一度も声を出さず、七度半、御旅所から八坂神社まで往復することができれば、願い事が叶うという。 心の中で(あとすこし、あとは八坂神社に辿りつけばいい)と何度も思いながら、誰にもわたしだと気づかれないよううつむき加減に早足で歩いた。 知人に声を掛けられてしまっては無言を貫くことはできない。 神様が願いをお聞き入れくださるのではなく、無言で七度半往復できれば願掛けになる。自分に強いた意地を通すことができれば、一種の決意になるような気がして、今年はわたしも実行してみることにしたのだ。 目立たぬ装いで出かけたし、それまで人だかりに知人を見かけてもさっと身をひそめてやり過ごすことができた。もうすこしだけ。あとすこしだけ。あとは最後のお参りをすればいい。 そのはずだったのに、 最後の最後で、見つかってしまった。 「」 「……」 人ごみの中、まぼろしのように姿を見せたのは土方さんだった。 彼は、わたしと鉢合わせたことをまるで驚くふうでもなく、人垣を遮って、わたしのそばまでやって来た。なかば信じられない気持で彼がわたしを見下ろしているのを見つめ返す。 わたしはきょうの午後、祭に浮かれる隊士の中、一人無関係な顔で腕を組んで散策していたこの人の姿を思い浮かべた。 土方さん、こんな人ごみなんか絶対参加しないたちの人だと思ってたのに、なんで……。 花街で飲んだ帰りなのだろうか……。 「ひとりか」 「……」 こくり、と肯くと、彼は「そうか」と目を伏せた。 夜も更けたというのに、満ち溢れた活気が尽きることはない。暗闇の中を、大きなひとつの流れに沿って、無数の人々が巡回している。活気が、ガヤガヤという大きな音の渦になって、夜空に響き渡った。砂糖とお醤油の焦げる匂いがした。足元に等間隔に置かれた灯篭が、土方さんの物憂げな横顔を、炎の色に照らしている。 「……」 「……」 いつまで、一緒に歩くことになるのだろう。 無言のままで過ごしていて怒られないだろうか。 八坂神社まで付いてきてくれれば、最後の参拝のあと事情を話して許しを請うこともできるだろうけれど。 「大変な人出だな」 土方さんの言葉に、わたしは肯く。 人垣の奥から、轟音のような笑い声が響いてきたが、土方さんの声と気配だけがわたしの頭の中に入ってきた。それ以外の音はすべて、幕のむこうの出来事みたいで、いまひとつ現実味がなかった。…… 八坂神社の山門に、いくつもの提灯が幾重にもぶらさがって、ぼうっと夜空を照らしている。それは、傍らにいる土方さんの端正な眉目を、わたしの網膜に焼き付けさせた。 どーん、どーん、と心臓にまで響く太鼓の音。笛の切り裂く高音の旋律も聞こえてくる。それは騒音ではなく、聴覚で味わう楽しい祭の一部だった。ああ、無言参りでさえなければ……。 「なぜひとりなんだ。伴する者がなかったのか」 「……」 疑問形はまずい……。わたしは、くちびるを噛んだ。 もう、やめてしまおうか。無言参りなんて。 ここで土方さんに変に思われてしまったら、無言参りを遂げることができても矛盾が生じてしまう。でも……あとすこしだけ。あとすこしだけどうか……。 「答えられないのか」 土方さんは、微かにくちびるを歪めた。 「きょうはえらく無口なようだが。……」 「……」 「……」 ふるふる頭を振って、なんとか意思の疎通を試みるけれど、 土方さんはわたしを見ない。彼はずっと真っ直ぐ前方を見ている。その華やかな提灯を映す琥珀色の瞳に、わたしの焦りなどが入るはずがない。 どん、 と人にぶつかってよろけた。 あっと声を出しそうになって、でもこらえる。 土方さんが片腕でわたしの背を支えてくれたので、倒れることはなかった。わたしはぺこと深くお辞儀した。触られた背中はすぐに自由になったけど、ひりひりと腕の跡が残った気がする。 顔を上げたら土方さんがまだ、遠くを見る目で前方を眺めていて……その冷たい横顔に、ひやひやした。 わたし、すごく失礼なことしてる。 ……さっきぶつかったとき、いっそのこと声を出してしまっていればよかった。 なにかの拍子で喋ってしまったら、さっさと諦めてしまえるのに。 いまからでも、謝ろうか。