なんだか、不思議な感覚だった。 仕事上、どうしても行かねばならなかった旅行は、旅行といえどそんな平和なものでなく、どちらかといえば威厳や緊張に押しつぶされそうな大仰したものであったから、私の背筋は知らぬうちに強張っていたのだろう、ひととおり仕事を終え、同僚とその仕事相手一行と向かった旅館。 その目玉である露天風呂は、看板に恥じぬ効能を与えてくれたような気がした。 湯につかり、ちゃぷちゃぷと滴をはじきながら、一日のことを振り返る。 濁り湯の、少しだけ香る硫黄のような匂いに包まれながら、思いだすのは彼のことだった。 元々、今回の案件に私を指名してくれたのは、彼だったと聞いている。もっと適任の人間もいただろうに、どうしてか「さんでお願いします」と、それも名指しで。それを聞いた私に、拒否権などは無かった。こちらも、あちらお抱えの事務所であるし、権力以外にも、私には下心という立派な理由があったから。とはいえ、多少なりは混乱した。……だけれど、その反面、とても昂揚してもいたのだ。それが旅行であると聞いたらなおさら、名目ばかりであろうと知っていても、浮足立つ心をとめる術が見当たらなかった。 (峯さんと……私いま峯さんと同じ旅館に居るんだよね) 考えて、ひとり、無性に恥ずかしくなって、下半身を滑らせるようにして湯へと沈む。首もとを少し過ぎ、鼻のしたまで埋まったところで、ぶくぶくと拗ねるように呼吸をして、熱を帯びる心臓をごまかした。 峯さんは、私がひっそりと宛てのない思いを寄せるひとで。 いつもぶっきらぼうで、けれどもときどき、つらいくらいの優しさをぶつけてくるひとで……。 それから──妙に、生活感のない人だ。 普段何を食べているかということも、何をして過ごしているかということも、何が好きだということも、あまり窺えない人だった。雰囲気やオーラと言ったものはあるのに、どこか現実味がないというか、他に情報を与えない人であったから、今回の旅行に、私は新しい峯さんを見れるのではないかと思って、それとなく接触を試みていたけれど。 わたしを指名したわりに、なんというか。 そっけないというか。何も無かったというか。 仕事を全うしなければならない状況で、残念だ、と思ってしまうこともいけないことだとは思う。けれども、どうして私を選んだのか、それくらいは。知ってもバチが当たらないんじゃないだろうか。 疲れをいやすために入った温泉が気持ちよくて、うっかり長湯してしまったらしい。少しだけぼやけた視界に、のぼせてしまったと気付くのには時間はかからなかった。 慣れない浴衣と、ふらつく頭に顔をしかめながら歩いていると、前の方──曲がり角の向こうからぎしぎしと床の軋む音。控え目で、けれどもはっきりとこちらに近づいてくるその足音は、一定のリズムを刻んで私の耳に入ってくる。その音を聞きつつも自身の身体から立ち上る湯気が見えるような気持ちになりながら、木造独特の梁や柱の古めかしい匂いを感じて、ぼうっとその相手を待つように、私は角の手前で足をとめて立ち止った。 ぎしぎし。 ぎしぎし。 (──あ、いま。わたしすっぴんだ) ……ぎしぎし。 私がそう気付くのと、音が止むのはほとんど同時のことだった。 「……さん」 「……みっ、…………峯さん」 角の向こうから現れた、彼は、わずかばかり驚いたような顔で、私の名前を一度紡ぐ。 それに遅れるようにして。視界に、彼を入れること一瞬。 顔を隠すことも出来なくて、私は裏返った声のまま、彼の名前を呼んだ。 (浴衣、だ……) 普段のスーツとは違う、白を基調とした軽装に、不覚にも心臓が音を立てる。いつもはぴっちりと撫でつけられている前髪も、少しの湿りがあるばかりで、軽く持ち上げられている程度で。