マンション通路はしんと静まり返っている。
無言で後ろを歩いている会長の存在感に動揺が続いている。
部屋の鍵を取り出したとき、うろたえた指先が取り落してしまった。カチャンとそれは、彼の足もとに落ちた。拾おうとしたときにはすでに、彼が腕を伸ばして拾っているところだった。
「すみません、ありがとうございます」
無言で差し出されたそれを受け取り、会長のこわい視線から目を逸らす。
胸のドキドキは、不意に畏怖の念にとってかわった。
……どうして黙っているのだろう。……何を考えているのだろう。
いずれにせよ、彼がわたしの手の届くひとではないと、その完璧な姿を認識したときに改めて思い知る。
ドアを開けて中に入ると、けさ食べたスープの匂いが薄く残っている気がした。


「狭苦しいところですが、どうぞ」
「失礼する」
頭をかがめてドアをくぐった彼は、わたしの部屋に入るなり微かに眉をぴくりとさせた。
さっきまではなんにも感じなかったのに、──彼がわたしの部屋に踏み込んだ途端、彼の香りが、しゅっと空間の中に咲いたように思われた。外出先ならばいざ知らず、彼の香りは、わたしの部屋には一切存在しないものだった。異質だからこそ目立つのだ。
ごく薄い微かな香りだけれども、嗅覚に訴えかけるそれに、会長がわたしの部屋にいる事実を突きつけられている。


「コーヒー淹れますね」
「……」
彼は立ったまま、わたしの机の上を見下ろしている。
その背中を一瞥したあと、キッチンに入ってお茶の用意をした。じっくり蒸して抽出させたコーヒーを用意したあと、かぐわしいその匂いと湯気を抱えながら部屋に戻ると、彼は同じところに立ったままだった。
そして、その姿勢のまま、机上の参考書に手を触れていた。
「……会長?」
「……これはいい本だ」
「あ……それ。資格を取ろうかと、思いまして」
「学生時代に俺も読んだ。応用すれば視野も広がるだろう」
「はい」
「かなり使い古してあるな」


わたしがページに走り書きした字を、まるで愛おしいもののように、そっと指先で彼はなぞった。
「……」
恥ずかしくなりながらカップをテーブルに置くと、パタンと本を閉じた彼がこちらを向いた。気だるげな表情だった。見慣れているはずなのに、なぜかはっとさせられる。


互いにテーブルの前に坐り、黙りこんでいたが、やがて仕事の話でいくつか言葉を交わした。彼の香りは、コーヒーの匂いに揉み消されているが、立ち上る湯気ごしに眺める横顔が、車の助手席のシートから見たそれよりも近くに感じる。
特別なことだと思った。
とても特別で、きっとこんなことはもう二度とはないだろう。


「よかったら、どうぞ」
キャンディのように包まれたチョコレートをつと差し出すと、彼は、無言でそれを見下ろした。
コーヒーにも、まだ手を付けてくれていないのだから、食べてくれなさそうだけど。
(わたしの家のコーヒーなんて、口に合わないかもしれないもんなぁ……)


「これは」
「チョコレートです、たぶん美味しいと思います」
「きみは食べたのか?」
「いえ、まだ」
──なぜ美味いとわかる」
「え、高級だったので」
「なるほど。道理だ」
ふんと鼻で一笑した頬が微かに歪められる。


「これを食えば、来月はきみになにかお返しを贈らないとならないんだろう」
「!……」


ばれてる。
お茶うけにさりげなく出したけど……渡し損ねたバレンタインデーのチョコレートだっていうこと。
「お返しなんて結構です。これこそいつもお世話になっていることへのお返しですから」
「そういうことは嫌いな性分なんだ」
「はい、わかってます」
「……」
………。
しん、と落ち込んだ沈黙に、わたしまで落ち込んだ。
なぜいつも、ここまで、と区切りをつけることができないのだろう。
いつも調子に乗って、もうすこしだけ、を繰り返し望んでしまう。わたしは自分をわかっていない愚か者だ。ただの社員なのに、もうすこしだけ、が通用すると思っているのだ。そんな浅ましさを、会長はもちろんお見通しだろう。


「……女の部屋は初めてだが」
と彼は低く囁いた。
「あまりそれらしくないように見える」
「……そうですか?男っぽいとか?」
「ああ。浪人生風情だ」
「……」
「このほうが好感を持てる。人間が出ている」
「……」
室内を軽くちらと見渡したあと、彼は本棚が気になったのか、そこに視線を定めた。
「女の部屋は初めてって、そうなんですか?」
「ああ」
「……あの、でも」
「言いたいことはわかる」
と彼は顔色一つ変えず言った。
「女と会うにはホテルの一室があればいい。私生活まで踏み込みたくなどない」
「………」


