訪れたカラオケボックスが満室だったので、フロントで待ち時間を言い渡された私達は、ロビーのソファに腰を下ろしていた。

待ち時間は10分。何かするには短いが、待つには長い時間である。

「くっさー」

友人が少々困惑気味に、となりのソファに腰掛ける20代くらいの男をいやな目で見ながら、私の耳元でぼそっと囁いた。恐らくこの男も待ち時間を言い渡されたのだろう。男のとなりにはお世辞にも可愛いとは言えない女の人が座っている。カップルで仲良くカラオケらしかった。

友人が不満を持っているのは、男の吸う煙草の煙のことだろう。確かに煙草の煙がロビーに充満し、ちょっと服とか髪とかに染み付きそうだなと心配するほどだった。

外はしとしとと雨が降っている。ガラスの自動ドアの向こうには、灰色の雨が、道路の上を満遍なく覆っていた。車が通る度に、水溜りが跳ねかえるのを、私はぼんやり眺めていた。

手に持ったビニール傘の先端から、雨の雫がぽたぽたと零れている。湿っているのは空気だけではない。私の肩や、掌や、体内さえも。

雨の匂い。煙草の煙。

少し目を閉じると、びっくりするくらい落ち付いていて、

逆にそれが、悲しくもあり、忘れていない自分に対して、誇らしくもあった。

 

 

あれは私が、中学校3年生のときだった。桜の花びらが雪の様に降っていた。

昇降口で異様なほど咲き乱れる花びらに、私は暫く見惚れていた。見惚れていたというのも語弊がある。美しさに目を奪われていたのではなく、その尋常でない桜の散り様に、背筋を冷たくさせていた、と言ったほうが良い。

それで、ぼうっとしている間に、雨がぽつぽつと降り始めてきたのだった。雨と桜の風景は、灰色の雨にもみくちゃにされ、汚かった。あー。降ってきちゃった、どうしよう、まいったな、なんてぼんやり思っていたのかもしれない。

その日は帰ってから用事なんか無かったから、別に雨に降られて髪型がぐしゃぐしゃになっても、なんの支障は無かった。雨の中を歩くのもおもしろいかも、と、呑気に思っていた。ちょっと自棄気味だったのかもしれない。理由は思い出せないけれど。

それで、昇降口を出ようとしたら、「おい、あんた」と低い声で呼びとめられたんだった。私のこと?なんて思いながら振り向くと、でっかい男の人が立っていた。めちゃくちゃでかくて迫力があって、思わず目を見開いたのを、よく覚えている。

「“あんた”なんて呼んで悪かったな。咄嗟だったから、敬称を忘れてしまった」

「…いや、別に良いんだけど…、な、何?」

「この雨の中帰ると、肺炎になってしまう」

「え…?!」

 

彼は突然着ていた学ランをばっと脱いで、それを私の頭に殴り付ける様に乱暴にかぶせた。突然目の前を黒い布で覆われたので、私は何が起きたのか、事態を掴むのに少々の時間を必要とした。

学ランの隙間から彼を見ると、彼は既に私に背を向けて、校舎の中に入って行った後だった。暫く呆然としているあいだに、彼の足音さえも、消えて行ってしまった。

 

「…え?」

 

学ランの内ポケットを何気なく見ると、そこに、「川田章吾」と刺繍されていた。業者が、購入する際にサービスとしてそう縫ってくれるのだ。

その学ランから、煙草の染み付いた匂いが、鮮やかにしていた。その学ランを抱き締めたまま、雨が止むまで、私は呆然としていたのだ。

 

それで探し出した甲斐があって、2日後、彼が3年B組の川田章吾と判ったのだ。私のクラスとは廊下が違うので、彼の存在に全く気付かなかったけれど、彼はちょっとした有名人らしかった。それも、良くない噂ばかりの。

