下働きとはなかなか骨の折れる仕事で、殊に新選組屯所内でのお勤めといえばよほどのことであろうといわれる。 だが仕事を始めてみれば、思ったよりはずっと性に合っていることに気が付いた。隊士らは変な人も多いけれど基本的に優しいし、優しくない人はわたしのことを無視するだけだ。 だから揉め事に巻き込まれることはない。景色もいいし、もとは寺院だから歴史的価値があるので磨き甲斐がある。丁寧に仕事できることがうれしかった。 そう、けさまでは。 「………」 副長室。 壺。 紫と青の濃淡をなす壺。まるで梅雨あけのしたたる紫陽花のようだ、と思っていたそれは、近くでみるとますます雨露のような光沢と艶を帯びている。 さぞ高名な品であろうと思いながら、取れてしまった取っ手と本体をみる。 「………」 埃がうすく掛かっていたから、さあ磨こうと思ったら──持った瞬間、ぽろりと取っ手が取れてしまった。 (ど、ど、どうしよう……) 元から取れていたんだと思う……けど。 副長室でぽつんとたたずみながらわたしは、取れてしまった取っ手を、もともと付いていた場所に置いてみる。ぴったりと寸分の歪みなく合致したそこに、境界線などもなく、こうしてみると割れているなどわかりはしない。 最初から取れてたんだ。だって、わたしは持っただけだし。 でも、そのことを副長はご存じなのだろうか? 正直に申し上げたところで、わたしが割ったと怒り狂うのではあるまいか? 「………」 考えただけで憂うつになり、わたしは重い溜息を吐いた。 「土方さんはいらっしゃいますでしょうか」 意を決して、副長室の障子越しに声を掛ける。 返事はなかった。ご不在なのだわ、と拍子抜けして胸を撫で下ろしたとき。 すらっと障子が開いて、そこからものすごい拒絶感……としか形容しがたいものが、風のようにがぶわっと舞い込んできたので、わたしは、全身に鳥肌が立った。顔を見なくてもわかるこの威圧感。 土方さんに違いなかった。絶対土方さんだった。 「どうした」 と彼は胃に響く声で言う。 わたしは顔を上げることもできず。廊下に跪坐したまま、まるで目が合えば死ぬとでも思っているように硬直していた。 「ずいぶん改まっているようだが?」 「……土方さん。申し訳ございません。お部屋の掃除にけさ伺いましたところ、あの青い壺の取っ手を割ってしまいました。持ち上げただけで取れたので、もとより割れていたのではないかと思うのですが、……」 そこまで言ったとき、ふいにざわざわと肌の下が粟立つような、激しい悪寒に襲われた。 あまりにも強い殺気を感じて、防御反応が働いたのである。 わたしは、起きながらにして金縛りにあっていた。 本当にまずいことをしたと、心の底から、いま一番強く思った。 ああ、副長が怒っているのだ。 「そのことか。結構」 「……申し訳ございません。お詫びの仕様もございません……」 「。あなたは今夜、私の部屋に来るように」 「へっ」 「私の部屋に、来るようにと言った」 ──ぞくぞくっ、 と胃の底から痺れるような、寒い寒い、恐ろしい感覚。 その声を聞いたとき、わたしは、終わった、と思った。 なにが終わったのかはわからない。ただなにかが失うことになるのは確かだ。 たとえば、そう、ありていに言えば命だとか。 * 鍋からくつくつと、か細い湯気が立ちのぼり、鰹節のだしの香りが暗がりの床に広がっている。 隊士らの夕餉の支度を終えて、前掛けをほどく。土間の木戸から外を眺めた。 屯所である寺は山を切り開いて建立しており、ケヤキやシイやアカマツなどの樹木に押し上げられるように覆われている。カナカナカナとひぐらしが鳴き、木々のざわめきが、いつどこにいても屯所内では聞こえてくる。よく響く鍛錬の掛け声も。 だが音は、屯所内では散り散りに分解され、鼓膜に届くころには、ひとつの空気の揺らぎでしかなかった。床や柱や梁や、空気中に舞う埃のひとひらにまで、ぴんと糸を張ったような静寂があって、空間と空間に敷居を作っているのだ。そしてすべてほの暗く、ひんやりとした冷気をまとっている。 もしかしたらそれは、あの御方のせいなのかもしれない、と土方さんの横顔を思い浮かべながら思った。 ……今夜部屋に来るように、か。 「……」 冷静になると。たぶん、殺されることはない……と思う。たぶん、いくらなんでも。わたしは隊士ではないし、おなごだし……士道不覚悟で当然だ。それにお部屋で斬るなんてことは、後始末が大変だし、なさらないだろう。 だとしたらどんな制裁が待っているのだろう? ……。 懐をさぐって、小さい巾着のお財布を取り出し、中身を板敷の床に並べてみる。 ひい、ふう、みい、よう、……だめ、全然たりそうにない。 