あちこちから零れた髪の毛が、所在なさげに宙を彷徨っているさまが、なんとも意外だった。色気を感じる彼のその見た目に、のぼせてしまっていた顔が、また違う意味火照るのが分かって、恥ずかしくなり、俯いてしまう。 化粧をしていないということも相まって、顔を見せたくなくて、彼と同じように角を曲がろうと足を進めたとき、お世辞にも広いとは言えない通路を阻むようにして、彼──峯さんが私の前に立ちはだかる。 その少しの動作で、峯さんからほんのりと、乳白色を思わせるようないい香りがして、当たり前だけれど、彼も温泉に浸かったんだな……ということを知り、少しだけ気恥かしくなる。 ふたたび歩みをとめた私を見下ろすようにして、きっと、つむじを見つめているのだろう、まじまじとした視線を頭に感じていれば、 「……今日は、お疲れ様でした。良い仕事ぷりと、大吾さんも褒めておおせられた」 俯いた視線のさきにあった彼の大きな手のひらが、言葉と一緒にぴくりと震えた。 「あ……いえ、有難うございます」 「…………」 「…………」 刹那の、沈黙。 呼吸の音と、浴衣の衣擦れの音だけが私の耳に木霊する。……私の勘違いでなければ、彼はきっと、これをいうために私の通る道をさえぎったのではないと思う。 いつも通りの冷ややかな沈黙が、まるで永遠のようにも思えた。 (期待……してもいいんですか) うかがうように視線を引き上げれば、まごつく彼の唇と、深く皺の寄せられた眉間、それから──こちらを射ぬくような、熱い、視線……。 ふう、と一度、ため息をついた彼が、私の鎖骨のあたりに視線を落として、鋭く八重歯を光らせた。 「さん。もし良ければ、これから……俺の部屋に来ませんか」 「…………え?」 「さきの仕事のことなど、少し、確認したいことがあるんです」 一瞬、わたしを外した視線が、また濃い熱を帯びて戻される。 どくり。どくり。 ……仕事のことだとは、分かっている。 どくり。どくり。 彼のことだから、きっと言葉通りのことなのだろう。そういう部分で、嘘をつく人間ではないと知っていた。それでも、収まりつつあったはずのめまいに、頭がふらついて、言葉を咀嚼するのに時間がかかった。 うるさい心臓の音。 「──、」 峯さんの、挑発するような、けれどもどこか儚げな視線に、なんと返したのかは、よく覚えていない。 けれども、暫くしてのぼせの取れた視界で、また改めてぐるりと目線を彷徨わせれば、見覚えのない、私に宛がわれた部屋よりも大きい──綺麗な部屋の中、触れられる距離に彼が居るのだから、わたしはどうも、彼の手を取っていたらしかった。 「この件は、これで」 書類のせいですっかり厚くなってしまったクリアファイルの、端を掴みながら峯さんが頷きながらそう呟いた。元々は、こちら側の仕事を生業としていただけあって峯さんとの打ち合わせはいつもスムーズだった。つややかに光る漆塗りの欅の長机に、二人横並びで座りながら、私は時折もじもじと座椅子の上で足を組み直していた。落ち着かない、といったら怒られるだろうか。 旅館であれルームフレグランスの類を持ち込んでいるのか、どこか植物を思わせる清潔そうな匂いと、彼から香る汗と湯の甘い香り。 横に座っているせいで、ぴっちりと着こまれた浴衣から、ちらりと覗く胸板が、ひどく目に悪かった。 部屋の中は広々としていながら、荷物は最低限しか持ち込まれていない様子で、峯さんが今しがたつまんでいたファイルを柱に立てかけてあった革のビジネスバッグに丁寧に仕舞うと、今度こそ、はっきりとした静寂が部屋を包み込んだ。 「…………」 「…………」 ──峯さんはいま、何を思っているだろう。 この沈黙の意味を考えていれば、壁に埋め込まれるようにして立つ柱や、小さな行燈風のルームランプがやけに目に入った。