歓迎会は神室町の焼肉屋を貸し切って華々しく行われた。
あんなにたくさんのお肉を見るのは初めてだったし、それが一瞬でなくなってしまうのも驚かされた。わたしも負けずにしばらくお肉は食べたくないと思うくらい食べた。カルビもユッケもタン塩もおいしかったが、印象に残っているのは玉子スープのホッとする味わいだった。それに、デザートのシャーベットの優しい食感も、さっき食べたように思い出すことができる。
それから……「あんた、ここ坐りや。お誕生日席やで」と社長のとなりに坐ることになった上に、彼が焼き係をやってくれたことも。


「ほら、これ美味いで」
「はい。いただきます」
「これももうええな」
「……ん!?」
「なんや?火傷してもうたか?」
「いえ……すごくおいしくてびっくりして。」
「せやろ。せやけど熱いからな、気ぃ付けて食べや」
社長はカッカッカと笑った。
ドリンクも、食べるペースも、さり気なく様子を見て合わせてくれるし、ちょくちょく話しかけてくれるし──遠慮させない範囲で、当たり前のように世話を焼いてくれている。
なんて上手に気遣いできるんだろう。こんな滅茶苦茶な人なのに、もしかして苦労人だったりして。
ジュウジュウと肉の焼ける音と匂い、煙、煙草、がやがやと渦のように天井を包むざわめき。ビールのきりりとした味、テーブルに跳ねた脂をおしぼりで拭う真島社長。
なんだか、酔っぱらったような気分だった。歓迎会だという意識が薄れて、なぜこんなところで、こんな人たちに囲まれて、お酒を飲んでるんだっけ……なんて考えていた。


「ほんで、ちゃんよ」
「はい?」
「おまえ彼氏おるんか?」
「いません」
「なんや、つまらんのう。おっちゃんが誰か紹介したろか?」
「いや、いいです」
「これなんかどうや?ホレ、顔は悪ないやろ。これでも東城会の会長やっとるんやがな」
「結構です」
差し出されたスマホには、困った顔でこちらを眺めている男性の写真が写っていた。社長が無理やり撮ったのだろうと推測させる表情だった。だが、紹介云々は冗談だったらしく、彼はあっさりスマホを懐にしまい、きれいな箸遣いでホルモンを摘まんだ。
「惚れとる男でもおるんか?」
「……えっと、気になってる人なら」
ある意味気になっている人なら確かにいる。
なにせ、冗談で東城会の会長を紹介しようと言いだす人だ。とにかく、特定の誰かの存在を伝えたほうが波風が立たないだろう。それに、うそは言ってない。真島社長のことを、どんな人間なのかもっと観察したいと思っている。つまり気になっているのだから。
「ほう!ええやないか。どないなやつや?」
「内緒です」
「ほんなら、もっと仲ようなったら教えてくれ。応援するで!」
「はい」


とにかくたらふく御馳走になって、全員これからバッティングセンターに行くというのを何とか断って帰宅して……お風呂に入りながら、きょうの出来事を思い返した。
ぼんやりと微睡むような心地で、真島社長のことを考えていた。まず最初に、こわい人。部下をボコボコに殴る人で、喧嘩が大好きで、ヤクザで、きっとわたしの知らない犯罪めいたこともたくさんやっていて。
次に、優しいところもある人だ。少なくともわたしには優しい。部下があれだけ殴られても付き従っていくのだから、人間としての魅力もあるのだろう。
それに、すべてを見透かすような目をしている。達観したような、どこか遠い目。会社経営を楽しんでいるようで、それでいて、その会社をぶっ壊すことも厭わないような、なにか刹那的な印象がある。悲しいほどに享楽的というか。スリルを求めているけれど、それが手に入らなくて飽き飽きしているような。
彼は多くの一面を持っているが、そのいずれも奇妙なほど整合性があるのもまた事実だった。どこでなにをしていようと、一貫して彼はいつも彼らしくあるのだろう。
きっと、いい人なんかじゃない。
けれどもなにか、抗いがたい魔性を持っているのだ。






