仙道くんって、どういう人なんだろう。
そんなことを考えているうちに、いつのまにか好きになっていたから驚いてしまう。
背が高すぎて顔がよく見えなかったけれど、図書室で昼寝してる顔がすごくきれいで。通りすぎたときに白いシャツの袖からレモンみたいな匂いがしたときとか。クラス会が難航したとき、それまで黙っていたのに、仙道くんの鶴の一声で事態が収束したり。目が合ったとき、「よォ…」って、なんだか眠たそうに笑ったこともあった。
そういう小さな積み重ねで、すこしずつ恋に至っていった。
同じクラスにいるだけで嬉しくなるし、毎日胸がいっぱいだ。だから、どうにかなろうという気概はない。ただのクラスメイトのままでいい。
好きだと気づいたときから、告白はしないと決めた。




「あれ?」


朝のホームルームを遅刻して、仙道くんが教室に入ってきた。
つぎは移動教室で、既にここには誰もいない。わたしもミーティングの書記を終えたら、すぐにここを発つつもりだった。


「……きょうもしかして学校ない?」
「ううん、あるよ、ふつうの平日だよ」
「だよな、よかった」
「皆、もう化学室だよ。白衣着なきゃだし」


いきなり仙道くんが姿を見せたことにびっくりしたし、仙道くんと普通に喋ってることにもびっくりしている。
それに、教室にふたりきりだという事態が、ゆっくりとわたしの体温を上げる。
緊張すると、ぺらぺらといらないことまで話してしまいそうになるから、そっとくちびるを噛んだ。


「……サンは」
「え……」
「忙しそうだ」
「あ……わたしは書記。さっきミーティングがあって。」
「そっか」
「先行ってて。すぐ行くから」
「うん」


……“サンは?”と彼は言った。わたしの名前、憶えててくれてたんだ。クラスメイトだから当たり前かもしれないけど、すごく意外な気がした。まとも喋ったこと、なかったから。
仙道くんは、やわらかそうに口許を緩めて、笑っていないのに笑ったみたいな、やさしい顔をしている。
そのままじっとわたしを見てくるから、わたしは彼を二度見して、頭がこんぐらがってきそうになる。彼がぎしりと床を踏んで、こちらに近づいてきて、わたしは静かにパニックに陥った。


「ミーティング中寝てただろ」
「え?」
「消しカス、ついてる」


わたしの頬のまえで指をくるりと回して、今度こそ仙道くんは笑った。


頬を触ると、ぽろりと消しカスが落ちてくる。仙道くんはわたしを通りすぎると、自分の席でゆっくり支度を整えはじめた。
……息が止まるかと思った。焦った……。
笑った顔の、とろけそうな目じりが、くちびるから漏れた微かな息が、なんだか、すごかったから。
(はやく、書き切らなくちゃ……)
つぎの授業まであと五分。動揺している余裕なんてないのに。


「字うまいな」
「!?」


あれ、いい匂いがする。と思ったら、仙道くんが、わたしの頭上から議事録を覗きこんでいた。
気を抜いていなかったら、ギャー!とか、ワー!とか、ギエー!とか、そんなことを叫んでいたと思う。ぐっと耐えて、深呼吸して、努めて冷静を装って。慌てない慌てない。素数を唱えよう。


「えー、汚いよ、癖あるし」
「ハハ。」
「はは……」
「邪魔しちゃ悪いか……お、もう終わり?」
「うん、よし、終わり!」
「お疲れさん」
「ありがとう」
「行こうか」
「え」
「化学室だろ」


………。
一緒に行くということ?いや、待っててくれたのかな?クラスメイトだから、当然かもだけど……
うそでしょ、どうしよう。よろけそう。素数素数。


「やれやれ……遠いんだよな」
「そうだね」


仙道くんは、小脇にふわりと丸めるように畳んだ白衣を抱えて歩きはじめる。頭をひょいと屈めてドアをくぐる仕草、どことなく優雅だ。わたしも教室を出るとき、ドアの上部を見上げた。背伸びしてもぶつかりそうにない。本当に背が高いんだなぁ……2メートルくらいあるのかなぁ。


そのまま、無言で廊下を突っ切って、三階に繋がる階段を上った。踊り場の鏡に、仙道くんとわたしの姿が映っている。仙道くんは背が高すぎて、肩くらいで途切れているけれど。恥ずかしくなって、鏡からすぐに目を逸らした。
3階につくと、まっすぐ続いた窓から、やわらかい風がそよと吹いてきた。水色の空に、群青色の穏やかな海が見える。眩しいほどの青い風景。耳を澄ませば潮騒が届くほどの。
ふと人の姿が途切れた瞬間に見せる、海のあるこの景色が、わたしは好きだった。なにか懐かしく、心落ち着く風情があるから。
そんな瞬間に、仙道くんと過ごせたことを、幸福に思った。


