滅多に屯所から出ない土方さんが、その日は会津藩邸に出向いていかれるとかなんとかで、とにかく、朝の幹部会のあと駕籠も遣わず徒歩でさっさと行ってしまった。おりしも昼より山間の向こうから灰色の分厚い雲が顔を覗かせて、慌てて洗濯物を取り込んでいるまにざんざ降りに見舞われた。たぶんこれを皮切りに本格的な梅雨を迎えるのだろう。普通の雨降りではない濃い湿気と、よその土地の匂いを連れてきている。
手ぬぐいで濡れた着物を拭いながら、土方さんのことを考えた。……まだ帰路についていないのだろうか。どこかで雨宿りしているのだろうか。笠を借りて、歩いて帰ってくるのではないだろうか。
考えている間に駕籠かきが見えたので、つい「会津藩邸へ……」と頼んでしまった。


「土方さん!」
駕籠から顔を出すと、ねずみ色の景色に、背の高い浅葱色のその姿を見つけることができた。雨足はかなり弱まっていた。他に誰もいなかったのが幸いして、視界の悪い窓から見つけることができたのだ。笠をつけた彼はわたしの声に気づき、足を止めた。
駕籠かきに礼を言って外に出ると、あらゆる匂いがむっとただよって鼻をついた。道々の草花は、雨にやられてうなだれていた。
土方さんは一目ではあまり濡れているようには見えなかった。
ぴとんぴとんと、軒下の雨どいが、通り雨の最後の清らかな一滴を奏でている。
さん」
「雨だったので傘をお持ちしたんですが。……この様子では、いらなかったようですね」
「いや、じきにまた一雨くるでしょう」
はあ……と小さく洩れた彼の息が、白くふわりとけぶる。微かに疲労しているかに見えたそのこめかみに、細い水滴がつうと滴った。
「土方さん。これを……」
「……」
手ぬぐいを渡すと、彼は黙って受け取り、それで袖についたしぶきを含ませた。丁寧な拭い方だと思った。
往来は洗い流されてしまったように誰も彼もない。ぬかるみを歩けば、わたしの足もあっという間に汚れてしまった。
「あなたを連れては走るわけにもいきません。どこかで時間を潰すなりしましょうか」
「時間潰すっていっても……」
まさかあそこにある出会い茶屋に入るわけがないし。
ちょっと焦って、わたしはすぐに目を逸らした。
「あ、あそこにあるの湯屋じゃないですか?」
「?」
「ほら、あれですよ。」
「ああ……」
「汚れも取れるし、あったまって風邪もひかないし、一石二鳥ですね」
「……」
「あそこにしませんか。着物も貸してくれますし」
焦りを隠したくて、大げさにわたしは言った。
「…………、仕方ない」
土方さんはいつもよりくすみの濃い目許をひそめて肯く。
のれんをくぐって湯屋番に二人ぶんの銭を払う土方さんを見ながら、けさのうちは、こんなことになるとは思いもしなかった、なんて考えていた。


女湯の脱衣所には、人の気配も脱いだ着物すらもない。
梅雨はどの店も商売にならないというが、それは湯屋でも例外ではなかった。大通りに誰もいなかったことを思い出しながら、汚れてしまった着物を脱いで柘榴口をくぐる。わりとこじんまりした、華やかな内装の木の部屋が、あたたかい湯気を閉じ込めている。
体の汚れを落としていると、木の壁の向こうから、誰かの足音が伝わってきた。
(……土方さんだ)
ひたひた、
ひた、
と静かに濡れた床を歩いて、その気配が立ち止まる。
桶を取って、お湯を流す、さらっとした音が響いてきた。
「……」
男湯のほうも、誰もいないようだ。
とぽとぽとぽ、と湯船を新しいお湯が叩きつづける控えめな音が継続して響いている以外は、土方さんの動作が聞こえてきて、そうしたくないのに耳を澄ませてしまう。
(わたしって女のくせに変態なんじゃ……?)
壁の上部は男湯と繋がっていて、互いの湯気を共有している。あの隙間のせいで、とても気配が伝わってくるのだ。
なんとなく身の置き所を失くしたような心細さを感じ、音をたてぬよう息をひそめてしまう。土方さんは体を洗い、行水するかのように何度もお湯を浴びたあと、女湯のほうにある壁に向かって歩いてきて、静かにお湯に浸かった。こちら側の浴槽は、男湯の壁と隣接している。ということは、湯気だけでなく、浴槽も下で繋がっているのだろう。


