峯会長は取っつきづらくて、話しかけにくくて、近寄りがたくて、傍にいると緊張し過ぎて全身筋肉痛になってしまいそうな人だ。
一目見たときから(この人はサイボーグなんだ)とわたしは思った。そういう姿をしているのだ。
まるで作り物みたいな端正な顔と、ハリウッド俳優みたいなスタイルと、お手本のようにそつのない動作。
ただクールなだけじゃなくて……とてもこわい人だ。
近づいたら必ず、怪我をする。
肉体的にかもしれないし、精神的にかもしれない。




「おい」
低い地を這うような声にびく、としながら振り返ると、峯会長が立ち止まって窓べを見下ろしていた。
会社の広々した通路。やわい午後の光を浴びた姿は、美術館に展示されている彫刻像のように思われた。
周囲に誰もいないことを見ると当然、会長はわたしを呼び止めたのだろう。だが、彼はわたしを一瞥もしない。


「はい」
近づいていくと、彼はやはりわたしなどに見向きもせず、
「これはガタがきている。業者の手配を」
と言い捨てて、わたしをすり抜けて行ってしまった。
足、すごく速い。あっというまに、もうあんなに遠くに……。そしてすぐに見えなくなった。


会長が見ていたところを見ると、防弾シャッターの収納部が微かに歪んでいるようだった。よくこんなことに気が付いたものだと思うくらい、わかりづらいところなのに。きっと一瞥しただけで些細な異変も見逃さないくらい前の光景を記憶している人なのだろう。
なんせ数千億も稼いでいるのだから、それだけでも常人とは違う。
本物のサイボーグだと思ったほうが驚かない。
すれ違いざまに感じた彼の風に、ふわと体温があったことのほうが、むしろ不思議な気がした。




*




突然、わたしのいる部屋の扉が開いた。
業務に当たって個室を与えられているので、この部屋を開けるということはわたし個人に用があるということだ。
そして扉を開けたのは峯会長だったので、わたしは内心驚きでいっぱいだった。
入社して半年になるけれど、会長がここに来たのは初めてのことだったのだ。
。」
苗字覚えられていたことにも驚いてしまう。
作業を中断して立ち上がるわたしを、彼は能面のような無表情で眺めている。
「いまから本家に緊急で向かわなければならないが、片瀬は別件で外出させている。代わって、きみに同行願う」
そういえば片瀬さんはきょう、会長の名代で接待に行ってるんだっけ……、そんなことを考えて了承すると、会長は怪訝そうに目をひそめた。
「急いで支度を頼む。十分で出る」
と言い捨てて背を向ける背中に、わたしは急いで声を掛けた。
「支度とは具体的にどうすればよろしいですか」
「化粧をして髪を整えろ。その後は黙って車に待機していればいい」
「かしこまりました」
これでも化粧も髪もちゃんとしているつもりだったのだけど……。
とはいえ、片瀬さんみたいにすればいいということだろう。
けさはちゃんとブローしていてよかったと思いながら、彼女のように髪を撫でつけた。


……本家には初めて来たけれど、……想像以上にすごい。
黒塗りのセダンが並ぶ車道を、同じように黒のセダンから窓越しに眺める。
荘厳な建物と、スーツを着た並の体格でない男たちが、来賓を出迎えたり挨拶したりしている。
ここにいる人間すべて、どうみてもカタギのそれではなかった。年配だったり、体が細かったりする人もいたが、いずれも目つきに独特の威圧感が宿されていた。
日々会長から感じていたあの殺気めいたものは、ヤクザ特有のものだったのだ。
わたしは女優。わたしは片瀬さん。いまは、車内とはいえ毅然としていなければならない。
戦場に思われる、くしゃみひとつ憚られる戦慄した空気が満ち満ちている。
蚊帳の外にいるのではない。わたしもいまここにいるのだ。


それにしても、なぜ会長は東城会の幹部なんてやっているのだろう。
わが社の利益に繋がっているのかもしれないが、それにしてはうちの会長、バリバリのワンマン系だし。仕事の鬼だし。わが社の子会社がモバイルサービスを開発して最近えらく稼いでいるけれど、それにしても会長の指図あってのことで、東城会の気配など感じない。あの会長が惰性や脅迫でヤクザになるとは思えないし……なにせ無益を嫌う人だから、なにかしら理由があるのだろうけれど。
……考えても仕方ないことだけど。
いまはもう戦地に向かって行ってしまった会長のことを思って、ため息を飲みこんだ。
運転手の同僚が話しかけてきたので、わたしたちはそこで雑談した。
わたしは、なぜ会長が幹部なのかを、遠回しに訊ねた。
同僚はこう答えた。
「理由はわからない。本家の会長と兄弟盃交わすほど気が合っているらしいが……」