川田君は、ヤクザと関わってるとか、人を殺した事があるとか、とにかくそう言ったちょっと暴力的な感じの噂が多かった。あの大きなたくましい体を見れば、そう噂したくなる気持ちも判らないでもないけれど。

それで、恐さもあったけど、勇気を出して学ランを返した時、彼は思いがけず愛嬌のある笑顔を浮かべたのだった。それで、時々喋ったりするようになって、何となく居心地の良い存在になっていった。川田君にとっては、ちょっとした親切心だったんだろうけど、私、嬉しかった。思えば、桜が狂った様に咲いていたあの日、あの時から、私は彼が好きだったのかもしれない。

川田君は、もともとそんな親切な人ではないそうだった。でも、女の子には親切にするもんだって、心得ていた、と、彼は笑窪を付けて笑って言っていた。

ちょっと論理的な言いまわしの多い人だった。それから、笑っちゃうけど、実は自称ロマンチストらしい。私は恋人になれたら良いな、なんて思ってたけど、彼が私の気持ちを受け止めてくれることは無かった。

どうして?川田君、私が嫌い?なんて、その微妙な関係に泣きそうになりながら言うと、彼は苦笑いして、俺だけはやめておけ、と言った。

後でわかったことだった。

川田君には、最愛の恋人がいたそうだった。でも、原因は知らないけれど、亡くなってしまったらしい。私がこれを知ったのは、私が理由を説明してくれない彼に対して、手がつけられないくらい泣きじゃくった時だった。思えば、手の掛かる子供だった。彼は、きっと恋人が亡くなったりした過去が無かったとしても、恐らく私を恋人にはしてくれなかっただろう。

死んだ恋人を持った男なんて、やめとけ。故人ってのは、残された人間の中でどんどん美化されて、ずっと忘れる事なんて出来やしないんだ。

川田君は、それ以上、私に対して答えをくれなかった。例え彼が一生死んだ恋人の影を追い求めて生きていくのだとしても、私は、傷つけられると判っていても、彼と一緒にいたかった。その死んだ恋人が羨ましいなんて思ったりしたけれど、でも、今の彼を見る事が出来るのは、私じゃないか──。あさましい感情に戸惑って、夜眠れ無い事もしょっちゅうだった。

 

時々川田君の亡くなった彼女に対しての想いの厚さとか、亡くなった彼女の不憫さにむせび泣く事もあった。同時に、自分の自己嫌悪やどうしても生まれる嫉妬に悩まされたりした。

でも、とても幸せだった。まだ中3の子供だったけど、あんなにひたむきに恋する事は、もう二度と無いだろう。決して恋人としては見てくれなかったけど、時々一緒に放課後喋ったり出来て、嬉しかった。

ある日の放課後、久しぶりに会えたことの嬉しさに、私は夜までずっと川田君に喋りつづけていた。川田君はなんの反論や意見も無く、ただ傍にいて、飽きる事無く、ずっと聞いてくれて、時々頷いたり笑ったりしてくれて、…もう、彼を帰したくないと思った事があった。

雨の匂いがした。

桜はとうの昔に散っていて、花びらも破片すら残していなかった。

そろそろって事で帰る時間になって、いつも通り送ってくよ、って言ってくれたけど、私はあの時、初めて彼に対して嘘をついた。

鍵を忘れてしまったの。親も遅くなるって言ってたし、家に入れないんだ。

そんな風に、ばれるかな、ごめんなさい、そう思いながら、どもりながら告げた。川田君はちょっと目を伏せて、じゃあ、俺の手料理をご馳走してやるよ、そう言ってくれた。

もしかしたら、嘘はばれていたかもしれない。でも、川田君は詮索しなかった。黙って、彼の背中についていった。あの夜、ぽっかりとあいた空に、半月がひとつだけ浮かんでいた。その光景を、しっかりと覚えている。

