「そういえば先日。あのあと、もう一軒寄ったんだろ」
大吾さんが資料を眺めながら言う。
「楽しかったか」
先日。
そのことを思い浮かべて、わたしは体を硬くする。言われるまでもなく、そのことはずっと頭の中で蘇っていて、不思議なくらい囚われていた。
茶封筒を手繰り寄せて、大吾さんが新たに資料を引っ張り出す。顎に指を添えて、少し黙って紙面を読みふけっていたが、納得がいったのか顔を上げて、わたしを一瞥した。
大吾さんは、わたしが峯さんとあんなことになったとは、露とも知らぬだろうし、微塵も疑いはしまい。
ちくりと胸を刺す痛みは、罪悪感というものだ。大吾さんに対して罪の意識を感じる理由などまるでない、けれど。
大吾さんにだけは、知られたくない。
「はい。楽しかったです」
「そうか。馬があってよかった」
大吾さんはくすりと笑う。
「また近々、三人で飲もうな」
「はい……」
「そういえばそろそろ峯が来る頃なんだが……」
腕時計をちらと見て、大吾さんが言う。わたしはバッグを掴んで、来賓用のソファから立ち上がった。
「そうなんですか?わたしそろそろ行かなくちゃ。峯さんに宜しくお伝えください」
「なんだ。もう行くのか」
「はい。きょうちょっと外せない用事があって」
「そうか。気をつけて戻れよ」
「はい。ではまた」
ぺこりとお辞儀してから、会長室を出て、強面のその筋の方々に会釈しながら本部を出る。すこしわざとらしかったかと思ったが、峯さんが来るとわかっている場所でぐずぐずしていられなかった。
会わずに済むならそれに越したことはない。


あのあと。
ルームサービスをとって果物とトーストとサラダを食べ、ホテルを出てから、彼はわたしを会社まで送ってくれた。
“また連絡する”と言い添えた横顔はもう、いつもの無機質な峯さんに戻っていたけれど、車を降りるわたしの手を握った指が、前の関係と一線を画していた。
峯さんか。
会ってどういう顔をすればいいのかわからない。
だってどういう人なのかよく知らないもの。
(でもあの人はわたしのことをよく知っているみたいだった)
胸がざわざわする。会いたくないしあんなこと忘れてしまいたいけれど、いつまでもこうしているわけには行かないということも理解している。


その晩、着信があった。
「はい。です」
『峯だ』
電話の向こうで、空調の音がしている。ブウンとエンジンの音も聞こえてくる。首都高のあたりを運転している彼の姿を思い描いた。
「峯さん」
『いま大丈夫か』
「……どうしたんですか?」
『会いたい』
喉の奥から絞り出された、彼の乾いた声が、わたしの体の中に入ってくる。わたしはそれまで、部屋でテレビを見ながら爪の手入れをしていた。そうしながら、そろそろ彼の連絡が来るのではないかと、無意識に着信を待っていたのだ。
「……」
どう答えればいいのかわからず口をつぐむと、峯さんも黙っていた。
この人は、よく沈黙する。沈黙において流れる気まずい空気に、彼は頓着しない。きっと慣れきっているのだ。それともそんなことに落ち着かなくなるわたしが子どもなのか。
「夜も遅いので、少しなら」
『ありがとう。あなたの家まで向かう。神室町のそばなんだろう?』
「はい。ポッポストアとピザ屋の間のアパートです」
『わかった。また後ほど』


二十分ほどして、峯さんがやってきた。部屋にあげようか迷いあぐねたが、しかし今回は酔っていないので滅多ことにはならないだろう。
彼は視線を動かさずまっすぐにリビングに来て、ソファに坐った。辺りを見渡すことなく、部屋の様子を探ることなく、じっとしているのが印象的だった。
「すみません、なんにもなくて。お茶でいいですか?」
「ああ……」
電話のときは、恐ることなどないと勇気が漲っていたけれど、キッチンに立ち、横目で峯さんを伺いながら彼のためにお茶を用意していると、不意に不安になってくる。
峯さんは美しくて、寸分の隙もなかった。きっちりと着たスーツ、髪を整えた端正な顔立ち、物静かな雰囲気。それらはまるで雑誌の広告のようで、普通ではない近寄りがたさを感じる。
そんな人がわたしの家のソファに坐っているなんて、変な話だ。彼は鋲を打った王様の椅子にでも坐っているべきだった。
「どうぞ」
申し訳程度にコースターを用意して、家で煮出したお茶を出す。彼はチラともそれを見ず、まっすぐ背筋を伸ばして、前方を向いたまま暗い顔をしていた。数秒を置いて、青みがかった白目と黒い瞳のコントラストがはっきりしたその眼差しを、ゆっくりわたしに向ける。どきりとした。


