真島さんは背が高い。
並んで立ったときは見上げなければならないので、高いヒールの靴を履いたときはちょっとその顔に近づくことができて、嬉しくなる。
キスをするときは彼が大きく体をこごめるのだけれど、それは予告なく雰囲気も作られず唐突なので、わたしはいつも驚いて、口を固く閉じて目もぎゅっと瞑ってしまう。
だから高いヒールを履いているときは、たまには自分からしてみようかな、と考えてしまって。
実行したことはないけれども。
想像しながら、彼の隣を付いていくのが、ただただ嬉しかった。









「あ、ちゃん」
「?」
きょうくちびるが触れたのも突然だった。
さっきまでわたしの上司の話をしていたのに、わたしは口を開けて大笑いしていたというのに、躊躇ないいたずらな右目が、さっとわたしの目の前に現れて。
くちびるでくちびるを掠めていった。
──せやからな、俺が“そら横領やないかコラッ”って言ってんや。あのおっさんもちょっとは大人しいなったやろ!」
「あ、は、はい。そうですね」
「ま、悪いやつではなさそうやがなぁ」
「へへへ……そうですね」
いきなりキスされたことに戸惑って、前髪を何度も触るわたしと、まったくキスしたことなど意にも介さず、のびのびとしている真島さん。
いつもこうなるのに、どうしても、真島さんのように普通に振る舞うことができない。彼が何事もなかったようにしていられるのは、彼が大人だからなのか、いろんな経験をしてきているからなのか、ずっと訝しく思っていた。だが、いまではなんとなくわかる。


風もない、夜の神室町のぎらぎらしたネオンを、五階建ビルの屋上から手すりにつかまって眺めている。
食事のあとなので、体がぬくい。すこし夜風に当たろうとここにやってきたが、あいにくと風はそよとも吹かず、地上からがやがやとした賑わいや店のアナウンスが響いてくるだけだ。この界隈の屋上はビル同士でアルミ板で橋渡しされており、あちこちを繋がって道となっている風景には、なんとなくジブリ映画を彷彿とさせる情緒があるように感じられる。煤けた壁や灰色の様相は夜のとばりに包まれて、大きく掲げられた看板のライトなどに圧倒されている。
わたしは、ここが好きだな、と思った。神室町なのに、神室町の音や空気を伝えながら、人気もなく落ち着いている。
それとも、真島さんとふたりでいるという贅沢があるからかもしれない。苦笑いして、高いヒールのパンプスのつま先に目をやる。


ふたりきりでいる、というのは、ほんとに少しだけの限られた時間だ。
わたしと真島さんはいつも仕事の打ち合わせと称して食事に行き、お酒を飲んで、帰るということを繰り返してきた。彼がわたしにキスするのは、通りがかった誰もいない路地や、薄暗いバーや、タクシーに乗る瞬間、だった。

考えてみれば、こうして、ふたりきりの空間にやってくるのは初めてのことだ。
それに、もうすぐ、仕事も終わってしまうし。
神室町ヒルズの工事も来週に終わってしまう。こうして、会社に突然“ちゃんきょうも呼んでくれん。ちょっと訊きたいことがある”と呼び出してくれることもなくなるのだ。
もしかすると、今回の建設が終わったら、わたしたちがふたりきりで会うのも無くなってしまうのではないだろうか。
わたしの目線の先にある位置に、真島さんのシャープな顎がある。なめらかな白すぎるほどの皮膚と細い毛質の髭、それからさっき触れた、黙っていればきれいなくちびるを見ていると、真島さんの右目がわたしを見ていた。


「もうすぐ、神室町ヒルズできますね」
とっさに出した言葉がそれだった。
彼は、微かに笑ったようだった。すこし顎を引いて、すぐに月を見上げた。
「そやな。再来週からは店舗も入ってくるようやし、来月のオープニングには間に合いそうや」
「初めはあんなにトラブルばかりだったのに。山を越えたら順調でしたね」
「ああ。どないなるか思ったがお蔭で助かった」
「……」
錆びて塗料の捲れたかさかさの手すりを撫でながら、わたしはくちびるを噛む。
神室町ヒルズができたら、わたしたち、会えなくなるんですか……とは、訊けない。とても口にすることはできない。
キスまでしておいて妙な話だ。恋愛のことを話したら、彼との関係が変わってしまう気がするだなんて。
でも、こわいのはもちろんだけれども、彼が、わたしなんか好きじゃないことはとっくに知っている。
“飯食いに行こか”と誘ってくれることも、暗がりでさっとキスすることも、彼にとっては、たとえばわたしの名前を呼んだり、笑いかけるのと同じことなのだ。わたしが若い女だから、それが彼の女性への対応の仕方だから、だから彼はわたしにそうする。
決してわたし個人に恋愛感情があるからではない。
その予感は、初めて一緒に食事に行ったときからしていた。彼はわたしに優しいけど、でも、その優しさはひどい。優しくしたい気分だから優しくしてくれているのだ。
わたしだから、優しくしてくれるわけではない。