あの壺がおいくらなのか見当もつかないけれど、あの取っ手の先ほどの価値も払うことはできないことは確かだ。焼き接ぎ屋さんに修理に出したらいくらになるかしら……。弁償することもできないなんて、面目がたたない……。 腹をくくって、土方さんの罰する方法に身をゆだねよう。大丈夫、最後にはきっと許してもらえる。たぶん。あまり自信がないけれど。 でも──夜にお部屋にうかがうなんて…… ……なんだか、まるで。 (……もしかして制裁、って……) “今夜、私の部屋に来るように” ……!! いやらしいことを考えてしまって、頬をぴしゃりと叩いて雑念を追い払った。 土方さんに限ってまさかそんなことは絶対ない。たぶん。彼をよく知らないので、これもあまり自信がないけれど。 わたしがきれいな人だったら、もしかしたらありうることかもしれないけれど……。 とにかく、いまは目の前の仕事をしっかりやり遂げなければ。 * 乙夜。 生ぬるい夜風を感じて見上げると、艶のある濃紺の空が、樹木の上に広がっている。夕筒は姿を消し、月のない、ちらちらと拍動のようにままたく星空だった。 仕事を終え襷をほどき、着物を整えてから……鏡ごしに髪を触って、副長室に向かった。 お縁を歩きながら、意外にも冷静な自分に驚いている。 廊下は等間隔に置かれた蝋燭の灯が明るい円をつくり、かえって真昼の濃い影の中よりも視界が明るんだ。つやつやと磨いた床に照り返す光沢は、わたしの努力のたまものだ。あすも丁寧に拭いて回り、その後の成果を振り返るときが楽しみだ。 ……でも、もしも解雇通達をうけたら。 あすからこなくていい、と言われてしまったら、どうしよう。 冷静になればなるほど、存分にありうる話だと思う。 少なくとも、制裁を加えられるよりは、ずっとそのほうが現実的だ。 「……」 きゅっとくちびるを噛んで、副長室のまえで立ち止まる。 床に膝を付け、「土方さん」と声を掛けた。 「参りました。です」 「ああ。入れ」 かすれた声が聞こえてきて、わたしはそっと障子の引手に指を伸ばした。 すうっと障子をあけ、膝行して中に入る。 中は、しんとしている。 静寂が漂う屯所で、この副長室こそが、その最たる場所だと思う。 まるで刺すような、緊迫感。 土方さんは上座で、燭台の灯りの許、長い手紙を読んでいるところだった。 指が紙を滑る音や、蝋燭の炎の揺らぐ空気の変化が、微かな音になって、鼓膜に届いてきた。 「……」 戸を閉め、お辞儀してから、顔を上げる。 するとそのときにはもう、土方さんは手紙を読んでいなかった。 わたしのことをじっと見据えていた。 まるで数刻もまえからずっとそうしつづけていたように。 そんなふうに見つめられたことがなくて、わたしもぼんやりとその双眸を見つめ返した。 うつくしいまなざしのもつ引力に、完全に惹きこまれていた。 「あの、土方、さん。わたしは……」 「ああ」 「わたしは、どうすればいいのでしょう」 「どうすれば?妙なことをいう」 ふっと、淡いほくろのある片頬をゆがめて、冷たく笑ったあと、また真顔になる。 わたしは、なぜだか、顔がかーっと熱くなってくるのを自覚した。これはどうしたことだろう。のどの下まで、じんじんとしている。まるで酩酊しているかのようだ。 しかもそのあいだもわたしと彼は、見つめあいつづけているのだった。 「で、でもわたし、壺を……割ってしまいましたもの。なにかお叱りを受けなければ、と……」 「ああ……」と彼は、壺のほうを一瞥する。 横顔になると、彼の顔立ちの端正な造形が、蝋燭の色に照らされた。 そしてまた、こちらを見るためにゆっくり顔を向けられる。 濃い茶色の瞳は、炎の色を浮かべて、燃えるような琥珀色をしていた。 切れ長の目蓋のふちで、長い睫毛がひとふさ、たわんでいる。 眉間は微かに寄せられて、あるかなきかの皺がかげろうのように浮かび──固く閉ざされた薄いくちびるがほどけ、ゆっくりと言葉を紡ぐさまを、わたしは、じっと眺めていた。 「あれのことなら、結構だと言っただろう。あれは元から割れていたものだ。あなたもそう言っていたはず……それでも自分のせいだとでも言うのかね?」 「………へ、」 「どうなんだ。どうしてもというなら、罰を考えんでもないが」 「………」 まだ、瞳の魔力にとらわれていたわたしは、ぼうっとなっていたが、はっとして首を横に振った。 土方さんは、怒っていなかったのだろうか? 「ですが……、わたし、土方さんがお怒りなのだと思ったものでしたから」 「なぜ私が怒るのかな。あれは元々この寺にあったものだ。私物でないのだから割られたにせよ怒る理由がない。