朝の放送で、三村くん、瀬戸くん、飯島くん、織田くん、そして女子ではただひとり、の名前が呼ばれたとき、あたしは思わず川田くんの横顔を見上げた。 川田くんは、名簿に印を付けてしまうと、それをデイパックの中に押し込んだ。つぎにきっとたばこを吸うのだろうと感じたあたしの予測は当たり、彼はワイルド・セブンを一本銜えると、風を庇いながら火をつける。川田くんの、まったく無表情な顔に、あたしはなぜか不安を覚える。ほんの些細な狼狽や悲しみを、あたしは確認したかったのだ。 の死を悲しむより先に、あたしは川田くんの反応を知ることを選んだ。そしてそれが思い通りでなかったので、あたしは、に申し訳なく思うような感じになった。 空は曇りらしく、近いうちに雨が降りそうな気配がする。川田くんのたばこの灰色の煙は、灰色の空に向かってゆらゆらと伸びてゆく。あたしは体を起こし、草切れのついたひだスカートの膝を抱えて坐った。まだ傷口に、じんじんと熱が残されているし、体調もいいわけではない……いいわけがないけれど、秋也くんの安否が気がかりで、じっとしているのが苦痛なのだ。 「七原は遅いな。道にでも迷っているのかも知れん」 「秋也くん、ほんとうに無事かしら……」 「いまごろ、この場所を探しまわっているだろう。典子サンのために大急ぎでさ。すぐ来るよ、大丈夫だ」 川田くんがコンソメスープとパンを用意してくれて、それであたしたちは朝食を取った。けど、食べ物の味があまりわからないうえに、お腹も空いてはいなかったので、飲み込むことが苦痛でさえあった。 「典子サン」 「ありがとう」 風邪薬を渡され、それを一口の水で飲みこむと、あたしはまた横になった。地面に横になると、子どものとき、近所の男の子と混じって遊びながら、地面に寝転がったことを思い出す。空がとても高くて、地面がうんと硬いこと、そして寝心地がいいこと……そういった感覚は、ずっと大きく成長した現在でも、なんら変わっておらずあのときのままだ。土や草の匂いがとても濃くて、自分もそのまま地面に一体化してしまいそうで…… そういえば、あのとき、も一緒に寝転んでいた……ように記憶している。 赤白帽をかぶって、体操着でグラウンドに寝転がって、はあたしに笑顔を向けていた。はいつも笑っていた。前歯を見せて、目をぎゅっと細めて、お腹の底から笑っていた。 あたしは、どんなにと仲がよかっただろう。夕暮れの帰り道を、ふたりで歩きながら笑っていたし、あたしの家でホラー映画を観たときも、怖がるあたしには笑っていた。なにかを食べては、おいしいと言って笑い、まずいときはもっと笑っていた。は誰かをいつも笑顔にさせることができて、しかも嫌なことまで忘れさせてくれる、明るくて芯の強いこだ。彼女の笑顔に、いったい何人のひとがあらゆるものを見出しただろう。 けど、そんなでも、笑顔を掻き消すときがあった。 それは、川田くんを見つめているときだ。は、川田くんのことを思っているときは、いつも傷ついたような顔をしていた。 は、真剣に川田くんを好きだったのだ。心から、本気で恋をしていたのだ。 “、川田くんが好きなんでしょ?”と気軽にいったあたしに、はふと口を噤み、静かに肯いた。 “典ちゃん、ないしょにしてね。川田くんは、あたしの気持ちを知っても、困ってしまうだけだもの” どうして……?あんなに川田くんと仲がいいのに?ふたりは、うまくいってるんじゃないの?とあたしは思ったけど、なにも言えなかった。がどんどん、暗い顔をしていくのがわかったからだ。 は川田くんのことをあまり話したがらなかったけれど、よくあたしを含め幸枝たちに、“川田くんは怖い人じゃないよ、いい人だよ、すごく優しいんだから”と訴えていたっけ。みんなは、はいはいと聞き流していたけれど、がそこまで言うのだからと、以前のように妙な噂を信じたりはしなかった。みんな、のことが大好きだから、彼女の言うことを信頼していたのだ。 川田くんは、の気持ちに気付いていたのだろうか? あたしは、土の匂いを嗅ぎながら、銃のようすを調べている川田くんをそっと見上げた。 もしいまここにがいたら、きっとあたしも川田くんも笑っていた。がにこにこ笑って他愛ない話をするのを、あたしと川田くんは頬笑んで聞いていただろう。 