そうして少し視線をずらせば、先ほど通ってきた襖には仰々しい龍が、その角の、おそらく寝室に繋がっているであろう方には季節の花々が、金粉で覆われるようにして描かれているのが見えて、なんとも言えない焦燥が身体を襲った。 仕事の話をすると言われついてきた手前、ここは帰るべきなのだろうけれど。 ……もう少しだけ。 もう少しだけ、この香りを感じていたい。 そう思ってしまっては、部屋を見渡しながら、わたしは、すっかり短くなってしまったまつ毛を震わせて、浴衣の襟をいじけるように触ることでしか、時間を潰すことが出来なかったから。 ──ぐるぐると色んなことを考えているつもりでも、顔を上げてみると何にも考えていなかったことに気が付いた。 峯さんが黙り込んでいるのは、もともと寡黙な彼のことだから不思議でないけれど、どうして自分までもが言葉を失ってしまうのだろう。同じ沈黙にしても、その性質が普段とはまるで違っている。 見詰めてほしいし、見ないでほしくもある。 化粧やスーツという装備を解いたいま、私はいつも以上に感情が顔に出てしまっている気がする。つまり、いまとても峯さんのことを意識して、戸惑って、それでもここにいたいと思っていることが。 ちらと峯さんに目をやると、彼はどこを見るでもなく、私に斜め横の顔を向けていた。いつもは、喉元まできちんと締まった襟に隠れた、筋肉の筋のある首が見えている。襟足の短い髪のおかげで、その首は生々しく露出している。 なんだか、胸が痛かった。 見惚れそうになるのを制止する痛みと、自分のことを浅ましいと思う痛み。 (恥ずかしい) 俯いて、もう一度自分の浴衣の皺を気にしているふりをしていると、峯さんがふう……と吐息を漏らす気配がした。 「いま、何を考えているんですか?仕事のことですか?」 沈黙に耐えかねて、そう訊ねる。彼は、ゆっくりと首を左右に振った。私のことを一瞥したその瞳は、冷たく、暗い感じがした。 「あなたのことです」 峯さんのくちびるが、噤むために僅かに動いた。目を伏せている彼は、まるでどこか口惜しげに見える。何か悔いるような、躊躇うような……そんな、表情。 「……私の、こと……ですか?」 「ええ。一体どちらなのかと」 「……」 驚いて目をしばたかせると、裸のまつ毛がぱちぱちと交差する。私を眺めながら、彼は目を細めた。痩せた涙袋が、彼の下目蓋に浮き上がる。 「打算なのか、無垢なのか……」 空気が変わった、と察知した。 峯さんの影が、ふわりと私の顔に落ちてきた。暗くなった視界と、顔の肌の温度がわたしの顔の中心に触れている。 彼は斜めから間合いに入ってきた──互いの鼻筋がぶつからないよう、キスするときの角度で。 「素顔でいると、まるで少年のようですね」 私のくちびるに、彼のささやく声が、熱と輪郭を持って降りかかる。 言葉を発するために口を動かせば、誤って彼のくちびるとぶつかってしまいそうで、何も言うことができない。僅かに開いた私のくちびるを、彼は至近距離から見下ろしていて、私はそんな彼の目元を見つめていた。微かに気色ばんだ険しい顔。逆立った怪訝そうな眉。つやつやしたまつ毛。峯さんが鼻腔でため息を漏らした。それはそよ風となって、私の顎を一撫でした。 「いいのですか?」 まるで直接、体に口を付けて話しかけられているみたいだ。峯さんの声は、鼓膜よりも、胃の底に響きわたる。 「と言ってももう、帰すつもりはないが……」 何か言わなければ、と焦った瞬間、峯さんの細められていた目が、閉じられた。そして同時にくちびるが、くちびるに重なった。 「……!」 腕の支えを求めて指を動かすと、畳を引っ掻いて、ざりと音を立てる。くちびるが離れて、彼は私の顔を覗きこんだ。その瞳は無表情で、淡々としているのに、私を金縛りにさせる確かな効力を持っている。 