「好きな子、いるよ」 バスケットボールを人差し指でくるくる回しながら、彰くんはそう言った。 中学を卒業したばかりの彼は、スカウトされて陵南高校への進学が決まっている。 小学生のときから天才と呼ばれ、中学でも天才と呼ばれ、その名声は日を追うごとに大きく熱狂的になっていく。それでも本人は子どものころから矯正されずマイペースなままで、周囲の期待に軽々と応え、涼しい顔をしている。きっとこれからもそうなのだろう。 そんな彰くんが、好きな子がいる、と言う。 「中学の子?彰くん、もうすぐ神奈川だよね?離れ離れになっちゃうじゃん」 「いんや、年上」 「え、年上?どこで知り合ったの?」 「……はて、覚えてねーなぁ」 「なにそれ?あ、わかった、芸能人でしょ?」 「ハッハッハ」 ボールを回転させたまま、反対の人差し指に受け取って、そのままくるくる回しつづけている。独楽みたいに華麗なテクニック。なんだか、くるくると話もはぐらかされている気がする。 「さんは浮いた話ないんすか」 「なんで敬語?わたしは……ない。忙しくて、それどころじゃないし」 「ふーん、」 彰くん、笑ってるのかな、と思いきや、まったくの無表情で、遠いところを見つめていた。 実のところ、浮いた話というのが、ないわけではなかった。 付き合っている彼がいたけれど、うまくいってなかったし、思い出すと泣きそうだから、そんなことを親戚の彰くんに話すつもりはなかったのだ。 だから、うそをついた。 それで、彰くんの横顔にぎくりとした。 なんとなく、うそをついたのがバレている気がしたから。 * 2年ほど経過して、そのうそを暴くことになった。 失恋して、部屋で丸くなっているところに、彰くんが訪ねてきたのだ。学校の帰りらしく、シャツの肩にスポーツバッグを引っかけている。彰くんの肩越しの景色に、いつのまにか日が暮れたことを知った。 春の終わりの雨が、窓硝子に水玉模様を描いていたが、やがて雨脚は強まり、透明な薄い水の壁となっていた。風が、ばさばさと吹いて、屋根を叩く雨音が、とんとんとん、だの、タタタタタ、だのと、小うるさく鳴り響いていた。 「……彼氏のこと?」 シューズを脱いで、彰くんは断りなく部屋に上がってくる。 電気を付けられたくないな、ひどい顔をしているから、というわたしの思いが通じたのか、彼は、電気のスイッチに手を伸ばして、しかし、押さなかった。 「わかる?」 「そんくらいしか思いつかねーよ」 「うん……」 「別れた?」 「うん」 「ずっと、付き合ってたんだろ」 「うん、まあね」 彰くんは、電気を付けない代わりに、窓のカーテンをしゃっと開け放った。水が、いくつもぽたぽたと軒先から落ちている。のたうったような筋をつくって、窓硝子に落ちていく雫もあった。遠く、繁華街の光がちらちらと瞬いている。 雨雲に隠れて、とっぷりと闇が濃いけれど、ずっとこの環境でまばたきをしていたから、夜目が利いている。 彰くんは、見えているのか見えていないのかわからない。窓の外を、遠い目で眺めている。 あのときの横顔を思い出して、わたしは、あ、と思った。 「……きょうはどうしたの?なんか用?」 「近くに寄ったんだ。おばさんが、顔見せに行けってさ」 「そっか、近いもんね、うちと陵南高校」 「だろ」 「彰くん、背ぇ伸びたねぇ……」 「さんは縮んだよーに見える」 くしゃ、と眉間のあたりを歪めて、彰くんは苦笑いする。 中学のときからすでに一族のなかで一番背が高かったけど、いまでは天井につきそうなほど高い。 ゆるく着た制服ごしにも、筋肉の質量が伝わってくる。 しなやかなその姿が、わたしとは大違いで、まぶしかった。暗闇の中でも。 「大丈夫?」 低く響いたその声、思いやるように静かだけど、ためらいがない。 わたしは、小さく肯いた。 アンティークのピアノチェアに、彰くんは腰を下ろす。 