あたしは、そうであったらよかったのにと思った。の子どもみたいな笑顔が、恋しくてたまらなかった。 には、必ずまた会える。あの笑顔が、失われるはずがないのだから。放送で聞いたの名前は、単に聞き間違いであったような気がした。あのこが死ぬわけがない、あのこは、死の気配なんてまったく似合わない、太陽みたいなこなのだから。 だが、鼓膜に焼きついたあの放送の下品な声……。それはたしかにの名前を呼んだ。“女子では、ひとりだけでーす。”しばらくマイクの奥でごそごそと音がして、やがて……“さーん。以上でーす。お友だちも減ってきたからなあー、みんな頑張るんだぞー” その声は、の人間性や長所のすべての個性を拭い去った、のすべてを意味している名前を呼んだのではなく、ただの記号をつぶやいたかのような印象であった。まるで、が死ぬわけがない、に死などありえないと思いこむあたしを、なじるような感じでもあった。 は死ぬわけがない。けれど、あの胸がむかむかするような声で呼ばれたあの名前の生徒は、誰なのだろう?の名前が呼ばれたけれど、それがであるわけがない。が死ぬわけがない。 しかも川田くんは、それを聞いても平然としているのだ。眉一つ動かさず。が死んだのに、そんな反応をするわけがない。つまり、は死んでない。 あたしは、いつのまにか自分が、嗚咽して震えていることに気づいた。熱い涙がこめかみに流れてゆく。くちびるを強張らせて、わなわなしているあたしを、川田くんが覗きこんでいた。彼は、銜えていた煙草に火を付けようとしてやめた。その手で、あたしの額に手をやった。 「川田くん……」 川田くんは、あたしの体調が悪化したのかと案じたようだったが、あたしの額から手を離して、ややずれ下がっていた毛布を喉のあたりまで引き上げて掛けてくれた。 「川田くん、が死んだのよ」 あたしの声は震え、弱々しくかすれていたが、川田くんの耳に確かに届いていたはずだ。川田くんはやや眉をよせ、そしてさっきし損なった、たばこの着火をおこなった。 が死んだ……。あたしは、自分の言葉を反芻する。が死んだ。は死んでしまったのだとあの先生は言った。そんなわけがないのに、そんなことが起こりっこないのに、いまあたしは自分で言ったではないか。が死んだと、無責任に、川田くんに言いつけたではないか。そんなこと起こるわけがないのに。 「そう」川田くんはたばこを吸いながら言った。たばこの火がちらっと強く燃える。「さっきの放送でそう言っていたな」 「本当のことかしら?」 「ほぼ間違いないと見ていいだろう。生死判別にぬかりがあればゲームは破綻する。そこは万全を期しているはずだ」 「………」 なぜ、そうあっさりと言い捨てることができるのだろう。あたしは土を握りしめて、その手を離した。あたしの指の形をした土が、地面に置き去りにされる。 “典ちゃん、川田くんは、あたしの気持ちなんて知っても、どうしようもないのよ。川田くんは、あたしではなにもしてあげられないの。川田くんは………” この続きを、はなんと言っていただろう?川田くんは……?の声は、耳元でささやいているかと思えば、こんどはうんと遠くに感じられる。 「サンか。俺はずいぶんよくしてもらったよ。ほんとうにいいこだった。誰からも好かれてたよな」 川田くんは、たばこを地面にもみ消して、ぼんやりと曇った空を見上げた。 あたしは、川田くんの横顔を見て、彼がのことを思い出しているのではないと知った。その瞳は、まるで時計を見るときのような、もっと現実的なことを考えているような鋭い表情を浮かべていた。 のことを“いいこだった”と言いながら、別のことを考えている。あたしは、川田くんになにか攻撃的な感情を抱いたが、けれども、そんなことをしてもが喜ばないこと、そしてなにより、あたしのことを面倒見てくれていることを思い出して、ぎゅっと飲み込んだ。 「川田くん、と一緒に帰ったりしていたでしょ?……すごく仲がよかったわよね?」 「ああ。俺、見ての通り口下手で人付き合いが悪いだろ。そんな俺に、サンは街を案内してくれたりしたもんだ。典子サンの話もよく聞いたな。おなじ小学校なんだって?おかげで俺、典子サンとまともに話したことなかったが、典子サンの人柄はよく知ってたんだ」 「おなじね。