バレンタインデーの当日は、土砂降りの雨の土曜日だった。
大粒の雨が、ビル街を水の膜で覆っている。つねに排水溝には渦ができ、雨どいはどんどんと大きな音を立てている。傘を持っていても、落下する雨粒のしぶきが飛んで、体中が湿ってしまった。赤やピンクや金色のバレンタインイベントのポスターが、店の軒下で、灰色の雨水に阻まれて台無しになっている。会社についてタオルで濡れた衣服や髪を抑えていると、大きなくしゃみがひとつ飛び出した。


「きょうは渋滞がひどい」
ブラインドごしに窓の外を眺めて会長はつぶやいた。いつもどおりのきちんと整った身なりと髪をしている。会長はたぶん、自宅から車でここにくるまでに、屋外に出ずに済んだのだ。会社の駐車場も屋根があるし、彼が濡れることはない。わたしだけがぼさぼさの頭をしていて恥ずかしい。
「雨ですし、週末ですしね」
「くだらんな」


ちっ、と鋭く舌打ちをするのが聞こえてきた。
届くはずの封書がいまだ渋滞のさなかにあることを思えば、彼の怒りももっともだ。
会長は不機嫌だし、チョコレートなんて渡したらその場で窓からポイ捨てされそうだなと思いながら。それでもこんな日に、会長のそばにいれることに幸せに思う。
きょうは半日で仕事も終わりそうだし、こんなふうにしていられるのもあと僅かだろうけれども。きっと会長はこのあと、チョコレートをくれるような女性と会ったりするのだろうけれども……。
「あの。できました」
「見せろ」
つかつかとこちらに歩いてきて、彼は印刷した用紙をわたしの手から奪い取った。いらいらした顔で読みながら、またつかつかと会長席まで歩いていき、机上に手を付いた。あきらかに怒り心頭な顔をしていて恐ろしい。
その矛先が、わたしの渡した仕事ぶりによっては、こちらに向いてくる可能性が十二分にあるのだ。


「……」
「……まあいいだろう」
仏頂面で紙からわたしに視線を向ける。思わずほっとして胸を撫で下ろすと、彼はいやな顔をした。
「ご苦労だったな。もうきょうは上がっていい」
「もう他にすることはありませんか?」
「ない。帰って休養をとれ。残業は結構だが、休日出勤を俺は評価しない。体調管理を怠るな」
「あ、はい……」


……どうしよう。
会長はわたしに顔を背けて、机上でなにか書き物をしている。
チョコレートをさっと押し付けて帰りたいけれど、いま渡しても迷惑にしかならなさそうだ。こんなもの、お好きなわけがないのだから。普段お世話になっているお礼のつもりだったが、ここに密かに籠めてしまった感情が、渡すときの動揺で見破られてしまう気がする。
……。


坐ったまま考え込んでいるわたしは、彼の目にぐずぐずしているように見えたのだろう。万年筆のキャップを締めて、彼はわたしに顔を向けた。
「なにをしている?」
「あ、いえ……あの、会長」
「なんだ」


目を伏せたかに見えた、長いまばたきのあと、彼の切れ長の瞳がわたしを映す。
どきん、どきん、鼓動が、ひとつずつ、規則的に胸を叩いている。平静を、装わねばならない。呼吸を落ち着けて。顔に感情が出ないように。
「チョコレート、お好きですか?」
「………」


どきん、どきん、表向きは無表情を守り貫いているけれど、その堤防がギリギリのところで溢れかえりそうなことがよくわかる。もし、いまなにかひとつでもショックなことがあれば、きっと冷静でなんかいられなくなる。
「好きじゃない」
会長は、まばたきをした。そのまましばらく、目蓋を上げることはなかった。こんどこそ、目を伏せたのだ。


「……そうなんですか、」
「もし上司のために用意してあるなら、守衛の若者にでも渡せばいい」
「え、守衛の?」
「毎朝親しげに話しているだろう。もう彼にはくれてやったのか」
「……、」
「雨がじきにやみそうだな」