「真島さんは……」
目を瞬かせて、わたしの手の熱の伝った手すりを握りしめる。
「真島さんは──
思ったままのことを口にしそうになって慌てて言いよどむ。
“真島さんは仕事が終わってからも会ってくれますか?”なんて、鬱陶しいこと言えない。
結果も聞きたくない。なのに、口に出そうになるだなんて。本当は、まだ期待している証拠だ。
なんて言い繕えばいいのか戸惑うわたしの顔を、真島さんの影が覆う。
彼の頭越しに鈍い月とホストクラブの看板が見える。あの光が、彼の影をわたしに掛けているのだ。心地よい影の中に。


一瞬、顔が近づいてくるのではないかと予感したが、しかし、彼はそうしなかった。
すこし身を乗り出して、くるりと体を翻して手すりに背を預けただけだった。
「きょうはええ日や」
暑さもちょうどええしちゃんといてるし……と続けて言う彼が、へんに歪んだ独特の笑顔を浮かべる。
「建設も終わる目途ついたしな」
彼のかたわらで、ぼんやりと、巻き舌みたいに抑揚のある声を聞いていたら、意識が一瞬遠くへ行き、そして帰ってきた。
屋上に二人で佇んでいる。真島さんは取引先の社長で、わたしたちは建設が終われば会う口実も無くなってしまう……意味のないキス、残されもしない一瞬だけのくちびるの薄皮の感触。付き合ってもいないのに。いいや、付き合っていないからこそ、こんなキスをしてくるのだ。
甘い雰囲気もなく、まるで手や肘が一瞬ぶつかってしまったかのような、そんな、なんでもない、謝るほどでもない、そのくちびるを、わたしは思い浮かべる。隣にその本人がいるのに、彼の彫りの深い横顔は、きっといまのわたしには遠すぎる。
こんなに高いヒールを履いていても。


「真島さんは、工事が終わって、やっぱり嬉しいですよね」
ビルの下のピンク色や青色のネオン彩る雑踏、行きかう人々を見下ろして、わたしは言った。
ついに言った、と思った。胸がどきどきと高鳴ってくる。
頭の中で繰り返しつぶやいていた言葉が、実際に舌の上を滑り出ていった。体が冷たくなる感じと、ふわふわとその言葉、自分の声が余韻となってあたりを漂っているような感覚を同時に味わう。
きっと後になって後悔するのだろうとわかっていながらも。
「真島さんは、神室町ヒルズが完成したら、……」


わたしと会ってたことなんて、全部きれいに忘れちゃうのだろう。
わたしなんかにはとても手におえないひとだし、何を考えているか全然わからないし、いつも突然呼び出すし。わたしの気持なんか、ちっともわかってくれないし。
わたしは普通の恋愛がしたいだけ。とても、大きな組織の組長なんて肩書きを持つ彼と、理想の関係が結べるはずがない。
会わなくなったら、一緒に食事するようになって二か月のこの期間を、わたしは、特別な出来事だったのだと処理していくのだろう。
彼のくちびるの感触も、よく覗き込んだ彼の瞳が微かに灰色っぽいことも、全部、また別の、もっと美しい、実際にはなかった出来事で上書きされて、ときどき思い出していくのだろう。
だから、彼がこのままわたしを忘れていっても、なにも、元の生活に戻っていくだけで、後には楽しかった思い出がわたしにだけ残されるだけで。
いまならまだ無傷でいられる。そのほうがいいのだと頭では考えている。いまは彼の好意を感じ取れず悲しい気持ちを味わっているが、長い目で見ればこのまま会わなくなったほうがいい。極道の、しかも組長のひと、なんて。わたしの人生とは対極にいるひと。
それに、わたしの希望どおり、彼がわたし個人を愛してくれたら、
くちびる以外の彼の体がわたしに触れてしまったら、きっとわたしは、死んでしまう気がした。


