“あんたは孤児で、不幸な生まれで、運良く誰かの庇護があるからこそこうして……”


峯さんの言葉と声を蘇らせて、わたしは、そうだな、と思う。実際、彼の言うとおりだ。
大吾さんや桐生さん、ほかにも知らず知らずのうちに色んな人が助けてくれて、いまなんの苦労もなく生きている。その恩に報いることも出来ずにいる自分を省みると、峯さんがわたしを虚無の瞳で見ていた理由がわかる気がした。
「元気がないな」
大吾さんが真正面からわたしを眺めている。缶コーヒーを片手に、スタンド灰皿をはさんで談笑しているが、大吾さんは一本もたばこを吸っていない。
風が出てきた。雲がぐんぐんと動いている。
東城会本部の中庭は丸石が敷き詰められ、常緑樹が生い茂っていて、静謐だがどこか威圧感がある。塵一つ見逃さず全てに人の手が加えられた計算された調和が、圧倒的な権力を思わせる。美しいが、ときどき薄ら寒くなる。
「いえ、元気ならいっぱいあるんですけど。大吾さんには本当にお世話になっているなぁって」
「なんだ、どうした?急にしおらしくなって。礼ならいくらでも聞くが」
大吾さんはふふ、と笑った。
彼は頭を遣う人特有の暗い瞳をしている。優しさと生真面目さに疲れを感じさせる。そこにわたしはぶらさがっていたんだな、と思った。ありがたくて、手に持っていたコーヒーを見下ろして、すこしだけ、泣きそうになった。
「わたし、ほんと運よかったです。ラッキーでした。大吾さんをはじめ、色んな人に助けてもらって」
くちびるの微笑をやめて、大吾さんは眉を動かして、思わしげにわたしを見た。
「なにかあったのか?」
へらへら笑うわたしに、大吾さんは真面目な顔をしている。見透かされているような気がして、つい顔がこわばった。
「いえ。全然。人に恵まれたなぁと思って」
「……おまえが色んな人に助けられたのは、おまえの努力が切り開いたものだと思うぞ。恵まれたのも、おまえが頑張っていて、それを助けてやりたいと周りに思わせたからだ。おまえの努力がいろんなやつを惹きつけたんだ」
大吾さんはそう言い終えてから、目だけでうっすらと笑った。温かい目をした、という表現がしっくりくる。口元は苦笑いみたいにすこし引きつらせて、でも眼差しに彼独特の配慮が見受けられた。
大吾さんの言葉を脳裏に巡らせながら、峯さんの孤独な横顔を想った。……では、峯さんは、誰かに努力を報いてもらったことがあったのだろうか。……助けてくれて、守ってくれる人が、彼にもあるのだろうか。胸が、痛い。
「ありがとうございます。……大吾さんはいつもわたしを勇気づけてくれますね」
かちりと音がした。大吾さんが、たばこに火を点けて、深く吸い込むすうという音がした。
上空で踊る強風が、大きな雲の天井を連れてきた。あたりが灰色の鈍い影に飲み込まれる。大吾さんのたばこの炎だけが、赤く、強く光っている。
「おまえだからだよ」
「え?」
じゃり、と革靴で丸石を踏みしめて、彼はうつむいた。いかつい眉弓骨の下で、なめらかな目蓋が伏せられる。顔を上げ、無言の横顔で、彼はきつくたばこを吸い、灰皿の中に棄てた。
「おまえだからだ」
静かに、滑らかな起伏をつけて、大吾さんが言う。
思いもよらぬ言葉だった。わたしが何も言えず黙り込んでいるのを、彼は目を細めて眺めていた。
そして、じゃり、と踵を返して、ポケットに手を入れながら、背を向けて立ち去った。