米糠でしばし無用に洗いつづけていたけれど、意を決して立ち上がり、浴槽まで歩いていく。
ぴたぴた、と自分の足音がこだまして恥ずかしくなった。
湯船から掛け湯をして、足を浸す。
腰までつかると、ざぶりとお湯が溢れて、大仰に響いた。
(……この壁の向こうに土方さんが……。)
ちゃぷん……。
天井からしたたるしずくが、男湯と女湯どちらに落ちたものだったかわからない。
膝を抱えて身じろぎすると、そこの板敷がわずかにごとりと音を立てた。土方さんはピクリとも動かないのか、湯に波紋が届いてこない。その完璧な無音に、さすがだな……なんて思った。
「………」
「………」
「………」
なんにも音はしないけれど、
たしかにこの壁の向こうに土方さんはいる。
湯気にまぎれる沈黙が、微かな存在感を運んでくる。
「……」
わたしはケホ、と咳をひとつした。
濃い湯気に、すこしだけ噎せてしまった。


「土方さん」
思い切って発した声が、ぼわっと膨らんで響きわたる。反射した声に、わたしの声ってこんなのだったっけ、と思った。
「……」
あの人は黙っている。わたしは、お湯の中でそっと脚を伸ばした。お湯に首まで浸かると、とたんにのぼせそうな気がした。
「いいお湯ですね」
「……」
「土方さんは、わたしが来なければ、お一人でお帰りのおつもりだったんですよね?」
「ええ」
ここに来て、初めて発せられたその声。
いつもと同じ声量であろうけれど、とても聞き取りやすく、そしてとても棒読みに感じる。声を聞くと、土方さんの表情が想像できた。きっと目を閉じているだろう。
「すみません。さっきは、謝りそびれてしまって……」
「なんのことです?」
「余計なおせっかいで、足留めさせてしまったことです」
「……」
「……」
腕を広げてお湯の中でゆっくり回せば、ちゃぷ、とみなもが弾んで揺れる。
とんとん、と天井から大きな音が響いてくる。きっと通り雨の再来だろう。
あたたかい湯気を吸い込むと、鼻腔を通って水分が体の中に入ってくる。気道まで清潔になるような、心地よい湿度だった。
「風邪を引いたのでは?」
「え……わたしですか?」
「さっき、咳をしていたようですが」
「あ……大丈夫です。なんだか噎せただけなので」
「そうですか」
「……」
「……」


さん。──つかぬことを訊きますが」
「はい?」
「私とあなたがいい仲だと隊士たちは思っているらしいのです」
「はい!?」
「そのことを、知っていましたか」


「……」
小さくどきりとしただけだったはずなのに、のぼせかけているのか、胸の衝撃が鳴り止まない。
無意識にうなじを触ると、首筋が心細くなった。
隊士たちはなぜかわたしに、土方さんへの言伝やらを頼んでくることが多かったから、
そうなのかなあ……と思い当たるふしもあったけれど……。
それよりもなぜ、土方さんがあえて口に出して言ったのか、その意図がわからない。
わたしの気持が見え透いていて迷惑だったのか、
だからあまり身辺に寄るなと言いたいのか。
そんなことを想像して、お湯に浸かっていないところがますます寒くなった。
「……なんでそんなことを仰るんですか?」
「……」


ちゃぷん、
土方さんがようやく身じろぎしたのか、男湯のほうからみなもの揺れる音がした。
「あなたは宅からの預かりものだ。その名に傷をつけるようなことは避けたいのです」
いつもと同じ声が、湯気に紛れてすこしだけ反響するように聞こえてくる。
わたしは小さく肯いた。肯いても、土方さんには届かないけれど。


