自宅の中庭。
大雨の夜半。
雨粒と、雨粒の落ちるしぶきと、雨の溜まった浅瀬のような地面と、白い煙のように漂う靄と、軒から落ちてくる雫。
その夜は加えて、血けむりと血しぶきと血だまりとがあった。
──そして三つの遺骸と。



土方さんはなにも言わない。
脅すことも、念押しすることも、懐柔することもない。
けれど以前よりそれとなく関わりが増えたことは明らかだ。
そうすることで──わたしに同朋意識を呼びかけているのか、あるいは監視しているのか。

もしわたしが、彼らに住居を貸している家のむすめでなければ。もし女中など、この家の血縁者でなければ。わたしはあの晩、間違いなく口封じに殺されていただろう。
しかも土方さんは、そんなわたしにそっと、作り笑いしてみせるのだ。


「このところ、雨が多いですな」
半分ほど開いた障子ごしに、雨模様の広がる薄墨色の遠景を眺めて彼はいう。
わたしは、けほ、けほ、と咳をこぼした。
雨の匂いがする。雫をふくんで開花した植物の精髄と泥濘のうねりも。だがすらと障子を閉めた途端、庭の力強い青い匂いは消え、それだのに雨の匂いだけが密室の中に沁み込んでいた。
苦い、水の匂い。もしかするとそれは、土方さんの匂いなのかもしれない。
ひりひり焼ける喉にお茶を流しこむと、彼は瞳の端だけでわたしを一瞥した。
「風邪を引きましたか」
「いえ、ちょっと……それよりお話って?」
えほん、と情けなく喉が鳴る。
いまのところ気だるさなどはないものの、風邪の引きはじめの、ツンとしたものが鼻腔の奥を突いている。すでに葱や生姜は口にしたので、あとは為すすべもなく、大事にならないよう祈るばかりだ。
「先日御内儀より相談を受けたのです」
「母が?まあ、なんでしょう」
「ええ。あなたがずっと塞ぎこんでいると」
「………」
「理由が新選組にあるのではないかと心配しておられた」

彼が振り向いたとき、太い首筋が襟ぐりと擦れて、すっと音を立てた。
わたしの中にある密かな動揺を、土方さんの瞳は見透かしているのかもしれない。その物憂げな、美しいが冷たげな瞳には、追及するでもなく、ただ見ているというだけのことで、わたしを丸裸に出来るような魔力を秘めていた。
「……母にはなんと仰ったんですか?」
「さて私の与り知るところではないと」
「……そうですか。ご迷惑をおかけして」

きし、と畳を歩きながら、彼はわたしのそばにやってくる。
腕を組んだまま、坐布団に胡坐を掻いた。
「あなたと特別な間柄の者がいるのではありませんか。この新選組に」
「……」
「いや……いた、というべきか」

さああ、と笹の葉鳴りに似た雨音が、障子のむこうに掻きたてられた。やわい霧雨が、雨足を強めたのだ。
時が止まったような気がした。わたしと土方さんは、お互いに黙って見つめ合っていた。まばたきのない瞳を見つめ合いながら、わたしたちが、お互いのことではなく、あの豪雨の宵のことを思い描いていることがわかった。
横殴りに降りしきる雨、ぬかるんだ中庭、血、血、血、それから……

──あのときのことを、土方さんが口にしたのは初めてのことだ。
単に世間話をしているのではない。あの晩からきょうまでつづいた騙し騙しの平和が、ついに終わったのだとわたしは思った。わたしの家に対する遠慮がなくなったのか、あるいは秘密をより強固にする必要に駆られたのか、いずれのことかはわからない。枷が、ついに外れたのだ。
わたしはきっと殺される。そうでなければ遠くへ行かされる。

「誤解です。そんなことはありません」
とわたしは無表情でいった。
「そうかな?そうは見えなかったが」


瞳の端でわたしを一瞥する彼の顔は、ぞっとするような翳りを帯びていた。
土方さんは、たいへん美しい人だ。その美貌はわたしを憂鬱にさせる。人を不安にさせる顔だ。
彼らがここに来た昨年の春、土方さんの姿を見てわたしは怯えた。武骨な、得体のしれない人だと思った。けれどわたしの親は土方さんを“折り目正しい人物”と評していた。
それは彼がわたしの親に対してはうっすら微笑してみせるからなのだ──土方さんは自身の微笑の効力を知っているのだ。
土方さんが初めてわたしに微笑みかけたことを、わたしはよく覚えている。
あれはあの晩の翌朝のことだった。
彼は一睡もできなかったわたしに、“おはよう。いい朝だな”と笑った……。


