「川田くんの彼女さんって、どんなひと?」 放課後の、誰もいない教室。うろこ雲が覆う夕ぐれの空が、城岩町のすべてを赤く染めていた。川田くんは壁にもたれかかりながら、傷跡の残る眉と右の口角を持ちあげ、私に一瞥する。すずりで磨ったばかりの墨みたいに、彼の瞳はあざやかなほど真っ黒で、夕陽の赤にも負けることはなかった。 「おれ、彼女がいるなんて言ったことあるか?」 「ううん……ただなんとなく、そんな気がする。前の家に、いるんでしょ?」 「さあ」 川田くんは肩をすくめ、鞄を肩に引っかけた。同じ大きさの鞄なのに、川田くんが持つととても小さく見える。私は彼の目から目を逸らすことなく、ぼんやりと、川田くんは彼女さんをとても大切にしてるんだ、と思った。あまり話したがらない彼の態度が、そう物語っている気がした。 「まだ帰らないのか?俺は帰りたいんだが」 「あ、帰る。ねえ、駅前でさ、たこ焼きおごってよ。お腹空いた」 「たこ焼きなんか腹の足しにもならんぞ。まあ…ラーメンならいいがな」 「じゃあ決まりね、背脂しょうゆラーメン!」 私たちはぶらぶらと学校を出て、住宅街を抜け、城岩駅前のこざっぱりとした食堂やらが並ぶところまでやって来た。そこに辿りついたときには、空はとっぷりと暗くなり、小さな銀色の星がかすかに夜空にまたたいていた。赤い暖簾の古いラーメン屋にはいり、カウンターに肩を並べて坐る。ぐつぐつとお湯が煮立つ音とか、他のお客さんが麺をすする音だとか、換気扇がごうごう動いている音とか、いろんなものがしゃきしゃき活発に動いてて、おいしそうな匂いがしていた。川田くんと私はここにきてもメニューは見ない。いつもなにを食べるか決まってて、そしてそれが一番おいしいと悟っているほどに私たちは常連なのだ。店員さんに川田くんが注文を告げて、「お腹空いたね」「そうだな」とだけ話すと、あとはラーメンが来るまで黙っていた。スープの香りが湯気と共に溢れかえる厨房から、やがてお腹をすかせた私たちの前にラーメンがとどけられる。私と川田くんはつるつると麺をすすった。川田くんはすぐに口に入れてしまうのに、私はいちいちふうふうして食べなければならないので、そのぶん彼のほうが食べるのが早い。 「おいしい」 おいしい、というと、もっとおいしくなった気がした。ねぎやメンマを掻きわけて細い麺を取り、ふうふうして口に運ぶ。そんなことを繰り返しているあいだに、川田くんはさっさと食べおえて、たばこに火を点けた。深く吸いこんだとき、彼の胸がわずかに上下した。 「ねえ川田くん」 「ん?なんだ」 「彼女とラブラブ?」 川田くんは苦笑して、ふうと煙を吐きだした。そしてまた彼がたばこを吸うと、火の点いた先端がちりちりと燃える。私はそれを見ながら、メンマを口のなかに入れた。 「それには、違う、と答えるべきだろうな。早く食わんと麺がのびる」 「……別れの危機到来中?」 「さてな…とにかく、振られてるようなもんだよ、俺は」 「…………そ、なんだ」 それって、つまり、もう別れてしまったのかしら。でも私は、そんなに嬉しくなかった。だって川田くんは、好きなひとがいるんだと思う。そして多分、その彼女さんをまだ好きなんだと思う。川田くんを振れるなんて、どんなひとなのかしらと私は思った。確かに川田くんは色男ではないけど、私みたいに、いちど川田くんのよさに気付いてしまったら、もう離れられなくなってしまうのではないだろうか。川田くんはそんな魅力のある人だから、私もまんまとそれに引っかかってしまったわけだから、わかるんだ。 「ねえ、川田くん」 「もうこれ以上は教えんぞ。みじめになるからな」 「違うよ。もしね」 「ああ」 「もし、川田くんのことを好きな女の子がいたら、どうする?」 川田くんはわざとらしくがしがしと頭を掻いて、それから水を飲んだ。 「そんな女の子がいるとは思えん、なにせ俺はもてないからな、残念ながら」 「もし、だってば。その子は美人じゃなくて、性格がいいわけでもないけど、すごく川田くんがすきなの。すごく、とっても、死んじゃいそうなくらい………どうする?」 「さあな。害がないならほっとくかな」 「……告白されたら?」 「断るよ、そりゃ」 川田くんはたばこをアルミの灰皿にもみ消し、腕を組んだ。私は、自分の顔から表情が消えていくのを、少しずつ感じた。 「………前の彼女が忘れられない?」 言っていいのか、よくわからなかった。いい気はしないだろうし、こんなことを訊く権利は私にはないはずだ。思わず口走ってしまったことを後悔したけれど、気になっていたのは事実だった。彼は前を見据えていたが、ゆっくり瞳を動かして、私を一瞥した。 「違うだろうな。そういうことじゃない。ただ、恋人をつくろうなんて気が起きんだけだ」 「じゃあ、なんで?すこしは考えてあげたりしないの?」