さっきまで、不動産所有者への立ち退き交渉案件を話をしていたのに。 同じくちびるが、私にキスするなんて。 「どうしたんです。俺に抱かれるのは怖いのですか」 熱を帯びた声が、それなのにいつもよりもざらついている。呼吸するとき、はあ……と息をついて、険しい眼差しを私に向けたまま、もう一度彼は口を開いた。 「あなたは怯えているように見える」 何か、言わなければ…… だが言いよどむ私を待つことなく、彼のくちびるがもう一度触れる。さっき重なったときは乾いていたのに、互いの口角が重なるほど深くぱくりと重なった結果、くちびるは水分を帯びて、しっとりとしている。それはくちびるの皮のささくれを解かして、なめらかな触れ心地となった。 「隣室へ行きましょう」 熱っぽい吐息とキスの余韻を置き去りにし、彼は立ち上がる。 さきほど眺めてから急いで目を逸らした、花の絵のある襖をすっと開けると、行燈のぼんやりと霞む寝室が見えた。 濃い茶色と橙の陰影に包まれた寝室。羽二重の絹の布団が敷いてあって、これから起こることに体が熱くなる。 峯さんは布団の傍で立ち止まり、そっとこちらに振り向いた。その視線は、私自身というよりも脚や手に向けられており、私が動くのを見守っているようだった。 「……」 何も言えないまま、ぎこちなく立ち上がると、さっと畳が音を立てる。 心臓がどくり、どくりとうるさい。 眩暈がしそうなほど緊張している。 一歩歩くと、また畳がさら、と音を立てる。 開け放たれた襖の、ヒノキの敷居を踏み越えることができず、思わず立ち止まった。 峯さんは「さあ」と言う。「来てください」 恥ずかしくてくらくらしているし、鼓動が激しすぎて体がつらい。 脚ががくがくしていないのが不思議だった。指先と腕と肩は、こんなにも震えているのに。 「さん」 敷居をまたぎ、寝室に入り込むと、そこは閉め切っていたためか室温がわずかに高くなった気がした。それとも、私自身の発熱なのかもしれない。 峯さんが手を差し出している。それに手を重ねようとした瞬間、その手は私の腕を通りすぎ、私の体を掻き抱いた。 「よかった」 そう呟いた、高いところにある峯さんの顔。 うっすらと微笑しているかに見えるのは、光の角度のせいかもしれない。口角が上がっているわけではない、目が細められたわけでもない……けれど無表情でもない、やわらかいその顔。 はっとしたのは、以前もその顔に見とれたことがあるから。こんな顔もできるのだと……こんな人だったのだと印象的だった。 (あれは今年の初めの寒い朝。私の淹れた熱いお茶を受け取ったときの顔だった) そんな優しい顔で、私を抱き寄せて、よかった……と言うなんて。 肌触りのよい浴衣ごしに、熱い胸板と腕が、私を包み込んでいる。 硬くて、熱を持ったブロンズ像のようだと思った。鍛え抜かれた屈強な筋肉と、生まれ持った均整のとれた骨格をしている。 ぎゅう、と痛いほど抱きしめてほしいのに、どこかもどかしく、ぎこちないようにも思える腕のいたずらに目を開けると、峯さんは私の様子を尖ったまつ毛の下で見下ろしていた。 「……」 なにか言おうとして、やめたくちびる。 不思議に思っている私に重ねられたそれは、まるで噛みつくような早急な勢いを持っていた。 ちゅ……と小さな音を立てて、くちびるが離れる。 全身の火照りは、口付けによって、くちびるにまで及んでいる。目の粘膜まで熱を持っている。 峯さんは私を坐らせて、右腕で力強く私の背中を支えながら、左手で私の帯を探った。 結び目を探ったあと、たれ先を指で捉えると、彼はわたしの顔を見下ろした。 心臓が、壊れてしまいそうだった。 この状態でも機能しているのが不思議なほど、胸は破けてしまいそうだった。 