日曜日の、朝。 いつのまに眠っていたのかはわからない。眠れなくて何度も寝返りを打ったことは覚えている。気がつけばカーテンの隙間を縫って、青白い光が、ほの暗い闇に一条の直線を投げかけていた。 わたしは、携帯電話を握りしめたまま眠っていたらしい。しかし何のメールも着信もない。峯さんから、キャンセルを告げる連絡があるのではないかと恐れていたが、どうやら杞憂に終わったらしい。 ベッドを下りて、カーテンをたぐりよせる。さ青の光が家々の輪郭を包みこんで、凍りついた湖のように広がっている。 この町のどこかに、きっと彼はいる。そしてこの景色を、同じように眺めているかもしれない。 毎朝みるこの景色を、こんなにきれいだと思ったことはなかった。きょう、彼に会えるのだ。 服はなにを着ようか、化粧や髪型はどうしようか。悩みぬいていたけれど、正解なんてわからない。鏡の前で笑顔を作ってみたり、髪を何度も梳きなおしたり、ハンカチに念入りにアイロンを掛けたり、そうこうしているうちに、約束の時間が近づいてくる。 夕方、母が出汁を温めている背後を通って、家を出た。 玄関を出ると、ちょうど大通りを曲がって、彼の車が見えてくる。 それは門の前で停まった。 ウインドウが下がり、不機嫌そうな顔があらわになる。 「乗ってください」 と彼は一言だけ告げる。 わたしはぎこちなく肯き、ドアを開けてシートに滑り込んだ。 車の中は、清潔な匂いがした。 峯さんが、運転席に坐っている。 彼は、わたしがドアを閉め、シートベルトをつけている様子を、苦い顔で見守っていた。そうして、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。 「峯さん、きょうはありがとうございます。お仕事の後でしょうか?」 「ええ、まあ」 低くて、怒ったような、声。 実際怒っているのかもしれない。この緊張感を懐かしくさえ思うのは、きっと浮かれてしまっている証拠だ。くちびるを噛むと、リップグロスの味がする。冷静に、冷静に。焦ってはいけない。すぐにぐちゃぐちゃな気持になってしまうから。 「どこかパーキングにでも入りましょう」 「ええ……峯さんはこのあとご予定が?」 「ええ」 「……」 峯さんの瞳が、前方を横切るバイクを追う。まばたきをする。きれいで、暗くて、こわい横顔。すごく不機嫌そう。 まず間違いなく迷惑を掛けてしまっているのに、わたしったら、なにをはしゃいでいるのだろう。 やっぱりデートではなかった。峯さんは配慮してくれただけなのだから── 意気消沈しつつ、でも、そんなことで落ち込んではいけない、とも思う。期待するべきではなかったのだ。峯さんは仕方なくわたしに車を貸してくれるだけなのだ。……慎み、大人、礼儀、という言葉が脳裏を過ぎる。それはいったい、どういうふうにすれば守れるのだろう。わたしは、それをどこかに置いてきてしまった。 「あなたこそ今夜はどうするつもりですか?行動範囲を広げたいと仰っていたが」 「あ……わたし、特に予定は立てておりませんの」 「予定はない?本当ですか」 「ええ。気ままに運転できればと思います」 「そうですか。食事にでも誘いたいと思っていたのですが」 峯さんはルームミラーを覗きこみ、後続の車を伺っている。わたしは、彼の言葉にドキッとした。それは願ってもないことだ。だが、彼は言葉をつづける。 「残念ながらそれはできそうにない。それにたぶん、あなたも今夜は運転を諦めたほうがいい」 「え?なぜ……」 「どうも町の様子がおかしい。五次団体の雑魚同士揉めているらしいが、その件でしょう」 「……」 「姐さんやあなたの住む界隈までこの有様か。全く……お兄さんの御心労はいかばかりかと察し致しますよ」 「たしかに、なにか物騒な雰囲気ですね」 「ええ。とにかく、もう少し流しますよ」 「……」 「……」 車はなめらかにカーブし、人気のない裏手に入っていく。 あれだけ自制心を呼びかけていたけれども、いまになって突然、冷静になってしまう自分がいる。現実を見たからだ。