しばらく身構えるまでもなく、峯会長とは何の接触も起こりえず、時間は過ぎていった。
ときどき、ホールを歩いていると、会長と片瀬さんが横切るのに出くわしたが、それはわたしには関係のないことだ。
電車の窓に映る、疲れて十歳くらい老けて見える自分の顔。乾いた目とむくんだ脚とズキズキ痛む頭。家に寝に帰るだけの生活。ときおり、幻影のように会長への想いが胸を蝕む。
それを打ち払うように、仕事を頑張った。


その日は本社ビルで慰労会が催された。
入社以来初めてのことだ。有用な人材を引き抜いてきたときはお祝いをしたけれど、その際はシャンパン一杯でしめやかに執り行われただけだった。
こんなふうにワイワイやることは会長がお嫌いなんだろうと思っていたけれど……意外。
……だがその場に会長の姿はもうなかった。
やっぱりお嫌いなんだろうか。
お世話になった上司や同僚にお酒を注ぎに回ったら、わたしもかなり飲まされた。そのぶん、いろんな人と近しくなれた気がする。
一番居心地のいい輪に混じって立ち話をした。ストレス解消の話で長らく盛り上がった。
「抱擁はストレスが大部分解消されるらしい」と言っていたとき、後ろから──「なんだって?」という声が聞こえた。


一言でしんと静まり返る、水を打ったような声。
振り向くと会長が真顔で立っていた。
すごく久しぶりに近くで見た。記憶よりも美形で驚いてしまう。


「会長。いえ、すごくつまらない話なんです。抱擁することでオキシトシンが出て、ストレスが減るとか……」
「きみは試したのか?」
「え?いいえ……まだ」
会長はくちびるを歪めて、こわい顔で一笑した。顔を伏せ、「誰が相手でも効果が出るわけではなさそうだな」と低い声で言った。
「たぶん、そうでしょうね……あの、シャンパン取ってきましょうか?」
「いや、結構だ。このぶんではまだ続きそうだな。あとは好きにやっておいてくれ」
「会長はもうお帰りに?お車を呼びます」と部長が声を掛けた。会長は「ああ。車で来ているから手配は不要だ」と軽く答えたあと、ちらとわたしを一瞥した。
どき、とする。
胸がびっくりしてぎゅうと締めつけられるのを誤魔化して、わたしは真顔を取り繕った。


。すこし話がある」
「……? はい」
言い捨てたあと、歩き出した会長に付いていくと、会長室に行きついた。
「失礼いたします」
中に入り、彼は会長席の大きな革張りの椅子に坐る。わたしは向かい合って立った。
(話って一体なんだろう)
この部屋は相変わらず時間が止まったようだ。
なにもかもが静かすぎる。音がひとつも聞こえてこない。
そう感じるのは、会長と一対一でいるからなのだろうか。


「もうずいぶん前のことになるが、俺がなぜ東城会にいるか、訊いたそうだな」
「……!」
なにを言いだすのだろうと思えば、予想だにしていないことだった。
たしかに、以前運転席の同僚に訊いた。でも……世間話のことだ。本人も忘れていたような。
「それだけではない。業務中の検索履歴を見たが……どうも週刊誌に感化されているようだ」
「……」
「なにか嗅ぎまわっているのか?」
「いえ……とんでもございません、」
……そんな誤解を、受けてしまうなんて。


心臓が激しく鼓動している。
会長は無表情の瞳でわたしを眺めている。いつもどこか違うところに向けられている瞳が、いまは確かにわたしに向けられていた。
見透かしている瞳。
まるで、丸裸にされた気分だった。
とても生きた心地がしなかった。
「わたしがそう訊いたことは確かですが、そんなつもりは一切……」
「そうだろうな。わかっている」


ようやく、会長は目を背けてくれた。
だが、わたしにはまだ血の巡りが、ひとしずくも戻ってこない。
「ただ大げさに話が聞こえてきたので、確認させてもらった」
「……いえ、誤解を招くことを仕出かしました。申し訳ございません」
お酒の酔いなど、一気に飛んでいってしまった。
わたしが青褪めた顔をしているのを見て、会長は一瞬だけ、苦い顔をする。


