失恋、した。
“ごめん。ちゃんとは付き合えない”
ばっさりとそう言い捨てた、無邪気で爽やかな笑顔を思い浮かべる。
生きてきて失恋したことくらいはあるけれど、今回はほんとにかなりショックだった。
まだ恋に発展していなかったとはいえ、彼に惹かれていたのは事実だし、彼とはほんとに……なんていうか付き合いたかった。優しい色香があった。可愛い笑顔があった。
多分恋に限りなく近い段階だった。


「うう……」
「なぁんやねん、うっとしいわ」
「でも、あんなにイケメンで飄々としてて、人当たりよくて、多国語喋れて、しかも公務員で独身なんて揃いに揃ったひと滅多にいないよ……」
「(ん?なんか聞いたことあるようなやつやな)そんなやつぁいっぱいいてるわ。気にすんな」
「いてないよ!この世にひとりだけだよ!ほんとにかっこいいんだから……」
「せやけどそいつはのこと好きちゃうんやろ。そいつからしたら、は“ひとりだけ”とちゃうねん」
「ほんっとに酷いこと言うよね真島さんって……鬼なの悪魔なの?」
「へっ。現実は甘ァないで!俺は真実を伝えたっとんねん」


パキ、とグラスの中で氷にひびが入る音が響く。
ロートレックの絵のかかった瀟洒な店内、ブランディの香りのするカウンター。広々とした高い天井と暖色の照明。
酔っぱらって管を巻いているようにしか見えないだろうわたしと、見るからにその筋のひと、ななりの真島さんとでも店内に溶け込めているのは、こんなバーには珍しく満席でざわざわしているからだろう。
真島さんなんかと雰囲気のある店で飲んでも気まずいだけなので、がやがやしているほうがわたしには有難い。


「わたしいつ彼氏出来るんだろう……」
「さぁな。」
「このまま一生独身だったらどうしよう……」


項垂れて、苦味のあと舌にひりひりと残る砂糖の味を確かめながら、ブランディ・グラスのとろける氷を見つめる。真島さんは気だるそうに頬杖をついて、杯をぐいっと呷った。
「一生独身でもええやんけ。なんも不足ないやろ」
「なにがいいのかさっぱりわかりません。不足だらけだよ。はぁ〜今年のクリスマスもひとりかぁ……」
「俺んとこの宴会出るか。」
「やだよ極道とクリスマスなんて」
「あれもいや、これもいや、ワッガママやのぉ。せやから振られるねん。万年失恋ちゃん」
「ひどすぎる」
優しさのかけらもない!と訴えて大げさに傷ついた表情をしてみせると、真島さんが「アホか」とうんざりした顔でわたしを睨む。
真島さんに優しさなんて求めていないし別に傷ついてもいないけれど。
いまは、言葉の遣り取りをしてくれるひとがいるだけで癒されるから。たとえそれが、極道の組長さんでも、わたしの話を聞いてくれるだけで大変ありがたいものだ。


「はあー彼氏ほしいよぉ……孤独……」
「けっ。アホくさ。俺ァもう帰るわ」
「えっ?なんで?全然まだ飲んでないのに」
「いまのと飲むのは時間の無駄遣いや」


つまらん女になりくさって、と吐き棄てるようにつぶやかれて、思わず顔が凍りつく。
怒ったみたいな顔をしているときは多々あるけれど、こんなふうに言われるのは初めてだった。
「つまらん女って……そりゃ失恋したらつまらんでしょ……失恋しておもろかったらプロの芸人だよ……」
「そら、そやな」
低い声。
一瞬で酔いも醒めてしまって、わたしは、縋るように真島さんを見る。彼は、灰色の眼差しで、退屈を持て余すように、前方のグラスを眺めている。
もちろん、いまひとりになるのが嫌だと言う利己的な理由もあるけれども、それ以上に、となりに真島さんがいて、わたしの話を聞いてくれる、と言う状況が楽しくもあった。
わたしは楽しいけど、真島さんはほんとにつまらなかったのだ。そりゃ、失恋女の愚痴なんておもしろいわけがないよね……反省。