わたしは、極道一家の娘だった。いままで、何度も、努力したり、夢を持ったりしたけれど、その現実から逃れられたことはない。わたしは、ため息を飲みこんだ。なぜきょうだけは忘れてしまっていたのだろう。どうしようもないことだったではないか。そのおかげで、こうして暮らせているのだから。そして峯さんは、いまや堅気なのだ。なんのしがらみもない、幸福になってしかるべき人なのだ。 「気分が悪そうですね」 「大丈夫です」 「そんなふうには見えませんよ。どこかで休憩したほうがいい」 車は、いくつかの町をこえ、見知らぬ土地を走っていた。たぶん港区の外れだろう。外国人向けの、小さいが壮麗なシティ・ホテルが見えてきて、峯さんはそこでウィンカーを切った。 まさか入るのだろうか、と思う間もなく、車体は地下駐車場にどんどん吸い寄せられていく。 「一室取ってきます。中で休みましょう」 「はい──」 峯さんは車を降りて行ってしまい、そしてすぐに戻ってきた。 わたしたちは、フロントに直通している正面ではなく、裏口からそっと入った。そして、エレベーターで最上階に向かった。峯さんもわたしも、ずっと無言を貫いている。 もしわたしが普通の家庭で育った娘であれば、きっと正面から堂々と入ったであろうし、そもそも、ホテルに人目を忍んで入る必要もなかっただろう。 取ってくれたのは幾何学的な模様のしつらえがある、美しいスイートルームだった。 わたしはジャケットを脱いだが、峯さんはシャツのボタンひとつ緩めることもせず、窓ぎわに立った。このあたりは、たそがれは早、去ってしまった。バルコニーの柳の枝が、水中で藻掻く髪の毛のように揺れている。風がいやに強いらしい。 コーヒーを用意して、窓ぎわに立っている彼に渡す。小さく会釈して肯くが、その視線は窓下に向けられてばかりいる。 「あなたは、こちらに近寄らないほうがいい」 「……誰かに尾けられていますか?」 「いや、大丈夫です。ただ、窓べはなにがあるかわかりませんから」 「……こちらにきて、坐りません?」 「私にはお気遣いなく。あなたはすこし休んでいてください」 「でも……」 「姐さんには既に連絡していますよ。事情はすぐわかってくださったのでご心配なく」 「……」 わたしは、彼が窓べから梃子でも動かないことを知り、あきらめてソファに坐った。 コーヒーは苦くて、美味しくなかった。 人に迷惑ばかりかけて生かされている。 やっぱり、峯さんとは一緒にいないほうがいいのだ。 * 聖書を手に取ってみたり、テレビをみたり、時間を潰して過ごした。 峯さんは相変わらず窓べに坐っている。食事はルームサービスを取り、彼はそのときだけはソファに坐ってくれたが、また定位置に戻ってしまった。そしてタブレットPCの液晶画面に顔を照らし、けわしい顔をしつづけていた。 わたしは、まるで自宅でそうするように入浴し、化粧もすっかり落として、髪を乾かしてベッドに横になった。それが峯さんに対してわたしができる、最大の配慮だと思ったから。 それと同時に、もう彼の好意を得ようとするのはやめにしようと思った。 化粧や服を気にするなんて、まったく無意味なことだ。 好きだからもうやめる。 こんなに迷惑を掛けて、そのうえ好意を押し付けることはできない。 好きだからもうやめる。 もうこれきり会わない。 もっと早く気づくべきだった。 こんなに、大好きなのだから。 額まで布団をかぶって、気付かれないよう涙をぬぐいながら目を閉じた。 頭がひどくズキズキするのだ。…… 次に目を開けたとき、室内の電気は消されていた。 どうやら、すこし眠っていたらしい。 いま何時なのだろう?濃紺の闇に沈んだ、暗い天井だけが眼前にある。 「……」 体を起こすと、窓べに坐る峯さんの姿が見えた。 窓を見ているのではない。 じっと、暗闇から、わたしのことを眺めていた。 「……峯、さん。……まだ休まないのですか?」 「……ええ」 峯さんは、まだわたしのことをじっと見つめている。 何の音もしなかった。時が止まったようだった。 