意識的に落ちつかなければ、気道が誤って、呼吸が乱れてしまう。荒い息を抑えているので、私は一言も話すことができない。 峯さんはやはり私から目を逸らそうとしない。 じっと見据えながら、私の表情から胸中を探るように、しゅる……と帯のたれ先を引っ張った。 さら、さら、と短い音が鳴って、帯が解け、私の腰の下に落ちていく。 きちんと鎖骨を覆っていた襟元に隙間が生じ、外気が熱を持った胸にかかる。 (……!) 峯さんは、私の顔から目を逸らし、浴衣を羽織っただけの体に目をやった。そっと大きな手が、私の浴衣の上前を持ち上げる。そして、体に掛かっていた、残る下前も、布団に滑り落とした。 抑えていたため息が漏れて、私は熱病に浮かれているように、はあ、はあ、と口で呼吸を始めてしまう。 体の内側は燃えるように熱いのに、素肌は鳥肌を立てている。 峯さんはしばらく私の裸体を眺めて、何を考えているのかわからない眼差しを向けていたが、やがて腹部にそっと手を置いた。 指先ではなく、骨ばった指の関節が、するすると素肌の上を滑っていく。折り曲げた人差し指の第一関節で、硬いところとくぼみを確かめているのだ。 胸の周辺と喉のあたりにまで円を描いて上ってきた指が離れ、ようやく手のひらが私の肩の皮膚にぺたりと張り付いた。 手の甲の筋張った手が、押し込むように鎖骨にまで這い上がってくる。その手は私の首を一掴みにするように滑ってきて、顎の下で止まった。 そのまま私の顎を掴むようにしながら、彼は音もなく私のくちびるにキスを落とした。 くちびるとくちびるの触れ合うソフトな音のあと、つるりとした清潔な歯が私の口角を甘噛みする。峯さんはキスしながら、私の背を布団の上に置いた。絹ではなく綿の薄い感触がするのは、裸の背中とシーツの間を、先ほど脱がされた浴衣が広がっているからだ。 私の頭を枕に載せて、彼は私の体の上に覆いかぶさった。濃い茶色の影と、体温と、そして他人の肌の匂いに包まれる。私の体はすべて峯さんの下で隠れてしまい、まるでトンネルに入ったような気がした。 峯さんは、音のしない、なめらかだが舌の入らないキスをしながら、わたしの右胸の輪郭を揉みはじめる。中央には触れず、横に流れてぺしゃんこになった胸を掬い上げるように。 そうしてから、私の体の凹凸を押しつぶすように、平らにした手のひらで素肌を滑りはじめる。 「あ……」 呼吸のタイミングで敏感な箇所を触れられ、引き攣った喉元から声が漏れる。 一度漏れてしまうと歯止めが利かず、手が腰のあたりを掴んだだけでも背筋がぶるぶると震えた。 温泉にせっかく浸かったというのに、すでに胸のあたりと背中に、薄く汗をかいている。まるで湯上り直後のように、全身はピンク色に茹っている。 「ここの湯の匂いがする」 声にならない掠れ声で、峯さんはそう囁いた。 峯さんは自身の帯をぐっとほどき、露わになった腹筋を鈍い行燈に照らしながら、袖も抜いて浴衣を脱ぎ捨てる。畳に放り投げられた布地が、ばさりと音を立てて、静かになった。 峯さんからも、温泉の匂いがする。 清潔な湯気の匂い。 オールバックに纏められてはいるけれど、整髪料がないため、さらりとその一すじが彼の額に零れてくる。 その髪と額に映る影を見ていたが、愛撫が奥深くにまで侵入してきたので、反射的に目を閉じた。次に目を開けると、もうその一すじは自然と後ろに流れていた。 ……あ、 また……優しい顔をしている。 例えば綺麗なもの、美味しいものを手にしている、そんな心穏やかな、静かな喜びを湛えた顔。 激しい愛撫に息も絶え絶えになって、汗をたっぷりかきながら、悶えて苦しんでいる私に、峯さんはやわらかな眼差しを向けている。 (本当に、期待しても、いいんですか) ──心の中に、私の存在があると思っても。