*




あれから、峯さんとは何度か接触した。
大吾さんをふくめて三人で飲みに行ったし、本部で鉢合わせたりもした。二人きりで、食事もしたし、一度だけ昼休憩にオフィス街でランチを共にした。そのとき、どうしても会わずにはおけない気がしたから。洋食料理屋で食べたオムライス。沈黙が苦しくて、噛んでも噛んでも、味がしなかった。
峯さんは、優しい人ではないけれど、わたしに優しくしようと努力してくれる。
いつもむすっとしているのに、わたしがほかのことに夢中になっていると、ふと、穏やかな顔をしている。そして、目が合うと、たちまち顔をしかめた。
峯さん。
とても冷え込んだ寒い夜、彼が突然うちに来た。
「どうしたの?なにがあったの?」
「いや……」
玄関口で、立ったまま峯さんが顔を曇らせる。
思わず、心配になってその頬に手を伸ばすと、かわいそうに、氷のように冷え切っていた。
峯さんは彼の顔にあてたわたしの手に手を重ねて、ぎゅっと目を閉じる。指先も、しっとりと冷えていた。硬く張り詰めていて、頬らしき柔らかさなど微塵もない。
そうしなければならない気がして、わたしは恐る恐る峯さんの腰に腕を回した。彼からは、ハーブのような青い匂いがする。ゆっくり抱きしめたら、峯さんも、そろりとわたしの背に腕を回して、ぎゅっと力を込めた。
どのくらいそうしていたのかはわからない。ほんの数分のことだろう。彼の心臓は早くて、わたしの鼓動の速度も引き連れた。上質のスーツは外の温度だったけれど、シャツとネクタイには峯さんの体温が篭っている。
もっとはやくこうしておけばよかったと思った。峯さんと共にいる時間は相変わらず苦痛を伴ったが、言葉もなく抱きしめ合っていたら、まるで彼はわたしの片割れのような気がした。
「……峯さん」
「…………」
「あの夜、本当は、なにもなかったんじゃない?」
峯さんは身じろぎせず、なにも答えない。数分してから、互いに顔を見合わせた。背が高くて、その顔がとても遠いけれど、背伸びをすれば届かないことはない。峯さんも体をかがめて、頬を寄せ合った。
そこで初めてキスをしたのに、その遠慮がちのさぐるようなくちびるは、わたしを懐かしい気持ちにさせたものだ。






髪に埋めていた顔を離した彼は、わたしの目を見ながら、ひとつひとつ、わたしのシャツのボタンを外した。丸裸にしたあと、自分もネクタイをぐっと指で引っ張って、鋼のような筋肉質の胸を覗かせる。わたしを脱がせるときは、割れ物を扱うように慎重だったのに、彼自身が自分で衣服を脱ぐのは、乱暴な動作だ。
「あぁ……」
ため息混じりに声を漏らしたその喉元が、汗で湿っている。体を折り曲げられて入ってきたそれはとても硬く大きい。ぴくりと脈打って、余裕がないのに、摩擦させる動作は目を開けられないほど激しい。
こめかみに血管を浮き立たせ、鈍く汗ばんだ素肌と、わたしの目を見ようと焦る姿が、普段の姿からは想像もできないほど野性的で。
それなのに、手を頬に伸ばしたら、不意に叱られた子どもみたいな顔をした。


泣いているのかと思って、その顔を覗き込んでも、怪訝な瞳と目が合うだけだ。
何度も一緒に寝たのに、彼の寝顔を見ることはついぞない。
わたしが寝つくまで彼は天井を見てじっとしている。寝たふりをしたらそっと顔を眺めてくる。
抱くときはまるでスポーツみたいに過激なのに、それ以外の場面で触るのにためらいを感じているらしい。
変なの。


峯さん。
彼の喪失は、わたしをいくつか老けさせた。
大吾さんは退院してから、ますます精力的に働いている。
大吾さんの孤独や疲労の捌け口は、どこにあるのだろう。一度、そういう雰囲気になったが、大吾さんはわたしの額にキスしただけで、すぐに離れた。そのキスは、わたしと大吾さんがこれから永遠に一線を超すことはないと決定づける、肉親のキスだった。大吾さんは強い人だ。わたしや峯さんとは、別の人なのだ。


峯さん。
峯さんと体を寄せ合っていると、互いの孤独の胸の内が、ひとつになって慰められた。そして泣きたくなった。自分でも気づかなかったような小さな心の傷が、峯さんの胸の中にいると、大きく膨らんで孵化するようだ。だがそれは精神を乱すのではなくて、むしろ穏やかにさせるための道程だった。
彼は最後まで、わたしの本当の気持ちを知らないままだったと思う。
これから彼のいない毎日をどう過ごしていくか考えると、気が遠くなるけれど、いままでどおりの平凡な日常を守り続けるだろう。


峯さん。
そう呼ぶたび、戸惑ったような、傷ついた顔でわたしを見た彼を思い出す。


峯さん。
峯さん、あのね……


 “どうした。なにがおかしい。なぜ笑っている?”
峯さんの神経質な声を、ふわりと、記憶の引き出しの中で探し当てる。
部屋にひとりでいると、よくそうしていたように彼が、わたしを後ろから抱きしめているような気がする。
そのたびにそっと笑みを結ぶ。
あの大きな広い胸は、いまでもわたしの場所。
だから悲しいけれど寂しくはない。あの人がわたしを見守ってくれている。
消えたはずの彼のハーブのような匂いと、熱い体温を、たしかにそばに感じるのだ。