「なら、あなたの口から御母上にお伝えなさい」
「……」わたしは考えるために口を噤み、かぶりを振った。「いえ、……でも、土方さんの仰るとおりかもしれません」
「……ほう」
「特別に想うひとならたしかに──
「……」
「……」

くちびるを、
開いて続きを言いかけて、喉が詰まる。
土方さんがじっとわたしを見つめている。噎せかえるような沈黙が、しとしと響く雨の水分を吸って重力を持ち、ずしりと肩にのしかかった。まばたきも躊躇う、鳥肌のたつ緊張感。続きを言うなんてとてもできそうになかった。土方さんのやわらかな睫毛が、一度、ゆっくりと上下した。

すっ、と襟ぐりを首筋が擦る音がまたした。
土方さんはわたしの腕をつかんで、目を開けたまま、わたしを見つめたまま、顔を近づけた。
くちびるとくちびるの距離が紙一重にまで縮まった瞬間、ようやく目蓋を下ろした。
わたしは、一瞬だけ反射的に目を閉じたあと、くちびると鼻筋に他人の体温を感じながら、目を開けた。土方さんの閉じた目蓋と、長い繊細な睫毛が、目の前にあった──
つやのある感触が、しゅると絹と絹のような音をたてて、離れる。
くちづけのあとに見たものは、土方さんの無表情の顔だった。

眉を微かにひそめて、彼は顔をそむける。わたしの腕から手を下ろすと、すこし黙って、彼は立ち上がった。黒足袋の足、かかとの筋を、翻す袴の裾からさしのぞかせ、畳の上を歩いていく。
障子を開けて、彼は出ていった。とん、と静かに障子は閉ざされた。
くちづけの瞬間はたしかに完全なる無音だった室内に、しとしとと雨音が戻ってくる。
わたしは上の空で、くちびるの余韻を確かめていた。




*




太陽を分厚い雲が隠してしまった空の下で、すべてが灰色に濁っている。
まだ午すぎだというのに薄暗い。浴室の傍の、行水用の古井戸。その軒下で、土方さんが体を拭っていた。
「……」
わたしは、庭づたいに、手ぬぐいを脱衣場に運んでいるところだった。彼は気配に気づいて、わたしのほうに耳を澄ました。

じゃり、じゃりとうるさく響く下駄をまぬけに感じる。土方さんは、薄い、小麦色の肌をしていた。引き締まった鋼の肉体、しなやかな陰影の筋と、大きな筋肉の凹凸に、ころん、と無数の水滴が転がって落ちていく。髪をざっと後ろにやった、その綿毛のようなもみあげのあたりが、濡れてわずかに乱れている。
「風邪はどうです。あれから、悪くなっていませんか」
「はい。もうよくなってきて……」
そう答えた傍から、けほ、けほと咳が出る。
情けなく思いながら、土方さんの怪訝な視線から目を逸らした。

「……手ぬぐい、新しいのどうぞ」

近づいて手ぬぐいを差し出すと、彼は黙ってそれを掴んだ。
掴んだまま、手を引かなかった。わたしも引かなかった。
手ぬぐいを媒体に、繋がっていた。
まるで金縛りにあったみたいに……なぜかというと、目が合ったからだ。
あのときと同じ、重苦しい沈黙。
喘ぐように狂おしく身悶えたい肉体を、無言と無表情の鎧が押しとどめている。
くちづけを思い出して、心の襞をとろかす熱っぽさが喉にせり上がった。


……動揺する視線を、やっとの思いで逸らす。
呪縛から解かれた途端、名状しがたい恐ろしさを感じた。もうすこしで、感情的になるところだった。……土方さんは、手ぬぐいを持つ手を下ろして、それで顎を拭った。
土方さんの硬そうな下腹部に巻いた下帯が、濡れて微かな肌の色を透かしている。急いで目を逸らしたとき、土方さんはまだ濡れた裸体に、さっと綿の単衣を羽織った。

「先にお戻りください。じきに一雨くる」
「はい。熱いお茶をお持ちしましょうか」
「いや、結構」
ばさ、と着物の裾をさばいて、土方さんは腰に帯を回す。やっと目のやり場に困らなくなったと、ほっとした。
「でも、体が冷えてしまわれたでしょう?」
「ええ。おかげで、頭も冷えましたよ」