「きみに他意がないことなど、わかっていたことだ」
「……」
「それから……今回の功労者に名を挙げなかったが、これを」
彼はスーツの懐を探ったあと、会長席の机の上に、帯封のしてある札束を置く。
そしてわたしに突きつけるように、すっとこちらに向けた。
短く整えられた、四角い爪のその指先で。
引っ掻かれたわけでもないのに、ひどく傷ついた気がした。


が以前に増して意欲的であるという報告がある。ご苦労だった。この調子で続けてほしい」
「……はい、ご期待に沿えるよう頑張ります」
突っ立ったままのわたしに向けられた会長の視線が、蔑んだ眼差しに変わる。
「金を受け取るのは苦手か」
「いいえ、いつもお給料を頂いている身です。でも……こんな大金」
「フロント企業に勤める代償だ。口封じも兼ねている。取っておけ」
「……ありがとうございます」


機械的に受け取ったあと、わたしは会長室を後にした。
女子トイレに入って、個室の中で鍵を掛けた。
握りしめたきれいな札束を見下ろしながら、胸の近くで詰まったみたいに苦しいところに手を当てる。
──混乱して、なにがどうしてこんなに悲しいのか、わからない。
ただとても恐ろしかっただけなのかもしれない。
悔しいという気持もあるけれど、一体何に対してなのだろう。
それすらも、わからない。
だけど、こんなことで挫けてはいけない。
あの人に惹かれるということは、こういうことなのだ。




*




年が明け、正月休みが始まった。


わたしは休み期間中も会社に出ることにした。
会長も出勤して業務にあたっているらしい。駐車場に、会長の車が停まっているのが毎日見える。
普段彼は会食や会合に追われているので、休み期間中にまとめて通常業務をこなしたいのだろう。
正月期間なのでさすがに社内に人気が少ないけれど、ビル内に警備のためなのか、白峯会の本職の人間が頻繁に出入りしているようだ。
最近……なんとなく物々しい気がする。
遠くから見かけた会長はいつも、険しい顔をしていた。
嫌な予感を胸に秘めて、それでもわたしは日常をこなしていくだけだ。


仕事に一区切りつけて、帰ろうと部屋を出た。時計を見ると、まだ二十時にもなっていない。
(……会長はまだ、いるのかな)
お茶くらい出してから帰ろう。
そう思ったのは、単に顔が見たかったから。
熱いコーヒーを淹れて、会長室の扉を叩く。
応答はなく、しんと静まり返った静寂だけがわたしに返ってきた。
(あれ、いないのかな)
扉は床と密閉していて、光もなにも漏れてこない。
諦めて帰ろうとしたとき、「入れ」という声が、掠れて聞こえてきた。


「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」
扉を開けると、ふわ、とたばこの匂いがした。
会長って、たばこ吸う人だったんだ。
そんなことを思ったあと、部屋の中が薄暗いことにも疑問を抱く。
会長席のデスクライトだけをつけて、革の椅子に坐っている。
ブラインドから、街の光が細く射しこんでいる。
会長はいまはたばこを吸っていなかった。彼の手元に、吸い殻の入った灰皿が置いてあった。


「会長、あの……」
か」
声で判断したのだろう。
彼はわたしを見もせず、うつむいて黙りこむ。
なぜだろう。なんだか弱っているように見える。
疲れていて、傷ついているかのように──


「正月だというのに、えらく仕事熱心なことだな」
「会長。お顔色が……」
「……こう暗いのに顔色なんて見えるのか」
「はい。なんだか……」


人でも殺してきたのではないか。
そう思ったのは、彼の卓上、灰皿の傍に、銃が一丁置いてあったからだ。ただの護身用であることを祈るけれど……ふしぎと恐ろしいという感覚はなかった。
わたしは、銃の傍にコーヒーを置いた。
会長はうつむいている。彼はひとりになりたいのだろう。
だがひとりにはしないほうがいい気がする。
それも、わたしでは意味がない。誰か、彼にとって必要な人でなければ。


「なんだか、……なんだ。続きを言え、どう見える?」
「……なにかお悩み事があるように見えます」
「……そうか」


小さくそう肯いて、彼は目を伏せる。
…端正な顔立ちに、前にもまして意志的な強張りを感じる。
意図的に思案にふけっているかのような、わたしに踏み込ませない、近寄りがたい威圧感を発している。
「会長はとてもお疲れでいらっしゃるのではありませんか?」
「……」
彼は、下ろしていた目蓋を持ち上げた。暗い大きな瞳。光がなくて、水に沈んだガラス玉のようだ。
「もうお帰りになって、休まれたほうがよいかと思います」
「きみのことだ。差し出がましいことを言っていると承知の上での忠告だろう」
「はい」
「……」
会長は低く笑った。
それは以前にも見た、歪んだ笑みだった。
「抱擁がストレスの解消になると言っていたな」
「はい。試されてみても、いいかもしれません」