「湯屋からあなたは駕籠に乗ってください。手代に駕籠かきを呼びに走らせましょう。私は番傘で帰ります」
「……」
「よろしいですな」
「……」


「土方さんは、」
と言ったところで、わたしは口を噤んだ。くちびるが、湯気でふやけている。
わたしはなにを言おうとしたのだろう。なにが言いたいのだろう。
とんでもないことを口にしようとしていた。
「なんです」
「……土方さんは、傷がつくんですか。わたしと噂されて、困ることがあるんですか」
……口にしてしまった。


「どうして私が困ると?」
「……もし本当にいい仲の方がいらっしゃるなら、って……そう思ったんです」
「そんなもんはないが……」
ふっと笑う気配がした。
「私は所帯を持てる身ではないので、どのような噂を叩かれたところで結構なのです」
(……ああ)
やっぱり。
そういう人だとは、わかっていたけれど……
(ぜったい、実らない想いだって……)


土方さんは志があって、そのためだけに多摩から京にやって来た人で、人もたくさん斬っていて、命がけで日々戦っていて、だから、他のことなんて眼中にない。
男の人はみんなそうなのだ。土方さんは、特に。
(……いいなぁ)


「わたし、男に生まれたかったです」
「そうですか」
「はい」
「なぜ?」
「だって、嫁入り前とか気にせず、好きに遊べますもの」


いまのわたしのように、想いに振りまわされたりするよりは、よっぽど明朗に生きていけるだろう。それに、土方さんのお傍にずっといることができる。
………それを望んでしまう時点で、わたしは、どうあがいても女なのだけど。
「あなたは、遊びたいのですか」
「はい。飲みに行ったりしたいです。わたしが男だったら、いまごろ四条あたりの飲み屋で時間を潰してたんじゃないかなあって」
「……あなたが、男だったらか」
ちゃぷん、ぱしゃ、
お湯を掬って流す音がする。
「考えたくもないな」


ざぶん、
と大きな音がした。
土方さんが、湯船から立ち上がったのだ。ぴかぴかの湯気の中、濡れた目許をぬぐう仕草を想像して、かぶりを振るう。あぶないあぶない。へんな想像をしてしまうところだった。
「私は先に上がっています。二階で待っているので、支度が済んだら来てください」
「はい……」
「……」


ひたひた、歩いていったあと、ぴしゃぴしゃ、と米糠か手ぬぐいをきつく絞った音がした。
ひたひた、静かな足音が、柘榴口の向こうに消えていく。
彼の気配が完全に届いてこなくなってから、わたしものろのろと立ち上がった。




浴衣を借りて、湯冷ましを一口飲んでから、二階に向かう。細い木の階段を上がっていくにつれ、頭上に伝わる雨の音が激しさを増していく。どんどん、とんとん、とことこ、だんだん。乱雑な音が、湯煙をまとう赤らんだ肌を、突如として薄ら寒くさせた。
木の襖を開けると、窓べで土方さんが胡座を掻いている後姿があった。広い座敷に、当然のように他の誰もいない。
わたしは薄紅色の浴衣を着ているが、土方さんは渋い藍色だ。首筋や耳元が、なんとなく無防備なものに感じられる。手許には大小の刀が携えられているのだけれど。
「済みましたか」
お風呂の中で聞いたときより、まっすぐ、細く聞こえるその声。
横顔を見ると、心に思い描いたものよりも美しく端正なものがそこにあった。
「はい。いいお湯でしたね」
「……」
「すごい雨ですね」
「ええ」
まるで鉄砲玉のようだ。窓べを叩く飛沫が、顔にときどき飛び跳ねてくる。大通りを見下ろすと、誰もいない地面が浅瀬のように濁流している。なにもかもが白くけぶり、さっき強く感じた植物の匂いすらも、強い豪雨に掻き消されていた。
「……これでは駕籠もだせませんな」
「そうですねえ……」
「……小半時ほどでやんでくれるでしょうが」
「そうですね」
「……」
「……」