しゅっ、しゅっ、と帯を結ぶ音がする。
筋肉質の壁のように広い背中の、ぴんとまっすぐに伸びた身支度する姿。
高い眉骨と鼻筋が、彼の横顔にきびしい翳りを刻んでいる。こめかみについた水滴が、玉の汗のように見えた。

「頭を冷やす?なにか、お悩み事が?」
「悩みというわけでもないが、ふと思い出すことがある」
「……」
「あなたがまだ、あれを忘れることができないのだとね」

静かな、穏やかな声だった。
きちんと単衣を身につけて、土方さんは帯に下げていた手ぬぐいで頭を拭う。
そうして、顔を上げたとき、……微笑した。
例の作り笑いだった。
ガラス玉のような眼差しで。

「……それは誤解です、
わたしはあの方とはなんにもありませんでした」
(あの方はわたしに、おまえと寝たい、と言ったけれど)
(わたしがずっと忘れられないのは、あの方ではなくて──


うわ言のように否定すると、土方さんは、くちびるのあたりに細い皺を寄せながら、また、ふっと笑った。
笑っていても、その瞳には、感情を読ませない拒絶の色が浮かんでいた。
彼は、わたしのそばを通りすぎ、無言のまま立ち去った。


ぽつり、とひとしずく、透明な雨が砂利の上に落ちた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ、と一滴を皮切りに、たくさんこぼれ落ちてくる。手をかざして、涙雨だ、と思った。




*




一年前、あの事件が起きるまで、
わたしは土方さんを想っていた。

一目見たとき、なんて氷みたいなひとなんだろう、なんて恐いひとなんだろうと思った。彼がわたしに無表情で会釈して、そのくせわたしの両親には微笑して見せたときも、両親が彼の知性に感心していたときも、わたしはうろんな目で、土方さんを眺めていた。その冷たさと、いつも人を観察しているような横顔が気になった。そしていつのまにか、見かけたら嬉しくなって、見つからないときは自然とがっかりして、いま何しているのだろうなんて考えるようになって……

土方さんの想いも、うっすらと感じていた。
横顔やうなじに、彼の視線が刺さることを、知っていたから。

まるで、わたしと土方さんだけが特別の被膜に覆われているような。ふたりきりで、空気の密室をつくりだしているような……それでいて重ならない視線の苦しみが、いつも胸を焦がすようだった。


だがそれもあの事件の起きた晩、すべて封印された。
大雨と血の匂い。亡骸のお顔。そして翌朝の土方さんの微笑……。
きっと殺されると思って、
葬儀の日、台所の片隅で、膝を抱えて震えていた。
喋ったら殺されるし、喋らなくとも殺されるだろう。数日間生きた心地がしなかった。だがだんだん感覚は麻痺してしまう。自分の役割も理解できた。弱みにならないよう、友人を持つこともやめた。どうせ長くは生きられまいのだろうし、着物や簪を新調することもなくなった。
罰が当たったのだと思う。
村の人たちが、裏で壬生狼と囁いて、忌み嫌う姿を軽蔑して。自分だって同じなのに。わたしは自分というものが見えていなかった。うまくやれていると過信して、自分以外なにも信用していなかったのだ。
わたしはいまも、その報いを受けつづけている。


「……」


さん」


重たい目蓋を開けると、霞む視界に、土方さんが映った。
さん。…目を覚ましましたか」
低くて、棒読みで、ゆっくりした声。
「具合はどうです」
「………土方さん?」
「ええ。」
「……」

土方さんは、書物を読んでいたらしく、それを閉じて畳に置いた。わたしは布団に入っていて、仰向けに寝ている。わたしの部屋。枕べに、春慶塗の盆、湯呑と薬の包みが置いてある。顔を触ると、ほのかに汗が滲んでいた。
……そうだ、風邪をこじらせて。
寝込んでいたんだ……。

「うわ言で私の名を呼んでいると言われ御内儀に見舞いを頼まれたのです」
「え……あ、そうなんですか?す、すみません……」
「御両親は壬生寺の集会に行っていますよ。一刻もすれば戻るだろう」
「……」
「医者によればもう大事ないとのことだ。疲れが溜まっていたのでしょうな」
「土方さん、あの」
ちらと顔を上げて、土方さんがわたしを見る。