無表情を装うと、心も無感動になる。
しかし、肌は違うらしい。──明らかに会長はいつもと違う。──その異変さに、首筋の肌にぞわぞわと粟立つものがあった。
会長は、机に手をついて立ち上がった。
坐っているときは彼の大理石のような顔を、デスクライトがやわらかく照らしていたが、立ち上がると光が届かず、黒い人影がそこにあるだけだ。ライトの照った部分だけスーツの鈍い色が確認できるけれど、ほかの色はすべて暗闇に沈んでいる。
美しい容貌が見えなくなると、その人影は突然粗野なものに感じられた。
備えられた仕草のスマートさや知性が拭われて、手負いの狼のように。
人影は、ゆっくりこちらに歩いてきた。
こちらに歩いてきながら、卓上に滑らせた手が、銃をがちゃりと取り上げる。
スーツの懐にそれを忍ばせて、わたしにだんだん近づいてくる。


わたしには彼がただの人影にしか見えないが、彼からはわたしの表情はよく見えるのだろう。
いつもは目を逸らす彼が、わたしの顔をじっと見つめているのがわかる。
自分の五感のうち、触感だけが機能していた。
視線が顔に刺さる感覚。
やがて、嗅覚も、人影の存在を認知する。
淡い、石けんかジェルと、たばこの匂い。



「はい」
……抱きしめられたら、きっと死んでしまう。
気道が震えていて息苦しいが、それでもわたしは冷静なふりを続けていた。
むしろ、本当に冷静だったのかもしれない。体はこわがっていても、頭では会長の動向を探っているのだから。
「……」
会長はわたしをじっと見つめていて、なにか言いだそうとしたまま口を噤んでいるようだった。
息を殺す気配が、小さな喉の音になって聞こえてくる。


「……忠告どおり、きょうは休ませてもらう」
ようやく響いた言葉がそれだった。
「……はい」
力なく肯くと、会長は顔を背けて再び黙っていた。わたしの反応を待っているようだった。
彼が横を向いたことで、ブラインドごしの細く鈍い光が尖った鼻筋を照らしている。
……いつもの会長だ。
スマートで知的で、感情のない会長。さっき、顔が見えなかったときは、すべてが剥き出しになっているかに思われた。殺気が自分に向けられている気がした。
そんな数秒前のことがもう、まぼろしであった気がするほどに、いつもの会長だった。


「やはり、顔色一つ変えないんだな」
「……」
「なるほど優秀な部下だ」
微かに自嘲するように言い添えて……彼はわたしを通りすぎ、かつ、かつ、と革靴の音を鳴らして、コートスタンドから上着を取った。ドアノブに手を伸ばしたとき、する、と衣擦れの音がした。
「先に失礼する。ご苦労だった」
「……はい。どうかお気をつけて」


会長は振り向きもせず扉を開けて出ていった。扉が音もなく閉まる。
彼の足音を聞きたくて耳を澄ませたが、防音処理や通路の絨毯が高品質で、それらしい音は聞こえてこない。
わたしは、しばらく立ち尽くしていた。
自分に何が起きたのかを、考えていた。
“やはり、顔色一つ……”
やはりって……なにがやはりなんだろう。
わたしは、動揺が顔に出やすいほうだと思う。そのことは彼も気づいているだろう。
「……」
デスクライトの電源を落とし、すっかり冷めたソーサーとカップに手を伸ばして、一度も手を付けられなかったそれと、灰皿を持って給湯室に向かう。
洗い物をして自分の仕事部屋に戻り、コートを着てバッグを肩に掛けた。


くちびるに紅を差そうとコンパクトの鏡を覗きこむと、疲れ果てて蒼褪めた自分が映っていた。
血の気がなくて、無表情で、冷酷そう。
こんな顔をしていたなんて……感情が出ないように武装している顔。
まるで、会長のようだ。


会長は、これを常にキープしている状態なのだろうか。
だとすれば、どんなに苦痛なことだろうと、ぼんやりと想像した。