「そやな」
と彼は短く言った。
「嬉しい言うか、肩の荷が下りる言う感じや。なんや今回は面倒なことだらけで疲れたわ」
「ふふ。そうなんですか。でも、現場監督されてるの楽しそうでしたよ?」
「ん?ちゃん現場来てたんか?」
「はい。何度か社長と一緒に点検に」
「声掛けてくれたらええのに」
「そんなとんでもない。お邪魔ですもん」
「邪魔なんかやないで!ちゃんならいつでも大歓迎や」
けらけら笑う彼の、こわい表情を、わたしはそっと見上げる。
さっきは間があったのに、いま、手すりに背を預ける彼と、手すりに向かっているわたしの距離はほとんどない。いつのまにこんなに縮まっていたのだろう。でも、顔はあんなに遠い。
実際高いヒールを履いているいまでも、背を伸ばしただけであのくちびるにわたしのくちびるは届かなさそうだ。真島さんが首を傾げてくれれば難なくキスできるだろうけど。
ウェッジソールの厚底なら届くのかなあ……。


「さーて」と彼が間延びした声を出した。
「どっか飲みに行こか」


「あ、はい」
ふたりきりの時間はもう終わりだ。いまから、いつもどおり、お店でお酒を飲んで、タクシーの前で別れて、わたしは家に帰るし、真島さんも事務所か自宅かに帰っていく。
また明日朝起きて、会社に行って、仕事をして。
もしかしたら、また真島さんから電話があるかもしれないし、なければ、コンビニで弁当でも買って帰って、ひとりで食べる。パソコンをして眠る。
そうして何日か繰り返して、そしたら、神室町ヒルズの工事も終わってしまって、
二度と会わなくなる。




(二度と会えなくなる、)


想像すると、心に冷水をかけられたようだ。
真島さんと道端で鉢合わせすることがあったとしても、彼は、わたしと一月も会わなくなればわたしのことなど忘れてしまって、わたしの顔を見ても、なにも思い出さなくなるのではないか。
ふたりでいることが、わたしにとってどんなに特別でも、彼にとってはただの暇つぶし、退屈しのぎでしかないだろう。
もういっそほんとにキスしちゃおうかな、とわたしは思う。
こんなに近くにいるのだから。首に腕を回して、無理やり力任せに、くちびるを押し付けてみようか。
そうすれば、少しは、真島さんもわたしのことを覚えててくれるかもしれない。


「なんかやーらしい顔しとるで」
「え、そそそんなことないですよ」
「なぁに考えとったんや?教えてや」
「なんにも考えてないですってー」
そんなことを言われるなんて、ほんとにやらしい顔でもしてたのかと心配になる。
真島さんは軽薄な笑みを浮かべて、ゆっくり手すりから体を離して歩き出した。まだ行きたくない、と思っているわたしを置いて。
だめだな、とても、キスなんてできない。
首に腕を回したりなんてできない。
考えただけで足が竦みそうになるのに我ながらうんざりして、ずり落ちたバッグの紐を肩にかけなおす。中に入っている鏡のことを考える。化粧直しがしたい。きっと、べたべたに崩れている。


「行くでぇちゃん」
「はい。」
アルミ板の架け橋のところで立ち止まった真島さんが振り返ってわたしを待ってくれる。
月明かりとホストクラブの過度な照明を背後から浴びて、彼の背の高い姿が、夜空の色と同じ影に包まれている。青白くやつれた頬と、左目を覆う眼帯のライン、蛇革のジャケットと革のパンツの左半身だけが、鈍い白の輪郭を浮かび上がらせている。
そちらに向かって歩き出すと、履き慣れないパンプスで押しつぶされる指が、ずきずきと痛みだした。小さな血豆が、両足に出来ているのだ。立ってるときはうまく誤魔化していたけれど。
真島さんがいつわたしを呼び出してもいいように、ここ数日毎日履いて出勤していたけれど、あしたからは履き慣れたぺたんこのフラット・シューズで出勤しよう、と思った。
どうせ、わたしからキスしたり、気持を伝えたり、また会いたいだなんて言えないし。
言う覚悟もない。極道のひと、とわかりきっていて、とても言えない。
これから数日したらもう二度と会えなくなるけれども、数か月引きずって、そうして、きっと忘れられるだろう。
みすみす自分から大怪我しそうな恋に飛び込んでいくことなんて、できっこない。