「俺は、考えるときにしか考えるとは言わん。でないと、俺に言わせりゃ不誠実ってもんだ」 私はからからに渇いた喉に唾を流し込む。 「………じゃあ……、もしその女の子が私だったら、こんなふうに、もう一緒にラーメンを食べに来たり、しない?」 くちびるが震えた。心臓が、ひくりと強ばって、冷たくなった。川田くんはもう一度ふところを探り、たばこに火を点ける。ちりちりと燃える。私の止まってしまった手、割り箸の先からスープのひとしずくが零れ、チャーシューのうえに落ちた。 「サンよ」 「なあに?」 「俺、そんなこと訊かれるとめっぽう弱るたちなんだ。好奇心を満たせられず悪いがな。それに、麺、すっかりのびてる」 「………あ、ほんとだ」 ぽちゃり。
“その子は美人じゃなくて、性格がいいわけでもないけど、すごく川田くんがすきなの。すごく、とっても、死んじゃいそうなくらい………” 私は、もうおいしくなくなってしまった麺をすすりながら、自分の言葉を反芻して違う、と思った。 まだ死んじゃいそうなくらいなんて、そんなに熱烈に好きなわけじゃない。大好きだけど、悲しいけど、なにも始まってはいないもの。私は今、彼を好きになりはじめている段階なんだ。まだ途中で、これから本当に死んじゃいそうなくらい好きになってしまうだろう。そうなる前に、もう手を引いたほうが良いのかもしれない。川田くんにこんなふうに甘えてみても、一緒にラーメンを食べる仲でも、彼はきっと私を好きにはなってくれないだろう。ただ──彼はさっき、言ったけど──“害がないなら、ほっとくがな”──私はただ、今はまだ害がないからほっとかれてるだけなんだ。これからどんどん私はよくばりになり、わがままになって、彼に距離を置かれるようになる気がする。そんなことになったら、そのときはきっと、もう私の気持ちは死んじゃいそうなくらいにまでふくらんでしまってて。でも、そんなことが予期できるからって、はいそうですかと彼から離れるには、もう遅すぎた。私は彼が好き。死んじゃいそうなくらいじゃないけど、もう離れられない。
「さて、帰るか」 ラーメン屋を出た私たちは、またぶらぶらと歩きだした。駅前はお勤め帰りのひとびとが行き交い、いろんなお店の看板が様々な色にぼうっと光り、薄暗い夜の道を賑やかに照らしている。 「うん…ね、カラオケ行こうよ!」 「よせよ。俺、歌がうまいタイプに見えるか?」 「………じゃ、じゃあー、ボーリングとかは?」 「そうしたら、きっとボロボロに負けちまって、サンは不機嫌になると思うぜ」 「もー、川田くんと私って、ほんっとに趣味合わないよね!でもまだ帰るには早いんじゃないのー?」 川田くんはくつくつ笑い、くちびるの隙間から白いきれいな歯を覗かせた。 「サンは15歳だろ、義務教育真っ只中の」 「いっこしかかわんないじゃん!」 「10代だと、1歳差でもでかいもんだ」 「ふうん?」 「わかったよ、負けたよ。じゃあ15分だけ、7時までな。サンちの近所の公園に行くか。お嬢ちゃんはまだ遊びたらんようだからな」 「7時半まで!」 「だめだ。7時までだ。俺の最後の良心だ」 「じゃ、ラーメンのお礼に私がジュースを買ってあげます」 「そりゃどうも。でも7時までだぞ」 「ちっ」
私たちは、何気ない世間話をしてときどき笑ったり、ふと黙って夜風を楽しんだりしながら、私の家の近くにある公園までやってきた。途中自動販売機で買ったコーヒーふたつを大切にかかえて、私は誰もいないうす暗い公園の亜麻色の土を踏みしめる。川田くんは目を細め、「いい公園だな」とつぶやいた。 「あそこのベンチにしよ」 「おや、サンはブランコやシーソーにはもう興味ないのか」 「どのくらい私のことガキだと思ってんの!?」 「違ったか。悪かったよ」 川田くんが破顔するから、私もついついつられて笑ってしまう。ふたりでベンチに腰を下ろして、コーヒーを静かに飲んだ。 「でねえ、また三村くんのことだけど、ほんとに最低なんだよ。私の友達、他校の子なんだけど、三村くんに告白したの。そしたらなんて言われたと思う!?火遊びなら歓迎だぜ、だって!信じられないでしょ!」 「ははあ」 川田くんは興味なさそうだったけど、私は構わずまくし立てた。なにかしゃべってないと、川田くんはさっさと帰ってしまいそうな気がした。 「三村くんにもさ、七原くんとか、ノブさんとかの穏やかさがあればいいのにね。おんなじ中学生には見えないもん…ほんと!なーにが火遊びなんだか、変態なんだよ三村くん。私だいっきらい」 「そんなことで嫌いになってやるな、女子は時として残酷だよ。