「わたし、もうすっかりよくなりました。お世話になりましてありがとうございます」
「それはよかった。では私は屯所に戻ります。あとは御女中に」
「ずっとここにいてくださったのですか?」
「いや、それほど暇じゃない。見舞いの品を届けに伺っただけです」
「……」
「私の名を呼んで、うなされていたらしいが。ひどい悪夢だったようだ」
「ごめんなさい、失礼なことを……わたし、夢を見ていたんです。土方さんの夢でした」
まだ、心臓がどきどきしている。体を起こして、乱れたほつれ髪を撫でつけながら、もうちっとも痛まないのどで唾を飲んだ。
夢がどのようなものだったか、具体的にはわからない。でも、土方さんがどこかに行ってしまって、途方に暮れて手を眺めていたことは、ぼんやりと思い出すことができた。
「夢は健康状態に影響するといいます。あなたはまだ万全ではないのだろう」
「いいえ、わたし、もうすっかりいいんですよ。……でも、理由はわかります。土方さんがいなくなる夢でした」
「私が?」
「はい」
「……」

「捜しまわっていたんだと思います。それで疲れて、諦めて、こうして手を見て……」
「……」
土方さんは、淡々とした視線でわたしを見ている。けれど、眉をひそめて、不可解な分子を頭の中で整理しているかのように、難しい顔をした。

「あのときこうしていればよかったって……」

誰もいない世界で、ひとりぽっちでうずくまっていた。
感情もなく、寒くて、疲れていて、活きる糧を失くしてしまった。
あれはまぎれもないわたしだった。土方さんを、ずっと見つけたかった。

「わたし、土方さんのことをお慕いしておりました」

土方さんは、表情を変えず、わたしを眺めていた。

「もしやり直せるなら、お会いした瞬間に戻りたい。お名前を伺ったあのとき、初めて出会ったころに遡って、素直になりたかったと思います。あの事件のあとも、殻に入らず、すべてぶつけてしまいたかった。わたしは、ずっと後悔していました。いまも、ずっとです」


「……そうか」
たっぷり黙りこんでから、乾いた声でそういう。
わずかにくちびるを開き、なにか言いかけて、なにも言わぬまま閉ざした。
でも、やっぱり、小さく開いた。
「あなたは、自分が粛清されると思っていたようだが」
「……!」
「我々にはその気はなかったのだ。会津藩容保公より直々に我らを預かるよう達しを受ける家柄の令嬢に、そのような無体を働けば天下の恥さらしになる」
「……。」
「それに私たちが守りたいのは武士に対する体面だった。豪農の地主のむすめとはいえ、武家社会に精通しないあなた一人が騒ごうが、私たちの目的に響きはしないだろうから」
土方さんは、腕を組んで畳を見下ろした。そうして顔を上げて、遠くを見る目で、襖の絵柄を眺めていた。
「私がこうして内情を話している理由だが」
「……」
「隠す必要性が薄れたからなのだ。あなたが寝ている間に状況がずいぶん変わってな。積極的に話しているわけではないが。とにかく、あなたは、もう恐れる必要はない」
「そうなんです…か?」
「ああ」
「………」

土方さんは、浅くため息をついた。
顎を引き、顔を伏せ、そっとこちらに視線を向ける。土方さんの瞳は、すこしだけ茶色い。そしてたくさんの光を湛えている。その二つの宝石のような明眸は、彼の物静かで憂鬱な雰囲気に反して、やさしく、きらきらと透きとおっているのだった。


(見つけた)


見下ろしていたてのひらに、
土方さんの手が重なる。


そっと握りしめた手のつぎに、そっとくちびるが触れた。

ふわりとした感触だった。泣きだしそうになるくらい。
その繊細な触れ方は、帯を解くときも同じで。
重ねていた襟をめくり、震える胸があらわになったとき、
ずっと秘めていた想いが、溢れ出てしまった。


「……」

やさしかった指が、素肌に触れると、もっとやさしい。

大きな手が触れると、わたしの体はまるで子どもみたいにちっぽけに見える。

胸を触られた瞬間、極度の緊張がこみ上げて、はっと喉がこわばった。
土方さんはぎしりと頭をこごめて、せつなくくちづけをした。


「……」

薄いくちびるが、ゆっくり開いて、わたしの肌を、ゆっくりついばむ。
…びくっ、
大きく体が跳ねたことが恥ずかしく思ったつぎの瞬間、また、びくっと胸骨が大きく弾む。
腰に巻いた湯文字を肌蹴させられたときも、鼓動が激しすぎて、体がひく、ひく、と震えつづけていた。
土方さんの、指が……分け入ってくる。


