大衆の面前に立つ会長は、いつもどおりクールで、乱れがなくて、それが威厳を感じさせる。
言動は同じで、振る舞いもきれいなままなのに、なぜか会長室でふたりきりになると、彼はすこしだけ違う顔を見せるようになった。
ただ黙りこんでいるだけなのかもしれない。でもたぶん、以前は、こんなふうではなかった。ふたりきりのときにも、まるで朝礼のときのような気分だったのに……すこしだけ、いまは違う。
とても不機嫌そうだし、角があるのに、関わってくる感じ。
会長は、お寂しいのだろうか。
(……そんなわけないか)


さん。会長がお呼びです。会長室にお越しください』


呼び出しに応じて会長室に行くと、たいていノートパソコンを渡されて、その場で仕事を言いつけられる。
会長も忙しそうにパソコンで仕事をしている。
ときどき顔を上げては、「できたんだろうな」「遅れた時間の内約を」「こんなことで時間をとらせるな」などと急かしてくる。
あるとき、いまわたしがやっていることは会長の仕事なのだと気が付いた。
普段彼がこなしている仕事の簡単な部分をわたしにやらせているのだ。もちろん、不備がないか厳しいチェックが入るけれど。
(そんなに忙しいんだ……)
ときどき、白峯会の彼の側近が電話を渡しにやってくる。外出も増えたし、それなのにトレーニングルームに普段以上に籠っていたりする。
「……」
たたたたと軽くタイプする音が聞こえてくる。会長席にいる彼に目をやると、熱心に画面を見て仕事をしているところだった。眉間が強張り、まばたきは浅く、口角が締まっている。
大変な集中力だ。さっきからずっと、音が途切れることがない。
「できたのか」
「はい」
「データを」
「こちらです」
「よしまあいいだろう。二十分休憩をとれ」
「はい」


会長室の来賓用のソファとテーブルが、自分の仕事場になってしまった。
データ流出を防ぐため特定のパソコンでここでやらせているのだろうけれど。
片瀬さんがお茶とお菓子を持ってきてくれたので、遠慮なく甘いものを口に運んだ。
脳に糖分が行きわたる感じがする。お茶を飲んで、深呼吸した。
目を閉じてじっとしていると、たたたた…とキーボードを叩く音が心地よい。
浅く、定期的で、メトロノームみたいに落ち着く。……


「!」
目を開けると、誰もいなくなっていた。
あれ?わたし……


陽が暮れたらしく、ブラインドの板に街の光が反射している。
急いで時計に目をやると、十七時を過ぎたころだった。
がちゃりと扉が開いて、会長が入ってきた。
外出していたらしく、車のキーが彼の手の中でチャリと音を立てた。
「起きたのか」
「……申し訳ございません。いただいた時間を大幅に過ぎてしまって……」
「居眠りはさぞかし心地がよかっただろうな」
「申し訳ございません……」
やらかした…とがっくりして謝ったけれど、わたしの無益な謝罪はより彼の癇に障ったらしい。ぎろりと睨まれた。黙れと言っているのだ、たぶん。
ふたたびパソコンを与えられ、ずっと計算をやっていた。彼は会長席で何度か電話で部下に指図をし、それ以外はやはりパソコンを使って仕事していた。


会長のタイピングの音は精神を安定させてくれる。
彼に目をやれば必ず“できたのか?”と訊かれるので、そちらを向くことはできないが、彼の気配がそこにあるということに、いつの間にかわたしは慣れ親しんでいた。
居眠りをしてしまうほどに。
「ここがおかしい。」
背後から覗きこみながら会長が言う。
そのとき突然、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
知らないうちに、カップがわたしのそばに置かれていたらしい。
「これは?わたしのですか?」
「片瀬がさきほどきみに持ってきた。気づかなかったのか?」
「え、全然気づきませんでした。お礼言わないと…」
「……熱心が過ぎて不器用なほどだな」
まばたきもしていなかったようで、目が痛いくらい乾いている。
慌ててぱちぱちまばたきしたあと、ようやく潤ってクリアになった視界に、会長の顔が映りこんだ。……どきりとした。
わたしを見ながら、すこしだけ彼は目元をやわらげていたから。
こんなに優しい顔できる人だったんだ、
と思う間もなく、彼はわたしから目を逸らす。
その横顔はすでに無表情だった。
「つぎはこちらも」
「はい、…」