そう思いたくなる、信じたくなる、その期待との葛藤は、肌を重ねている幻想なのかもしれない。けれど彼の感情が見えた気がして。私は、一人きりで抱えていられなくなる。この胸を込み上げる衝動的な感情を、持て余してしまう。 むしろこの場だけの、一夜のみの関係なら……そうなのだと言ってくれれば。 そのほうが楽なのではないか。あとで、苦しむのはわかっているのだから。 けれどそのような思考はかき乱されて、真っ白に、散り散りになっていく。 伸ばしたり屈したりしてしまう落ち着きのない脚を抱えて、峯さんは体の間に腰を入れてきた。 脚の間に誰か他人がいるという、その身に覚えのない感覚に鳥肌が立つ。内腿の皮膚は、とても敏感にできているのだ。そこに指をくいこませられると、まるで胸を掴まれたように苦しくなった。 「……峯さん」 ひくっ、と喉を震わせながら彼の名を呼ぶと、喘ぎ声の一種であるような甘い声が出た。 「どうしたんです」 峯さんは、怒ったような顔をしている。 眉間を寄せ、口角を曲げ、瞳にギラギラした威圧感を籠めている。 「脚の力を抜いてください」 膝が自分でも驚くほど固く強張っていた。峯さんはそこを掴んで、私の脚を開かせた体勢で固定してしまうと、そっと私の胸に胸を這わせた。 彼の体は、熱くて、重くて、とても大きい。 そして、自分と同じ匂いと混じって、彼自身の持つ匂いもした。 その匂いを探り当てたときに、東城会本部の廊下ですれ違ったときの、不機嫌そうな横顔を思い浮かべる。 目も合わせてくれない、むすっとした顔。 私の万年筆を拾って、後ろから呼び止めてくれたときの、怪訝な顔。 “あまり本家に出入りしている証拠を残さないほうがいい。あなたのキャリアが穢れる” と峯さんは言って、私に万年筆を差し出した。 僅かに触れた指先を残して、お礼を言う私にすでに背を向け、彼は行ってしまった。 あの、体温の感じさせない、冷たい人が── 日常で見た高潔で無機質な彼と、いま私の上で、私を見下ろしながら、片手で避妊具を付けている彼は、表情は同じだが、まったく別の姿をしている。だが、どちらも峯さんらしい気がした。 不思議なのは、なぜ私なのかということ。 なぜ、私を指名してくれたり……部屋に誘い、抱いているのか…… お腹に付きそうなほど勃起したものが大きくて、硬そうで、見た瞬間ぎくりとした。 とてもそんなもの、入らないと思ったが、彼は躊躇なく窪みに宛がってくる。 「峯さん、あの……」 「どうしました」 「あの、それ……ちょっと」 「暴れないでください。」 「あ、っ……!」 「……っ、……」 にゅる、と先が入ったあと、幹の部分が引っかかりながら押し入って、腰の中がきゅうと苦しくなった。 大変な異物感に、快感というより体を真っ二つにされているようで、足の裏にじわりと冷や汗が滲む。必死に息を止めて、ぐっぐっと押し入ってくる感触をただ受け入れていると、彼の柔らかくストレートの陰毛がわたしの恥骨に重なった。 呼吸が止まっていたことを思い出して、酸素を求めながら口を開くと同時に、目を開ける。 峯さんは、熱いため息を漏らして、眉間を寄せて目を閉じている。 彼の端正な顔を見ると、胸がきゅんとなった。 卑屈になったり、不安を覚えたりするのとは違う、ただ純粋に心に響くときめき。 「痛いのか?」 「……いいえ、大丈夫です」 全部収まったことにほっとして、わけがわからないまま微笑すると、峯さんのこめかみの血管がぴくりと浮いた。 「峯さんのほうが、痛そうに見えます」 「あなたは、誇らしげな顔に見える。不思議ですよ」 「全部入ると思わなくて。だから……嬉しいんです」 「……だが我慢している」 「私なら……大丈夫なので、動いてください」 彼の腹筋が、大きく窪み、中で小さく引いて、また奥まで当たった。 