ま……よい代物ではあるので観賞用に置いてあるのだが」 土方さんは、長い手紙をくるくると折りたたむと、袂の中に押し入れた。かさりと響いたその音が、わたしをなぜだかびくりとさせた。 土方さんは、怒っていない……? わたしを解雇しなければ、制裁も加えないということ? ………。 よかった……。 よかったのか……な? なんだか、釈然としない。 ではなぜ土方さんは、わたしを呼びつけたのだろう? 彼は、わたしの心の動きを読みとっていたらしい。 あの蝋燭の光は、だめだ。こんなに明るく、まっすぐ土方さんとわたしのあいだを照らしている。その瞳のまえでは、なにも取り繕うことができないと思うような美しさだった。濡れたようなつややかさを帯びながら、それでもなお、無表情に、それでいて見透かすように、わたしのことをじっと射抜いている。 「あなたは私に罰せられたくてここに来たのか?」 「え……いいえ、そんなことは。ただ、お怒りでしょうからお詫びをしなければ、と、その一念で」 「そうか……」 鼻腔を通る、微かなためいき。 彼は袖の中に手を入れて、腕を組んだ。 「土方さん、お怒りでないなら、なぜわたしをここへ?」 土方さんはゆっくり立ち上がって、すたすたと部屋を横切り、わたしのそばにやってきた。 移動したことにより照らす光の具合が変わったからなのか、なんだか、さっきの無表情とは違うように見える。 無表情は無表情なんだけど、 なんだか……あきれている? 「会いたいと言えば、理由などひとつしかないだろう」 ……。 へ?と思いながら、見つめつづけていると、土方さんはついに顔をそむけた。 なんのことを言っているのだろう?会いたい……?まさかわたしに? 「てっきり承知のもとで来てくれたもんだと思っていたが……。まあ、無理強いする気はない」 「え、………」 「私は一旦席を外す。あなたにそのつもりがないのなら、その間にこの部屋を出て帰っておくことだな」 「どちらへ?……」 「野暮用だ」 土方さんはわたしの隣をすり抜け、障子の引手に手を掛けた。 すっとすこしだけ開けたところで手を止め、背を向けたまま一言。 「私が戻ってもまだここにいるなら、抱かれる覚悟でいてほしい」 すらっ、 ぴしゃり。 ぎし、ぎし、ぎし、ぎし…………… ……… …………?! (え!?) “抱かれる覚悟でいてほしい” 「え!?」 だ、抱かれるって……そういうこと? ぶたれるの間違いではなくて……? もう出て行った土方さんの言葉が、勝手に頭の中で反芻され、渦を巻いている。 心臓まで、ドキドキ、バクバクしてきて、酸欠気味なのか、息苦しさを感じはじめる。 こんな状態、ぜったい体によくない。 本当に抱かれる……なんて事態になったら、それこそ心臓が、止まってしまうのではないか。 (だめだめ、だめ!!) 絶対だめ!! 部屋を出ないと!! いますぐ!! ──でも、失礼じゃないかしら?男のかたがあんな申し出をするなんて、またとないことのはず。 いやいや、失礼も何も、本意でないのに抱かれるほうが失礼だ。 というか、なぜわたしなのだろう?だって、わたしなんて、真面目なだけが取り柄の、ただの小娘だし……。土方さんなら、いくらだって、わたしの長所など覆って有り余るような女のかたが寄ってくるだろうし。 まさかわたしのことを好……、なわけない、でも、たしかにじっと観察されているなぁとは、思っていた。なぜ?あれは、見つめていたということ? (いやいやいやいや……) そうじゃなくて、とにかく、まずはここを出ないと。土方さんが戻ってくる前に。 だって、そんな覚悟できない。いくらなんでも、突然すぎるもの。関係の構築性が必要だ。 いくら土方さんが、こわくて、こわすぎて、こわいほどきれいな姿でも、 ひとりで隊を切り盛りする仕事人間で、冷たくて手が届かなくて、無口で無表情で、 それなのにあんなことを言う人でも。 “あなたは今夜、私の部屋に来るように” “会いたいと言えば、理由などひとつしかないだろう” “てっきり承知のもとで来てくれたもんだと思っていたが……” 「………」 きゅう、 と、のどの下が締めつけられて、痛い。 抱かれる覚悟は全然できていないけれど、ここで帰ったら、二度とは取り返すことのできないものを失ってしまうのではないか。 ………ぎし、ぎし、ぎし、 ぎし。 一歩ずつ近づいてくる、こわい足音。 この足音が部屋の前で止まったら、いったい、自分はどうなってしまうのだろう。 だったら、ここで待って、土方さんの気持を確かめてみよう。 もし彼がわたしのことをいとおしいと思っていてくれるなら、 彼がわたしと同じ気持なのならば、 そのときこそ、彼の言う“覚悟”もできるのかもしれないから。 |