「すみません、お風呂に入っていなくて……汗臭いでしょう?」
「臭くはないが、……赤子のような匂いがするな」
「……」

土方さんは、雨の匂いがする。そしてくちづけのときにだけ香る、男のひとの匂いも。

ぴたりと重なっていた秘所が開かれたとき、乾いていると思っていたのに、内側が驚くほど濡れていることに気がついた。わたしは恥ずかしくて、脱いだ着物で顔を覆った。
つぷ、
と指が、狭い道を侵入してくる。ぎゅう、と着物を握りしめながら、わたしは体を丸めた。誰にも触れられたことのないところに指がある。土方さんがどんな顔をしているのかを見ることが恐かった。そこがどうなっているのかも、よくわからなかった。
頭を置き去りにして、体だけがひどく敏感だった。


「ひっ、」
びくっ。
腹部を、くちびるがなぞる。
その、味わったことのない感覚。やわらかくて、しっとりした、くちびるだけの質感。くすぐったすぎて、死んでしまいそうだ。軽く、すっと口で肌をなぞったあと、彼は胸にも、薄い、癖のあるくちびるを這わせた。つやのある薄皮で触れられるだけなのに、心臓がきゅうきゅうと締めつけられるようだ。そうして腰が跳ねたときに、閉じていた秘所がやわらかくなって、指が奥まで入ってきた。

「………」
「………」

着物のふちから、土方さんを見る。表情のない瞳の、なんていつもどおりの顔をしていることだろう。
ずっと顔を隠して視界を閉ざしていたけれど、彼を見て、土方さんに触られているという状況を改めて理解した。
そうして、じわりとお腹が熱くなった。

「……っ」
「力を抜けるかな」
「……、」
「……」
「すみません、体が、勝手に……」
「いや……自然なことだ」


……く、ぷ、

入れた指が、中で曲げられたのがわかる。
頭の中がちかちかして、息をするのを勝手にやめていた。
声を噛み殺すうなじを、土方さんが片手で撫でる。
ほつれた髪が汗で首筋に貼りついていて、そこを掻きわけられると、すうすうと湿った肌が冷えた。そこに彼はくちびるをつけた。


「……っ……」


ぴちゃぴちゃと、猫が水を飲んでいるような音がする。指で触られているだけなのに、どうしてそんなことになっているのかよくわからない。
土方さんの触り方は、ゆっくりだが、端的だ。そしてひどくやさしい。引っ掻くようなことが一度もなくて、指の腹でまろやかに摘まんでいく。
それがあまりになめらかなので、びくっとなってしまうことが恥ずかしいほどだ。
だが要所を抑えているのは確かで、このような睦み事に対してですら、土方さんは冷静に分析しているのだ。

「……っ、………」
熱を持って腫れあがったところを、指先で転がされる。
口を手で抑えて、頑張って耐えていたのだけど、汗で滑った口枷が外れた瞬間、泣きそうな声が漏れた。
それまで皮膚の触れていた布地が、うっすら湿っている。汗なのか、汗じゃないのか、よくわからない。
眉間をぎゅっと寄せて、痛いほど体を強張らせながら、硬く内側に力を込めて感覚を鈍くさせるよう努めていたけれど、武骨な指が、さわ、とやわらかい襞をなぞると、背骨から力が抜けてしまうのだった。
堪えれば堪えるほど、隙を付け入られたときに射しこむ快感の反動が凄まじい。
意識が飛んでしまいそうになるほど。


「あっ」
「……」
「……う、……ん……ないで」
「なんだ?」
「み、見ないでください、あんまり……」
「……」

肌蹴た湯文字を腰に巻きつけるけれど、すぐにはらりと落ちてしまう。
土方さんはうつろな無表情で指を動かして、顔をあげてわたしを見た。


「気づいていたかもしれないが」
「……っ」
「俺はあなたを女として見ていた。最初に会ったときからだ」
「……」
「だから、見るなといわれても今更のことのように思う」



“私は土方歳三と申します。御令嬢、以後お見知り置きを”