茶色っぽい髪が、さらさらと額にこぼれ落ちる。 手を伸ばして、その髪をオールバックに撫でつけると、峯さんは短く息を切らしながら私を見た。 きらきらと小さなしずくが、彼のもみあげのあたりで、動くたびに光っている。 きれいだなと思いながら、またこぼれてきた髪を掻き上げると、峯さんはその手を掴んでちゅっとキスをした。くちびるまで火傷しそうに熱くて驚いてしまう。 その熱も、その汗も、その切なげな顔も、全部私を抱いているからなのだ。 あんなに、いつも涼しい顔をしていて、冷静で、プライベートなんて感じさせない人が…… あのどこか寂しそうな人が。 どんどん溢れ出てくる粘液のおかげで、苦痛は薄れ、だんだん同じ温度に融合しあった。 峯さんは枕に広がった私の髪を触り、頭の輪郭をそうっと手のひらで撫でる。 すう、と彼が私の顔の匂いを吸い込んだ。 そうして、至近距離で瞳を見つめながら、私の気持のいいところを、すぐに探り当てた。 私の気持のいいところは、彼にとってもそうなのか、まだ様子を見るようだった動作が、衝動的で、気の狂いそうなものに変化する。 ちゅっ、ちゅっと粘液が擦れあう音と、布団を掻きむしる衣擦れの音……微かに畳のきしむ音、それから峯さんの呼吸音。自分の声や、ため息は、たくさん出ているのに不思議と認識できない。 自分の直接与えられる快感よりも、彼の低い吐息を漏らす喉のうねりや、くちびるを噛む小さな動きのほうが、私には官能的に思われた。それをもっと感じたかった。 こんなに切ないのに。ざらざらしていて、重くて、息苦しいのに。 布団と、しわくちゃの浴衣の上で、峯さんの背筋がしなやかに上下する。 彼の険しい顔を見上げたあと、厚い胸筋、岩のような腹筋と、薄い板の入っていそうな下腹部、そして私に出入りしている箇所へと視線を辿らせる。 「ああ……」 彼は私の肩に向かって頭を下ろした。苦い声を聴くと、ぶるっと腰から弓なりに痙攣してしまう。溢れ出る粘液が、お尻の下に敷かれたシーツに付着して、冷たくなっている。 「さん」 呻きながら峯さんは、わたしの顔に掛かって乱れた髪をそっと指で梳いた。 「顔が見たい」 「恥ずかしいから……」 「……」 ふう……と重い吐息交じりに耳元で囁かれて、……それはたしかに愛情を感じた気がして。 彼の薄い目蓋に沿うまつ毛も、浅く小さな毛穴も、高くて冷たい鼻先も、薄いくちびるも、私を包み込むように覆いかぶさっている。 「峯さん、好き……」 峯さんは、私の顔を見つめるその瞳を、微かに大きくさせた。 彼の胴体に手を這わせると、峯さんの心臓の音が伝わってくる。 どくん、どくん、どくんと、激しい、鈍いその音。 うっすら汗ばんだその素肌が、荒い息のもとで上下している。 ぐっしょりと濡れた内壁をこすりつけながら、彼がもうすぐ達しそうな気配を見せた。 そこに到達するまでに、長すぎる時間をかけられていたし、私自身何度も快楽に登りつめていたので、そのあとのことは頭がぼんやり霞んでしまっている。 眩暈と正気をいったりきたりして、あまり記憶に残っていない。 ただ、喘ぐ私の耳元で、峯さんが ──俺もです ……あなたが、好きだ そう囁いた気がした。 * * * 「今更何を恥ずかしがる理由が?」 私がなかなか湯船にやって来ないことに苛立ちを感じたらしく、峯さんはいつもの冷淡さでそう言う。 当然私の部屋にはなかったが、峯さんの部屋には露天風呂が設えられていた。 ヒノキの香りと、海の匂いと、温泉の湯気の匂いが、酸素よりも多く空気に含まれている。それは非日常で、かえって私を冷静さの中に突き返した。浮かれていたいのに、恥ずかしくて行けない。 「……、むこう、向いててもらってもいいですか?」 