 峯さんが眠りに就いたことを知り、わたしは彼の寝顔を覗き込んだ。 眠りが浅い彼のことだから、ベッドを揺らしてしまったり、シーツの中で衣擦れの音を立てては起こしてしまう。そっと息を殺して、細心の注意を払って顔を寄せると、仰向けになった彼の無音の寝顔を見ることができる。それは、宗教画に見るような、穏やかだが隙のない、超人然とした印象を与えている。ベッドライトのランプシェードが、彼の顔に靄のような鈍い陰影を浮かべている。 生えそろった、真っ直ぐで短い睫毛の影が、凹凸のない平坦な涙袋に影を落としている。 空調に乗って、ルームフレグランスの香りがした。 その香りの下で、峯さん自身の香りも感じる。青くスパイシーな匂いはごく薄く軽いのだが、鼻腔に甘く残るのだ。 こうしていま傍らで、彼の寝顔を見つめていることなんて、片思いしていたときには信じられっこないだろう。 あのときはただ見つめているだけで幸せで、それだけで胸がいっぱいだった。 いま思えば、当時は片思いなりに幸福だったことは間違いない。 気付かれぬよう、そっと見つめていた。 考えごとをしている顔、苛立った顔、作り笑いを浮かべている顔、コーヒーの香りを楽しんでいる顔。資料を読む瞳、パソコンを叩く指、上質の靴。ときどき目があえば、すぐに逸らす横顔。 同じ部屋にいるだけで幸せだった。 声を聞き、その存在感を肩越しに感じるだけで。 あのままでずっといられれば、よかったのかもしれない。 深い関係になることなく。 彼のくちびるの感触も、指遣いも、体温も、わたしを見て表情をやわらげる優しさも、知らないままならば痛みもなく継続できていただろう。ただ、好きでいるというだけの状態を。 けれどもわたしの気持は簡単に暴かれたし、彼はわたしが思ったよりもずっと敏感な人だった。 “本当に俺でいいのか？” と峯さんは一度わたしに訊ねたことがある。彼はお酒を飲んでいたし、わたしは彼が酔っているのだと思った。だが、覗き込んだ彼の顔は今までで一番冷静沈着で、感情というものを永遠に失くしてしまったかのように見えた。 “本当に俺でいいのかと訊いているんだ” どうして彼がそんなことを訊いたのか、わたしにはそのときわからなかった。 一人で莫大な資産と名声を築き上げた彼が。わたしなんか、何も持っていないのに。わたしのようなおもちゃが、彼にはいっぱいいてもおかしくないのに。 いつも不敵なほどクールで、孤高なほどのプライドを思わせる彼が、どうして…… “どうしたんですか？どうしてそんなことを……” わたしの問いに、彼は諦めたように目を閉じた。 “いや……もういい。疲れているらしい。……忘れてくれ” 「眠れないのか」 睡眠から目覚めへのきざしを見せず、低く掠れた声が耳に触れた。その声は、すっと空気の中に散り散りになって、鼓膜に余韻を残さない。彼が目を開けていなければ、気のせいだったと思ったかもしれない。 「どうした……」 彼は、しゅる、と衣擦れの音を立てて、右手でわたしの後頭部を掴んで引き寄せる。肌理の細かいつややかな顔の素肌。だがもみあげと顎のあたりの皮膚はざらざらしている。峯さんの肌の匂いがした。わたしは愛しくて目を細めた。 「寝顔を見たくて」 「寝顔？」 「はい」 「そうか……」 ふ、と皮肉っぽく笑いながら、けれどすぐにやわらげたくちびるで、わたしのくちびるにそっと重ねる。 あまりやわらかくない、張りのあるくちびるは、逆にわたしのくちびるのやわらかさを楽しんでいるようだった。押しつぶすように一度ついばんだあと、彼はそっと顔を離した。 わたしがキスから目を開けると、彼も同じタイミングでそうした。 美しく涼しげな目蓋が、そっと持ち上げられる瞬間が見えた。 「はやく寝ろ。あすも早い」 「はい」 ぎしり。 わたしを抱き寄せて、彼は深呼吸する。絹のシーツの中は、峯さんの体温が溶け込んでいて、あったかくて気持がいい。