学年主任の土方先生は、謎の多い人物とされている。
話しかける生徒はいないし、なによりもまず恐れられているからだ。彼が現れるだけで誰もが口を噤むほどに。たとえば、となりのクラスがぴたりと静まり返ると、土方先生が廊下を歩いてきているのだと知ることができた。授業中私語をする命知らずはいないし、我が校の偏差値が全国有数のレベルを維持しているのも、土方先生の眼力あってのことだろう。
けれども容姿が大層美しいので、好奇心により様々な憶測を立てられる人でもある。皆、恐れつつも知りたいのだ。土方先生のことを。
勇気ある卒業生が訊いたことにより、独身のA型であるという情報は我々在校生共有の情報となったけれども、
でも、わたしは、もうひとつだけ事実を知っている。
日曜日の早朝に開催される陶器市に、毎週先生が来ていることを。


高校に入学したばかりの、一人暮らしをはじめてすぐのころ。
食器のいっさいがっさいを揃えるべく足を運んだ早朝の市民公園を、土方先生は歩いていた。
入学式のとき、一切にこりともせず「ご入学おめでとう」と祝辞を述べた彼のことを、わたしは思い出した──彼はこう言った、「一同、起立。……諸君らには、生徒らしい謹厳実直な態度を望む。我が校の名誉を汚すよう振る舞う者は厳罰に処すのでそのつもりで。さっそくではあるが、あす期日の課題を出す」それまでのお祝いムードが、軍隊的な重苦しさに一転してしまった。

──その人がいま、学校とは別の、おそらくプライベートで、ここを歩いている。
背がすごく高いし、まわりの人がよけて歩いているので、すぐに気づいてしまった。


お気に入りの食器はまだ見つかっていないし、先生はわたしに気づいていない。
それをいいことにわたしは、毎週、お茶碗を見に、そして先生を見に、市民公園に行っている。


それを繰り返して早、わたしは三年生になった。
三年生になるまで何度も接触の機会はあったのに、ろくすっぽ会話したこともない。
はい、いいえ、わかりません。それだけしか自分自身に対して発言を許していないのだ。
恐ろしいから、ということもあるけれど、……なんだか上がってしまうから。変なことを口走らないように自分を戒めている。
緊張する理由は、恐怖だけではなくて。
嫌われたくないから、の比率のほうが大きいように思う。
でも、恋なのかどうかはまだわからない。




*




忘れ物をしたことに気づいて、お友だちと別れて校舎の中に駆け込んだ。
つるつるした廊下を、熱いたそがれが射して、鈍く乱反射しながら茜色にかすんでいる。
自分の呼吸する音が気になるくらいに静かだった。ぺたぺた、とリノリウムの床を踏む足音が廊下に反響する。グラウンドから運動部の掛け声がやってきたが、それがはるか遠くより響いてきたかのように、いっそう静寂を強めたみたいに聞こえた。


教室の引き戸が開いている。鍵がかかっているかと心配だったので、ホッとして中を覗きこんだとき、体が硬直してしまった。
土方先生が、窓べに立って外を眺めていたから。
腕を組んで、こちらに背を向けている。
その姿勢のまま彼は、「忘れ物かな」と言った。

「……!!」
心臓が、止まってしまうかと思った。
後ろ姿のまま、彼は顔をこちらに向けた。
横顔のシルエットに、睫毛の、一筆添えたようなラインがカーブしている。
こわばったようなこわい顔に、深い茶色の影が、幾重にもなりながらかかっていた。

「はい、そうです」
「それか?」
「はい」
わたしの机の上に、キーホルダーのついた鍵が置き去りにされている。我ながら不用心で呆れながら、急いでそれを手に取った。
そのとき──ちゃり、と音が響いたのは、わたしのキーホルダーではなく、土方先生の手の中からだった。
「さっさと出てくれないか。いい加減鍵をかけたいのだが」と彼は外を眺めたまま言った。


「……、あの、もしかして、教室に鍵をかけるの……待っていてくださったのですか」
「ああ。きみは一人住まいなのだろう?ならば遠からず取りに来るだろうと思ってな」
「……、すみません。ありがとうございました」
「結構。行け」
「はい、失礼します。土方先生、さようなら」


わたしはすこし待っていたが、土方先生はもうなにも言わなかった。言わないまま、ずっと外を眺めていた。
わたしは鞄を肩に掛けなおして、お辞儀してから、教室を出て駆け足で廊下を渡っていった。
先生の、かすかに籠っているような、苦い声。ひりひり、ひりひり。喉が渇いているような錯覚を起こす、ざらついた声。それが鼓膜に焼き付いている。


昇降口で靴を履きかえ、外に出ると、冷たい風の中から落ち葉の匂いがした。
はやく帰って横になろう、
そう考えながら、ふと校舎を振り向いたとき。
また体が硬直した。


教室の窓べに、まだ先生がたたずんでいて、そうしてこちらを見下ろしていたから。

目が合っているのに、何にも反応がない。
けわしい顔のまま、遠くを見る目でわたしを眺めている。
はっとしてお辞儀をし、顔をあげたとき、先生はようやく窓べから顔をそむけた。
そしてそのままに──すっと姿を消した。
「………」


わたしは、急いで帰路についていた。まるでなにかから逃げるみたいに。学校のそばにいたら、なんだか、頭が真っ白になってしまうような気がして。だって、目が合っただけで、すごく動揺してしまっている。
ぱたぱたぱた、と響く忙しない足音が、戸惑う心の音みたいだ。
握りしめた鍵が、熱くなっている。
もしかして、と思う。でも、そうじゃない、と言い聞かせて。
喉の下が、ソーダ水を飲んでびりびりと痺れているような。空いていたはずのお腹が、食べていないのにいっぱいのような……。
でも、きっと、気のせい。
自分の中で何かが起きているけれど、きっと全部気のせい。
だから、恋なのかどうかは、まだ、わからない。