彼は身じろぎもしないので、写真の向こう側の光景のように見えた。 そのくらい現実味を持たないのだ。彼の容姿が端整すぎるからかもしれない。 「峯さん。そこにいては、体を冷やします」 「いや、心配には及びません」 「……わたしに、近づかないようにしているのですか?」 「……」 峯さんは、なんとも答えない。 切れ長の双眸が、無表情であるにも関わらず、ひどく強い力を持って、わたしを見つめつづけている。 距離は、たっぷりある。 わたしと彼は、5メートルは離れている。 けれども、その瞳が、熱が、苦悩が、まるで直接からだに触れているような気がした。 彼はわたしを見透かそうとしている。わたしがどのような状態であるのかを、冷静に、そして熱心に、追求しているのだ。 「そこにずっといると、体に毒ですよ。傍にいるのが気になるのでしたら、わたし、ソファに坐っています。峯さんは、ベッドでどうぞ休んでください」 「疲れたら勝手にそうしますよ。あなたはそこで休んでいてください」 「でも、もう眠れないような気がしますから、起きます」 ベッドから下りて、ナイトローブにガウンを羽織ってソファに向かう。 峯さんはもう、わたしを見るのをやめて、窓下を見下ろしている。 ずっと同じところに坐りつづけているのだ。疲れないわけがない。 なぜわたしに近づかないようにしているのだろうか? わたしが怯えるとでも思っているのだろうか? わたしが近づけば、彼は窓から離れるのだろうか? 「……なにか見えますか?」 ソファから窓べに踏み込み、一歩ずつ近づいてみる。 峯さんは動かない。 もう一歩近づこうとしたら、彼が突然立ち上がった。 「言ったでしょう。窓べに近寄らないようにと」 「!……」 左手が痛い。気がつくと、峯さんにしっかり掴まれてしまっている。 わたしは、左腕に力を入れたが、それは、びくともしなかった。 峯さんの手は汗で微かに湿っていた。 「あなたの姿を誰かに見られたら、どうなると思いますか?それに──」 「……」 「私にもです。そんな恰好で男に近づいてはいけない」 手は、するりと離される。 峯さんは、ぷいとわたしに背を向けて、また窓べに腰を掛ける。 わたしは、自由になった左手を、ぎゅっと握りしめた。 冷静に、冷静になれ。だが、もう遅い。 気持がぐちゃぐちゃになってしまった。 「……」 「……」 「あなたには話していなかったが、あなたの自宅近辺で発砲事件があったらしい。ちょうど私と合流してすぐのことです」 「え……そうなのですか?」 「ええ。だからまだ暫く、自宅にはお送りできない。いまは休んでください」 「どの勢力が?母は無事ですよね?」 「勢力というより、どうも半端者同士の抗争らしい。大吾さんもこの件に関与される気はないそうです。警察が捕まえるか、東城会がカタをつけるか……朝まで掛からないでしょう。姐さんはご無事ですよ」 「………」 「ところであなたは、きょうはずっと顔色がよくないですね」 わたしは、くちびるを噛んだ。もう自分を守ってくれる化粧の味はしない。すっかりすっぴんなのだ。もう取り繕うことはない。 ぐちゃぐちゃになった気持の分解を試みる。 ただ、謝りたかった。 彼に多大な迷惑を掛けているという罪悪感と、自分は彼を巻き込んでしまうという無力感と、それから、なにか不吉な予感と。 謝っても、峯さんに対して何一つ報いることはできないだろうけれども。 「いえ、そんなことはないんです」 「そんなことがあるから言っているんですがね」 「体調はいいんです。ちょっと緊張しただけですから……」 「あなたが緊張する理由など、なにもないだろうと思いますが」 「ええ……峯さんは、いつも気を張ってわたしを守ってくださってますもの。わたしが緊張する必要はないんです、けれど……」 「……」 峯さんは、ゆっくりわたしに振り向いた。 シャープな、締まった顔、きりりとした双眸。 彼が美しければ美しいほど、惹かれれば惹かれるほど、胸が苦しくなる。 わたしはもう、峯さんに負担を強いたくない。 だから、もう会わない。 