「きょうはここまででいい」
「はい」
「さすがに疲れたようだな」
「いえ平気です」
とはいうものの、とても疲れた。
会長はそうは見えないので、さすがだなと思う。
わたしの何倍もの仕事量をこなしていたのに。
当たり前のことだけど、ほとんど一日を一緒に過ごして、やはりこの人は並の人間ではない。体力も集中力もすごすぎる。
「きみは電車通勤か」
「はい」
「ではついでに送っていく。帰る支度を」
「えっ!?」
「なんだ?」
じろっと睨まれてわたしは口に手を当てた。
小さくかぶりを振って、込み上げた驚きを飲みこんだ。
……会長がわたしを送る?なんかの間違いじゃなくて?……嘘だ。


だが、嘘ではなかった。


会長が誰かを彼の車に乗せているのを見たことがなかった。
彼のマンションと同様、彼の車は彼の聖域みたいなものなのだとわたしは思っていた。というより、そうであってほしいと思っていたのかもしれない。
あの人が安らげる空間があるのだと思うことが、わたしの安らぎであったのだから。
彼は何台も高級外車を持っていて、日々色んな車で出勤してくる。その中で一台、一番お気に入りなのかなと思う黄色いスポーツカーがある。使用頻度が高い車。きょうはそれだった。


「………」
(……夢みたい)
車の中は、会長の、すっとする香りがわずかに漂っている。車特有の機械の匂いはなく、空気が澄んでいて、シートの坐り心地もとてもよい。左に会長がいて、わたしの家まで向かってくれている。その横顔がすぐそこにあるのだと思うと、胸が震えた。
「きみは仕事中のほうがお喋りなんだな」
車に乗ってからずっと無言だった彼が、ようやく口を開いた。
「………そうですか?」
「ああ。」
「わたし、外車の助手席って初めてで。なんだか恐れ多い気がして……」
「おかしなことを言う」
ふ、と彼が冷たく笑ったのが、視界の端に映った。
高速道路の橙色の強い照明が、車内をセピア色に染めている。
「このまま勤務を怠らずにいれば、数年でこんな車くらい買えるようになっているだろう」
「え……わたしスポーツカーなんて運転できないです」
「そういうことは問題じゃない。時間さえ合えばこれからも送って行こう。二、三度乗れば恐れ多いなど、決して思うこともないだろう」
「……」
「なぜ黙るんだ」
「いいえ、今でさえ実感が……。信じられません」
「すぐに信じるようになる」


そのとき、会長の携帯電話が、小さく鋭く鳴った。彼はハンドルを取ったまま、懐から取り出して耳に当てた。
相手は外国人らしく、英語で会話をしている。電話はすぐに切れた。携帯を懐に仕舞った彼は、きびしい横顔をしていた。
「……」
不意に訪れた沈黙に息を殺しながら、もしかすると、さっきまで和やかな空気が流れていたのかもしれないと思った。そのときは気づかなかったけれど、いまと比べてみれば、確かに打ち解けた雰囲気があった。
自分の膝に置いたバッグの取っ手をぎゅっと握って、会長から感じるピリピリした威圧感に戸惑っている。
自分にできることなど、彼の気に障らないようじっとしているだけなのだ。
ああ、こんなとき、片瀬さんならどう対処するのだろう。


かっち、かっち、と指示器のリレー音が車内に響く。
高速を下り、一般道への道へ右折するために、会長はハンドルを切った。そのとき生垣から自転車が飛び出してくるのを見越して、ゆるやかに車は停車した。自転車が横切り、車は再び走り出す。
「社員を採るときは人事だけでなく俺も面接に関わる。もともとスカウトか口利きでしか採らないためだ」
街中は夜空の紺色をしている。会長の顔は暗い影に覆われているが、カーブの具合で後続車の光が入りこむたびに、その美しい面立ちが照らされて目に焼き付いた。
「あるとき、経営規模を考慮して新たに部署を設けることにした。人員確保について、俺は当時日本を離れていたので、初めて人事だけに一任した」
「……」
「そのとき仮採用されたのがだ。きみの履歴書はファクスで送らせて見た。特に異論はなかった。こうして人事の希望できみの本採用が決まった」
コクッ、とギヤを入れて、車が停まった。
わたしが毎朝通勤に利用しているバス停の前だ。会長の車の中から見るわたしの街は、無機質で、人の気配がしなかった。もう遅い時間とはいえ、街中全体が眠っているかのようだ。車内の暖かさと、外の凍てつく空気の温度差が、窓硝子を白く曇らせている。