「!………」
まだ浅葱色の羽織を着ていない、掠れた墨色の着物を着たこの人が、無愛想にそう呟いたことが、一瞬の強い光のように目蓋に焼きついた。
目を開けると、土方さんがそこにいる。
いまこの瞬間、記憶と現実のどちらも目の前にいてくれるこの人に、なんだか感謝した。まるで奇跡に出会ったみたいに。
(あのとき、怯えて敵視しないで、にっこり笑って挨拶していればよかったんだ…)


「……あっ…、」
土方さんの、欲情を感じさせない、明敏な、清らかな眼差しを受けながら、一人だけ喘いでいることを孤独に思う。
彼の腕にしがみつくと、袖のなかの筋肉が、きゅっと動いているのがわかった。わたしはそこに頬を押しつけて、指の絡む、くちゅっという音から、逃げ出したくなった。
はやく、いれてほしい。

せつなくて頭がおかしくなりそうだ。


「……っ!、あ……っ」


はやく、はやく、
(はやくいれて)



びくっ、
びくっ……ぶるぶる、
腰が痙攣し、体の主軸がぶるりと震えて、臀部から腰の骨が粉々になったような気がする。
心臓が破けそうにドキドキとうるさく鳴っている。
このまま失神してしまうのだ……と、意識が一瞬だけ遠ざかった。

体中が熱を持ち、顔から湯気が出ていそうな気さえする。
はっ、はっ、と、犬のように土方さんの袖の中で荒く呼吸して、胸の荒波が静まるのをじっと待った。
土方さんは動じることなく、そっと指を抜く。そのとき、指で栓されていた熱が、つうっと奥から溢れ出て、お尻の下に敷いた着物を汚した。
「………」
ぐったりとして、肌の細かい毛穴まで、力をなくして開いている気がする。
とてもだらしない。


「……」
ぜえ、ぜえとなりながら、くらくらする視界で見上げると、土方さんの、微かに眉間を寄せた、美しい顔が近くにあった。

「横になってくれ」
「………」

はあ、はあ……
息が、まだ収まらない。
……わたしが小さく肯くと、土方さんはわたしを寝かせて、自身は立ち上がった。
そうして、まるで着替えるときのような動作で、静かに着物の襟を開いた。


しゅるっ、

す、しゅるしゅる、
ぱさ、

「………、」
わたしが息を呑んで、呆けたようになっている間に、彼はどんどん着物の紐を解いていく。
袴を脱ぐと、堅物そうな黒地の着流し姿になる。彼は足袋を脱ぎ、そうして着物も脱いだ。土方さんの、木の幹のような裸の影が、障子にぼうっと映っている。
先日も見たばかりなのに、今回はまるで意味が違った。
なぜなら、脱ぎ終えた土方さんは、あのときと違って、わたしの目を見据えてくるのだから。

……きれいだなぁ。
りっぱな体格の男のひとなのに。
きれいという言葉が、すごく似合う。



布団を掻き抱いて息をひそめていると、土方さんは屈んで、わたしを守るそれをばさりと取り上げた。
男のひとはみんなそうなのか、土方さんがやや地黒なのか、浅い褐色の肌の熱が、わたしの肌に伝わってくる。
その体の影がかかっただけで、熱まで感じるようだった。だが、実際に伸ばされた彼の指は平熱で、逆に火照ったわたしの体を、すこしだけ冷ましてくれた。
「……」

足の裏まで、じわと汗をかいてくる。
土方さんの体。わたしは、彼がいつも涼しい顔で、真夏の盛りでも着崩したりせず、きちんと着物を身につけている清潔な姿しか見たことがない。だから、戦闘に出た彼の衣類に、返り血がたくさん付着しているのを洗いながら、どんな顔で戦っているのだろうと思ったりした。
土方さんの裸は傷ひとつなくて、とてもきれいで、つやがある。ますます、実戦の荒々しさとは無縁の、道場でのみ鍛えた、お武家さまのような気品を感じる。
だが彼はまぎれもなく新選組の副長だ……。
きれいなだけでない、ざらざらした感じが、肌に触れたところから伝わった。気迫というものなのかもしれない。人を殺めているひとだ、という恐さ……。


彼はわたしの脚の間に胴を入れた。内股に他人の皮膚がある違和感に、鳥肌がたつ。
脚を締めて逃げようとしたが、膝を掴まれて敵わなかった。
土方さんの、その茶色っぽくくすんだ、太い、馬の首のような熱の塊が、ぬる、とあたっている。触れた瞬間、ひやりと、彼のそれも冷たく濡れていた。