なめらかなピアノの蓋に掛けた手が、大きくて、すごいなぁ。彰くんなら、きっとわたしのようなあやまちは犯さない。わたしのような悩みは抱かない。もし失恋しても正面から受け入れて淡々と感情の処理をするだろう。そもそも、失恋なんて無縁なのだ。スーパースターなのにマイペースなんて、そんなの、きっとみんな夢中になる。姿も、とてもきれいだし。 ほんとうに、わたしとは大違いだ。 「彰くんの彼女って、幸せだろうね……」 「……んん?」 「彰くんて、軽そうだけど優しいし、すごく大切にしてあげそうだもの」 「軽そうは余計だろ」 「ごめん」 小さく笑ったつもりが、掠れたため息にしかならなかった。 わたしは、大好きな人を失ってしまった。あの人はもうわたしを見ないし、わたしのいない方角にまっすぐ進んでいく。わたしがこうして床に坐りこんでいるあいだに、あの人の中でわたしは思い出になっていく。ふたりの人生が交差することはもうない。それぞれ、他人同士になった。街中で鉢合わせることがあっても、他人行儀に会釈するだけなのだろう。あんなに抱きしめあって、体温も、匂いも覚えているのに、この体にしみついているというのに、世界で一番遠くなってしまったのだ。 あのとき、電話すればよかったのかな。疑ったりしなければよかった。もっと素直に気持を伝えていれば。ずっと一緒にいたかった。感情をぶつけて罵りあったこともあった。幸せなだけの関係ではなかったけれど、それでもよかった。もっと、ずっとずっと一緒にいたかった。 煩悶しているあいだに、わたしはうつむいていて、わたしのとなりに彰くんが腰を下ろしていた。 ふたりで、部屋の隅っこの床に坐りこんで、かたや落ち込み、もうひとりは天井を眺めている。なんだろう、この状況、と思えるくらいには自分は元気なのだなと認識する。彰くんはいつの間にわたしの隣に来たのだろう。雨による湿気のせいか、ほのかな石けんの匂いと熱い肌の気配がする。 悲しみや後悔は、まるで幽霊のように片時も休みなく寄り添っている。わたしの思考に取りついて、わたしを泣かせようとしたり、自己嫌悪に陥らせたりしてくる。 だけど、彰くんはそうではなかった。なんだか、隣にいてくれると、ひどく落ち着くような作用をもたらした。彼が、わたしを心配してくれているのが、とても伝わってきた。黙って、並んで坐っているだけなのに。 「……訊いてもいーすか」 なめらかな声が、そっと響いてくる。わたしは鼻をすすりながら顔を上げた。 「……なんで敬語?」 「そいつ、どんなやつだった?」 彰くんは、床に置いていた楽譜で顔を扇いでいる。ぱたぱたと空気が揺れて、彰くんの襟から、石けんではない、なにか、いい匂いがした。 「優しかったよ。すごい大切にしてくれた」 「そっか」 「そういえば彰くんは?まえに好きな子いるって言ってたよね、どうなったの?」 「どーだろうな」 彰くんは、ゆっくりわたしに視線を向ける。 雨粒に宿った光が、彰くんの黒い瞳を青く照らしている。長い睫毛、微かに細められたまなこ。 いつもニコニコしている彰くんが、ただ無表情でわたしを見たというだけで、さわ、と肌を撫でた気がした。 「……ごめん」 「ん……なんで?」 「彰くん、もう子どもじゃないんだから、訊いちゃ悪かったかなって」 「うーん……まあ、ガキじゃねーけど、ガキではあるか……」 「え?」 「本当にわからねーの?」 わたしが、まばたきをしているのを、彰くんは黙って見つめていた。 その暗く聡い瞳は、一瞬逡巡して、わたしから離れていった。 「……彰くん」 「あー……腹減ったなぁ。」 「え。あ、お腹?お夕飯まだ?」 「や、学校の食堂で食ってきた。でも腹は減る」 「さすが運動部」 いつもどおり、彰くんは表情をやわらげている。 さっき一瞬、たしかに、ひどく大人びていたけれど。