「いー天気だ」
「うん」
「風もいい」
「うん、そうだね」


本当にそうだね。
仙道くんは、気持よさそうな顔をしている。
気がつくと、自分もリラックスしていることに気がついた。さっきはあんなに慌てていたのに。まだドキドキはしているけど、沈黙が全然苦しくない。なにも喋らなくていいだろうし、なにを喋っても仙道くんは聞いてくれるだろう。身構えなくていい。肩の力を吸い取ってくれるような、そんな大らかさがある。
仙道くんって、不思議な人だ。わたしは、これ以上仙道くんのことを知ったら、きっとつらくなるくらい好きになってしまう。


「きょうの実験、グループでやる?」
「うん。そうだよ」
「オレ何班だったかな……覚えてねーや」
「たぶん、6班だと思うよ、仙道くん。植草くんと同じでしょ?コロイド溶液のチームじゃない?」
「全員把握してんの」
「ううん、そんなことないよ、たまたまだよ」
「ふーん」


仙道くんがちらとわたしを見てくるから、あわあわしそうになるけど、そうならないようにくちびるを噛む。青い空と海。風。つるんとした廊下。わたしの上履き、仙道くんの白いシューズ。どこかで、ひそひそと話し声が聞こえて、また聞こえなくなる。化学室が見えてきた。もう終わってしまう。
こんな奇跡みたいなこと、もう二度とないんだろうな。


「6班なら、ほかにも有田さんとか、横井くんとかがいるんじゃないかな」
「へえ」
「あと、なっちゃん」
「なっちゃんってサンと仲いい?」
なっちゃん仙道くんと同じ班じゃん!いいなー!と電話で喋り倒したから、よく覚えてる。さりげなくいま名前呼んでもらえてたな、いいなぁなっちゃん……
「なっちゃん仙道くんと気が合うと思うよ」
「そう?」
「うん、超癒し系」
「なっちゃんね、見とかんとな」
「え、しらないの?名前」
「ハハ。ちょっと自信ない。女の子は特に」
「えぇ……」
サンは大丈夫」
「わたし?なんで?」
「……」


仙道くんはちょっと考える顔をして、「なんでだろーな」と言った。
すごくきれいに笑いながら。


「下の名前はサン」
「え?あ?うん?そうだよ???」
「字はこう」


と指で中空にフルネームを書きだすから、わたしは、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。
お願いだから、“イトコに似てるから”とか“婆ちゃんと名前一緒だから”とか、なんでもいいから理由を言ってほしい。
盛大に勘違いしてしまいそうだから。


「あってる?」
「うん、あってる」


化学室についた。
まだ授業は始まっておらず、扉の向こうから銘々がお喋りしているざわめきが、微かに伝わる。
それなのに仙道くんは、扉を開けようともせず、じっとわたしを見下ろしてくる。
それで、すこしだけ困ったように、眉を寄せて頬笑んだ。


「……サン」
「なに?」
「入るまえに……深呼吸しようか」
「!!……」
「大丈夫大丈夫。」
「いやだもう……赤い?」
「ハハハ」


たぶん、わたしはユデダコみたいになっている。顔が熱い。たぶん信じられないくらい赤い。
これじゃ、勘違いしてるみたいだ……いや、みたいじゃなくて、しちゃってるのかな。
絶対手が届かない人なのに。淡い片思いなはずなのに。
好きなだけで満足、なだけだったのに。


「スーハー、スーハー」
「……このままサボろーか?」
「え!それはだめだよ!」
「だめだよな」
そりゃそーか、と肯いて、仙道くんは思案顔で、わたしをノートで扇いでくれる。
「なんで?」
「海でも行きゃあ落ち着くかと思ったんだ」
「え、海?行きたい」
「だろ」


好きだってこと、ばれてるのかな?恥ずかしいな。仙道くんは笑ってるし。
だめだ、こんなこと考えるから血の気が引かないのだ。素数素数、素数!


「くらぁ、仙道、、はやく入れ!」


しまいには、廊下の奥から先生が歩いてきた。
でも、おかげでさっと蒼褪めて、なんとか大丈夫な顔色になっただろう。
仙道くんががらっと化学室を開ける。とたんにクラスメイトたちの活気に包まれて、仙道くんとわたしはふたりきりではなくなった。ほっとしたような、残念なような。
急いで白衣に袖を通しながら、自分の班の実験台に向かおうとしたとき。
仙道くんがそっと耳打ちした。




「海は次の土日にでも」




掻き消すようにキーン、コーン、カーン、コーンと本鈴のチャイムが鳴り響く。


でも、低い声の吐息が、まだ耳許の髪に残っていた。


遅ーい、って顔赤くない!?熱!?」
「大丈夫!なんでもない!きょうも頑張ろう!」
赤くない?赤くないよ!とクラスメイトと応酬して、白衣の襟を整えて、そうこうしているうちに先生が教壇に上がってくる。
視線を感じて、ちらと6班のほうを横目に見ると、仙道くんがこちらを見ていた。
なんだか、やさしくて、それで楽しそうな眼差しで。


「……」


わたしは、期待してしまってる、どうしようもなく。勘違いしてしまっている。素数も最早役に立たない。
このまま、もっと好きになったら、どうなってしまうんだろう。欲張りになってしまうのかな、叶いっこないのに、好きなだけで満足できなくなってしまうのかな。
もしかしてもう、なってしまってるのかな。


その証拠に、次の土日が待ち遠しくてたまらないのだ。