縮こまっていろいろと“つまらん女”になったのに思い当たる節があるなあと考えていたら、真島さんが、はぁ、とため息をついた。
「で?」
「え?」
「つぎは、もう目星ついとんのか。」
「目星って…… ?」
「男や!彼氏ほしいんやろ」
「ああ、そのこと。うーん、合コン行こうって言ってくれてるけど、友だちが」
「そぉか。はよ行ってとっとと旦那候補捕まえて来い」
「旦那ねぇ。見つかるかなぁ。ほんとに一生独身な気がしてきた。なんかもういいや恋は……」
「ふぅん」


からんと球体の氷が音を立てる。横目で真島さんを見ながら、お酒と真島さんってなんかちょっとかっこいいな……なんて思っていた。
黙っていれば近寄りがたいほどかっこいいのに、表情もよくわかんない関西弁らしき言葉づかいも、どれもきわめて下劣と言うべきほどに下品だ。それゆえに、ときどきの沈黙によって拭い清められた彼の美しさの出現には、わたしも照れて困惑してしまう。
かといって、黙り込んだときの美人モードのこのひとが、知らないひとのようだとは思わなかった。真島さんは真島さんだ、なにをしてても。上機嫌でも不機嫌でも。


「おまえは、誰かに惚れとるときがいちばんおまえらしい」
「……ん?そお?」
「ああ。惚れた男おらんときはつまらん女になる」
「そうかなー」
「バックに花しょっとるからな。浮かれてご機嫌で、おめでたいおまえが、いちばんええわ」
「え?わたしそんなんなるの?うそ、痛々しいじゃん……」
「なんや?自覚ないんか?」


そんなことないと思うんだけど。
不服なまま何も言い返さず、チャームのチョコレートをぱくりと口に入れて、ブランディで流し込む。
音もなく笑っているような気配がしたので、真島さんに目をやると、彼は喉の奥でくつくつ笑っていた。
「なに笑ってんの?」
「笑わずにおれるかいな。こんなおもろいことはないわ」
「??? さっきはつまらん女とか言ってくれたくせに……」
そのとき、背後のダーツをしていたグループが、わっと大きな歓声を上げた。意識をそちらに取られ、戻ってきたときには、もう真島さんは笑うのやめて、お酒を飲んでいた。


「ねえ真島さんって──
「あ?」
「ほんと、親切だね」
「素直やなぁ。なぁんやねん?」
「だって、誘ったら来てくれるし、愚痴聞いてくれるし、いいひとだなって。」
優しくはないけど。と含めて微笑みかけると、真島さんは、当たり前や、と不機嫌そうに言った。
「それに、わたしの恋路を応援してくれてるし」
「あぁ。ほんまに、応援しとるで。うまいこといってんの見てへんけど」
「いままではね。これからは期待に応えて、うまいことやってみるよ」
「あぁ。」と抑揚のある声で彼が言う。「全部見守っといたる」
「見守るってなんか変なの、真島さん似合わないよ」
「そぉか?たしかに、ニュアンスはちょっとちゃうかもしれんなぁ」
「ニュアンス?」
「あぁ。」


からり。
触ってもいないのに、わたしのグラスの中で、氷が融けて音を立てる。
融けた水がブランディと混じり合うことなく絡み合い、それがグラスの中でかげろうのように揺れている。
の恋路が上手いこといって、しばらく経つのを待っとんねん」
「はー?なんで?意味わからない。」
「おもろいから。」
「つまんない女なんでしょ?」
我ながら根に持っているなあと思いながら、チョコレートを食べる手が止まらない。
「そや。せやから余計にや!の皮が三枚くらいむけるの首を長うして待ってんねや」
「はあ?どういうことよ」
「知りたいか?」
「うん。」


ぎろりと、ねめつけられる視線に内心怯えつつも、目を逸らさず見つめ返すことに成功する。
真島さんと一緒に飲むようになってから、“殺気”というものが、視線だけではなく、雰囲気をも凍りつかせるものだったのだと初めて知った。そして、その殺気とやらが人を殺せるなら、わたしなんか何回も死んでいることだろう。
真島さんいちいち脅かすもんだから。