「久しぶりだな」
「はい。ほんとに……」
「……」
ころりと、彼の喉仏が動くのが見えた。


「後悔しているのか」
「……」
なにが、なんて訊くまでもない。わたしは何も言えず黙り込んだ。
「あれから避けているだろう」
「……」
「大吾さんが心配していた。具合でも悪いのではないかと」
大吾さんの名前が出てきて、わたしは息を飲んだ。峯さんは無機質な眼差しをわたしに向けたまま、微かに眉根を寄せる。
「やはりな。大吾さんが好きなのか」
「……」
違う、と言いたかったけれど、声が胸の下で突っかかって出てこない。一度深呼吸してから、首を横に振った。大吾さんを好きなんてそんなわけない。そういう目で見るのは失礼に思えるほど世話になっているのに。
……昔は好きだったけれど。……尊敬の上塗りでかき消したのだ。


「あなたのような女が、あの方の傍にいるのは都合が悪い」
峯さんの言葉に、わたしは顔を上げる。電灯を上から浴びた彼は、人形のようだった。高い鼻梁の影が、薄いくちびるに達している。黒い影の下で瞬きするその瞳は、やはり無表情だった。
「だから俺が面倒を見ようと思ったんだ。大吾さんの代わりに……」
峯さんの鼻腔から、ふう、とため息が漏れた。
「大吾さんの代わりに……」
わたしが呆然としているのを見てとったらしい。こめかみに怒りとも困惑ともつかない感情が湧いてくる。もしこれが戦いの予兆なら、形勢は峯さんに傾いている。わたしは混乱していた。
「ああ。水商売の女ならともあれ、カタギの、しかも四代目の恩恵を受けているあなたが本部をうろつくのは困る。もし戦争となったら、大吾さんはあなたを身を挺して守るだろう」
「……」
「もちろんそれだけが理由ではないが……」
それだけは独り言のようにつぶやいて、彼は目を伏せた。
「だから俺が代わりに、と。あなたにとって大吾さんは不動産業の上客でもあるなら、俺が代わりに契約する。幸い物件はいくらあっても不都合でない」
何を言っているのか、わからない。
ただこの人は大吾さんとは全く違う人種なのだと思った。桐生さんとも、柏木さんや真島さんとも……わたしの知っている優しい人たちとは全然違う。
わたしは、こんな人と寝てしまったのだ。
青ざめて、赤くなるわたしを、峯さんは真面目に見つめている。その姿はこんなときでも洗練されている。まるで、人間の情というものがないような人だ。冷酷で、声も冷たくて、綺麗だから余計に……こんなことを言うなんて。


「じゃあ峯さんは、わたしを大吾さんから引き離すためだけに、わたしに優しくしてくれたんですか。あんなに、一緒にお酒飲んで……あんなに親切にしてくれたのは……」
「………」
彼はとても穏やかな顔をしていた。
静けさを思わせる深い眼差しが、わたしではなくて、別のところに向けられている気がする。はじめからこの人は、わたしのことなんか見ていなかった。思い起こせば、いつもこんな目をしていたではないか。
「そうだ」
かすれた峯さんの声を認識したとき、わたしの胸は張り裂けそうになった。
苦しくて息が詰まる。水もなしにパンを飲み込んだみたいに、大きな塊が喉につっかえている。
あの夜、夢なのか現実なのか定かではない、わたしに伸し掛る重みと熱さと──“好きだ”という声を──わたしは愚かにも信じていた。それが心の拠り所になっていたことをいまになって思い知る。
峯さんが、わたしを好きなはずがなかった。恥ずかしくて消えてしまいたい。
あの夜の出来事を、なぜこんなことになってしまったのだろうと思ったけれど、後悔なんて、していなかったのに。
ひゅうと口から空気がかすれる音がした。もうすこしで泣き出してしまいそうだった。