これきりだ。 これきりにすべきだ。 こんなに、好きになってしまったから。 こんなに、幸せになってほしいと思うほど、誰かを好きになれたから。 「なぜ、そんな顔をするんです」 暗闇の中で、そっと呻くように、低く、彼のくちびるが囁いた。 わたしは、どんな顔をしているのだろう。自分ではよくわからない。 峯さんのほうこそ、そんなにこわい顔をしないでほしい。眉間を寄せて……そんなふうに目を吊り上げて。 「あなたは極端なところがあるらしい。お兄さんにも言えることですが。危うさを感じますよ」 「……そうですか?」 「こうと決めれば、猪突猛進してしまう。しかし根が善良なために、他者から見れば考えが明け透けです。そいつを悪人に利用されちまうリスクがある。悪人というのは、常に他人の罪悪感を突っついて操ろうとしている。善良な人間ほど罪悪感に弱いものですからね」 「わたしは善良じゃないんです。それに、悪人なんて、周りにいませんもの」 「……悪人なら」 「……」 「いると思いますよ──ここに」 彼の大きなてのひらが、わたしの頬に伸びてきた。 そうして、頬ごと顎を持ち上げると、もう片方の腕が、わたしをぐいっと抱き寄せた。 視界には、峯さんの双眸があった。 彼は、目を開けたまま、顔と顔を近づけた。 くちびるが触れる瞬間になって、かたく目を閉じた。 「!……」 くちづけは、 ほんの一瞬のこと。 くちびるの皮と皮が、さっと掠めただけだった。 でも、死んでしまうかと思った。 体の中枢から、後から後から熱情があふれて、このまま溺れてしまいそうだ。 「峯、さん──」 ほんの刹那的な接触が、わたしの体力を、酸素を、奪っていった。わたしの息は切れ、胸郭が、酸素を求めて上下している。頬が燃えるように熱い。 だが、峯さんは冷たい目でわたしを見つめている。 その苦いくちびるが、さっきわたしに触れたとは、とても思えなかった。 とにかく潔癖なくちびるをしているのだ。 「わたし……もうこれきりお会いしません」 「……。なぜです」 「峯さんを、巻き込みたくないから、です」 喘ぎ喘ぎつぶやくと、彼の目許がますます厳しくなる。 「馬鹿を言わないでください。最初に巻き込んだのは俺のほうだ」 「でも、峯さんはもう堅気になったんですもの。すべて済んだことです。でもわたしは、あの家の娘で、堂島の妹です。峯さんを、危険な目に遭わせたくないのです」 「……私がそれを、承知すると思いますか?」 あ……、 事態を飲みこむ前に、もういちどくちびるが降りてくる。 こんどはもっと深く、もっと長く、強く掻き抱きながら。指が、肋骨を掴んで食い込んでいる。 胸は胸に押し付けられ、頭は抱えられ、脚と脚は触れあっている。 ちゅっと音がしてくちびるが離れ、そのとき見上げた、吐息を洩らす彼の顔。 ぞっとした。 あまりにも、きれいすぎて。 「でも、……わたし、峯さんに、嫌われていると……」 「なんですか?」 「あなたに、嫌われていると、思っていた、んです」 「………」 「迷惑ばかり、掛けて……わたしの存在は、負担でしかない、って……」 「……確かに、私はあなたが嫌いです」 「……」 「だが、どうしても憎めない」 「……っ」 くるりと体が回って、壁に押し付けられる。 峯さんは、わたしの耳の下やうなじにくちびるを這わせた後、またキスをして、また目をみた。 くちびるに、彼のため息がかかる。 「軽蔑しますか?」 と彼は言う。 わたしは首を横に振る。 「………すまない」 そう、弱ったように呻いて、 またキス。 まるで言い訳するように、何度もくちづけした。 ふたりとも、同じ気持だった。 激情のままに、くちびるを貪りあった。 幸せだと思った。 いままで生きていて、一番強く。 突然、コール音がまたたいて、冷や水を浴びせられる。 峯さんはぴたりと動きを止めて、ややあってからわたしから体を離した。 携帯電話を懐から取り出して、わたしに背を向けて、また窓ぎわに立つ。 わたしは、羽織っていたガウンが床に落ち、ナイトローブが肌蹴ていたことに気づいた。