「あ……」
粘液を絡ませるように、すぐには入れず、擦りつけられる。
そのたびに、きゅん、と下腹部が締めつけられた。


「……!」


ぐっ、くく……、と焼かれるような、痛い、熱いものが押し入ってくる。
でも、いやな痛みじゃない。
指でされていたときは蘭方医学の解剖でもされているような気分だったけれど、
いまは違う。
土方さんの首筋にしがみ付くことができる。頬に彼の、息をひそめる喉遣いを感じる。
それが苦しげに聞こえたら、わたしの痛みが癒えるようだった。

「………っ」

きゅう、
とやわらかくほぐれた肉の壁が、彼のものを締めつけて、その輪郭や質量が、どんなふうか知ることができる。
痛い。でも、……せつなさがやわやわと解けていく。
いまだけのものだと思う。たぶん事が済んで、抜いてしまったら、また締めつけるようにせつなさを感じるのだろう。それをわかっているから、だからこんなに嬉しいのだ。入っているときにしか、ひとつになることはできないのだから。



鼻筋を寄せられて、顎をすこしだけ持ち上げる。土方さんの体温が、どくん、どくんと、確実に上がっているのがわかった。くちびるをついばまれると、下腹部がきゅっとなる。

「……ん、く…」
わたしの声は、鼻声みたいだ。もう風邪も治ったのに。

土方さんの声は乱れがない。顔も冷静だし、……
細く、長い呼吸が、彼の喉から聞こえた。
……すう、……ふう、
……すう、……ふう、
霧のように実体のない、か細い吐息が、わたしのくちびるに触れる。
まるで鍛錬のときのそれのような。


(土方さんも、苦しんでいる)

眉間を寄せて、目を細め、口元に淡い皺を刻み、つらそうに、わたしを見つめている。
こめかみと頬に、すっと線を引いたような強張りが浮かんでいる。
お互い痛くて、耐えている状態。
それなのに、まだつづけようとしている。

目に力を入れているからか、眉骨の影が落ちて、恐い顔をしている。
薄く開いたくちびるから白い歯を覗かせて、彼はわたしの胸の上の皮膚を吸った。

「……んっ!」
ずるっ、
腰を突きぬけて、頭に衝撃が走る。
彼のすべてが収まったと知ったのは、互いの陰部が重なり合っているのを見たからだった。

「………、」


胸の山にかいた汗が、つうっと鎖骨に落ちてくる。
中の、彼の皮膚と粘膜が絡み合っていて、軽く前後するだけでぞわっと全身が粟立つ。
これがたぶん気持いいということなのだ。声が、洩れてしまうから。
「あっ、」
きゅうう、と引いて、ずんっ、と奥を突きたてられる。
……それだけで気が飛びそうになった。

入っている、その入口のところが、とても熱くて、じんじんしている。
……きもちいい。
息もできないほどに。

「っ、…、んぅっ、」
入れるときはぱん、という音がして、引くときはにゅる、という音がする。
声を殺すために手で口を覆うと、顔が焼けてしまいそうに熱いことに気づいた。顔だけではない、すべてが火がついたようだ。
がくりと主軸を失って仰向けに倒れると、土方さんも手をついてわたしの上に覆いかぶさった。
体重は掛けられていないのに、圧し掛かる体温と影にも質量があるかのように、とても重い。
他人が、わたしの上に乗っている。それは土方さんだった。わたしは、嬉しかった。彼は切れ長の目を細めた。
長い睫毛の、早瀬の光のようなきらめきを湛える瞳。
硬く結んだくちびるの端が歪んで、消え入りそうな皺を刻む。


「……土方さん」
首にまわした手を上げると、彼の短い襟足の髪が指にさらりと触れた。わたしは、彼の素肌の匂いを、いっぱいに吸い込んだ。
すう、と息を深く吸うたび、土方さんの高い鼻梁の小鼻が微かにふくらむ。肺を巡回し、薄いくちびるの隙間から漏れた吐息は、苦しいほどに熱っぽかった。

