「キスしてもいい?」


なにかの聞き間違いではないか、と趙さんの顔を覗きこむが、表情を見ればわかる。
聞き返すまでもなく、キスしてもいい?と訊いたのだ。珍しくまじめな顔。そっとささやいた声が熱かった。













「え?なんでよ」
「だってさぁちゃんがグラサン外してなんて言うからぁ。キスんときくらいは外してもいいよ俺」
「いや、そういうことならいい。外さなくていい」
「そう?遠慮しなくていいのにぃ」
サバイバーのカウンターでふたり並んで飲んでいる。
さっきの発言、誰かに聞かれたのではないか、となぜかわたしが焦って周囲を見渡すが、誰もいなくて逆にぎょっとした。さっきまで足立さんがやたらうまいカラオケを披露していたし、マスターも目の前でグラスを拭いていたはず。


「マスターならいないよ……買い出しだろうねぇ。春日くんたちは牛丼食べにいってる。聞いてなかったの?」
「ぜんぜん気づかなかった。びっくりした。」
「ははは。ちゃん珍しく酔ってるよねぇ。目ぇ据わっちゃってますけど」
「うん、実はそうなの。ロングアイランド・アイスティー美味しくって」
「まぁたそんなきっついの飲んでんの?ほどほどにしないと、あしたつらいよ?」
「うーん、でも飲んじゃうんだなー」


「しょがないねぇ。こののんべえは。」


やわらかく、趙さんは言う。微笑みをふくんだ、甘くほろ苦い表情。
たしかにわたしは酔っぱらいだけど、趙さんがいつもどおりの彼であることくらいはわかる。さっきの発言に耳を疑ったが、まあそういうジョークも言う人なのだろう。
彼は非常に様になるすがたで苦い酒を飲んでいる。まるで、夜の生き物のように、バーや飯店小路の雑踏の怪しげな雰囲気でこそ生き生きして見える。
一見すればやばそうなチャラいお兄さん、という感じだけど、親しくなれば非常に頼もしく優しい人だった。それを知っているわたしでも、たまにはっとする凄みがある。持って生まれたものなのだろう。


「なぁんだよぉジロジロ見て。穴でも開けたいの?」
「うん、そうそう。グラサンに穴開けたいの」
「またそれかよー。じゃー誰もいないし外してみるー?いいよいまならあ。」
「え。いいの?」
ちゃんだけ特別な」
と、く、べ、つ、な。と強調するイントネーションのあと、彼は、ほれ。とばかりにわたしに顔を向けてくる。
わたしはコリンズグラス片手に、もう片方の手をサングラスのフレームに伸ばした。しかし、考え直してグラスを置いて、あらためて両手でうやうやしくフレームに手を掛けた。


「…」
「なに。はーくしなよぉ」
「またキスしよとか言わないよね?」
「ふふ、どっかなぁ。雰囲気によるよねそりゃ」


いたずらな笑み。動揺するなかれ、と自分に言い聞かせてはじめて、自分が動揺していることに気づいた。
めちゃくちゃ顔小さいな。この人。めちゃくちゃ顔きれいだし。なんだこの人。
ということに、サングラスのフレームに触れたいま、あらためて驚かされているので。
黒い双眸が、一粒の光とともにわたしを眺めている。ほんとうに外せるのか、なんだか試されている気がする。
そもそも、外してどうしようというのだろう、わたしは。ただ、ただ……そうだ、忘れていたけれど、ずっと外してみたかったのだ。その威嚇するような、撹乱するような妖しいサングラスを外したら、いったいどんな素顔が待っているのだろうと。酔っぱらいだから、なんだか目的を見失っていたけれど。


「ね、まだぁ?俺首疲れてきたあ」
「……なんか照れ臭くなってきた。」
「え。」
「恥ずかしいからこっち見んのやめてくんない?」
「注文多いよねちゃーん。まあいっけど」
「趙さんてさぁ、かっこいいよね」
「なんだよ?軽く言っちゃって…俺まで恥ずかしくなってきたんですけど」
「いや、変な意味じゃなくて、きれーな顔だなあって。だからなんか、趙さん相手なのに照れてきたの」
「んだよ、俺相手なのにって。ほらぁ、これでいーだろ」