「俺は帰国した。後に働いているきみを見たときに、採用を止めさせるべきだったかと思った」
「なんでですか?」
「履歴書の写真では、は条件を適えているように見えた。だが実物のきみは違った」
「……」
よくわからない。話の内容も、それを話す意図も。
訝しく思うわたしは滑稽だったのだろう。彼はふっと笑ったが、口元が皮肉に歪むだけだった。
「採用の際、学歴や資格は考慮していない。むろん、能力は必要だが……一番重要なことは、御しやすいか、そうでないかだ。御しやすい人間を繋ぎとめて裏切らないようにすることは簡単だからだ」
「わたしは、御しやすいほうだと思いますが」
「だがきみは、いざというとき逃げ出すだろう。その点、野心さえあれば、人間、何でもしてくれるようになる。金と共に、プライドを持たせればいい。野心家には金とプライドが命より大切だからな。そのふたつが整えば、簡単に服従させることができる」
「……」
「きみには野心がない。安穏と育った若い世代に多い人種だ。それなりの生活で満足でき、罪を犯すくらいならその前に自白しそうな、それでいて大衆の意見が絶対正義の日和見主義の連中。それを美徳とする社会もあるのだろうが」
「……わたしに退職を促しておられるんですか?」
「仮にそうなら、こんな話はしない」
それじゃ、なぜ?
話の続きを待っていると、彼は、奥歯を噛み締めるように頬を強張らせた。
睫毛の一本も乱れがない顔に、丸い月の光が掛かっている。
「そんなきみに、いまでは少なからず信を置いていることに驚かされる」


まばたきを繰り返す、ぱち、ぱち、という音が、自分の目蓋から聞こえてくる。
涼しげな目元の、青白い目に、細い睫毛の影が落ちている。
鼻の付け根によせられた痛そうなしわ。硬そうな頬。…月の光と影を浴びながら。
会長は目を伏せ…表情を苦痛に歪ませる。
…その顔を、愛しいと思った。


「ありがとうございます。とても光栄です」
棒読みに響いた自分の声は、動揺を押し隠しているからだ。彼はハンドルに手を掛けて横目でわたしを見た。
「ずいぶん回りくどくなった。あすも頑張ってくれ」
「はい」
その一言で、わたしも簡単に服従してしまいそうだ。野心がなくとも、よっぽど御しやすい人間ではないか。
だが彼の言うとおり、人を殺せと言われればわたしにはできない。彼の望む服従とは、そういうことなのだ。


「…でも、なんだか夢みたいです。なにか成果を残したわけじゃないのに、そんなふうに思っていただいたなんて」
「目に見えた業績の出ない業務ではあるが、についての報告は耳にしている。真面目にこなしてくれていると」
「……」
もう隠しておくことはできなかった。
わたしは、恥ずかしくて、真っ赤になっていた。
薄暗いが、表情にまで出ているのがすごくわかる。
会長は、そんなわたしを見て驚いたらしい。
なぜか彼まで不機嫌そうに、顔を歪めるのだった。


「ありがとうございます、ご期待に沿えるよう一層努力いたします。それじゃ、そろそろ……」
「ああ。あすもそばにいてもらうが、宜しく頼む」
「はい。あの──車の乗り心地最高でした。外車の助手席なんて貴重な体験でした。ありがとうございました」
冗談めかして笑って言うと、彼は真顔でわたしを眺めていた。
わたしの声が車内にしんとこだまして、気まずい。
「また送る機会もあると言っただろう」
「ええ、でも、思ったことをお伝えしただけです」


「そんなに大した車じゃないんだがな。きみはこれを俺のプライベートルームだとでも思っているようだが、普段から女を乗せているような代物だ」
「え……、」
「もう行きなさい。また明朝会社で」
「あ……はい。ありがとうございました。失礼いたします」
ぺこと頭を下げて車を出てから、もう一度頭を下げた。
車は、わたしを乗せていたときよりもずっと速いスピードで、奥深い夜の中へ消えていった。


家に帰ってから、お風呂に入るために髪をほどいた。
ふわりとシャンプーの香りに混じって、会長の車の中の空気が封じ込められている。
あの温度、あの湿度。
自分の髪に鼻をうずめて、あの助手席から見た情景を克明に思い描く。
片瀬さんも乗っているのだろうと思うと、喉の下がちくちくした。