ここで土方さんに嫌われてしまえば元も子もない──。 「……参拝するのだろう?」 と土方さんは、黒山の人だかりとなっている神前を顎でさした。 石灯籠のそばで立ち止まった彼の顔に、炎の光が煌々と照っている。ひそめたやわらかい眉、切れ長の瞳の端正な美貌に威圧されて、わたしは、こんどは無言を貫くという意思のためではなく、自然と黙り込んだ。 「具合でも悪いのか」 わたしが頭を横に振ると、彼は、片方の眉をより、ひそめて──ふう、と涼しいため息をついた。 「……なにか事情があるのか?」 こくん、と肯く。 土方さんはすこし黙っていたけれど、やがて「そうか」と諦めたように言った。 「……私は参拝のつもりはないので屯所へ帰る」 「……」 「この騒ぎだ。不逞な輩がいるかもしれん。気が済んだらきみも寄り道せず帰れ」 「…………」 「……ではな」 気高さと怪訝さの、錯雑する瞳。 土方さんは、品のある薄いくちびるを一文字に結び、小さく顎を引いて……ゆらり、と踵を返した。 そうしてどんどん、早足で歩いていく。広くて大きな背中……。 行ってしまう。 行かないで。 そう言いたかったけれど、引き留めるすべもなく、その背が境内の人ごみに飲まれていくのを見守った。 会話を成立させられないのに、そばにいてもらおうなんて甘い考えだ。 それに、喋れないのではない。わたしは、喋らないのだ。自分の意志で黙りこんでいる。 (わたしは、願掛けしたいんだな……) 迷信だって思っても、心の底で信じてる。やり遂げて願掛けを成せたら、それは自信になる。 土方さんに失礼なことをしてしまっても、これで嫌われてしまっても、最後までやりたいらしかった。自分が思っていたよりもずっと、わたしは意地っ張りみたい──。 神前はものすごい人ごみだったけれど、流れが早くてすぐに順番が回ってくる。 軽く自己嫌悪と反省に苛まれながら、最後の御賽銭を投げて手を合わせる。七度目だから慣れたものだ……。お辞儀をして神前から人いきれを逃れて立ち去ったとき、ようやく無言参りをついに達成したのだと思った。 (──でも) そんなに晴れやかな気持じゃない。このまましばらくモヤモヤしたままだろう。 つぎに会ったら、土方さんに謝らなきゃ。 そのとき初めて、達成感を味わうことができればいいな……。 土方さんが怒っていませんように。 土方さんのことを考えながらとぼとぼと帰路につくと、止んでいた祭囃子がコンチキチン、コンチキチンと楽しげに響きわたった。縁日のまばゆい光と、煎餅を焼いている濛々たる煙が顔に掛かる。山門をくぐると、群衆を掻き分けた大鉾が、えっほえっほとやってくる。 (すごい……) ずっとうつむいて、誰にも見つからないようにしていたけれど、 改めて…お祭っていいなぁ。 汗をかいて眺めているだけでも、あそこで鉾を担いでいる男の人に混じって参加しているような気分になる。 疲れて坐ってる人や、寝ている子をしょって見物に来ている人、松の木立でしきりになにか食べている人、猿まわしの大道芸、お酒の匂い、楽しい和楽器の調べ。酔ったような一体感。 こんなときに、すこしだけでも土方さんと歩けてよかった。 自分で反故にしてしまったけれど。 まさか待っててくれてるわけないよね、 虫のいいことを期待した刹那、石段のふもとに、その人は立っていた。 腕を組んで、鉾のほうを眺めている。 「……!」 すぐに彼のそばに駆け下りると、土方さんはゆっくり顎をこちらに向けて、瞳の端でわたしを一瞥した。 「済んだのか。早かったな」 「………」 「あなたは無言参り、とやらをしているんだろう?祇園の坐敷でそのようなことを聞いたことがある。ふと、思い出した」 こく、と肯くと、まばたきの一瞬、土方さんは苦く微笑した。 提灯の光がぼんやりと長身の姿を照らしていて、やわらかい陰影を刻んでいる……。 その表情、夢の中で見たことがある。 土方さんの微笑。すぐに無表情の壁に遮られてしまったけれど。心の中に包んでいた情景が、遠囃子に紛れて叶えられた。 「まだ続くようだが……どこに行けばいい」 「……、」 ふるふる、と首を横に振ると、土方さんは、伏せていた睫毛ごと、鋭く目を細めた。 