仕事部屋で通常業務をこなしていると、『さん、会長がお呼びです』とコールが掛かってくる。
その呼び出し先は会長室であることが常であったが、きょうはトレーニングルームだった。


「会長、です」
ノックしてから、「入れ」という声を確認し、扉を開ける。一礼し、「失礼いたします」と言い、扉を閉める。
この一連の流れも、このところすっかり板についてきた。会長をとても恐ろしいと思っていたかつては、なにか粗相をしでかしはしまいかと気が気でなかったけれど……だが会長を直接恐ろしいと思う認識は薄れたが、お傍につくことが増えるにしたがって、彼の仕事の鬼ぶりを間近で見ることになり、別の形で畏怖の念が強まった。
室内は湿度が高かった。
顔を上げると、会長がバスローブ姿だったので、すこしだけ動揺する。
これも、かつてであったら、取り乱した気持が表に出ていたかもしれない。
(……トレーニングルームなんだから、当然のことだけど)
わたしが慌てる必要なんて、一切ないのだけど……


「できただろうな」
「はい。」
「寄越せ」
「はい、こちらです」
フー……、と胃の底から細く長くため息をついて、タオルで髪をぬぐった彼から、植物を思わせるシャワージェルの香りがした。シャワーを浴びたばかりらしく、湯気と熱気が伝わってくる。
「……」
ノートパソコンの液晶を眺める横顔が、わたしの頭の上にある。
目元は、視界に映っていない。その下から。高い鼻筋。無表情なくちびる。皮膚の薄い頬と顎。
目線を変えず、パソコンを眺めるふりをして、視界の端で彼を見ていた。
……とても近い。息遣いが、感じられそうなほど。
「……よし、いいだろう」
声を発する前に、息を吸う気道の音が、聞こえてくる。
右の頬が熱いのは、彼の体温がうつるから。


「……」
わたしを見下ろす冷たい瞳と目があったとき、まずい、と思った。
抑えていたのに、動揺が顔に出てしまう。
急いで目を逸らしたが、かえって逆効果だった。しかもその間も、すぐ隣に会長がいるのだ。
「……、では、わたし、戻って続きを──
「……震えて、どうした」
「!、 いいえ、べつに」
……。
かあ、となる。顔から火が出そうだった。
さっきは、会長にも慣れてきたと思っていたけれど、わたしなんか、まだまだだ……。


わたしの手のひらに収まるサイズのマウスが、会長の手の中にあると、子ども用のそれみたいに見える。ごつごつした、骨と血管の浮き出た褐色の手。彼がかち、かちとマウスボタンを押すたび、心臓にどき、どきと響くようだ。
「この数字を訂正してくれ」
「はい」
かちかち。
訂正箇所を拡大したあと、彼は無言でわたしにマウスを譲る。
会長の言ったとおりだ。わたし、震えている。
マウスに指を添えると、そこは微かな手の温度が刻まれている。鼻腔にはずっとシャワージェルの匂いがするし、耳や横顔には会長の湿度と気配とが直接伝わってくる。目を頭上斜め右にやれば、彼の端正な顔があるだろう。だが、そこは決して見ない。
こんなに近くで見てしまったら、きっと心臓が止まってしまう。


──普通にしろ。なにも、そこまできみがやる必要はない」
「……」
会長の視線が、液晶画面からわたしに移されたのがわかる。
肌に視線が突き刺さる。その気迫に負けてしまいそうになる。ぴんと意識を張り詰めて、いま彼が洩らした言葉を反芻した。
「……なんのことでしょうか?」
「純情ぶった演技や媚態は結構だということだ。女は、すぐそうやって見せる」


貸せ、と淡々と言ったあと、会長はわたしからマウスを取った──ここも修正を頼む。グラフと連携しているな。よし、これでいい。
……一瞬、会長の言葉が頭をするするとすり抜けていった。
ぴんと張ったはずの意識がたゆんでしまった。すぐに息をすこしだけ止め、小さく深呼吸した。
ああ、……この人はきっと、恋なんてしたことがないのだ。