が食べごろになんのを待ってる言うこっちゃ」
椅子の背もたれに肘をかけて、真島さんが言う。
チョコレートを取る手がぴたりと止まった。
ものすごくぞわっとしたから。


「え……?真島さんわたしのこと好きだったの……?」
「………」
真島さんは背もたれにだらしなく体重を預けるのをやめて、カウンターに頬杖をついて、右目をあらぬほうに向けた。たぶん、考えているみたいな、そういう顔で。
「そういうわけやないと思うんやがなぁ……」
「え?……あ、じょ、冗談?あーもう!」
アッハッハと大げさに笑ってみたわたしの声がばかばかしく響く。運悪く、何の因果か、その瞬間はバーの中の騒音もやみ、静まり返ったときだったのだ。
いたたまれず、咳払いをしてふたたびチョコレートを食べる作業に取り掛かる。真島さんの話に真剣に耳を傾けたわたしがばかだった。


「好いた惚れたの話やない。もっと大らかにやな……」
「……ふーん。もういいよ。意味不明だし」
「とにかくはまだ食べごろとちゃうねん」
「恋愛経験積んで女上げて来いってこと?」
「そや、青田買いや。生娘臭ぉていまはあかん。めんどいしおもろない」
「………よくサイテーって言われない?もういいってば。何も言わないほうがいいよ?」
「おまえが知りたい言うからやろが!」
「わたしが悪かったです。もう知りたくないです。」
くく……と小さく笑っていたと思いきや、次の瞬間はケケケと声を出して笑っている真島さんにうんざりして、わたしはブランディを一口に呷る。


真島さんが飲めって言うからブランディを飲んでいたけれど、やっぱり口に合わなかった。
わたしには美しいバカラのグラスではなくて、スカイウォッカの青い瓶がお似合いだ。というわけでスカイウォッカを頼もう。
「ま、俺ぁ気長に待ってるけどな」
「……。真島さんがわたしのこと好きなのかと思って焦ったわたしがばかだった。」
「なぁんで焦るねん?」
「だって、好きなひとの話とか失恋の話とか、そんなのもう言えなくなるでしょ?」
「あほか、自惚れんな。おまえが恋愛しようがしまいが気にすることあらへんやん。どうせ俺のもんになんねんから」
ぞぉぉっ、とした。
冗談なのか本気なのか、真島さんの薄ら笑いからはわかりかねる。が、一応、襟を正す気持ちでこほんと咳を一つこぼす。
「自惚れてるのは真島さんでしょ?なに俺のもんって。わたし真島さんのもんになるの?」
「俺の予定ではな。無理やり奪うようなことはせぇへんから安心せぇ」
「………あのー、本気ですか?」
「おぉ大マジやで。」
「…………」
「せやからはよぉ誰かと付き合うてこんかい!」


チャームの小皿に手を伸ばすと、チョコレートはもう無くなってしまっていて、爪がこつんと音を立てた。
真島さんって……ほんとに変なひとだ。わたしに恋してるわけじゃないのに、わたしのこと待ってるって……全然わからない。意味不明。
きっとこれは冗談なのだろう。面白がっているだけなのだろう。
そうですよね?
「あー楽しみや。つぎはどないな男やろな?」
「………」


このひとやばいからもう会わないほうがいいかも……とは思うけど、きっと小まめに会い続けているのだろう。
真島さんこそ、あんまりよくわかっていないけど。
真島さんがいるから、つぎつぎ失恋しても、すぐに吹っ切れてしまってるって。
それどころか、素敵なひとがいても、ぎりぎりのところで恋に発展しないのは、真島さんのせいだって。
惚れてると一言言ってくれれば、わたしだってすぐその気になれるって、




(……気づいてないんだろうなあ……)




ため息をこぼすわたしに、真島さんがにやりと笑う。
「そんな顔すんなや!ほんまにおまえの恋路は祈っとんやからな!」
「………ハァ…」












*

「真島さん、ちょっといいひといたの!絡まれて助けてくれたの。ほんとに今回は恋になれるかも。」
「ほお……ええやん。どないなやつや」
「ええとねー、筋肉もりもりのねえ、声がまた甘くてかっこいい、落ち着いてて優しくて沖縄で養護施設運営してるねー」
──………おまえは………なんでいっつも手の届かん高嶺狙いやねん!お目が高すぎるわ!一皮むけるのはいつなんねん!」
「え??な、なに?なに怒ってんの?」
「……。まぁええわ……もうええ。バンタム予約しといたる。はよ玉砕してこい」
「え?え、なになに、なんのこと??」
「もう待つんやめや。」
「は?……ギャー!?ちょっと、な、あ……──やんっ、!?」