「壬生狼の副長はおなごを好いたりするような御人やないえ」 「あんたはええように利用されたはんのや」 一人で歩いていると──突然花見小路の往来で、知らない人にそう叫ばれた。 あの人がそう言った理由が、わたしを案じてのことか、別の思惑があってのことかはわからない。 (……利用か) あの人は、土方さんとわたしの間柄を男女のそれだと思ったのだろう。二人で歩いているところなどは、おそらく壬生中の人たちが見かけているはずだから。 だが利用されようもない。わたしは人脈も権力も財産もないただの小娘で、しかも手を触れられたこともないのだ。 * 「……」 「……」 じゃ、じゃ、と地面を踏みながら、春の宵を二人で歩いた。 どこかから、甘い梅の香気が漂ってくる。それは人のいない、土埃の落ち着いた澄んだ空気だからこそ、日中よりも強く香った。 土方さんはわたしを、自宅まで送ってくれている。壬生の屯所から間近なところにある、わたしの家。もう角を曲がればすぐに着いてしまう。 無言のまま、門前に着くと、土方さんは“ではな”と言って、元来た道を歩いていくのだろう。 心に燻りを抱えたままわたしは、きっと今夜も眠れない。 ……ちらと見上げると、左隣のずっと高いところに、土方さんの横顔がある。道々の灯篭が地面を照らしているけれど、彼の顔までは届かない。その横顔を暗闇に照らすのは、まばゆいほどの月光だった。青白く瞳の下あたりが照らされて、彼の肌が薄く光っているように見える。 「……」 「……」 ……土方さんはおなごを好きになったりしない人…… か。 もしかしたらその通りなのかもしれない。その心はきっととても硬くて、わたしのそれとは造りが違うのだ。わたしが隣を歩いているだけでどきどきしても、彼はいまも、物憂げな様子でずっと前を向いている。 なにを考えているのかな。 わたしのことをすこしでも想ってくれたことなんて……ないんだろうなぁ。 「……」 「……」 それなのにどうして、一緒にいてくれるのだろう。 手も触れないくせに。 (………まさか、他の女避けだったりして) わたしという女がいるふりをして、誰とも付き合わないつもりとか。 どうしよう。ちょっと有り得るかも……。 そんなことを考えて少々落ち込んでいると、もうわたしの家のそばに着いてしまった。 土方さんは素っ気なく前方を眺めつづけている。 ……さっきから一体、なにを見ているのだろう? 彼の視線を追って空を見上げれば、煌々と輝く、傾いた三日月がかかっていた。 ずっとうつむいていたから気がつかなかった。 なんてきれいな月だろう。 「見事な春三日月だ」 掠れて落ち着いた、最後に余韻が甘く聞こえる声。 聞いているだけでひりひりと鼓膜を震わすようだ。 「………春三日月、って言うんですか?」 「ああ。あのような釣り船型をしているのだ」 「きれいですね」 土方さんって風流なんだなあ…。 白金色の光が、土方さんの顔半分を照らし、もう半分を影に隠している。 彼はきりりと目を細めた。神経質そうな小さな頬骨がわずかに動いた。 「……さん」 「はい?」 「八木の御内儀から聞いた。あなたが先日、花見小路で妙な女に付きまとわれていたとな」 「え?」 「どう絡まれたんだ?」 「……」 まさかあの場に、知り合いがいたとは気づかなかった。 土方さんはどこまで聞いているのだろう。 わたしは、それを土方さんに伝えるのがいやだった。 詮のない中傷を彼に伝えることで、まるで自分がひどく傷つくような気がした。 ……土方さんがおなごを好いたりしない、利用している人だなんて……彼からすれば一笑に付す内容であるのだろうけれども。 「……」 「……あなたが怯む理由などないだろうと思うが」 「お伝えするのも憚られるほど、くだらないことなんです」 土方さんは、わたしの目線の高さにあるそのくちびるを、微かに歪めた。 「そうか。ならば致し方ない」 さっと顔を背けて、腕を組む。夜の帳を揺らして、梅の香気が鼻をくすぐった。 清らかな冷たい風が、わたしと土方さんのあいだに強く線を引いていった。 彼は虚無の横顔をしている。こうなってしまっては、なにを考えているのか一切読めない。 だが、なんとなく関係が冷たくなったような気がした。 「……引き留めたな、早くうちへ入るように」 「……はい」 きしむ門扉を開け、中に入って閉める。 土方さんはわたしが庭に入ったのを見届けてから、「ではな」と踵を返した。 「おやすみなさい…」 「ああ。おやすみ」 黒足袋の草履で、じゃっ、じゃっ、と砂を潰す小さな音が、遠ざかっていく。 ………。 