抑揚のない声色で彼は囁いた。
胸をざわめかせた鼓動が、いまでは動悸になって、体に影響を与えている。とても意気消沈しているのに、喉の下に抱えた激しさが、わたしの余裕を奪っている。


「俺も書類が届き次第きょうは退勤する。はやく帰れ」
──はい、」
その言葉に、力なく肯いた。
やっぱり予定が、あるんだなあ……。
土曜日のバレンタインデーなのだから、予定があって当然だ。だがそれはわたしの与り知らぬところであってほしかった。いざ本人に言われてしまうと、情けないくらい悲しくなってしまう。会長ほどの男性なのだから、特定の女性がいないほうがおかしいのに。


「きみはこれから予定がないのか?」
「ありません、帰って、資格の勉強でもいたします」
やけっぱちになってそう答えると、彼がなにか言おうとして口に含んだまま、黙り込んでいる横顔が見えた。しばらく沈黙し、指先で四度机を叩いてから、彼は背もたれに体重を預けた。きしりと細い音が鳴る。
「……ひとりか」
「はい」
なんで、そんなこと訊くんだろう。関係ないのに。余計惨めになるだけだ。会長は、どうせ夢みたいな美女と予定があるくせに。
わたしの苛立ちを含んだ態度に、彼はやや驚いたらしい。眉を寄せて、肘をついた両手の指先を絡め、わたしを観察するように眺めている。
「入社時の履歴書に、趣味が美術鑑賞だとあったが」
「はい」
──ここにこれがある」
つと差し出された、光沢紙の封筒。
開けてみると、中にはチケットが二枚入っていた。来週から催される絵画展だった。
「共催企業の株を持っているので、開催前に鑑賞できる」
「すごい。これ、すでに前売りチケットも完売のはずなのに……」
「いまからそれに行くんだが、きみも共に来るか」


驚いて息をのむわたしを、彼は、冷たく冷静な、例の観察する眼差しで眺めていた。高い鼻筋の影が、顔の半分に掛かって、まるで外国人のブランド誌のモデルのように見えた。すくなくとも間近にいて、わたしを眺めているとは思えないほど遠い、端正な姿に思われた。
「きょう、ですか?」
「ああ。行くのか、行かないのか」
「い…!行きます」
「そうか」
ふっと短くため息をついて、どこか物憂げな眼差しで、彼はわたしの挙動を眺めていた。
雨がしとしとと降り続いているが、かなり雨足は弱まった。
彼の言うとおり、じきにやむだろう。


国道は渋滞しているので、短距離だが高速に乗って美術館まで彼の車で向かった。
館内は来週からの開催に向けて準備中の名目を掲げて常設展すらも閉鎖しているが、このチケットを持つ特別の人種のみ通ることができた。
他に客はもちろん、学芸員すらも、誰もいない。
迷路のように無数に作り上げられたパネルの壁から、展示スタッフがときおり姿を見せたが、状態保存のために薄暗く照明がしぼられているので視界が悪く、あまり気配を感じられなかった。
入口から順番に油彩画を眺めていると、会長はスタスタと歩いて奥に行ってしまった。おそらく目当ての絵画があるのだろう。


有名な絵から、見たことのないマイナーな絵。スケッチ。ごく初期の風景画と、最晩年の赤子の絵。
三十分かけてすべて見終わったあと、出口付近のミュージアムショップまで覗いたが、会長の姿がどこにもない。
すれ違ったのだろうか。わたしが絵に夢中で気づかなかったのかもしれない。
いったん引き戻し、絵画を再度眺めながら歩いていくと、一番大きく取られたスペース、黒いパネルに展示された絵の前に、会長はいた。
豪華絢爛な、黄金の『接吻』という題の絵。