ぱちりと音が聴こえそうな長い睫毛を伏せて、彼は目を閉じる。イケメンは目を閉じてもイケメンだな。
しかし、いとも簡単に無防備なまねするんだなあ、マフィアの総帥だったくせして。これじゃボディーガードは仕事大変だったことだろう。しかしその突拍子のなさ、大胆なところが風格を生むものなのかもしれない。わいわいお酒を飲んでいると忘れがちだが、ときおり危険な匂いを感じさせる。もう長いこと感じてないけど。最初は、危険しか感じなかったのに。
いつのまにこんな関係になったのかな。


サングラスのフレームを、すこしだけ引いてみる。なめらかな目蓋、長くふわっとした睫毛。見惚れながら、そのままサングラスを取っ払おうとして……また元に戻した。


「あれ?やめちゃうの?」
「趙さんがいきなり目え開けるから反射的に」
「あんまりにも遅ぇからさぁ。てかなーにビビっちゃってんの、ぱっと外しちゃえばいーじゃなーい」
「よく考えたらさ、趙さん自分で外してくれればいいじゃん」
「それはやだ。俺としては乗り気じゃーないからね。外したがってる人が外しましょう」
「うう……ていうかさ、乗り気じゃないのにいいの?外しちゃって」
「まぁね……ほかのやつにゃーさせねぇよ、こんなこと」


趙さんの、黒いエナメルの指先が、ウイスキーグラスをつるりと撫でる。指輪でぎらぎらした手、質のいいなめらかなライダースジャケットの腕、派手なシャツ。ラウンドフレームのサングラス。ツーブロックの波を打つように撫でつけた髪。
しげしげと眺めて、ため息を飲みこんだ。
こんなに攻撃的なファッションなのに、横顔がやさしいことをわたしは知っている。
サングラスをしていても、瞳にどうしようもなく好奇心旺盛で、おもしろがるような光があることも。端正な、とても甘い顔立ちであることも。
わたしの話に馬鹿笑いしてくれて、時には真剣に聞いてくれて、さりげなくいつも隣にいてくれることも、わたしは知っているのだ。




「おーい牛丼買ってきてやったぞー」
「飲みなおそうぜい!!」
「こうなったらとことん付き合いますよ」
「酒よ酒!!酒持ってきなさーい!!」
「おっとなんだぁ?もしかすっと……おふたりさん、いー雰囲気だったかぁ?へへっ」
からんからん、と小気味よいドアベルを掻き消して、いきなり騒々しい一群が戻ってきた。
あっというまに牛丼のにおいがあたりを漂い、つゆだくがどうだの、紅ショウガがどうだの、と牛丼談義を繰り交わしていると、やがて、マスターが大きな紙袋を抱えて帰ってくる。鋭い眼光でわたしたちを睨みつけて、「堂々と持ち込みしやがって、ただじゃおかねえからな」というものの、一緒に牛丼を摘まんで、さらに話は盛り上がる。


テイクアウトの容器に蓋をして、ごちそうさまでした、というと、趙さんが待っていたように「満足した?」と声を掛けてくる。
「おいしかったぁ。久々に食べたけどやっぱおいしいよね」
「うまそーに食べてんなぁと思って見てたよぉ」
マスターがてきぱきと容器を回収していってくれたので、カウンターはふたたびバーらしき雰囲気を取り戻しつつあった。だが、そろそろカップ酒でも飲みたくなってきた。趙さんはウイスキーをやめて、ビールを飲んでいるらしい。
カラオケがはじまって、手拍子をしながらナンバさんの採点自己ベスト更新なるかを見守る。ふと、横顔に趙さんの視線を感じた。
「え?なに?」
「いんや?べっつにぃ。」
「えー?」
頬杖をついて、にやにやしている。
からかうような瞳が、とつぜん、真顔になる瞬間を見た。


「この曲終わったらさぁ……内緒で抜け出そーか」


そっと聞こえた耳打ちは、舐めるようなざらりとした余韻を残した。
……言葉にならず、趙さんをじっと見る。いつもの、お兄さんらしいやわらかさはなくて、男の人だ、と思った。そういう顔で、わたしを誘っている。


「わ……わかった。」


ゆっくり、確かめるように、彼の眼を見つめ返しながら応じる。
軽くうなずき、彼はまた軽く笑う。


瞳は、もう見えなかった。カラオケの画面を照り返したサングラス。まるで遠い人みたい。
カウンターごしにマスターが、わたしたちの遣り取りに勘づいている気がして、落ち着かない。
自分の、心臓の鼓動を感じる。趙さんが、カウンターに置いたスマホを懐にしまっている。そして、ゆらっと立ち上がるのが見えた。
これからのことを想像して、あきらかに動揺している。
しかしとにかく、サングラスを外す覚悟はできている。