川田君の家は、ちっぽけな古いアパートだった。砂壁に囲まれた、5畳半の、キッチンとバス、トイレがついた、石楠花壮と言う名のアパートだった。どきどきしながら錆びた階段を上り、奥から2つ目の部屋に入った。その前、川田君が鍵を開けている時、心臓が壊れるんじゃないかと思っていた。

部屋の中は、がらんとしていた。ちゃぶ台とパソコンしかなかった。そして清潔にされていて、まるでテレビドラマのセットのような部屋だった。「なんにもないけど、ここ、俺の城なんだ」と彼は笑っていた。靴を脱いで部屋に上がると、煙草の苦い匂いが、ほんの少しだけした。換気しても、染み付いて消えないそうだ。

「一応ディナーのリクエストを聴いておこうか」

「ううん、何でも良い」

「その答え、一番困るんだぜ。そこらへんに座ってくれ」

彼は私に貸してくれた、あの学ランを脱いで、ハンガーにかけて壁に吊るした後、手洗いをしてキッチンに立った。その工程を立ったままぼうっと眺めていたら、彼は苦笑する様に笑窪を作って、「どうした?座れないか?」と言ったので、私は慌ててその場に腰を下ろした。

サッシのガラスに、歩きながら見上げた半月が透き通っていた。黄色い月だった。鈍い光を放ち、夜空にぽつんと浮かんでいた。雲はひとつも無く、それだけが夜空から一点だけ輝いていた。

川田君は私に背を向けて、てきぱきと料理を始めていた。腕まくりをした袖の下、逞しい腕に、筋肉の隙間を縫うように傷がたくさん刻まれていた。小さなタンスの上に小さな小さな仏壇があった。私は何も訊かなかったけど、多分、川田君のご両親の遺影があったのだろう。恐らく、亡くなった彼女の分も。

暫くすると、フライパンをざっとひっくり返す音がした。おいしそうな匂いを嗅いで気付いたのだが、その時まで自分が空腹だったなんて知らなくて、恥ずかしくなった。

不思議な空気が流れていた。私がそこに座っていることが不思議で、なんで川田君といるんだろう、なんてそんな事をずっと考えていた。川田君の等身大の背中は広く、初めて彼の姿を見たような錯覚に陥った。

そして、ワイルド・セブンの煙草の匂い。

川田君のお気に入りの煙草の匂いが、炒め物の匂いと一緒に、私の鼻腔をくすぐった。煙草を吸いながら料理する手付きは鮮やかで、後ろから見ていただけだったけど、吃驚した。川田君は、それを威張る事も無いのに、実はなんだって出来る。なんだって出来る、って言うのは偏見だけど、そう思わせる何かが彼にはあった。

作ってくれたのはイカと野菜のパエリアだった。お皿を出す事くらいしかお手伝いできなかったけど、そんなちっぽけな作業をしている私を、川田君は優しい目で眺めてくれた。

「川田君、料理得意なんだね。すごい」

「そうでもない。思考錯誤の結果だからな、覚えりゃアホにでも出来るって事だ」

2人でちゃぶ台の上にお皿を並べて、向かい合って食べた。あったかくて、素朴な味だった。とてもおいしくて、お腹もいっぱいになった。食べている川田君を盗み見したときに気付いてのだけど、意外と彼はまつげが長い。くっきりした目元を見詰めていると、彼は、「女の子に見詰められるの、慣れてない」と笑った。私もちょっと笑った。

それから、またお喋りをした。学校の事とか、友達の不思議な行動についてとか、変な話題も多かったけど、川田君が笑って訊いてくれているだけで、本当に幸せだった。どこからあんなに話題が出て来たのか不思議だったけど、思い付く限りを話した。

  (でもね川田君 どうして時々そんなに 悲しそうに笑うの?)