「帰ってください。峯さんのお世話にはなりません」
「それでは困る。あんたのことで、大吾さんのお気を煩わせたくない」
「それはわたしと大吾さんの問題です。あなたに関係ありません」
「……あの晩のことを、大吾さんに知られたくはないだろう」
峯さんは呻くように言う。
「大吾さんに教えてやろうか。あんたがどんなにいい女だったか」


弾かれたようにわたしは駆け寄って、峯さんの頬に手を振り上げた。皮膚の張り詰めた横っ面を引っぱたくつもりが、長袖の裾でかすめたに過ぎなかった。
痛くも痒くもなかっただろう。わたしの手首を掴んでねじり上げ、峯さんはクククと低音で笑う。
それは嘲笑だった。ずっと笑っているのではないかと思うくらい彼は笑っていた。わたしを片手で締め上げながら笑っているのだ。けれどゆっくりと声を収めて、やがて、静かになった。
わけがわからなくて、気が狂いそうだ。ねじられたままの腕が痛い。


「痛い、離して!卑怯者!」
我ながら情けない声だ。泣きべそをかきそうなわたしを、高いところにある双眸が見下ろす。こんな状況でも、揃った短い睫毛の影や、切り込んだような目蓋の薄い皮膚が、作り物のように端正だった。眉間のあたりに下りた翳りが、彼の視線に威圧感を添えている。
「あんたは孤児で、不幸な生まれで、運良く誰かの庇護があるからこそこうしてまっとうに生きていられるが」
薄いくちびるのむこうで、白い綺麗な歯と、舌が覗いている。そのくちびるが、「そうでなければ今頃は……」と囁いて笑うのが見えた。
「何が言いたいんですか?」
「俺が守ってやると言っているんだ。なぜ俺ではいけない?仕事もやるし金もやる。同じだろうが」
「大吾さんはそんなことしません。見守ってくれているけれど、あの人はわたしを独立させてくれたんです。お金をくれるような人は、わたしには必要ありません」


ねじり上げている手が緩んだのを感じ、わたしは力任せに振りほどいた。峯さんは静かにわたしを見下ろしている。腕の付け根がじんじんしている。
「お引き取りください。あなたなんかを少しでも信じていたわたしが馬鹿でした。二度とお会いしたくありません」
かなり感情的な物言いになってしまいみっともないが、止められない。怒りで全身が赤く染まっているのに、頭の中の肝心なところは冴えわたり、峯さんの一挙一動をつぶさに観察している。
……少しでも信じていたわたしが馬鹿だった。
……少しでも惹かれていたなんて許せない。


「……
いつのまにか、涙が、堰を切って溢れ出した。顔をくしゃくしゃにして峯さんを睨むわたしを、まばたきの少ない瞳で彼は見つめる。
「夜分遅くに失礼した。……望み通り、もう行くから泣くな」
眉を寄せて、無表情な顔にわずかに変化を加えて、彼は言う。その表情は形容し難いが、まるで傷ついたような、困ったような、そういう感じがした。
数秒間だけ、わたしの反応を待っていたけれど、わたしが黙り込んでいるのを見て、彼はそっと一歩踏み込んだ。わたしになにかするのではないかとびくりとしたが、彼はそのままわたしを通り過ぎて、玄関まで歩いて行った。靴に足を通して、ドアノブに手をかける。


「……──かった」
電気のつかない暗い玄関に、その物憂げな声が、小さく落ちていく。
「え?……」
うまく聞き取れなくて、顔を上げる。
彼の横顔は闇の中に半分溶け込んでいて、口元しか見えない。
もう一言、なにか口の中に含ませていたようだったが、くちびるを噛んで飲み込まれた。口角に引き結ばれた影が刻まれる。
彼はそれ以上何も言わず、扉を押し開けて、出て行った。


峯さんの最後にこぼした言葉を反芻する。
 ……──すまなかった


「……なんなの、あの人……」
こわい。
たったひとつの謝罪ですべて許せてしまいそうで、途方に暮れる。