おかげで自分が落ち込んでいたこと、束の間忘れてしまうほどに。 彰くんは元々ミステリアスな子だけど、表情一つでがらりと空気まで変えてしまう。子どものころからムードメーカーだったのだ。 「なにか作ろうか?」 「きょうは遠慮しとこうかな、さすがに」 「そう?気遣わなくていいのに」 「じゃーつぎ期待しとく」 「うん、いいよ。目玉焼きくらいしか作れないけど」 「えっ?ウソだろ?」 「アハハ。」 「目玉焼き、フツーに嬉しいけど」 彰くんの声、くすっと笑って、ふわっと耳に残っていく。心地いい、きれいな声。 それを聴いていたら、年下の子にここまで気を遣わせてちゃいけないなぁ、とゆっくりと思った。 彰くんが帰れば、わたしはきっとまたぐずぐず落ち込んでしまうだろう。付き合っていた人は、もう二度とわたしの許には戻らない。その事実を受け入れ、飲みこみ、過去のことだと流せるようになるには、時間が必要だ。 だけどもう自分を責めたり、いじけたりしない。………多分。 少なくとも彰くんが隣にいてくれるうちは、そう思った。 * 「おねーさん、お茶しない」 明るい改札を抜け暗やみの中を横切ろうとしたとき、うしろから声を掛けられた。 振り返ると、彰くんが立っていた。 コートを着ず、学ラン姿で、バスタオルみたいに厚手のマフラーを首に巻いている。いたずらっぽく笑った口許から、白い呼気が洩れた。 「……彰くんじゃない。ちょっとびっくりした」 「キレーなおねーさんだと思ったら、さんだった」 「えぇ?なにそれ」 「ってのは冗談で、ここで待ってたら会えるかなと」 「もう……電話くれればいいじゃん」 「急に思い立ってさ。さん、お茶しよう」 「うん、じゃーいつものカフェでいい?」 「いいな。そりゃ最高」 「大げさだなぁ」 「ハハ」 彰くんは笑っている。 わたしも笑っている。 失恋してから、半年がたった。時間薬というけれど、効果はてきめんで、わたしはもうすっきりとしていた。思い出すと胸が痛むけれど、未練ではなく、昔の自分が可哀相になるから。 あのときは、もう一生恋愛はできないと思ったけど、だんだんコントロールが利くようになり、光を見ては眩しいと思い、夜はよく眠り、欲しい服を買ったりするようになった。 失恋をする以前の人間に戻ったのではない。感情は、以前よりも瑞々しく敏感になった。心の傷が完全にふさがったわけではない。それは機微となり、その翳りが、共感力や表現力などに長じていくのだろう。 あんなに悲しかったけれど、立ち直ったいまとなってはいい経験になったと思う。元彼に幸せになってほしいと心から思えるのは、きっと自分がいま幸せだからなのだ。 彰くんは、あれ以来、ときおり様子を見に来てくれるようになった。 こんなふうに、なんだかすこし寂しい気がするとき、ふらっと現れる。ふしぎなほどぴったりと、会いたいときに来てくれる。昔から空気や状況をよく読む子だった。飄々としているから、読んでいることを匂わさないけれど。 会って、定食屋に行ったり、ただぶらぶら散歩したり、ピアノを弾いてと頼まれたり──そして弾き終わると、彼は決まってウトウトしていて。その寝顔だけは、歳相応に幼くて、いつまでも眺めていたくなった。 「そんな薄着で寒くないの。風邪ひくよ」 「なんとかは風邪ひかねーっていうだろ。大丈夫」 「……ほら、これ持ってなさい」 熱々のホッカイロを取り出して、彼の手に握らせる。存外、その手は温かかった。 彰くんは嬉しそうに目を細める。 「うん」 そう肯いて、長い指が、わたしの手を握った。 「……あったけー」 彰くんの掠れた囁きが、白く浮かんで消えていく。 繋いだ手も、彰くんの存在感も、自分の頬も胸も、ぜんぶあたたかい。 今夜こそちゃんと、自分の気持を伝えよう。彰くんのぬくもりが嬉しくて、そっと幸せを噛みしめていた。 |