趙さんと付き合うことになって一週間がたった。
付き合う、といっても、好きとか付き合おうとか、言葉の確認があったわけではない。
淡い淡い片思いだったはずが、あっさりとバレてしまって、気がつくとこうなっていたから驚いてしまう。
昔は──ただの仲間だったころは、距離があった。趙さんが作る、しなやかな空気の壁。間合いの取り方。体に触れない距離。
この一週間、急速に展開する関係にとまどっているが、日々は癒すようにやさしく過ぎていく。いつか、このふわふわした気持ちを懐かしむ日がくることを教えるように。






「……それで。あんたたち、付き合ってるんでしょ?」
サッちゃんが真顔で急にそんなことをいうから、ポテトをぽろっと落としてしまった。
「え?」
「だーかーらー。と趙天佑よ。うまくいったの?いってないの?」
「えっ」
「別に隠してるわけじゃないでしょ?ていうか、相手のほうは隠す気更々なさそうだし」


ヴェッテキッチンのざわざわした二階。最近いい感じの彼の話をする女子高生の大声が店内に響き渡る。わたしもあの女子高生と同じなんだな、いくつになっても恋愛が下手だなぁとぼんやり思った。
窓ガラスごしに、真っ黒い夜空の色が透けて、店内の様子を鏡のように照らしている。サッちゃんはきれいな口許でアイスティーを飲みながら、わたしを睨んだ。
「隠してるわけじゃないけど、公表することもないかなぁって……」
「まあみんな気づいてるけどね」
「えっ、みんな?」
「一番とナンちゃん以外みんな。ほほえましく見守ってるわよ」
「ええ、そうなんだ……」
「けどが好きなのは前からわかってたけど、彼も同じ気持ちだとは気づかなかったわ。さすが曲者ね、あの男」
「……」
そうなのだ。趙さんは、たしかに以前はまったく仲間としての一面しか見せなかった。優しくて、頼りになって、強くて、ちょっといじわるで、だけどただの仲間。だから、関係を壊したくなくて、告白はしないと決めていた。そばにいるだけでうれしかったのだ。
それなのに、こういう関係になるなんて、こんなこともあるんだなぁ……としみじみと思った。この現状が、なんとありがたく、なんと奇跡に近いことであろうか。
わたしはいまも、夢じゃないだろうかという疑いを捨てきれない。


「どんな感じ?優しい?」
サッちゃんのフレッシュな色味のくちびるが、美しい弧を描いている。おねえさんみたいなサッちゃん。心配性で、強くて、とても優しい彼女には、ついすべてを聞いてほしくなる。しかし、あんまりなんでも話すのは趙さんに悪い気がする。趙さんは気にしないだろうけど。
「うん、優しいよ」
「そう。わかるなぁ……大事にされてんのね」
からん、からん、と氷をストローで鳴らしながら、サッちゃんは目を細める。自分のことのように、彼女も喜んでくれている……そのことに胸がいっぱいになった。






『お疲れさん。いまどの辺?迎え行くよ』
サッちゃんと別れたことをメッセージで伝えると、趙さんから、そんな返信が届いた。
駅にいる旨を送ったら、了解、と書いたキン肉マンのスタンプが来た。
十九時の繁華街に程近い駅前は、いろんな人々の姿がある。きれいなおねえさんや、サラリーマンや、高校生や、カップルや……そんな雑踏を、まっすぐ趙さんが歩いてくるのが見えた。真っ黒い髪に、真っ黒いライダース。皮肉るような独特の笑み。
こんな人ごみのなかでも、淡い光を纏っているように特別に見える。
わたしのそばまでやってきて、よお、といった。


「お、おしゃれしてる」
「うん。まあね」
「かっわいー。いつもとさぁ、ちょっと雰囲気違うねぇ。変な輩にモテそーじゃーん」
「どういう意味?」
「そういう意味。まっ俺も変な輩だし」
悪びれず、のらりくらりと彼はいう。いじわるな微笑。だが、そっと握ってくれた手が優しい。
「紗栄子ちゃんとメシいったんだっけ。じゃー腹減ってねっか。どっかで一杯ひっかけたいね」
「うん、おいしいダイキリ飲みたい」
「おーダイキリ?シブいチョイスだねぇ。りょーかい」
「趙さんはきょうなにしてたの?」
「俺はねーオシゴト。後処理ってやつ」
「そっか、お疲れ様」


手をつないだまま、街の中を歩く。
歩く速度に応じるように、夜風がやわらかく顔を撫でる。湿った空気の匂い、左手を包む大きくてなめらかな手の感触。いろんな色の電飾が頭上でぎらぎらしている。
趙さんは前を見て歩いている。彼との沈黙は、共有のひとときだな、と思った。趙さんが黙っているのを、わたしも黙って楽しんでいる。景色や、匂いや、感触が、彼の隣にいると鮮やかだ。 なんでもないことが、ひどく心地よい。
感じのよいバーでお酒を飲んで、サバイバーにも顔を出して、それからぶらぶら歩いて、わたしのアパートに帰ってきた。
シャワーを浴びて、ビールを飲んで、じゃれ合ううちにセックスになだれこんで、シャワーをまた浴びてベッドに倒れた。


