置いてある。
女性向けのプレゼントだった。


「……」
見てはいけないものを見てしまった。そう思って、咄嗟に自分の爪先を見下ろす。量産型のパンプスの寂しそうな足が見えた。
誰にあげるんだろう、どんな人なんだろう──そんな雑念に囚われたくない。
惨めな気持ちになることがわかりきっている。
会長は、そんなわたしの動向を、横目で見ていたらしい。
彼は、カーブを切るために、不機嫌そうな顔をさっと背けた。


「つらいのか」
「……いいえ。もうだいぶ、いいです」
「そうか……」


ウウン、と低い唸りを上げて、エンジンが加速する。
こっそりとルームミラーを見上げた。会長の凛々しい眼差しが、長方形の中に映っている。微かに逆立ったかに見える、不満げな眉。ガラス玉みたいなきれいな瞳。
こっそり、のはずだったのに、つい、じっと見つめてしまう。
鏡ごしに不意に、目があった。


「……きょう俺を避けていただろう」
「………え?」
「……」
「え、全然そんなこと……ないですよ?」
「……」
「本当に、そんなことないです」
「きみには失望させられる」


ウウン……
エンジンの音が再び聞こえる。彼がアクセルを踏み込んでいるのだ。
“失望させられる”
と言った苦い声を、パノラマのような景色を眺めながら反芻する。
失望させたということは、希望も持たせていたのだろうかと馬鹿なことを考えていた。
会長が望むわたしのあるべき姿と、わたしの望むわたし自身というものには違いがある。
わたしは、会長の前でもふつうにしていたかった。打ち解けた素の自分というものを出したかった。それがすこしずつ、叶えられていると思っていた。そうして親しい仲間になりたいと。
だが彼はわたしの素の部分など望んでいない。スーツを身につけ、ビジネスのために武装した、感情のない社員であるわたしを望んでいるのだ。だからわたしが感情を見せると、彼は失望したなんて言う。だけどわたしは、会長のようにはなれない。恋愛感情がなければ、彼の望みどおりの社員を演じることもできたであろう。だが恋が間にあると、それが重い足かせになって、身動きが取れなくなるのだ。
本当の自分に、好意を持ってほしいから。
(………ばかだな)
そんなこと、起こりっこない、のに。


「わたしは、避けていません」
「給湯室に隠れていたし、昼時も不在だっただろう」
「!……」
「……」
「あれは、意図的に避けたのではありません。恥ずかしかったからです」
「恥ずかしい?」
「なんだかとても照れ臭かったんです。仕方がないじゃないですか、会長にはこんなことおわかりにならないと思います」
「俺ではきみの感情などわからないか」
「わかりません。会長は、わたしのように感情に囚われたりなさらない方です。違う世界の人なんです」
「……かもしれないな」


いつか、会長は言った。
片瀬さんのこと。
“きみとは別の人種だ”と。


きっと片瀬さんは会長と同じ人種だ。わたしとは違う。
わたしは、お二人とは違う。
彼もそのことを知っているだろう。


フロントガラスを、混雑した道路からたくさんの光が矢のように降りそそいでくる。
たまらなく悔しかった。
間違った恋をしていると思った。


「きみからすれば俺はひどい人間に見えるのだろうな」
「会長は、完璧すぎて、ロボットのような方です」
「……いっそ本当にそうなら楽だっただろう」


高速道路を下りると、まだ夕暮れの赤みを引き摺った夜空が、繁華街の頭上でグラデーションを成していた。冬なのに、陽が落ちるのが遅くなった。じきに春を迎えるのだ。


「……二十分か。会合まで間がある」
時計を一瞥して、彼が囁く。
「会長こそ、会合って本当なんですか?」
「ああ…?なんのことだ」
「女性と会われるのではないのですか。」
「……」
「わたし言いふらしたりしません」
「……その言いがかりの理由が後ろの荷物にあるなら言っておくが。あれは、これから会合で会う方の依頼で取り寄せたものだ」


車は、ぐんぐんとわたしの家に近づいていく。
心はまだ解決していない。まだ降りたくない心境を置き去りにして。
「和服と合わせるられるものを、と──母君への贈り物になさるらしい。片瀬に手配させた」


「……」
「本当だ、」


会長の怒ったような眉間が、いまだルームミラーに映っている。険しい眼差し。ずっと前方の道路を見据えている。そうしながら彼が、横目でわたしを見ていることもわかっている。わたしもそうしていたからだ。お互いの視線を感じていて、それでもずっと前方を見ているふりをしている。


「…わかりました。失礼な口を利いて申し訳ございません」
「……」


機械的な声の謝罪は、かえって侮辱だったかもしれない。恥ずかしい。わたしは、不貞腐れているのだ、多分。
は少し、あの方に似ている」
「……え?」
「いや……」


会長は口を噤んだ。
車が、振動もなくわたしのマンションの前に横付けする。
まだほの暗い青い夕暮れ時のこと。往来には人が行き来していて、いつも送ってもらっているときと時間が違う。まだきょうという一日は長く、そのぶん、この車内の出来事を整理するのに当てられるだろう。眠る前と眠ったあとでは、記憶の鮮明度が違う。


「ありがとうございました、会長」
「……早くよくなるように」
「はい、」



会長はわたしの目を見た。
ゆっくり彼は、右手をわたしの顔に伸ばしてきた。


指先が近づいてくるのが、スローモーションのように感じられた。


わたしが驚いて表情を強張らせると、ハッとして彼は手を止める。
指先が頬に触れることはなかった。
ひっこめた右手を、ハンドルに掛けた。
力をなくしたように、顔を背けながら。


「髪が、……口元に」
「……あ、はい」
「すまない」


(なんで謝るんだろう……、)


髪の一房が、マスクに引っかかっていた。指でさっと払う。
気まずい空気が流れて、わたしはそそくさと車を下りた。
会長の車が、街角に消えていくのを見守った。
排気ガスまで消え失せ、他の車の通行が、彼の車の存在感を上書きしてしまう。
それなのに最後に満ち満ちたむせ返るような気まずさが、生々しくいつまでも顔の前に漂っている。
あの、青くスパイシーな仄かな香りと共に。




もしかして──会長、……、わたしを、


………そんなわけない、そんなわけない。
そんなわけがない。