いつのまにこんなことになっていたのだろう。驚きながらも、さっと身支度を整える。 さっきの出来事が夢みたいに、彼のほうはちょっとの乱れもないというのに。 「ええ、ご連絡どうも。ええ……もちろんご無事です。いまは芝浦のホテルにいますよ。ええ。宜しくお伝えください」 電話を切ると、彼は、不機嫌そうな顔でわたしを一瞥した。 「厳戒態勢は解かれたようです。ご自宅までお送りしましょう」 「……はい。着替えてきますね」 「ええ。バスルームへどうぞ」 バスルームで服に着替え、化粧を軽く整えてから部屋に戻る。 峯さんは、誰かにまた電話しているところだったが、わたしを見て手短に通話を切り上げた。 「行きましょうか」 「はい……」 いきなりすぎる事態に、まだ頭がくらくらしている。 くちびるに、まだやけどのような熱が残っている。 それなのに、ふたりとも真面目くさった顔で部屋を出ていくのだ。 車に乗り込んで、まだ暗い青色をした空の下を、ドライブした。 朝焼けの太陽が、ビルとビルの隙間から、針のように鋭く地上を刺している。 夜でも朝でもない、一日のうちでほんの限られた、特別な時間だ。 「例の件は片付いたそうです」 「そうですか。予想どおりでしたね」 「東城会直系の面々が仕切ったそうで。さすが仕事が早い」 「犯人たちは、警察に捕まったほうが幸せだったでしょうね」 「だが、あなたの家付近で発砲とは、場所があまりに悪い。同情できません」 車は、山手に向かって走りつづける。通りすぎた教会や、奇妙なオブジェは、既に過去となり、目的地にまっしぐらに進んでいる。 このままでは、これきり、になってしまう。 これきり、になってしまったほうがいい。 でも、なにか言わなくちゃ……と思う。 なにを言っても、すべて誤魔化しになってしまいそうで。 本当に言いたいことが、自分でもよくわからない。 「いまもまだ、もう会わないと思っているのですか?」 「……、」 突然見透かされて、わたしは驚いて顔を上げる。 峯さんは、朝焼けに目を細めている。 だが朝焼けよりも、彼の茶色っぽい睫毛と瞳こそ、まぶしく見える。 「私も、もう何度もそう思いました。先週あなたに会ってから、考えが変わりましたが」 アクセルをゆっくり踏み込んで、圧力で耳が痛いような気になる。 わたしはうつむいて、自分の手を見下ろしていた。 「峯さんが好きです」 ひどく涙声で、わたしは言った。 「好きだから、負担になりたくありません」 ビル街と山手を抜けた先は、すでに水色の明るい空が広がっていた。 ああ、夜が明けてしまった。 軽快に新聞を配るバイク便をすり抜け、車道を走り抜けていく。 峯さんは無表情で、まばたきをしている。 冷たい空気の中、彼の匂いを探り当て、胸がきゅっと熱くなる。 離れるのは、とてもつらい。 だが、キスしたこと、とても幸せだった。 その余韻だけで、残りの一生を生きていけると思った。 「さん」 「……はい」 「私も、あなたに執着している。……正直に言うと、惚れています」 「……」 「あなたを忘れたい」 走馬灯のように、 様々な思い出が駆け巡った。 初めて会ったときのこと。 視線がこわかったこと。 確かな軽蔑を感じたこと。 関わりが増えるごとに、とげが抜け、それでいて距離を置くようになった。 峯さんがいなくなった日々のこと。 去年、マンションにかくまってくれたこと。 ああ、きのうのことのようだ。 彼の苦悩を置き去りに、東京の景色は対岸の出来事のように、朝陽を照り返し豊かに輝いている。 わたしは、峯さんの横顔をじっと見つめた。 彼は視線に気づくと、ふっとくちびるを歪めた。 「じきにご自宅ですよ」 「はい」 景色は、もう見たことのあるものだった。馴染んだ土地、馴染んだ風、馴染んだ匂い。 そこに峯さんの気配はない。わたしの生活と峯さんは、別のものだから。切り離されたものだから。 車は、静かに我が家の門をくぐり、じゃりじゃりと丸石を踏んで、車寄せにそっと停車した。 大きな樹木が影となり、車内はほの暗い。