その日は会長の顔を一度も見ることなく、個室で通常業務に当たっていた。
パソコンのふちに貼った、やらねばならない業務に優先順位をつけてメモした付箋も、残すところあと一枚。終業時刻は過ぎてしまったけれど、きょうはもうすぐ帰れそうだ。
お腹空いたな……、
そういえばきょう、ランチの途中で電話が掛かってきて仕事していたので、それから食べれていなかった。
集中しているときは何にも感じないのに、気が緩むとすぐこうだ。給湯室であったかいお茶を淹れてこようと部屋を出ると、営業課のオフィスが騒がしい様子が聞こえてきた。
どうしたのだろうと顔を出す。うろたえる顔ぶれがわたしに振り向いたとき、すごく嫌な予感がした。
「たったいま襲撃事件があったらしい」


曰く、その矛先が会長、ひいては白峯会であったのかはわからない。けれど襲撃は白峯会のシマで起きたらしく、現在会長と連絡が取れないことを考慮すれば最悪の事態も──


なにを言っているのかよくわからなかったが、心臓のどきんどきんと鳴り響く鼓動が、時限爆弾のように感じられた。手足からすっと血の気が引き、体中が冷えていく。
わたしは、相当な状態であったらしい。会長の身を案じていた人に、心配されてしまうほどに。
白峯会事務所へ社員を派遣して様子を見にいこうと相談が始まったので、わたしは現場に行きたいと主張した。女性の身で危ないという声もあったのでやや揉めたが、勢いで異論を封じ込めることができた。
けれどその数秒後、すべての懸念が杞憂であったと証明される。
会長が片瀬さんを連れて姿を現したからだ。


「連絡はしたが。いっていなかったのか?」
と会長は怪訝そうに眉をひそめた。襲撃云々よりも、社員の頼りなさと伝達力の乏しさに怒りを感じたらしかった。
会長がいくらムスッとした顔をしても、いまばかりはこわくない。本当にご無事でよかった。
襲撃というのも大げさな表現で、矛先は会長でもなんでもなく、武器を持ったヤクザの内輪揉めというのが実情であったらしい。警察に通行止めを掛けられて、そちらのほうが大変だったと片瀬さんは語ってくれた。
遠巻きにその様子を眺めて、ほっと安堵する。
だが、ここはフロント企業なのだと、改めて思った。
普通の会社のようでいて、やはりここは危険と隣り合わせなのだ。今回は大丈夫だったが、次似たようなことが起こるかもしれない。そのときは、今回のようにすべてきれいに収まるともしれなかった。
……そう思って、くちびるを噛む。


とにかく、仕事に戻ろう……
そっとその場を離れようとしたとき、
営業課課長が「さんなんて、現場に駆けつけようとしていましたよ。こういうとき女性のほうが強いですね」と言ったので、どきっとした。
そのとき、ゆっくりわたしに目を向けた会長は、眉を寄せ、瞳に驚愕、の表情を浮かべていた。
それは一瞬のことで、すぐに顔を背けられたけれど。


「……」
なんだかとても、気恥ずかしいし、いたたまれない。わたしは、一礼して、そそくさとその場を後にした。


最後の仕事は思ったよりも手間取った。ほとんど、上の空だったからかもしれない。
なんとか片づけて付箋を棄て、荷物をまとめてあくびを噛み殺す。
お腹空いた……早く帰ろう。家に食べ物もあった気がする。さっさと食べて、そうしたら早いところ寝てしまおう。きょうはなんだか疲れてしまった。


仕事部屋を出て退勤したところ、エントランスで峯会長と鉢合わせた。
「……」
会長は不機嫌そうな顔をしている。
わたしをじろっと睨んで、なにか言おうと口を開いたが、面倒になったのかそのまま噤んだ。
「……会長。お先失礼いたします」
「……気を付けて、帰れ」
「はい」
彼は駐車場のほうへ歩いていった。
わたしはその背中を見送ってから、駅のほうへ歩き出した。


街路樹に絡みついた青い電飾が、煌々と輝いている。黒い夜空、冷たいビル街の電灯、木々のイルミネーション。冬の凍えそうな、だが美しい光景を眺めながら、白い吐息を洩らす。
すう、とぴかぴかのスポーツカーが路肩に停車した。
どき、としながらウィンドウが開くのを見ていると、やはり会長が暗い車内から顔を覗かせた。
「ついでだ。乗っていけ」
「会長……ありがとうございます、でもきょうは大丈夫です」
よく後姿でわたしとわかったなと思ったが、彼にしてみれば人の見分けなど造作もないことだろう。それでもやっぱり、嬉しい。
「妙な気遣いはいい。早く乗れ」
そう鋭く睨まれては、遠慮するすべもない。
わたしは、小さくなって助手席に坐った。扉を閉めると、車が走り出した。


すっとする、青い匂いがする。
ときどき、会長からすれ違いざまに感じる香り。これは会長の匂いなのかなと思うと、胸がじわりとあたたかい。
「あの。きょうは、色々あってお疲れでは?」
「色々あったのはお互いだろう」
会長がしゃべるたびに、ダビデ像のような口元が動くことで、彼が血の通った人間なのだと思うことができる。黙り込んでいると、この薄暗い車内では、まるきり彫刻像だった。その横顔は、古代ローマの金のコインに刻まれているようなシルエットだった。
「空腹なのか」
「!……どうしておわかりに?」
会長は無視を決め込んで答えてくれない。
やだな、お腹でも鳴ったのかな……。
「……食事していくか」
「え……っ、でも、」
「……いやなら、いい」
「………」