なぜか、胸が苦しくなった。
一体どんな顔をして、会長はこれを見ているのだろう。


近づいていくと、絵を見上げたまま彼は「全て見たか」と言った。
「はい」
となりに並んで立つ。横顔をそっと見上げると、いつもどおり、きびしい顔がそこにあった。
「この絵がお好きなんですか?」
「いや」と彼は言った。「この絵は政府所蔵だが、売価にするといくらなんだろうな」
彼は浅く瞬きした。瞳に、四角い黄金が映りこんでいる。
金の背景の中、顔の見えない男の接吻を頬に受ける、官能の表情の女性。二人の幸福と愛情の絶頂を描いているが、足元の崖が死と終幕を予感させる。洪水のように溢れ出るきらびやかさは返って不吉で刹那的だ。たぶん、この二人は共に歳をとり死んでいくという当たり前の平和を迎えることはできないだろう。
「競売史上最高額が百四十二億であることを考えれば──オーストリア政府がこれを手放すとすればだが──この絵も五倍以内で買えるだろう」
「……か、買われるんですか?」
腰を抜かしそうな話だ。驚愕をひそめて彼に問えば、彼は短く「いや」と言った。
「だが、買おうと思えば買える。その事実と、この絵がそれに値するかを確認したかった」
彼は、皮肉めいた笑みを浮かべた。
わたしには、わざと彼がそんな顔をしているかに思われた。
「行くぞ、もうここに用はない」
「あ、はい」


外に出ると、折り良く雨が止んでいた。
洗い流されたかのような、水色の空がビルごしに広がっている。
一言も会話がなく、美術館を出てから車に乗り込んだ。
このまま、きょうはこれでおしまいかな……
そんなことを思いながら、『接吻』の前にいた会長の姿を思い浮かべる。
とても寂しそうに見えたけれど、それも気のせいかもしれない。お金の話も、わざと切り出したように思われた。
会長はたぶん、あの絵が気にいったのではないか。
だがそれはすべて根拠のないわたしの価値観に照らし合わせたものでしかない。
わたしは、彼のことを何ひとつ知らないのだ……。


「家まで送って行く」
掠れた声で彼が言う。
わたしは肯き、フロントガラスに広がる景色を眺めるふりをしながら、視界の端に映る彼のハンドルを持つ手を見ていた。
「あの……会長」
まだ夕方前で、明るい時間だ。一人暮らしの部屋に異性を呼んでも、変な時間ではない……たぶん。それに、いまは片付いていたはず……たしか。
ごくん、と唾を飲んで、バッグの革紐をいじりながら、一度うつむいた。彼は何も言わない。
「あの……もしよかったら、うちでお茶していかれませんか?」
の家?あのマンションか」
「はい、つまらないところですが」
「なぜだ?」
「あの。の……喉が乾いておられるんじゃ、って……」
「……」


しーーーん……
(言うんじゃなかった……)
そうだよね。
来てくれるはずないよね……
黙りこまれるということは、わたしのこと引いてしまったから、だろう。下心が見え見えすぎて、なんて女だろう、と思われているのかもしれない。もうすこしだけ、一緒にいれる口実が欲しかったのだけど。
考えれば考えるほど薄っすら死にたくなったが、現実は受け入れなければならない。
普通の顔をしてお礼を言って帰ろうと考えていると、彼は、「わかった」と言った。
「はい?」
「邪魔させてもらう」
「………」
「………」


それが、本当のことなのか、にわかには信じがたかった。
かあ、と体が熱くなって、落ち着かなきゃ、と自分に言い聞かせる。
ただあとすこしだけ。傍にいたいと思った、それだけのつもりだったのに、彼の低い声が、“邪魔させてもらう”と言って、それが鼓膜から体の中に入ってきたら……
膝が微かに震えている気がする。くちびるを噛んで、必死に込み上げるなにかを抑え込もうとしていた。体が自分のものではないみたいだった。重力がもうすこし弱ければ、ふわふわと浮いてしまいそうなくらい、坐っている感覚がない。


会長が、うちに来るなんて。


「………」
「………」
沈黙がこんなに動揺を招くものだとは思わなかった。
冷静であれ。普通にしていろ。なんでもないことなのだ。最近、かなりお傍にいる時間が増えていたとはいえ、それもこれもすべて業務のうちのこと。
これも時間外だが、関係性に変化があるわけではない。


きょうがバレンタインデーだからなんて、全然関係なんかない。
そう言い聞かせる喉の下が、ぶるりと小さく震えていた。