……。


堂島会長のことは、インターネットの記事で読んだことがある。
白峯会で検索したときに出てきたからだ──峯会長のことは、名前はあっても実業家という身分と、経営している会社の一覧しか載っていなかったが。
堂島大吾。その経歴、その文字の羅列から、どのような人柄なのかは窺えなかったけれど……あの会長が信頼している人。
どんな人なんだろう。会長よりも輪をかけて無表情冷徹超人みたいな人なんだろうか。


一時間ほどして、峯会長が車に戻ってきた。
会長が車に乗り込んだとき、たばこの移り香が、車の中に微かに広がった。
「本社に戻る」
「はい」
「じきに渋滞する。早く出せ」
車が、道路に出て、本家から遠く離れていく。
ピリピリした緊張感。
会長が近くにいると、その雰囲気に圧倒されて、金縛りにあったように背筋が伸びてそのまま強張ってしまうけれど、それがいつもより強い。
こわい。
(……会長、機嫌が悪いのかな)
そんなことを思ったあと、そっと隣にいる会長の姿を横目で見る。
腕を組んだまま微動だにしない姿はいつもと同じなのに、確かに彼が怒っていることが肌で感じ取れた。


会社に着いて会長はすぐ会長室に向かった。
やっと終わった…とほっとしていると、
「お戻りの際会長はいつもコーヒーを飲まれる」と同僚に耳打ちされてしまった。わたしは、もう一度会長に立ち向かわねばならなかった。
はやくコーヒー出して自分の仕事に戻ろう。
さっと渡してくるだけでいい。
自分にそう言い聞かせて、コーヒーを給湯室で用意し、会長室の冷たく重い扉を叩く。


「入れ」
扉を開けてお辞儀し、顔を上げると、会長がこちらに背を向けるように机の傍に立っていた。
木製のブラインドごしに、窓の外を眺めていたらしい。
彼はその体勢のまま、
「片瀬」
と言った。


でございます」
「ああ、……そうだったな」
「コーヒーをお持ちしました」
「そこに置いてくれ」
「はい」


かちゃり。
ソーサーとカップを会長席の机に置くと、陶器の音が鳴る。
ブルーマウンテンの深く芳しい香り。質のよい机や調度品によく似合う。
まるで時が止まったように静謐な部屋だ。…なのに片瀬さんと間違えられたことで、心臓が早鐘のように打っていた。
一礼して出ていこうとしたとき、会長が「」と言った。
「はい」
「きょうは同行ご苦労だった」
「はい」
思いがけず労われて、わたしはくちびるを強張らせる。
「本職の連中を見たのは初めてか?」
「はい」
「恐ろしかったんじゃないか」
「多少は。……ですが慣れたいと思います。またこのような機会があったときのために」


会長は顔をすこしだけこちらに傾けている。視界の端でわたしの動向を見ているのだろう。
横顔からシャープな睫毛がはみ出ている。
「習熟の必要はない。こんな機会はもうないだろう」
「はい。ですが今回だけのことでなく、片瀬さんを見習って……」


「あれは覚悟が違う。きみとは別の人種だ」
──
ざらついて、乾いていて、最後に微かな粘りを感じさせる声。


その言葉が、胸に刻みつけられた。
一瞬、視界がくらくらした。
「もう行っていい」
「はい。失礼いたします」
どんなにショックを受けても、わたしは盆を持ち、ちゃんと一礼を済まして会長室を出ていく。
扉を閉め、ひとりで盆を返しに給湯室へ歩いていきながら、何度も何度も何度も、会長の言葉が脳裏をよぎった。


“片瀬”
“あれは覚悟が違う”“きみとは別の人種だ”


なぜこんなにショックなのだろう?
──わかっている。──気を付けていたのに。


(近づいたら必ず、怪我をする)
(わかってた、ことなのに)


くちびるを強く噛むと、たしかに、怪我の味がした。