なぜか、わたしは赤くなる。
訊いておいてなんだけれども、訊くんじゃなかったと、思った。
この動揺は、嫉妬のためだ。自分でそれがわかって、そのこと自体にも嫌な気持になった。嫉妬できる権利なんて、わたしにはないのに。
「普通、相手も俺を家に呼ぶのはいやだろうからな。行ったことがなかった」
「そんなことないと、思います。お付き合いしてる女性なら、家に来てほしいと思う人もいるはずです」
はそうなんだろう。俺の周囲の女はそうではなかった」
「……」
「俺をこんなふうに誘ってくれたのは……きみだけだ」


「……」
慌ててカップを取り上げて、コーヒーを飲んだ。
気がまぎれるかと思ったが、そんなことはなかった。
「きみの価値観ではこれが普通なんだろう。生活を見せ、人間性を出すことで交流を深める、そうして関係を構築していく」
「……会長は、違うのですか?」
「違う…な。俺の私生活など誰も、興味ないはずだ」
「わたしは、あります」
「……」


カップを置いたとき、スプーンがかちゃんと軽く弾んだ。
「会長のお話、聞きたいです」
「………」
会長は、眉をぎゅっと寄せて、不機嫌そうに、とまどったように視線をそむけた。テーブルに置いた手が、きゅっと拳を作る。
「………ではつぎは、俺の部屋に来るか?」


スカートの上で組んだ両手を、無意識に握りしめた。
会長はずっと背筋を伸ばして、まるで武士のように胡座を掻いている。
ぴしっとしている彼と、頼りないわたしの、なんという差だろう。しかもそれでいてお互いに、いま、じっと見詰めあっているのだった。


こくり、と黙って肯くと、彼は、眉のしわを微かに解いた。
言葉というものが、この空間から無くなってしまったみたいだ。わたしが、心から彼のことを知りたいと思っていることが、彼にも伝わったことがわかったような気がする。意思の伝達というほど大げさなものではないけれど。視線のやりとりで、お互いの感情や状態を、推理しあっているのだ。


「………そろそろ、失礼する」
会長は、気難しそうな顔でそう言った。
「え、もう、ですか?」
「ああ……」


ふたりとも、すっと立ち上がる。
狭いワンルームなので、脚の長い会長が四歩も歩けば、すぐに玄関に辿りついてしまう。
革靴を履いたあと、彼は、見送りのために後ろに立つわたしに振り向いた。
翳りを帯びた瞳が、わたしを見下ろしている。睫毛の一本一本まで見えて、それくらい近いのだと知った。微かに茶色っぽい髪と瞳。丸みのない頬。…なぜか、とても、親近感が沸いてくる。とんでもないこと、なのに。


「来月はなにかお返しを用意しておこう」
「え?」
「あれを、用意してくれただろう」
顎で小さく部屋を指す。チョコレートのことを言っているのだと思い至り、わたしは首を振った。
「そんな。けっきょく召し上がっていらっしゃいませんし」
「だが、受け取ったも同然だ」
「……」
「実物のほうはおまえが食べるといい。高級な味がするだろう」


実物。
ということは、実物でないほうは受け取ってくれたということ……?
きょとんとしているわたしは滑稽だっただろう。彼は不快げに鼻の付け根にしわを寄せ、ドアを開けて一歩外に踏み込んだ。
「ここでいい。見送りは結構」
「……会長」
「じゃあな」


ぱたん……と扉が閉まる。
耳を澄ましていると、こつ、こつ、とあの早足な足音が、遠ざかっていくのが聞こえた。


わたしはワンルームを横切って窓べに立った。会長の派手な車が停まっているのが見える。
一階のエントランスから、彼が姿を現した。片手でキーを出し、それで開錠する電子音が、家の中まで聞こえてきた。


車に乗りこむ瞬間、彼はこちらに振り向いた。
目があい、けれど微笑するでもなく、肯くでもなく、……顔を背ける。
ドアを開けて、彼は車の運転席に坐った。車がバックし、なめらかにカーブして、方向転換する。それはすぐに、颯爽と走り出して、見えなくなった。


目があったときの、会長の表情。
困ったように、イライラを隠しているように、どこか怪我したみたいに。
美術館でも彼が、そんな顔であの絵を見ていたのではないかと、なんとなく思った。