土方さんが数名の配下を連れて江戸へ出立し、一月後に帰ってきた。夏の鋭い陽射しがきびしい日だった。彼らは無事目的を完遂したことを祝って、旅の疲れを祇園で癒すのだという。
鍛錬や馬鹿騒ぎでやかましいことが常である屯所も、この日ばかりは人気がなくひっそりとしている。
わたしは、縁側に坐って、中庭をぼんやりと眺めていた。
こんなに静かな中庭なんて不思議な気がしてくる。
誰もいないわけではなく、門前で稽古している声が、勝ちどきのように青空を割って時折響いてくるけれど、それがなければまるで、この世にひとりぽっちのような気がしたであろう。
土方さんが出立したときは、まだ微かに春のやわらかさがあったけれど、梅雨が過ぎ、いまでは白い光と黒い影のきびしい熱気ばかりが眼前にある。
……祇園にはきれいな人ばかりなんだろうな。
そんなことを考えて、縁の下で爪先をぶらぶらと揺すっている。いつもは隊士のおさんどんで目が回るほど忙しいけれど、きょうばかりはとてつもなく退屈だ。
……土方さんは、馴染みの人がいるのかなあ。


か」
後ろからすら、と障子の開く音がして、感情の読ませない、抑揚のない声が響いてきた。
振り返ると、すぐそこにある副長室から土方さんが出てくるところだった。
腕を組んで、坐りこんでいるわたしを見下ろしている。
「……土方さん。みなさんと祇園には行かなかったんですか?」
彼はそれには答えない。わたしは動揺しつつも立ち上がって、彼が中庭に下りていくのを眺めていた。
草履を履き、じゃり、と地面を踏みしめる姿が、青葉の萌える公孫樹の下、そこにある。
一月のあいだ、彼の不在を知っていても、いつもどこかにその姿を捜していた。いま、ようやく見つけることができたような気がした。
「…私がいない間変わったことはなかったかな」
この声を聞いているのは、現実だ。彼は、井戸の柱に手を触れた。
「はい。なにも」
「そうか。ならいいんだ」
「……ご実家や試衛館にもお立ち寄りに?」
「寄りたかったのだがな。生憎と叶うことはなかった」
「お忙しいお旅だったのですね」
「ああ」
「道中なにかおもしろいことはありました?」
「……それは他の者に訊いてみるがいいだろう」
ひやりと、清涼な風が空から薫った。土方さんの、茶色っぽい断髪が揺れる。
公孫樹のとても高いところにある枝が、土方さんの耳に触れそうだ。
わたしの記憶の中よりも、はるかにこの人は長身なのだ。
土方さんが帰ってきてくれた。それが嬉しくて、なぜだか胸が張り裂けそうだ。


「人がいないとこんなに静かなんですね」
わたしも草履を履き、中庭に下りる。
屋内とは違う、空気がしんと冷えるような外気を感じる。
土方さんは黙ってわたしに背を向けていたが、ややあって、ゆっくり体ごとこちらを向いた。
「うるさい連中が非番でない限りはこんなものだ」
「それって原田さんのことですか?」
「彼だけではないが、わざわざ口に出すこともあるまい」