壁のむこうから、すでに湯船に浸かって待っている峯さんにそう伝えると、夜の海が、私の声をかき消すようにざぶんと大きく波打った。 「……。早くしてください」 峯さんは、真っ暗な海の景色のほうへ顔を背けてくれる。 わたしはそそくさと近寄っていって、タオルを濡れないところに置くと、そうっと湯船を荒らさないように体を沈めた。 幸い、お湯は白濁しているため、湯船に浸かりさえすれば体を見られることもない。 「すみません、お待たせして……」 「先に茹だってしまうかと思いましたよ」 一切愛想の見せてくれない侮蔑的な顔。 まえはいちいち傷つけられた顔。でも、いまは、なぜだか微笑んでしまう。 峯さんはにこにこしてしまう私になにか言いたげだが、くちびるを噛んで私を一瞥しただけだった。視線で咎めているようだが、それすらも嬉しくなる。 「……すごく絶景ですね。とてもきれい」 後ろを振り返りながら、紺色の夜空と黒い海を見下ろすと、すべすべした潮風が入り込む。峯さんは背を向けたままで、景色になど興味がなさそうだ。 「ご覧にならないんですか?」 「それほど大したものじゃありませんよ。この程度は……。俺の持つ不動産に、海べの一望できる高層ビルがあります。そちらから眺める景色のほうが、よほど美しい」 「……そうなんですか」 ちゃぷん、とお湯の中で脚を伸ばすと、中であぐらを掻いていたらしく、峯さんの脚とこつんとぶつかった。だが彼は少しも動じず、身じろぎするそぶりも見せない。 目を閉じているじっとしている姿は、温泉を堪能しているというよりは我慢しているようにも見える。私がその姿をじっと見つめていると、彼は横目で視線を返した。 「なにか、言いたげですね」 「……帰るのが、惜しくなってしまって。あと何泊かできれば、と……」 「立ち退き交渉は明朝だ。とてもゆっくりしてはいられない」 「そうですね……」 仕事が片付いたら、もう会えなくなってしまうかもしれない…… 小さな不安が、一度発想の中に出てくると、大きく広がって止め処なくて、思わず蒼褪めてしまう。 「次回もまた、私を指名してくださいますか?」 最大級の勇気を出して訊ねたつもり。 だが私の緊張は、ひとつとして彼には届いていなさそうだ。 峯さんは両手でお湯を受け、顔を濯いだ。そして、疲れるのか目蓋を指で抑えた。 「いえ、次回は頼みません」 「え……」 「業務とプライベートは区別したい。さんもそうだろう」 峯さんは、顔の水分を拭い、遠い目をして室内を眺めている。 まるで普通の会話をしているように。なんの緊張感もなく。だけど、すごく、気になることを言われた。 (業務と、プライベート……) ……それって、 ……やっぱり、 「さんにも見せたい。あのビルの海べの景色を」 淡々とそう述べる、潔癖そうな横顔が、まぶしい。 ……私は、期待してしまっている。もう、どうしようもないほど。 「見せてくださるんですか?」 そう訊ねると、峯さんは返事の代わりに、下がっていた口角を真っ直ぐにさせた。 (いまはまだ、はっきりしないけれど) 訊いても、はぐらかされてしまうだろうけれど…… いつか、今夜のことを思い出して、あんなこともあったなあと思うのかな…… そんなことをぼんやり考えていると、お湯の中で、峯さんが私の腰にそっと手を回した。お湯以外の温度が、体をじわりと包み込んでくれる。 峯さんの肩におずおずと、嫌な顔をされないか心配しながら頭をもたせると、彼は何も言わず受け入れてくれた。 新鮮な湯気が、そよそよと水面から湧き上がり、青白い月光を遮っている。 海のさざ波の音、温泉の流れる音、 湿度、髪の匂い、肌を合わせた名残、 私を抱き寄せる峯さんの横顔の穏やかさ、 ──ぜんぶ一生忘れない、旅の思い出。 あとがき |