こうして、なにも言いだせぬまま、毎晩気にして、今晩も同じ日を繰り返すのだ。 その背中が行ってしまうのを見つめていると、こらえがたい衝動が喉を突いた。 “──あんたはええように利用されたはんのや” ……そんなことは、どうでもいい。 「土方さん」 咄嗟に、門を出て呼び止める。 彼はすぐに立ち止まり、きびしい顔で振り向いた。 小走りで駆けて、傍に寄る。 高いところにある切れ長の瞳。怪訝そうにも、怒っているようにも見えるほど、ひそめられていた。 「どうした」 「いえ。……あの」 唾を飲みこむと、ごくりといやな音が鳴る。 ほんの少し駆けただけなのに、心臓がどきどきとうるさくて、土方さんにも聞こえているに違いない。……堅く組んだ両腕に守られたその胸が、わたしと同じように鼓動することはあるのだろうか。わたしはこの人が、驚いたり焦ったりしているところを見たことがないのだ。 「あの、もしよかったら、すこし上がっていきませんか?お酒くらいありますから」 「………」 「………」 「なぜいまからなんだ。眠らないつもりなのかね」 「いえ、いつもお世話になってますし、すこしお話もしたくて」 「………」 「………」 「だめですか?」 「……私は明朝、外せない仕事があってな」 「……そうなんですか……」 「……」 すっと体温が冷えて、ますます土方さんが遠くなった気がした。 それもそうだ。この人はとても忙しいのだから。急に誘うなんて、失礼なことだった。 「ごめんなさい。そうですよね。またこんど日を改めてお誘いしますね」 「ああ……だが夜分に誘うのはやめるべきだな」 「え?」 「一人住まいだろう。誤解を招きかねないのではないかな」 見詰めあう視線のあいだを、夜風に乗って梅の香りが漂った。 それは緊張して潤むわたしの目の水分を、すこしだけ飛ばしてくれた。 「大丈夫です。誰にでもそうするわけじゃないし……相手はあの鬼の副長と呼ばれる土方歳三ですよ」 「……ほう」 「他の男とは違います。副長殿は誤解なんてしない御人ですもの」 「そうか」 「はい」 「…男なら誤解しないわけがないと思うが」 ふっ、と小さく、微かに皮肉っぽく笑った彼の吐息が、わたしの眉間に届いた気がした。 組んでいた腕を解き、大きな右手がゆっくりわたしの顔に向かって伸びてくる。 (?……) 驚く間もなくそれは顎を持ち上げて、 わたしのくちびるを、ぷにゅっ、と触った。 「……!?」 目を見開いた瞬間、 なんだかとても美しいものが近づいてきて、 ──目の前が真っ暗になった。 「………」 くちびるを奪われたのだと知ったのは、 すでに土方さんが顔を離してからのこと。 いつもどこか歪んだふうな口元が、微笑とも苦痛ともつかない、複雑な具合の口角を結んでいる。 「……」 まだ、わたしの顎に、彼の手が添えられている。 それがするり、と下ろされて、わたしはすっかり、元の自分に戻った。誰にも触れられていない自分に。 それなのにくちびるに、まだ触れられているときの感触が、生々しく残っている。 しっとりした、薄い、優しい、その感触。 それはいま、わたしの目線の先で、苦い弧を描いている。 くちびるに指をあてると、土方さんのくちびるの残影が、薄皮に閉じ込められるような気がした。 かすみのように、すぐ蒸発してしまう、きれいな湿度。 それを撫でると、指先が小さく震えた。 (……うそ、いまのって……) 「……」 「……」 「土方さん、わたし、……」 茫然と囁けば、土方さんの右側の涙袋がぴくりと引き攣る。 口元にある浅く薄い皺が、彼の表情をきびしいものに感じさせた。 「あなたを抱きたくなったが……」 「……!」 「今夜はやめておこう」 複雑そうに微笑して。 混乱気味に考えるわたしの肩を、土方さんは片手で掴んだ。 梅の香りを遮って、あたたかい干し草のような匂いがした。 ……これが土方さんの匂いなのだろうか。 いつも腕を組んでいる、あの懐にいま、抱き寄せられているのだ。 とくん、 とくん、 とくん、 心地よい心臓の音が聞こえる。 (あ………、) 顔が、近……。 (きれい……) ……まるで宝物のように、落ちてきたくちびるを受け入れると、 あの湿度が、わたしの薄皮を潤した。 くちびるのついばむ、ちゅっと響く小さな音が、心の深淵に波紋を落とした。 “……壬生狼の副長はおなごを好いたりするような御人やない” (──いいえ) そんな人じゃない、 なにがあっても、これからは信じていける。 土方さんの腕と体温の中。どこか他人行儀な硬い抱擁に、しみじみと愛しさが湧いてくる。肩ごしに射す一条の光が、心に立てた誓いをまっすぐに照らした。 |