そのなめらかな感触に吸い寄せられていくと、彼の硬く、鍛えられた厚い胸筋に触れた。 「寒いのか」 「いいえ」 何気ない腕が、わたしの体を締め付ける。 とても幸せで、このまま死んでもいいと思う。満たされていて、胸があたたかくなる。 微笑しながら、いつのまにかわたしは冷たい涙を落としていた。それは、生理現象のようなものだと思った。峯さんは敏感にそれに気づき、指でそっと拭い取ってくれた。 「泣くな……」 「……」 「……おまえが気に病むことはない」 「……」 峯さんはこう言ってくれている。 だけど一生わたしを許すことはできないだろう。 “峯さんは自分のことしか興味ないんでしょう。あなたはわたしのことなんかどうでもいいはずです。それなのにどうして引き止めるんですか？自分しか信用していないくせに。別れます。もう二度と会いません。わたしにそれができないと思っているんですか？” “俺が自分にしか興味ないと、どうしてそんなことが言える” “机の中の写真、見ました” あのとき、わたしは泣いていた。頬を汚していく涙が熱く、マスカラを流してしまう。 化粧と涙に煙る視界でもはっきりと峯さんの、なんとも言えない、束の間こわばりを解いた素顔が見えた。 それは、無防備で、どこか無垢で、そしてわたしをじっと見つめていた。……信じがたいような目で。 “あなたは自分だけが大切なんです” もしわたしにもう少し余裕があれば、わたしは峯さんの態度にもっと注意を注ぐことができただろう。しかしわたしは荒んでいて、疲れ果てていた。 そして、偶然見つけてしまったあの少年の写真……面影がある、あれは過去を一切語らない彼の秘密なのだ。 ……絶対に見てしまったことを言わないようにしようとしていたが、しかし、それを言ってしまったということ、その自分の言葉の断片が、ふわふわとあたりを漂っていた。 （……写真、見ました。……あなたは自分だけが大切なんです。……） 峯さんは、写真の中の少年と同じ、疲れ果てた無表情で、わたしを見つめていた。 思い出して、 喉に声を詰まらせて、涙を堪えるわたしを、峯さんはぐっと抱き寄せる。 あれから峯さんはますますわたしに優しくなり、大切にしてくれる……。 だが、彼自身はちっとも幸せそうではなかった。 彼は、わたしを許そうとすることと引き換えに、自分を傷つけるほうを選んだのだ。 もう昔のように、わたしを束縛するようなことはしないし、わたしの家庭環境を侮辱することもない。 いまになって思えば、あの辛辣な言葉も、駆け引きも、嫌な顔も、峯さんの感情表現だったのだとわかる。 彼は、そうやってわたしの反応を見ることでしか、安心できずにいたのだ。ずっと。 わたしは、そんな峯さんを簡単に裏切った。 まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。 峯さんは、その大きな手でわたしの髪を掻き分ける。 彼の、うつむきがちな顔。影を帯びた、憂いる表情。さぐるような眼差しが、わたしの瞳に注がれる。 無理に微笑して見せると、彼は微かに眉を寄せ、熱いため息を吐いた。 「……ひとつ、懸念がある」 彼の、口角の動かないくちびるが、そう囁く。 「約束してくれ。どこにも行かないと」 「はい」 わたしが頷いても、彼は、疑わしげな視線のまま、わたしを見つめ続けた。 切れ長の鋭い瞳が、いまでは彼を幼いふうに見せている。 その表情が切ないほど愛おしく思われて。 まばたきすることすら、惜しかった。 この顔とこの声を、忘れることがないように。 「どこにも行きません」 「本当か？」 「はい」 「……、なら、いい」 「はい……」 わたしは、ここにふさわしくはない。 （ごめんなさい） （ごめんなさい、ごめんなさい……） だから、決めたんです。 最後まで傷つけて、──ごめんなさい。  |