「足痛いんか?」
「え、あ、ちょっと。履き慣れなくって……」
「そぉか……」
真島さんのところまで辿りつく。わたしは元気に笑顔を浮かべて、「大丈夫です」と言う。
「痛いっていうか、ちょっと変な感じがするだけで。歩けますから」
「ル・マルシェで靴買うたるわ。下でタクシー拾おか」
「えっ!?いいえぇ、そんなとんでもない……靴なら結構持ってるんです、わたし。だから大丈夫ですよ」
「せやけどちゃんが持っとる靴て、背ェ低いやつばっかやろ?高うなるやつその靴だけちゃうん」
え……なんで知ってるんだろう……?
びっくりして真島さんの顔をじろじろ見るわたしに、真島さんはなんだかおかしいくらいに真面目な声で続けて言う。
「わかるねん、俺ぁ女みたらそのクロゼットん中の様子がなんとなく見えるんや」
「えっ……そ、そうなんですか……正直ドン引きです……」
「えぇえぇ!照れんでもえぇで!好きなん買うたる。ハイヒールのやつや。足痛ならへんやつじっくり選ぼうや」
真島さん、ハイヒールお好きなんですか?と訊こうとしたとき、彼の顔が、やや斜めの角度から近づいた。
くちびるが、わたしのくちびるに触れる。
そして、音もなく去っていった。
顔を離したそこに、彼の満足げな表情が、影に覆われた暗闇の中に見えるような気がした。
「ハイヒールやないとなぁ、俺も首痛いねん」
「……首?」
くちびるに触れた彼の、さらっとした、やや乾燥したやわらかな口付けの感触。
いつもは、余韻も残さないほど一瞬のものが、今回のそれは、一呼吸分はあった……わたしのくちびるには、彼の優しく清潔なキスのぬくもりが、まだ、刻まれている。
「こうやって、かがんだときに」
彼の頭の影が、わたしの頭上から覆いかぶさってくる。
さっきと同じ感触、質感、温度が、くちびるに触れた。頬にあたる彼の鼻や顎の感触。くすぐったい、柔らかな毛質の整った髭。
急いで閉じた目を開けると、まだ、顔が近くにあった。
胸に爪を立てる、端正な真島さんの顔が。
「見た目は高すぎん靴のほうが好きなんやが。カタギっぽいとこが。」
「……はぁ……そうなんですか。結局どっち履けばいいんですか?」
「もうどっちでもえぇわ!とりあえず靴買うて、酒飲みに行こうや」
「はい。……じゃ、お言葉に甘えて、靴買ってください」
「おぉ!」
わたしのお願いに上機嫌な彼と、ふたりで橋を渡る。渡りきってすぐの扉を開けると、そこにはエレベーターがある。
黄ばんだプラスティックの下降ボタンを押すと、機械音を立てて、屋上までぐんぐんと上昇してくる気配がする。
ちらと真島さんを見ると、彼は、エレベーターの閉じた壁を見ながら、青白い白熱灯の下で静かな横顔をしていた。いま、このひとは何を考えているのだろう、とわたしは思った。きっと、わたしなんか関係ないことを考えているのだろう。
チン、と高い音が、屋上の広大な夜空に木霊する。エレベーターの中に入り込んで、ボタンを押す。ここに上昇してきたのと同じ機械音を立てながら、ぐぐっと一階に下降していくのを感じていると、真島さんの長い腕が、突然わたしの肩を抱いた。


そして、わたしのつむじにくちびるを押し付けた。
「………」
キスよりもびっくりする出来事だった。
抱き寄せた腕の力強さにも、つむじに触れたぬくもりにも、そんなことをする真島さんにも。


一階について、真島さんが薄暗いビルを抜け、ぶらぶらと明るいネオンの下を歩き出す。
その背中をゆっくり追いながら、賑やかな夜の神室町の風景を、その中にさえ特別目立つ真島さんの後姿を、わたしは、嬉しい気持ちで見つめる。
あぁ、だめだ。いつのまに、こんなに好きになってしまって、ほんとにどうしよう。


「タクシーそこあるわ。どないな靴にしよか?」
彼の、だるそうな歩き方と対照的なぴんとまっすぐ伸びた背中を追いかけて、わたしが言う。
「うんとハイヒールの靴、買ってください。背が高くなるやつ」
「ええ覚悟や」
にやりと笑う真島さんに、わたしもぎこちなく頬笑み返す。




(やっぱり、しばらくはハイヒールで出勤しようかな?)
せっかく買ってもらえることになったのだし。


それを履いて、真島さんにわたしからキスすることができたら、いいな。




タクシーの前でわたしを待つ真島さんのもとへ急ぎながら、体を締め付ける硬い腕を、耳に触れる呼吸を、真島さんの微かなハッカのような匂いを思い浮かべて、息を止める。
あれが彼の単なる気まぐれだったとしてもいい。
抱きしめてくれたら、何もかも捨てて、あの背中に腕を回すことができるだろう。


ちゃん、はよおいで」


もう一度抱き寄せて、キスしてくれたら。
それだけで、ぜんぶ忘れて飛び込んでいける。