沈黙を守りながら、思うことはひとつだけ──お風呂の中で交わした会話のこと。
わたしは、自己変容を求めている。このままではいやだった。こんな弱い自分も、土方さんとの関係も。
激しい雨は軒を滑り落ちて、しずくというよりは厚い水の壁になり、滝のような激しさを持っていた。このままやまなければいい。ひそかに祈るように指と指を握りながら、かたわらにいる土方さんの体温を腕に感じた。このまま、やまなければいい。ずっと。


「……なにを考えているのです?」
わたしの秘密の願いを見透かしたように、土方さんは言う。
彼のくぼんだような平べったい頬、その酷薄な口許を見て、わたしはしどろもどろに視線をさ迷わせた。
散々迷って、恐ろしい瞳に目をやる。
そう、恐ろしい。
この、切れ長の、長い睫毛に縁どられた、琥珀玉のような瞳が。


「考えたんですけど」
とわたしは言った。まだ、入浴中のときのような、湯気でくちびるがふやけたような感じがする。体が熱いのは、お風呂上がりだからなだけではなくて。土方さんの視線を感じるところが、じわりじわりと熱を帯びつづけているのだ。まるでそこを、焦がされているかのように。


「さっき土方さんは、わたしの名に傷をつけたくないとおっしゃいましたが」
「……」
「わたしは、名が傷ついても、構わないと思います」
「……」
「土方さんがご迷惑でなければ、ですけど……」


話しているうちにだんだん、勢いづいていたものがなくなってきて、語尾も小さくなっていって。最後のほうは、反比例するかのようにますます強まった雨音に負けていってしまった。


「…………」


土方さんは眉をひそめて、憂愁のまなざしを窓べに向けていた。
そうしてやがて、固く閉ざしていたくちびるを開いた。
「そうですか」
その、短く囁いた声に、甘い余韻を感じてしまう。
低い声なのに。低くて、掠れていて、抑揚がなくて。
「それではなおさら、配慮しなければなりませんな」
「……」
「……大切にします」




──
……え?

それ、どういう……。


驚いて慌てて、なお耳を疑うわたしに、土方さんは横顔しか見せてくれない。
まるですまし顔のように、いつも以上に冷たく、無機質に見える、その横顔からはみ出した長い睫毛がまばたくと、瞳の端だけで彼はわたしを一瞥した。たちまち、くらくら、と気が遠くなりそうになる。
聞き間違いではないかと疑う中、心臓だけが深読みしたかのようになにやら、ばくばくと騒ぎはじめて──
(いやいや、世間的に名を大切にしてくれるって意味で言っただけで)
(けっしてわたしすべてのことを大切にしてくれるっていうわけじゃあ……)


期待半分、疑惑半分。
いまだに聞き間違いじゃないかしら、と訝しむわたしの心中などすべて承知しているかのように──土方さんは、淡いほくろのある口許に、ふっと微笑をふくませる。
その笑い方が、大人の男の人の所作だった。
どうしよう……きれいすぎて。目が合うだけで、動揺するなんて、きれいすぎて、どうしよう……。






「湯冷ましをくれ」
いつのまにか背後を歩いていた店の者に、土方さんが声をかけている。おふたつですか?という声に対して、彼は、「いや。ひとつだ」と伝える。
湯冷ましは、すぐに届けられた。足音が階段を下りていく気配がして、ふたたび土方さんとふたりきりの状況に戻ったことを知った。
さん」
「あ……はい」
「これを」
「ありがとうございます」
湯冷ましの入った湯呑を渡されて、わたしは、それをごくごくと飲んだ。
だが、すっかりのぼせあがった体には、一杯ごときでは沈静できない。
「通り雨にしては、ずいぶん長いようだが」
「そうですね」
「もうすこし足留めをくらいそうですな」
「……。そうですね」


それを望んでいると知ったら、土方さんはむっとするだろうか。
怒らせるのがこわいから、秘密にしたまま。口に出さないで、顔にも出さないで。
膝の上で湯呑を握りしめて、ぎゅっと祈った。
もうすこしだけこのまま、雨がやみませんように。
そしてどうか、できるならばもう一度、土方さんがさっきの言葉を言ってくれますように、と。