音はやみ、沈黙が一帯の靄のように広がっている。 言葉が見つからない。 峯さんが好きだ。 他になにも伝えることがないほどに。 「さん」 名前を呼ばれて顔を上げると、峯さんがわたしを見つめていた。 睫毛の翳りを帯びた瞳は、彼の心を映しだしている。 いつもは完璧なポーカーフェイスに隠されている、その精神が、いまでは、わたしと同じ想いであると訴えかけていた。 峯さんは、わたしの頬に落ちた髪を耳に掛けた。その長い指が、わたしの頬に触れようとして、そのまま離れていく。 彼のためらいが、わたしに伝わってくる。 3年前のあの事件。だからこそ二度と、峯さんは堂島を裏切ることはできないと思っている。 わたしはわたしで、あの事件がきっかけで堅気になった彼に、解放されてほしいと思っている。 だからこそこんなに苦しいのだ。 「私は死んだ存在です。あなたを表立って幸福にすることは難しいでしょう」 「……」 「あなたが私ともう会わないという選択をするなら、それは間違っちゃいない。私もあなたの立場ならそうする。あなたには幸せになってもらいたい。だから……」 「……」 「これまでと同じように、あなたがこの家を出るまで──他の誰か別の男のものになるまで、私は陰ながら見守らせてもらいますよ」 峯さんは、穏やかな顔だった。 いつもの無表情な顔。だけど、いまになってやっとわかる。微かな、感情の表出。それは、瞳の動きや、まばたきの回数から、うっすらと察することができる。 なぜだろう? いつもは逆なのに、いまではわたしのほうが、きっと穏やかではない顔をしているだろう。 「わたしは、そんなこと望んでいません。わたしは、峯さんに、この家との関わりを断ってもらいたいんです。普通に、なんの遠慮もなく、自分の人生を生きてほしいのです」 「……」 「わたしのほうこそ、峯さんを表立って幸福にすることはできません。極道の娘ですもの。でも、峯さんは違います。堅気の、生きた男性です。だから……」 「もしあなたの言うとおりにするなら、いま、あなたを馬鹿正直に家まで送り届けはしませんよ」 「え?」 「このまま、無理やり俺の家に連れて帰っているでしょう」 「え……」 「……いまもまだ、迷っている。……あなたが、わけのわからないことを言うからだ」 「……」 峯さんは、やはり穏やかな顔をしている。 すこしだけ怒ったような型のやわらかな眉、鋭い切れ長の瞳、長い睫毛、高い鼻筋、薄いくちびる。それから、触れるのを恐れている、長くて優しい指先。 ひとつひとつが、わたしを思い遣っているような、優しさを感じさせてくれる。 一緒にいたい。 幸せじゃなくてもいい。 ずっとお傍にいたい。 確かに、自分でもわけがわからない。 わたしは、泣きじゃくりそうな気がして、ぐっと息を呑んで、自分を戒める。 峯さんのことが好きだ。 わたしは極道の娘だけれど、その気持を失くすことはできない。 「連れて、帰ってください」 半べそで、わたしは言う。 峯さんの眉がぴくりと吊り上る。 そして、小さくため息をついて、ミラーから外の様子を伺った。 「本気ですか」 「……」 「それが冗談でも、俺は……」 「本気です。そのことは、よく御存知でしょう」 穏やかだった表情が、すこしずつ険しくなる。 眉を寄せて、彼は渋い顔をする。 ハンドルに掛けていた指が、とんとんと叩いた。 「きょうは帰ってください。きのうの抗争沙汰の後です。あなたに乱暴な真似はできない」 「……」 「日を改めましょう。……あなたを大切にしたいし、私も冷静になれます」 「……約束してくださいます?」 「……」 峯さんは、ハンドルに掛けていた手を下ろして、ぎゅっとわたしの手を握った。 その手からうっすら緊張が伝わってきて、わたしは、たまらない気持になった。 「来週の日曜の予定は?」 「大丈夫です」 「そうですか。ではその日に」 「はい」 「……連絡します」 本当だろうか、また無視するんじゃないだろうか、と一瞬だけ心配する。 そう懸念することすら、いまは嬉しかった。 「はい。