遠征中の仙道くんから、自宅に電話があった。 部屋で雑誌を眺めていたら、「電話。仙道くんから!」とテンション高く母が告げてきたけれど、一瞬なんのことだかわからなかった。仙道くんは保護者会やPTAでもスーパースターだと有名で、そんな彼からの着信は母にとっても相当な驚きであったことだろう。 子機に切り替えてもらって、部屋の扉を閉めて、ベッドに坐って、“エリーゼのために”を流している保留音から、通話を再開した。 「もしもし……お電話代わりました」 『……さん?』 電話の向こうから、仙道くんの低い、それでいて余韻の残る声が、鼓膜に響いた。遠くで、中年女性の笑い声が聞こえてくる。きっと旅館の女将か仲居さんだろう。その後、仙道くんの周囲は静かになった。 三日前に直接会って聴いたはずなのに、すごく久しぶりに感じる、その声。遠くに離れているからなのかな。それとも、電話ごしが初めてだからなのかな。仙道くんの長い睫毛と、黒いきれいな瞳を思い浮かべて、鎖骨の下がぎゅっとする。 「仙道くん。うん、わたしだよ」 『よう……声、似てるんだな。お袋さんと』 「え、そうかな」 『一瞬さんが出たかと思ったよ』 「えー、そんなに?……そっちは遠征どうだった?」 『ぼちぼちだな……』 なんだか、もう電話が終わってしまう流れにしてしまって、すこしだけ口を噤んだ。……それじゃあね、というのが、とてももったいなかった。仙道くんも黙ってる。こっちは雨が降ってるよ、とか、学校でこんなことがあったよ、とか、無難な話題はあるけれど、そんなことを話したいわけではなくて。 ベッドから下りて、窓ごしに空を眺めた。雨がしとしとと降っている。月も星もない。暗闇から水滴の輪郭だけが、部屋の灯りに照らされては落ちていく。……好きだなぁと思う。仙道くんのことを好きだというこの感情が、言葉のない繋がりの中で、はっきりと浮かび上がった。 『会いたいな』 低い声が、転がすような吐息を交えて、ゆっくりと確かに耳許を舐めた。 わたしは、まばたきをして、彼の言葉に肯いた。会いたい。わたしもすごく。 「帰るの、あしたの夕方だっけ。疲れてるだろうから、あさってにする?」 『大丈夫。あしたにしよう』 「うん……」 『5時くらいに、いつものとこで』 「うん」 『それじゃ』 「うん、……遠征、お疲れ様。帰り、気を付けてね」 『ありがとう。そーする』 「電話ありがとうね」 『どういたしまして……おやすみ』 おやすみなさい、と返すと、わりとあっさりと通話は途絶えた。 しばらく子機を握りしめて、窓べから動けなかった。 仙道くんとは、たまに時間があれば散歩したりする程度の仲で、──付き合ってるとはいえないし、好きだといわれたこともなくて、──だから、さっきの電話で、はっきりと恋愛の形に変容したように思われて。 あした、どんな顔していけばいいかな。 ドキドキして、明け方近くまで眠れなかった。 * 仙道くんの下宿先とわたしの家はごく近所で、歩いて15分とかからない。もし電車に乗って待ち合わせたりするんだったらおしゃれできるけど、近所の海沿いで待ち合わせでは、歩きやすい恰好のほうが自然だろう。いつものジーンズに、いつものサンダル。クリアのペディキュアを施した足が、なにも塗っていないよりも子どもっぽい気がする。でもトップスだけは、買ったばかりのノースリーブのブラウスにした。 5時きっかり、やわやわと青空を残す海岸に向かうと、坐って待っている仙道くんの姿が見えた。 いつもみたいに釣りをしてるのかな、と思ったけれど、釣竿は見えない。近づいていくと、大きな波が仙道くんの足許で砕けて、そのしぶきがわたしの傍まで散ってきた。 「仙道くん、おかえりなさい」 「あぁ……ただいま」 その表情や髪や声や雰囲気が、すごく新鮮で、すごく近い。実物は直視しがたい凄みがある。 だけど仙道くんはそうではないらしく、じろじろとわたしを眺めて、「あれ?」といった。 「いつもと感じが違うんだな」 「え。そう?初めて着たの、このブラウス」 「へえ?」 「……」 「ふーん」 「……」 「なかなかいい」 わたしは、照れくさくて、恥ずかしくなって、口を噤んでじっとしていた。 仙道くんは、いつもさらっと言葉を口にするけど、それに振り回されているってこと、彼は自覚ないんだろうな。 「飲む?」 と飲みさしの、冷たそうなアクエリアスを差し出されて、わたしは首を横に振った。 