「それとも、もう終わったのか?」 「……」 こくん、 と肯くと、土方さんは「そうか」と短く言った。 「一体、いつまで無言なんだ」 「……あっ、もう済みました」 そういえばもう終わったんだ。 久しぶりに声を出したので、まるで麩菓子でも食べたようにしわがれている。 咳をこぼして喉を整えながら、土方さんとゆっくり京の町を歩きはじめた。 「何度か参らないといけないそうだが」 「はい。七度です。けっこう骨が折れました」 途中、まるで平安の世のような牛車ががらがらと通りがかった。 土方さんは腕で制して、わたしを立ち止まらせた。 牛車が行ってしまってから、またわたしたちは歩きはじめる。 右腕に土方さんの気配。 涼しい顔をしている彼の首筋に、朝露のような汗がひとすじ、つうっと落ちた。 「なあ。……それほど懸命になって、なにを願うことがあったんだ」 「え……?!それは……、」 「……」 「……すみません」 「……」 「秘密です……。すごくくだらないことだと、思ってください」 「……そうか。……いつも明るいやつが静かなので、気になったんだが」 「わたしのことですか?」 「そうだ」 からから、と下駄が石畳に跳ねて高い音を立てる。 牛車の次は、山鉾を迎えるための人だかりがどっと押し寄せてきた。 広々とした往来が、立ち往生するほど混雑している。その人の群れに分け入って、土方さんは不機嫌そうに道をつくっていってしまう。急いで小走りで追いかけて、ゆるやかに人垣もまばらになったころ、ふたたび、となりに並んで歩いた。 「土方さん」 「?」 「先ほどは大変失礼しました。黙ったまま応対して」 「ああ……」 とろりと重い夏風が吹いて、 土方さんの優しい髪の一房を揺らした。 「どうしても意地になってしまってて……」 土方さんは、なにも言わず、静かな低音の笑みを鼻腔の奥から漏らした。 それを聞いたとき、汗をかいたうなじの産毛が そわ、と粟立った。 「いつもと感じが違うようだが……もしかしてそれは、変装のつもりか?」 「あ……はい。土方さんには見抜かれましたけど……」 自分の地味な柄の袂を広げてみせたが、彼は見もしてくれない。 「かなり遠くからでも目立っていたが」 「ほんとですか?こそこそしてるから逆に目立ったのかなぁ……」 「きょうに限ったことじゃない。きみはいつもなぜか目につく」 「え?そんなことないですよ」 「いや、ある。どこにいてもわかる」 どこにいてもわかる……。 冗談なのかそうでないのかよくわからない、あいまいな棒読みの声が、記憶に刻まれる。 無言参りの道中、土方さんがわたしのまえに現れたことを、ゆっくりと思い浮かべた。 “” “ひとりか” ……あのときの驚きと、 “済んだのか。早かったな” ──待っていてくれた嬉しさ、 (巡り会わせかと、思った) 「……ここで待っていると、一番でかい山鉾が通っていくらしいが」 四条大橋の中腹、人気のやんだところで立ち止まり、土方さんは腕を組んだ。 穏やかな鴨川のせせらぎが聞こえる。手すりに手を掛けて、わたしは彼を見上げた。 「すこし見ていかないか?」 「!」 ……こくりと肯くわたしに、土方さんは顔を背ける。 無言参りは終わったのに、気の利いた言葉が思いつかなくて、 結局黙ってしまう──でも、いまばかりは会話がいらないように思う。 土方さんの横顔に、共有する沈黙の心地よさを感じるから。 わたしは、七度も、手を合わせた願いを反芻する。 (──どうか土方さんのそばにいさせてください) 彼を見上げてもう一度、祈るように想った。 視線に気づいた土方さんがそっと振り向いて──端正な眼差しで見つめ返してくれたあと、 ひやりと微笑した。 「見ろ、あれだ。いよいよ来たな」 「はい」 暗闇を切り裂いて、熱狂的な群衆の人だかりと、おごそかに掲げ上げられた赤い光と山鉾が姿を見せる。ものすごい人いきれが、ずんずんやってくる。 かやくのような、燃える祭の匂い。胸に響く、足踏みの振動。 となりには土方さんがいてくれる。 ちんちきちん、どん、ちんちきちん、どん。 近づいてくる祭囃子に耳を澄ましたら、 わたしの願いが、いよいよ叶ったような気がした。 |