「痛むか?」
「いえ、大丈夫です」
「……」
「あ……」


土方さんの顔。
すごくきれい……。



気が遠くなりそうな緩急の摩擦を繰り返すうちに、指でいじられたときに起きた衝撃が、ぎゅう、と何度か蘇った。頭の中が真っ白になる感覚。何度も味わったけれど、何度味わっても慣れないし、そのつど気絶しそうで恐ろしい。
だが土方さんは、わたしの疲労を無視して、膝から腹部までの繋がっている筋力を使って、深くじっくりと肌を合わせた。
中で、ぐぷっ、と大きく硬く、更に膨張する感覚があった。


土方さん、汗かいてる……。
こめかみからこぼれた、汗のきれいなひとしずくが、彼の頬につたった。



「……あっ、土方さ…!」
「……っ」


ぐいっ。
彼は、腰を引いて、初めて熱い内側から、それを引き抜いた。

とろ、と粘液を絡んだそれが、とくっ、とくっ、と震える。
最初の一滴は、胸のあいだにまで飛んできた。
そうして、温かい、白いものが、小刻みに、たくさん出てきた。


土方さんは、ふ……とため息を洩らした。


「わっ……」
「……」
「……」
「動くな」
脱いだ着物から、大判の懐紙をとりだして、それを半分にちぎり、口元に咥えて、残り半分でわたしの陰部を拭う。動くと、白い粘液がとろりと布団に落ちてしまいそうで、動くに動けない。
土方さんはくちびるで挟んだ分も手に取り、それでわたしのお腹を拭いてくれた。

「………」
「………」


「まだ痛むか?」
「あ……いえ、違和感はありますけど、大丈夫です。ふしぎですけど」
「そうか。きっと俺たちは相性がよかったのだろう」

恥ずかしげもなく、真顔で彼はそういう。
とてつもなく真っ直ぐなひとなのかもしれない。
そしてわたしは、全然真っ直ぐじゃない。


普通このあと、裸で睦言でも交わすものだ、と思ったが、彼は早々に下帯をつけるし、襦袢をわたしの肩に掛けた。自分も着物に袖を通し、乱れた布団を直してくれている。
てきぱきと後始末を済ませる彼にあわせて、わたしも身支度を整えた。

なんだか、……恋人っていう感じがしない気がする。
でも、土方さんはこういうひとなのだ。わたしは、彼がこういうひとであることを、ずっと以前から知っていた気がする。
……不意にそのことを、幸せだ、と思った。







「きょうも雨なんですね」
障子を開いて、軒から見上げた空が、白く霞んでいる。
さわさわと降っているその雨は、銀糸のように頼りなく細い。気の弱い雨に負けず、庭の苔や、紫陽花の花の色が、生き生きと生命力を誇示しているかに見えた。この優しい雨は植物と土壌への養分なのだ。


「ここのところずっと雨降りだな」
「はい」
「……止んだら鴨川のあたりを歩いてみよう」
「はい、ぜひ」
「あなたの体調も回復したことだしな」
「そうですね。行きたいです、連れて行ってください」


いまにも、雨は止んでくれそう。
ぽろぽろ、と落ちてくる水滴を見上げて、そうしてそっと、土方さんを見る。
彼は着衣に何の乱れもなく、やはり疲労感など一切浮かべない、凛とした顔で庭を見ている。
……視線に気づいて、顔を動かさず、瞳だけで、土方さんはわたしを見た。


「どうしたんだ」
そう言って、そっとくちびるで笑った。
──あの、作り笑いみたいに。
それが作り笑いでないことを、わたしはようやく理解した。
ああ、そうだったんだ。


「………いいえ、ただ」
「……?」
「鴨川、楽しみですね」
「……ああ」


水嵩の引いた、穏やかな鴨川を歩くふたりを想像する。
土方さんはきっと、わたしの一歩先を歩いている。
わたしはそれを追いかけながら、彼の髪をなびかせた風が、彼の匂いをわたしに運んでくれるのをこころよく感じているだろう。
ずっと続いていたらしい雨天のあとの空は、生まれたての真新しい水色をしているだろう。
入道雲と、淡い太陽の光。
土方さん、そう呼べば立ち止まってくれる彼。

出会ったころに戻ることはできないけれど、わたし、また恋してる。
あのときと同じときめき──出会えたことに対する敬意がここにある。
好きなひとを疑ったことも、自分の殻に閉じこもったことも、何も信じられなかったことも、わたしは全部抱えていく。だからもう同じあやまちは繰り返さない。
土方さんと並んで見上げているうちに、上空ににわかに光が射しこんで、迷い雨を晴れ晴れと打ち消した。