いやなわけがないじゃないですか。
そう、言いかけて口を噤んだのは、会長がすごく不機嫌そうだったから。
これだ。いつも、この雰囲気に圧倒されてしまう。会長ご自身も、その威圧感にわたしが気圧されていることはご存知だろう。そうやって、思い通りに相手を黙らせるのだ。
でも、自分の意見は伝えなければならない。いつまでもこのまま、怯えてばかりいるのはいやだった。わたしは、小さくうつむいた。
「食事、ぜひ連れて行ってください」
しんとした車内の静寂が、わたしの声のあとに深く広がる。
会長はなにも言わないまま、指示器を左に出してハンドルを回し、ルート変更した。


連れて行ってもらったのは、白金台の結婚式場で有名なホテルだった。その中にある、創作フレンチの華やかな個室に通されて、料理をいただいた。
……おいしい。すごく。
きょうは帰ったら、ゆうべの作り置きの冷たい料理で済まそうと思っていたから、こんなにおいしくて、こんなに温かいものを食べられるとは、現実と想像のなんという差だろう。
それに、あの峯会長が向かいにいて、グラスの冷たい水を飲んでいるのだ。
会長とこんな店で食事なんて、とても息が詰まってしまうと思ったが、おいしいものはおいしかった。普通においしいというのではなくて、それはもう、驚愕に値するおいしさだった。
「口に合ったようだな」
「こんなにおいしいもの、生まれて初めてです」
「……きみはいつも大げさだ」
眉間に浅いしわを寄せて、彼が言う。
こんなにおいしいものなら、親にも食べさせてあげたい。だがわたしの親は、娘がフロント企業で働いていると知れば卒倒するだろう。ましてやその親玉に恋しているなんて……。そんなことを考えている間に、夢のような料理は終わり、濃いコーヒーとチーズが出てきた。


「なにかほしいものがあるのか」
「……?」
コーヒーの重い湯気が、彼の鼻先を掠めた。
互いに食後のコーヒーを楽しんでいる間、そこに訪れる静寂は、彼と迎えた静寂の中で、唯一心地よいものであると言えた。
「なにかほしいものがあるのかと、訊いている」
「……」
仕事場の備品でも買ってくれるのだろうか。
唯一思いつくものはブランケットだが、別に自宅にもある。すこし、ある計算ソフトがほしいのだが、いまのところは電卓で間に合わせている。
特に申請するほどほしいものなど思い当たらず、わたしは首を横に振った。
「すべて事足りております。とても快適です」
「……そんなことは聞きたくない。言ってみろ。おまえはなにが狙いだ」


瀟洒なジャガード織のテーブルクロスに、彼の上半身の影がぼんやりと落ちている。
彼はテーブルの上で両手を絡め、そこにくちびるを隠している。深く思案する暗い眼差しが、卓上のキャンドルの炎を宿していた。まばたきの少ない瞳の、なんと美しいことか。
「あの……」
「なぜ俺に取り入ろうとする?」
「……」
ずき、と胸に痛みが走る。
さっきまで、すこしだけ、親しみのある雰囲気があると思ったのに。
……そんなわけがない。この人は、普通の男では、ないのだ……。


「責めているのではない。だが出世の話も断ったそうだな」
長い睫毛に縁どられた、薄い繊細な目蓋がまばたき、その下の瞳が、たくさんの光の粒を照らしている。
キャンドルの炎が、彼の顔のしわや影をぼんやりと消していて、まるで優しい表情をしているかに、見えた。
こんな尋問を受けているときなのに、それは、わたしにとっては宝物のような光景だった。
「到底理解できないことだ。野心がない人間を信用することはできない。一般企業ならともかく……なぜフロント企業にいる?なにが狙いなんだ。模範的解答でなく真意が知りたい」
「………」


野心がないなんて、とんでもない。
わたしは、きっととても欲深い。


………テーブルの下で、気づかれないように体にくっと力を込めた。
嘘は、つきたくない。
「わたしは………会長のお傍で仕事したいだけです。あのお話を受けていたら、子会社に出向しなければならないと聞いていたので」


「俺の傍で」
と彼はふと鼻で笑った。「なぜだ?」
「それは……」
(あなたをお慕いしているからです、お傍にいたいのです)
「……尊敬しているからです。お手本に、したいから、です……」


嘘ではない。これも本心だ。
けれど、なぜ、こんなに胸が張り裂けそうなのだろう。
「それがよくわからない」
彼は顔を背けた。ひそめた目元に、痩せた涙袋が浮かんでいる。奥歯を噛み締めた表情。
キャンドルの優しげに見える光はもう届かず、彼は元来のきびしい顔に戻っていた。
「なにがですか」
「手本にするなら迷わず出世の道を選ぶはずだが」
「……」
「……出る。行くぞ」


銀盆に請求書を乗せて支配人がやって来て、会長はサインして支払いを済ませた。
レストランを後にし、ホテル内の臙脂色の絨毯の敷き詰められた共廊を、無口なままで歩いた。
クロークに預けていた上着を受け取り、駐車場へ通じる誰もいない通路に出たとき。
会長が息を殺す気配が伝わってきた。


「……仮に、いまここで部屋を取ってあると言えば、きみは付いてくるか」


懐から車の鍵を取り出しながら、そう、会長は低く囁いた。
冷たい横顔に、なにかを秘めた力強さを感じる。
……。
わたしはうつむいた。とても驚きながら……
けれど深く心が沈んでいて、心の反応がとても鈍い。


「……いいえ」


「……そうか」
彼は顔を背け、わたしより一歩先を歩き出した。
「よく、わかった。ひとまずきみを信用しておく」
……その背中が寂しげに見えたのは、わたし自身がそうだからだろうか。


“いいえ”……嘘つき。
ずきん、と胸に自分の答えが突き刺さっている──たぶんこの痛みは、しばらくは抜けないままだろう。