あたしも川田くんのこと、よく聞かされたのよ。優しくておもしろくて、いいひとだって」 「そりゃ買い被りってもんだな」 川田くんは、右の眉を持ち上げ、デイパックの中に押し込んでいた手作りの弓のようなものを引っ張り出すと、それにやすりを掛け始めた。 「そんなことない。あたしもいま、そう思ってるもの」 「おだててもなにも出ないぜ。けど、人の悪口なんか絶対言わないこだったよな、サン。他人の長所を見つけるのが得意で、お人好しで」 「………。、本当に死んじゃったの?」 川田くんは、こんどは即答せず、すこし黙っていた。そして、「ああ」とついに答えた。「死んだよ」 「…………」 では、いま、あたしとおなじように、どこかでが横たわっているのだ。 あたしは、の亡骸をどうしても想像できなかった。が死んだ。どこか、そう遠くない場所に、の肉体が存在している。けれど、その肉体はすでに、とは離別してしまった。はどこかへ行ってしまったのだ。どこへ行ってしまったというのだろう。 「川田くん、のこと好きだったでしょ?……少しは好きだったわね?惹かれるところが、あったでしょう?」 川田くんは、弓にやすりを掛ける手を止め、あたしを一瞥した。 鳥が、ぎゃあぎゃあと人間のような声で啼いている。見上げた川田くんの肩越しに広がる空は、雲がぐんぐんと動き、不穏な気配が、島全体をすっぽりと覆ってしまった。 雨がきっと降るだろう。秋也くんが、濡れて寒い思いをしなければいいが……。 「なにを言わんとしているのかわからないが、感傷に浸るのはもうすこし後にしたほうがいい」 「感傷に浸ってほしいのよ」あたしは熱い目をこすりながら言った。「のために感傷的になってほしいの。だめ?」 「……たしかに、俺はサンを好きだよ、いまでも。友人として」 川田くんは、たばこを銜えて火をつけた。ワイルド・セブンの煙が、水中に漂う髪の毛のように、ゆらゆらと揺れている。 「このゲームで優勝する秘訣は、いかに冷静でいられるかだと俺は思う。だから、サンのことは、すべてが終わってからゆっくりと話そう。いまはその時期じゃない」 川田くんはたばこを深く吸い込んで、吐きだした。 「悪いな、俺は、どうも気遣いってやつに欠ける」 「ちがうの、あたしのことなんか気を遣わなくていいの、けどが」 が、 まだそばにいる気がするから。 川田くんはたばこをもみ消して、ふたたび新しい一本を銜えた。 「川田くん」 「………」 「のこと捜そうって、一度は思った?」 川田くんは火を点けたばかりのたばこを、土の中に押し込んだ。鳥が、高いところでちちちと囀っている。空が曇りなことを除けば、清々しい環境であるといえた……雨が近いのか、空気は水分を含んでいるし、ここちよく素肌を包んでゆく。いまはあの恐ろしいマシンガンの音も、叫び声もしないので、いまが川田くんや秋也くんの言う“くそやくたいもないゲーム”の最中とは、思えないほどであった。まるであたしと川田くんは、ピクニックの途中、ちょっとお手洗いかどこかに行ってしまった秋也くんを待つために、適当な場所で坐っているかのような気さえした。 「思った」 川田くんは、あたしの眼を見て、まばたきもせずつぶやく。「一度だけ。実行はしないつもりでも」 川田くんの瞳は真っ黒で、どういったことを考えているのか、あたしにはさっぱりわからない。その瞳はあたしを見ているけれど、あたしの向こう側を見ているような、遠い眼をしていた。 「そうなんだ」 あたしは肩をゆすって、毛布の中にもぐりこむ。川田くんは、うそを言っているのかもしれない。あたしを満足させるために、のためでなく、あたしの心の安息のために、そう言ったのかもしれない。 「よかった」というあたしに、川田くんは目を細めて頬笑む。そして、「七原のやつ、どこで道草食ってるんだ」と言うと、バードコールをポケットから取り出した。 こんな質問をして、川田くんから強引に回答を得て、だからといってが報われるわけではない。けれども、つぎにに会ったときに、おみやげ話にはなるだろう──川田くんは、を捜そうとしたよって。のことを思ってたって。 バードコールの囀りを聴きながら、あたしはそんなことを考え、目を閉じる。 目蓋の裏に、鮮明なの笑顔がよみがえった。 ![]() ![]() |