新選組屯所の、階段を上って入った山門のすぐそば。古い手水舎の前に、あの人はいる。 ひぐらしの鳴き声と鍛錬の掛け声が壬生中に轟く夕暮れ時。その後ろ姿を見つけて近づいていくと、微かな野草の匂いを含んだ夕風が頬を撫でた。 「……また手伝いか」 「はい。こんにちは永倉さん」 「あんたも忙しい身やな」 「最近はここに来ないと一日が済んだ気がしないんです」 「ほお」 永倉さんはぱしゃりと柄杓の水で手を清めている。その動作の一つ一つまで、修練中の山伏のようだとわたしは思った。彼の傍をとおりすぎ、古池のそばで立ち止まる。蓮の葉の下で、そよと泳ぐ鯉の背が銀色に光った。 「せやけど親御はんは気ぃ揉んどるんとちゃうか」 「そうでもないですよ。案外大丈夫なもんなんだと思ってるみたいです。まあ、新選組の皆さん、噂どおりでしたけど……」 しゃがみこんで鯉を見下ろしているわたしの背後に、永倉さんがやってきた気配がする。 振り向けば彼が、わたしのそばで同じように鯉を眺めて立っていた。燃える夕陽を逆光にして、その高い位置にある顔が濃い影に沈んでいる。けれど微かな動きで、彼がまばたきしたのが見えた。 「噂どおり、物騒なとこやったやろ」 「ええ。まあ」 短い髪やひげが、やわらかそうに夕陽に透けて、触るとねこじゃらしみたいな感じがしそうだ。 わたしはゆっくり立ち上がる。隣に立って並んでも、とても身長差があって顔が遠い。 憤怒と苦渋を模った皺が刻まれている、永倉さんの顔……いまもまだ彼が、その皺を刻んだ出来事を見据えつづけているように思えた。……こうして穏やかな無表情で、鯉を眺めていても。 「でも、永倉さんは違います」 「?……なにがや」 「永倉さんは他の隊士と違って……本物の武士、って感じがします」 ……素直に思ったことを伝えたつもりだったけれど、途中で気恥ずかしさが込み上げて、語尾が弱まる。 永倉さんはたしかに、他の隊士とは違う。だけどそれを本人に伝えるのは、あやまちであるように思えた。 ……だって、永倉さんは、わたしをからかったりしないし。 いつも達観したような目をして、ひとり、出動までの時間を潰している。他の隊士が博打や酒宴に興じていても、永倉さんはそっとその場を離れて距離を置いている。 彼の放つ距離感にふと気づいたとき、ふしぎな切なさがわたしの心奥に響いた。 「…あんた、妙なやつやな」 と永倉さんは、湿度のある低い声を、喉の奥にころがした。 笑ったのかな、と思ったけれど、その口元に変化はない。 わたしは永倉さんの笑顔すら見たこともなかった。 もうすこしで笑ってくれるのではないか──そう期待するような朗らかさを感じることはあるけれど。 「……。そうですか?」 「皆同じ人斬りや。あんま滅多なことは言わんほうがええ。……手伝い続けるんやったら気ぃつけや」 「はい、」 永倉さんの声を記憶に刻みつけながら、くちびるをそっと噛んだ。 ……夕暮れもあと小半時もすれば、暗闇の中に沈んでしまう。 さざ波のように、ひぐらしの鈴のような鳴き声が遠ざかり、近くなる。 夕陽の色を含んだ、瞳の輪郭がわたしに向けられる。 永倉さんとゆっくり重なった視線に、背中がじわりと汗をかいた。 (!……目があった) ……どうしよう、 視線、逸らせない。 遠くを見るような瞳がわたしを見ている。 だけど、わたしを透けて、別のものを見ているような……。 「永倉さんここにいたんですか」 ごくりと唾を飲みこんだとき、縁側を下りて、藤堂さんがこちらにやって来た。 「どうします?祇園。永倉さん、行かないですよね?」 「祇園?」 「忘れちゃったんですか?やだなぁけさ話してたじゃないですか、恩賞出たから点呼取って詰めかけるって」 藤堂さんは、わたしを一瞥して、小さく顎を引く。風のように突然舞い込んできた彼の存在に面食らっていたが、わたしも急いで会釈した。 「俺はええ。行かんて言うとけや」 顔色一つ変えずに永倉さんが言う。 「そうだろうと思ってましたよ。それじゃ、そう伝えておきますね」 「おう、頼んだで」 来たときと同じくらい颯爽と、藤堂さんは屋内へ姿を消した。 それが見えなくなって、足音も聞こえなくなってから、ようやくわたしは口を開いた。 「ほんとに皆さん、祇園とか行かれるんですね。羽振りがいいのも、ご活躍の証ですね」 「そうやな」 「永倉さんは行かないんですね」 ……それにわたしが心から安堵しているなんて、永倉さんにはどうでもいいことだけど。気づかれないよう、顔に感情が出ぬよう、力を入れる。 「きょうはあんま気分とちゃうんや」 岩のような筋肉の腕を曲げて、彼は腰に手を当てた。永倉さんの地面に伸びた影が、彼の体勢を映している。その影の輪郭を、地面になぞって残しておきたくなる。 「そうなんですか。極楽のような場所だと聞いてますけど」 「極楽か。……まあそうかもしれん」彼は、上くちびるからふっと息を洩らした。「なんにせよ、あんま大勢で詰めかけるような場所やないで」 「ふうん……」 「自分そろそろ帰りや。陽もじき落ちそうや」 「あ、はい。そうですね」 ……きょうはもうおしまいかぁ。 振り向いたとき、ぞろぞろと新選組隊長数名が、部下を連れて山門から出て行くのが見えた。さっきの藤堂さんが混じっていて、こちらに小さく笑いかける。その一群は山門の向こうに姿を消したが、女の人とお金のことを話す声が、暫く木霊していた。 また静けさが戻ってきて、ひぐらしの鳴き声が木々の葉を震わせた。 「……ほんとに一緒に行かなくてよかったんですか?」 「なんや、よっぽど行かせたいようやな」 「や、そんなことないですけど、こんな男所帯なのにもったいないなぁって……」 「ほうか?」 「だって、美女と遊ぶ機会なんて祇園しかなくないですか」 くす、 と永倉さんが笑った気がして、顔を上げる。 夕陽の金色をした彼のくちびるが小さく開いて、そっと弧を描いた。 「祇園まで行かんでも、ひとりで間に合うとる」 ……一瞬だけの、思いがけないほど懐っこい、大きな微笑。 取り繕う余裕もないほど、深く魅せられてしまった。 どうしよう、ふつうの顔ができない。 とろけるような夕陽の熱と、永倉さんの眼差し──戸惑うわたしの耳を、朱色に焦がしている。 |