9時くらいになって、川田君は「そろそろ帰るかい?」と私の目を見て訊ねた。まだ帰りたくなかった。

私が、もうちょっと、と駄々をこねると、川田君は肩を竦めて、目を細めた。

さん、男の部屋に長居しても危ないだけだ。おくるよ」

「川田君、」

「…ん?」

「……………………………………んーん、なんでもない」

手を伸ばせば、触れる事が出来た。

それでもそうしなかったのは、川田君の部屋に立ちこめた哀愁や、川田君の愛する人の遺影から感じる、独特の空気に追いやられたからだ。逃げるように部屋を出た。

ついさっきまで出ていた半月も、いつのまにか現れた雲に隠されていた。

 

川田君、

「…好き」

──え?」

「…ううん、なんか、パエリア好きなの。おいしかった、ご馳走さま」

「それは光栄」

川田君は喉の奥でくっと笑う。

私はどうしたら良いのかわからなかった。無言の威圧感に、声を盗まれたみたいに、川田君に伝えたかった言葉が言えなかった。言ったってどうしようもなくて、川田君が私の気持ちに頷いてくれるわけも無くて、でもどうしようもなく好きで、

同情で私に優しくしてくれているのか、知りたかっただけだったかもしれない。

家まで送ってくれて、川田君は「また学校でな」と、煙草を吸いながら来た道を戻って行った。私が彼の小さくなって行く背中を見詰めながら、ちょっとだけ泣きそうになった事を、これだけは川田君は知らないだろう。なんでも見透かされていそうだったけど、あの押し殺した気持ちだけは、川田君には悟られていないはずだ。

ねえ私大丈夫だよ、もう川田君のこと友達だって思えるようになったから。だから、これからも普通に仲良くしてね。

こう言えば、川田君は、ちょっとは私に気を使う事も無かっただろうか。

ううん、きっとそれは無いわね。川田君は、気を使うとか、そう言うんじゃなくて、もともとすごく優しい人だったんだ。きっと何も変わらなかった。

それからまた学校でちょっと喋ったりして、そんな風に毎日を過ごしていた。あの修学旅行までは、川田君ともずっとこんな関係が続くって信じてた。卒業なんて永遠にこないと思っていた。まさか川田君のクラスがプログラムに選ばれるなんて考えもしなかったから、川田君、もう一度、好きですって言えたら良かったなあ。気付いてたでしょう。いつも私の視線が、あなたを探していた事を。川田君が死んじゃったって聴いて、ああ、やっぱりって、思ったんだよ。あなたはきっと死んでしまうわねって、判ってたんだよ。

あれから2年たって、私、川田君より年上になったけど、あの頃からなんにも変わってない。ちっとも成長してないと思う。川田君、川田君。今の私を見て、ちょっとは成長したなあって、言ってくれる?それとも、バカだなって苦笑するかな?

 

 

 

「あ、。時間きたみたい」

ぼうっとしている間に10分経って、私達の名前がフロントで呼ばれた。マイクとか入ったプラスチックのかごを渡されて、ロビーから出る時、ちらっとさっきの男の人を見た。まだ煙草を吸っている。煙が空調と一緒に流れている。

 

 

  (本当言うとね)

実は、ちょっとずつ、川田君の匂いや仕草、笑ったときに見える笑窪の陰とか、忘れてきているの。川田君は、それで良いよって言うかもしれないけど、ずっと川田君を好きでいたいなんて言ったら苦笑するかもしれないけど、この気持ちは川田君に何言われたって変わらないと思うなあ。

でも私も多分成長して他の人と恋愛したりするかもしれない。まだピンと来ないけど、人並みにそうなると思う。川田君、私大人になってきっとあなたを忘れるから、あなたが望んだ通り、あなたを忘れるから、だから、もうちょっとだけ好きでいさせて。もうちょっとだけ、子供でいさせて。煙草の匂いを嗅いだときしか、傍にいるなあって錯覚できないけど。

夢の中でも良いよ。会いたいよ。川田君。

でも、きっと、夢でさえも出て来てくれないわね。いつもいつもそう。川田君、あなたはどんな声だっけ?

 

さん”

 

ねえ…?