そのとき、扉をノックする音が響いた。
会長は、わたしから体を離し、「入れ」と言った。電話が掛かってきたらしく、その場で受け取って手短に会話をしている。
そのあいだにすっかり、わたしの心は落ち着きを取り戻した。
会長みたいに、無表情になっているのが自分でもわかる。


会長はすごいなあと思う。ほんとうに、なんでも効率よくできてしまう人だ。
会長にかかれば、手下の不埒な興奮など、一言で鎮火されてしまった。




*




部屋で仕事をしていると、会長の側近から相談がと呼び出された。
角型二号サイズの玉紐のついた封筒を渡されて、これを会長に届けてほしいということだった。
さる企業から株式に影響を与える書類らしい。それ以上の情報は側近の男性は口を噤んだが、ニュースで叩かれているあの会社だなとぼんやりと事の重大さを想像した。
会長はいま、片瀬さんを連れて会食に行っている。ホテルの半立食とのことなので、さっと渡しに行くことは容易であろう。
わたしは請け負い、早急にホテルに向かった。


ひとり、ホテル内を早足で歩いていく。
レセプタントの気品ある女性と通路ですれ違った。厚くふさふさした絨毯と白漆喰の壁。かちゃりかちゃりと食事する音。あちこち歩き回る給仕。来賓は立ったり坐ったりしている。声がさざなみのように響いてくる。
大きな扉をすこしだけ開けて会長を捜すも、見当たらない。
諦めてロビーのほうへ歩いていくと、曲がり角の向こう、大きなバルコニーでたばこを吸う姿がそこにあった。


「会長」
「……」
振り向いた会長は微かに嫌な顔をしていた。
わたしを認識したあと、無言で視線を景色に向ける。
細い紫煙が、風のない夜空に上っていく。バルコニーの下はバロック様式のばら園になっており、金色にライトアップされている。その光が届いて、彼の顔を下から照らしている。
「こちらを会長に届けるようにと言付かって参りました」
差し出すと彼は受け取り、中の書類を一瞥してから、また仕舞った。携帯を取り出して、どこかに電話する。その相手が片瀬さんであることを、わたしはうっすらと感じ取った。
電話を切ってから、彼はたばこを棄てた。
「ご苦労だった。社に戻る」
「はい。片瀬さんは?ホールにもいらっしゃいませんでしたが」
「接待で見送りをしていた。いまは車を手配させている。あと五分かかる」


こつん、と薄く細い革靴が足音を立てる。彼は、手すりづたいにバルコニーをすこし歩いた。
真冬の夜空は漆黒だ。それなのに会長は、スーツの姿に薄い光を帯びているように見える。ライトアップの光。きれいだなあ、と思った。
「あすは出勤するのか」
だしぬけに彼が言う。わたしは、はい、と答えた。あすは土曜日だが、休日出勤するつもりだった。
「休みを取らないのはよくない」
「立て込んだ案件があるので。会長こそ、毎日出勤しておられます」
「あれは俺の会社だからだ。負担にはならない」
彼はくちびるを閉ざし、ばら園を見下ろした。
わたしもなんとなく傍に寄り、同じようにばら園を見下ろす。
光に照らされたばらは、石膏でできているかに見えた。だが、生々しい香気が匂ってくる。
さっきは一切香ってこなかった。風が吹いてきたらしい。


「いい香りですね」
「……これは花の匂いか」
と彼は言った。
「きみの香りかと、思った」


冷たい風が、そよと会長の髪を一房乱した。
険のある目元が、いまは安らいでいるかに見えて、わたしは見とれてしまう。
わたしの視線に気づいて、彼が顔を上げる。
目が合ったあと、ふたたび視線をばら園に下ろした。


(五分かかると、彼は言った)
時計を見ると、あと二分。


あと二分だけ。
仕事を忘れても、許されるだろうか。
そんな期待をこめて。“あと二分だけ”が、できれば永遠に続けばいいと、願った。