遠征がどうだったかとか、そういう話はしないらしい。仙道くんはいつもどおりの彼だった。 ゆうべの電話は夢だったのかなと疑ってしまいそうになるくらいに。 「何時にこっちついたの?」 「1時間くらいまえだな」 「疲れてるでしょ?」 「どってことねーよ」 「そっか、タフだねぇ」 「それより早く顔見たかったんだ」 普通の会話ができていると思ったのに、急にそんなことをいう。面食らってから、じわじわと顔が熱くなって、こめかみに汗が滲んできた。 「わ……わたしも、毎日、仙道くん元気かなぁと思ってたよ」 「……」 「仙道くんも?」 「……ワルい。オレは毎日じゃねーけど」 「え!」 「ゆうべは、なーんかさん思い出してさ」 ふふっと、鼻にかかった息を洩らして、仙道くんは笑う。 こんなふうに、笑うとちょっと猫っぽい目になるのが、たまらなくきれいだなぁと思ったのが、好きになったきっかけだった。 「会いたくて、参った」 「……仙道くんさ、真顔で照れること言わないで……恥ずかしいじゃん」 「ハハ、オレも照れくせーと思ってるよ」 「うそでしょ、なんにも変ってないもん」 「んなことないって」 ぐっと右手を掴まれて、ぎゅっと胸板に押し付けられる。 どく…どく…どく…と手のひらに鼓動が伝わって、 ……その上にある仙道くんのくちびるが、そっと弧を描いた。 「どう。……早いだろ」 「えっ うっ うん」 たしかに、すこしだけ早い…のかな。本当にすこしだけな気がする。 それよりも仙道くんの手、大きくて硬くて、胸板も分厚くて、やっぱり硬くて。すこし乾燥したその手の感触は、明らかにわたしの手とは違っていた。爪が清潔に短く切られているけれど、もともとの形が細長くてきれいだ。節々がなめらかで、手の甲が筋張っていて。彼に掴まれていると、自分の手が女っぽく見えてくる。 初めて触った手。ずっと触ってみたかった。憧れだった。 見惚れていたら、仙道くんはあっさりぱっと手を離した。 それで、なんだか弱ったように、眉尻を下げて笑った。 まるで本当に、照れくさそうな感じで。 「きょうはありがとう」 つやつやした睫毛がしばたいて、黒い瞳がわたしを眺めた。 海のかなたは、ゆっくりと橙色に沈みつつある。あと1時間もすれば、とっぷりと暗くなって、仙道くんのきれいな瞳を隠してしまうだろう。 穏やかな海みたいな、深くて澄んだ、その瞳を。 「ううん、こちらこそ、ありがとう」 「家まで送ってく……」 「うん」 「立てるか?」 「あ、うん、」 大きな手が、また差し出される。そっと握ると、強く握り返して、助け起こしてくれた。 立ち上がって、その手はやんわりと力が抜けて、わたしも握るのをやめた。お尻に付いた砂を払って、ふたりしてゆっくり歩きはじめる。 仙道くんの左手はアクエリアスの缶を持っていて、右手が空いている。繋いでみたいけど、きっと心臓が長くは持たない。 なめらかな小麦色の砂浜が広がっているのを眺めながら、堤防をまっすぐ歩いた。潮風が吹いて、仙道くんのポロシャツの襟から、石けんの匂いがした。 いままでは、一歩分は距離をあけて歩いていた。 だけどいまは、一歩分近く、腕が時々触れる距離で歩いている。 半袖から伸びる仙道くんの腕は、筋肉でぎゅっと締まっていて、熱を帯びている。とん、とん、と、さっきから何度も当たっている。そのたびに、当たったときの優しい振動が、胸に響いてくるかのようだ。 胸がいっぱいで、なにも話したいことがない。きっと無難な話題は、蛇足に感じる。でも、黙っていると自分の心臓の音に負けてしまいそうになる。好きだなぁという気持でいっぱいだった。どんどん、好きになってしまう。こわいな、とも思う。こんなに好きになったら、きっと自分をコントロールできない。 「少しぶらついてこーか」 「うん、いいね」 仙道くんの右手が、手探りで空気を掻き分けて、わたしの左手をぎゅっと掴まえた。 ずっと高いところにある、仙道くんの顔。いつも見上げてた、いつも憧れてた、その瞳が、高い鼻筋が、端整な口許が、いつもよりも少しだけ近い。 同じ気持だと期待してもいいのかな、──いまはまだ、はっきりと言葉にしていない。もうすこしだけこのまま、言葉にするのがもったいないから。不安も、焦りも、ふしぎなほどない。仙道くんの、しっかりと固く結んだ手が、これからの未来を信じさせてくれている。 |