わたしは土方さんの顔を見た。
ご帰還されたのを出迎えたとき、彼は笠を被っていたのでわからなかったけれど──その顔はまるで一月前と変化がなかった。日焼けもなく、疲労感も浮かんでいなかった。
帰ってきたばかりなのに、長旅の痕はそこにはない。
「土方さん、お疲れのはずなのにそう見えないのがさすがですね」
そうわたしが笑いかけても、彼の横顔は無表情だ。
なんとなく浮かれてしまっている気がして、不意に自分が恥ずかしくなる。
そうは見えなくとも土方さんはお疲れであることに違いないのだから、もう退散したほうがよいだろう。きっと祇園に行かなかったのは、お一人になりたかったからなのだ。
そう思ったとき、彼は静かに「江戸にいた折」と口を開いた。
「夜、一度だがきみのことを考えた」
「……わたしのこと、ですか?」
「いまごろ彼女の部屋の行燈が、吹き消された頃だろうと」
「……」
くちびるを噛んで、頬に迫る熱を掻き消そうと試みる。
これは何気ない会話なのだから、意識しては、いけない……。
「お察しの通り、土方さんがご不在のあいだも、寝る時間はいつも通りでした」
「そうか」
土方さんは、ふ、とくちびるに微かな苦い笑みを浮かべる。
眉間を薄っすらと寄せたその顔、その口元に、細かい皺が幾筋か刻まれている。肉が一切ないために、表情による変化が皺になりやすいのだろう。
そうしていると突然、三十を過ぎた男の顔になったように見えた。


「……ご無事のお帰りで、本当によかったです」
「……」
「わたしも土方さんのことよく考えてましたよ。今頃は東海道のどちらかしら、なんて思ったり。ちゃんと旅籠に泊まれただろうかと、思ったり……」
笑ってそう言ったあと──なんだかとんでもないことを口にした気がして、だんだん語尾が弱まった。……わたしはやっぱり浮かれてしまっている。
後悔する前にはやく退散しよう、くちびるを噤んでそう思ったとき。
土方さんは、懐に手を入れて、握った拳をわたしに出した。
「?」
手を差し出すと、ことん、と紙に包まれたものが落とされる。


「みやげだ」
と彼は手短に言い、口を噤んだ。
「……!ありがとうございます……!」
「ああ。懐にでも入れておくといい」
「嬉しいです。豆菓子でしょうか?」
「いや。金平糖だ」
「金平糖……!?そんな高価なもの、いいんですか?わたし、見たことはあるけど食べたことないです。どんな味がするんでしょう?前の公方様のご好物だったとか、滋養にいいとか、言いますよね」
「さて、わからんが。砂糖だからさぞ甘いのだろう」
「土方さん召し上がっていないんですか?だったら……」
ぜひ一緒に、と言いかけたところで、土方さんは腕を組み、制するように首を一度横に振った。
「私はいい。きみに食べてもらいたいのだ」
「……」
ぎゅっ、と締めつけられたような苦しさが込み上げた。
土方さんがそんなことを言うと、わたしは陶酔しそうになる。
こらえようとすると、そのたびに息もできない。


「他の者に、取られないようにしなさい」
「……はい」
やわらかな上質の縮緬紙は、折り目が微かに毛羽立っている。土方さんが、懐に入れて持ち帰ってくれたからだろうか。
まるでお守りのように、わたしはそれを両手で包みこんだ。
帯の中に大切に仕舞い、しっかり収まっているのを確かめてから顔を上げる。


(……あ、)
土方さんと、目があった。
目の覚めるような美しい双眸が、琥珀石のように見える。
冴え冴えとした目蓋を、おなごのようにやさしい睫毛が縁どっていた。


一瞬のち、どこか険しく、土方さんは目を細めた。
「…時が許せば──本当は簪のひとつでも買ってやりたかったのだがな」


(……土方さん)
胸の奥で想い人の名を囁けば、わたしの心があらわになるようだ。
いまになってようやく、お傍を離れていた一月が終わったのだと実感した。
その身を案じて不安に駆られもしたが、すべて済んだいまとなっては、苦痛すらも愛おしい。
笑顔を向けて見せれば、土方さんはきびしい目元を更に細めた。
「ありがとうございます。わたし…とてもたくさん、いただいてますよ」
とてもたくさん。……あたたかい喜びで満たされている。
土方さんは怪訝そうにして見せるけれど──それは表情を殺しているからなのかなと思いたい。
胸に仕舞ったトゲトゲの金平糖。口に運べばきっと、こんなふうに、やさしく幸せな味がするのだろう。