「きょうさ。紗栄子ちゃんとどんな話したの」
腕枕をしながら、趙さんがわたしの顔を見下ろしている。レースのカーテンを透けた、青白い街灯の端っこしか光源はないのに、彼のピアスだけがきりりと光る。
サングラスも、指輪やバングルも外した彼は、なんだか別の人みたいだ。外したアクセは、几帳面にテーブルに並べられている。
黒いゆるっとしたTシャツと、派手なハーフパンツでベッドに横たわる彼。武装を解いた彼は、きっと、恋人という立場でなければお目にかかれない。


「近況報告かなぁ。そういえば、趙さんとのこと、バレてたよ」
「あれ。隠してるつもりだったわけ?」
「そうじゃないけど、言ったことなかったから。春日さんとナンバさん以外にはバレてるらしいよ」
「ふーん、ならその二人にはこれからも黙ってよーぜ。ナイショにしとくのも乙なもんだし?」
くくく、といたずらっぽく笑う顔がきらきらしている。
サングラスがないというだけで、こんなに若々しくて、きれいになるとは。まだ数えるほどしか見てないけれど、まだまだ慣れなくて見とれてしまう。ふつうの会話をしているだけなのに。
「それで、紗栄子ちゃんなんだって?」
「喜んでくれてたよ。お似合いって」
「おお。さーすがママ業やってるだけあるねぇ。見る目あるよぉ」
「そうだね。だけど、ちょっとびっくりしたみたい。わたしが好きなのはわかってたけど、趙さんの気持は全然気づかなかったって」
「へえ……」


さっきから、くちびるにゆるい微笑が浮かんでいる。目を伏せながら、耳を澄ませてわたしの声を聴いている。
わたしのお腹を撫でていた人差し指が、するりと上がってきて、鎖骨と鎖骨のあいだのくぼみで止まった。
「意図して隠してたわけじゃねぇんだよ。職業柄感情を表に出さないクセついちゃってんだよね」
「総帥だもんね」
「そっ。だからいざ自由の身ーってやつになっても慣れねぇんだよ、しがらみはまだ生きてるわけだし」
「そっか。わたしには想像もつかないけど、すごい苦労があったんだろうなぁ……」
「はは……、
「なに?」
「すきだよ」


驚いて息を飲むわたしに、趙さんは微笑むように目を細めた。
「流氓にいたときゃあ、こんなふうには言えなかったよ。そもそも同胞以外の他人に入れ込むなんて色んな意味で危ねぇマネできねーし?だからさあ……」


趙さんは、そこで軽く口を噤んだ。
わたしは、彼の眼差しを必死に見つめ返した。
長い睫毛、二重目蓋の、優しくも厳しくもなる瞳。
考える目、傷ついた目、苦しみを知っている目。この人は、色んな経験をしている。わたしが思うよりもずっと、闇社会に染まって、そしてそんな自分を客観視しているのだ。
サングラスごしではわからなかった。
こういう目をした人だったのだ。


「嬉しいんだよ。こんな子に惚れることができてさ。昔ならのよさに惹かれはしても、気づかねえふりしてただろうからねぇ」
「……」
、こっち」
「うん」


軽く引っ張られて、趙さんの胸に体を寄せる。目の前に趙さんのくちびるがある。そのくちびるは、秘密を打ち明けるように、ゆっくり瞬いた。
すきだよ、
かすれた囁きが、じんわりと胸をうった。やわらかな口上と違い、真剣なひびきがあった。


わたしは、泣きそうな気持になる。
いつも余裕余裕と笑っている彼が、口笛を吹きながらなんでも器用にこなしてしまう彼が、危険な中でこそあざやかで自由な彼が、いま、本心を見せてくれている。
まるで、弱みを見せるように、切実な心を。


「わたしも好き。大好きだよ」
やっとの思いで震えるように伝えた言葉を、趙さんは優しい顔で聴いていた。どこかおかしそうに、そしてとても嬉しそうに。
「知ってるよ。……ありがとう」


ふふっと鼻にかかった声がいとしい。
これからもこんな夜を繰りかえして、同じ時を一緒に過ごしていくのかな。いまはまだ、趙さんは謎めいているし、過去はあまり語らないし、こんな一面もあったんだと驚かされもする。だけど、距離はもうない。
ようやく、恋人どうしになった実感が、後から追いかけてきた。これは夢じゃないと、はっきりとわかる。
趙さんの、触れる指先が、眼差しが、くちびるから漏れた呼気が、体温が、愛情をゆたかに与えてくれて、痛いほどに幸せだから。