お待ちしています」 * 一週間が経ち、また日曜日がやってくる。 峯さんはあれから、ほんとうに連絡をくれた。 電話を掛けてきてくれたのだ。 電話ごしの彼の声は、なんだかいつも以上に怒っているような、気難しそうな感じがした。 『日曜の件、忘れてはいないでしょうね』 なんてドスの効いた声で言うから、まるきり極道者みたいだ。 わたしは、気づかれないように小さく笑った。 夕暮れになり、約束の時刻を迎える。 峯さんは、インターフォンを鳴らして玄関までわたしを迎えに来てくれた。 からだに合ったジャケット、灰色のシャツに、きれいな型のスラックスを身に着けている。 映画のワンシーンのような人なのに、わたしに向かって小さく会釈するのだから、変な感じがする。現実なのだろうか。足許がふわふわする。 彼を出迎えた母は苦い顔をしていたが、それでも思うところがあるのか、やれやれと手を振ってみせる。これでもう公認のようなものだ。ただ、兄がどういう反応を示すかは、顔を合わせていないからわからない。もしかすると、もう峯さんとの間で話はついているのかもしれない。 車に乗って、しばらく無言であたりをドライブした。 峯さんは、まっすぐ正面を見据えている。フロントガラスから流れ込む光の情景が、彼の横顔の美しさを鮮やかに横ぎっていく。 「なにか食いに行きましょうか。どこか行きたいところは?」 10分ほど走らせて初めて、峯さんが口を開く。 わたしもわたしで、黙りこんでいた。 話したいことがいっぱいあるけれど、それ以上に彼が黙っているのが楽しかった。 「峯さんのご自宅に行きたいです」 はしたないだろうか? でも、嫌われることはないだろう。 ちらと峯さんを見やると、彼もわたしを横目で一瞥する。 「もちろんそのつもりだが……いきなり行っても構いませんか」 「ええ。行ってください」 彼はくちびるを閉ざし、ウィンカーを切る。 かっち、かっち、と音を響かせて、なめらかに国道から右折すると、きれいなマンションやカフェや小さな洋服屋のある通りに入り込んだ。 先ほどの道とは空気さえ変わったような気がする。穏やかな町だ。 「きれいなところですね。峯さんのご自宅は、この辺なんですか?」 「ええ。先日また引っ越しましてね。静かで悪くない町です」 「いろんな個人店がありますね」 「ええ。あなたの好きそうな店もある……一息ついたら、行ってみましょう」 「はい」 車は、まっすぐに走りつづけている。 あのマンションだろうか。それとも、もっと向こうに見えるあのマンションだろうか。 わたしの胸の鼓動が、彼にも伝わっていたらどうしよう。 わたしは緊張してくちびるを噛んだ。 「恐いですか?」 と彼が言う。 わたしは「いいえ」と答える。「楽しみです」 「なにもない家だが……」 「ええ──知ってます。でも、峯さんがいますもの」 「……」 峯さんは、なんだか仏頂面を下げている。 元々そういう顔だったのか、照れているのか、よくわからないほど絶妙な表情だ。 彼の家に着いたら、まずどうしようか。お茶を飲んで、これからのことをゆっくり話して──。 わたしは、自分と彼の過去のことに囚われすぎていた。そんなのはもう、たくさんだ。 けれど時が経ち、お互いの存在が当たり前のようになったら、ようやく過去のことも、落ち着いて振り返れるようになるのだろう。 あんなこともあったねと、話せるようになるのだろう。 そしていつか、峯さんがいる場所が、わたしの家になれたら。 わたしのいる場所が、峯さんにとっての家になれたなら……。 表立った幸福ではなくとも、きっと、生きててよかったと思えるだろう。 「さん」 「はい」 「見えてきましたよ。あれがそうです」 細長いマンションのシルエットが、夕陽と共に近づいてくる。 彼の家に着いたら、まずどうしようか。 お茶を飲んで、これからのことを話して、それから──。 怒った顔、なんでもない仕草、ためいき、せつなげな瞳、声、指先、これからの生活。 思い出のようにふたりの未来が見えてきて、眩しくて、愛おしくて、目を細めた。 |