それに、多分、ある意味誠実な男なんじゃないか──その、三村ってやつは。よく知らんが。」 私はびっくりして川田くんの顔を覗きこんだ。川田くんは、缶コーヒーを傾けると、ふところをごそごそ探りはじめる。きっとたばこを探しているのだ。案の定たばこを取り出し、彼はそれを口に咥えた。 「あらかじめ“火遊び”と言ったってことは、予防線を張ってるってことだろ。本当に火遊びとやらが目的なら、そのまま黙ってたほうが得策だろうからな」 「ふうん……?」 「サンにはまだわからないか」 「……川田くん、今日はやけに子ども扱いしてくれるよね……?」 「そう怒るな、サン。人生こんな日もある」 「なあにそれ」 「それに、三村か、あいつはかわいい顔してるじゃないか。サンが夢中になるのもわかる」 「はあ?!」 びっくりしすぎて、自分の声が裏返るのがわかった。ぶらぶらさせていた脚もぴたっと止まった。川田くんは屈託なく笑って、煙をおいしそうに吸い込んでいる。 「なにそれ!私、三村のことだいっきらいっていま言わなかった!?」 「喧嘩するほどなんとやら。よく見るぞ、サンと三村が言いあいっこしてるのを」 「ちが…違うよ…!!だって、三村くんがからかってくるんだもの…!」 動揺と戸惑いで紅潮した私の顔を見て、川田くんはにやりと笑った。 「そうか。じゃ、俺の勘違いか。それはすまんかったな」 「絶対まだわかってないでしょ!笑ってるもん!ねえってば、川田くん聞いてよ、三村くんなんかほんとになんとも思ってないんだよ!」 「ムキになるほど怪しいぞ、誰にも言わんから安心しろ。俺、恋のキューピッドにはなれんが」 「川田くんってば!」 ムキになるのはそんな誤解されたくないから!ってゆうか、私が好きなのは…!! どれだけそう叫びたかったか知れないけれど、反論すればするほど泥沼になりそうだったので、とうとう私は口を噤んだ。川田くんは、本気でそう思っているというよりは、私のことをからかっているだけのようだし、明日になればきっと忘れてくれているだろうと願いながら。それはそれで、私なんかまるっきり無関心みたいで悲しい気がするけど…。でも、川田くんの笑った顔は素敵だった。 「……川田くんさあ」 「ああ」 「前の彼女さん、どんなひとだったの…?」 「なんだ、今日はやけに突っかかるな」 「だって…」 彼の目蓋がゆっくりまばたき、電灯に照らされた睫毛の影が長く涙袋に伸びた。白い電灯の下で、紫煙がゆるゆると空にのぼり、途中で大気に溶け込んでゆく。 「川田くん……ラーメンおいしかったね」 「満腹になれたか?」 「うん、……」 「もうすぐ7時だ、そろそろ行くぞ」 「まだ55分だよ」 「そうだな。それでサンちまで5分。ちょうど7時だ」 川田くんが私の手の缶を取ろうとしたとき、彼の指が、私の爪のあたりを触れた。私がつい咄嗟にそれを握り返したので、川田くんは目を丸くして見せる。私自身驚いていたのだから、手をつかまれた川田くんは尚更だろう。 「ん?なんだ、この手」 「……川田くん!」 「はいはい、なんだ?」 彼の手に触れたせつなに、私のなかで大きな変化が訪れた。とつぜん。たちまち。ものすごい速さで。 「私の目、みて」 「見てるぞ」 それは強い光が予期せず私を照らして、私の目をくらくらにさせてしまったみたいな、そんな感覚だった。甘い戸惑いよりも、驚きでいっぱいな感じ。 私、川田くんのこと“死んじゃいそうなくらい”好きになってしまった。 今、手に触れてしまっただけで、頭のなかにぱっとなにか閃いたときみたいに。そして、その感覚がまだ残っているあいだに、私はこのことを教えたい。川田くんに。川田くんは多分もう、私の気持ちに気付いていて、私の告白も上手に交わしてしまうに違いない──考えられないとか、困ったな、とか言って。でも私は、一回こっきりで諦められないだろう。しつこくしてしまっても、なんとか好きなことだけでも許してもらいたい。 私は川田くんよりひとつ年下だし、彼は子ども扱いするし、だから許してくれるかもしれない。仕方ないなって。大目に見るよって。 「川田くんのこと、好き。だから、キスして」 だめだ。離せ。なんのことやら。川田くんが答えうる可能性のある言葉を思い浮かべながら、私はじっと彼を見詰めた。彼もじっと私を見詰めている。黒曜石のような純粋の黒をした瞳が、一瞬細められた。
「帰宅時刻が迫ってるが、3秒待ってくれるか。考える時間をくれよ」 彼はそうささやき、たばこを地面に捨てた。さん、にい、いち…
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