「社長ってふしぎな人ですね」
お弁当を食べ終えて、しみじみとそんな言葉が漏れる。傍らでは南さんも食事を終えて、週刊誌を眺めている。
「あ?親父か?」
「はい。南さんもなかなかふしぎですけど。」
「フッ。親父に惚れたらアカンで」
「なんでですか?」
蜜柑の皮を剥きながら、純粋な疑問をぶつけると、南さんはやっと雑誌からわたしに目を向けた。怪訝そうな表情をしている。
「なんでて、おまえまさか」
「いや、違いますけど。なんでかなぁって。職場恋愛禁止の規定でもあるんですか?」
「なんでもクソもあるかい。おまえのような堅気の小娘、親父が相手にするわけないやろが」
「真島社長、年上好みなんですか?」
「知るかっ。親父はなぁ、女なんか興味ないに決まっとる。あれだけの男や、おまえのようなモンとは格が違っとんねん」
「……。」
「あ?なんやねんその目は」
「いや……南さんが社長のこと大好きなことが伝わってきました」
「俺の親父やからな。そらぁ子ぉは親慕うもんや」
南さんが社長への思いをつらつらと機嫌よくしゃべっているのを聞きながら、わたしはまた蜜柑に手を伸ばした。仁義とか親子盃とか、任侠の世界は全くわからないけれど、よほど重要なものらしい。少なくとも南さんにとっては、誇りであり、矜持であり、彼の肩書なのだ。
それにしても、部下に“女なんか興味ない”と断言されるなんて。
社長ってもしかして女っ気まったくない人なのだろうか?俄かに信じがたいけれど。







「親父の奥さん?」
軽トラを運転中の西田さんに、信号待ちのタイミングで切り出してみる。西田さんはバックミラーで後続車に目をやりながら、「そんなもんおらんで」と断言した。
「そうなんですか。じゃあ彼女は?」
軽トラの中は、土木系の匂いがする。もうすぐ日が暮れる。西田さんの横顔が、夕暮れの水色と、赤信号の光と入り混じって、ほのかな紫を照らしていた。助手席に悠々と坐りながら、わたしはバッグの紐をいじっていた。バインダーに挟んだ領収書の始末をしたら、税理士に電話をしなければならないのだが、それがひどく億劫だとでも思いながら。
「知らんなあ。」
「へえー。」
「親父が惚れこむ女がおるとしたら、それは……」
そこで信号が変わって、車は丁寧に右折した。西田さんの声に耳を傾けながら、次の言葉を予測した。
「喧嘩の強い、マイクタイソン女にしたみたいなやつやろな」
「そうなんですね。喧嘩は必須条件なんですね」
「なんでそないなこと訊くん?」
「興味がありまして」
「興味ィ?親父に?やめとき、やめとき。ちゃん危ないで」
「社長みたいな人見たことなくて。単なる好奇心です」
「意外と恐いもん知らずやなぁ、ちゃん」
呆れたように西田さんが言う。しかしわたしは、自分を恐いもの知らずとは思わない。恐いものは恐いし、リスクは見極めている。社長がわたしに危害を加えることはないだろうという確信があった。
「あ……せや」
「なんですか?」
「いや、やっぱ、ちゃうか」
「え?なにがですか?」
「うーん……まあうちの親父に限って……いやな、前結婚してたらしいっちゅーうわさは本家の若衆から聞いたことあるなぁ」
「……」
「想像つかんわ。ただのうわさかもしれん。まあ人に歴史ありやしな」

「へー……」
想像つかんわ、と西田さんは言ったが、社長の大切なひと、という女性像ならば、すんなりと思い描けた。それは、決してマイクタイソン女版ではなく、線の細いきれいなひとであるような気がした。







「あ〜退屈やなあ、どっかにおもろいヤツおらんかいな〜」
というわけで、直接本人に訊いてみようと思った。無論、結婚歴などセンシティブな話題に触れるつもりはない。失礼にならない範囲に絞るつもりだ。しかし、本人を前にすると、そんな気はたちまち風のごとく吹き飛ばされていった。
社長はデスクに長い脚を載せて、子どもみたいに不満を訴えている。それによって周囲の組員が、一様に緊張している。大勢の人間が一斉に身構えているこの雰囲気に、わたしはゾッとしてしまった。皆、社長の無茶ぶりを恐れているのだ。
ここは、わたしが一肌脱いで彼の気を引く場面だ。


「社長。新作のゾンビ映画、取り寄せてまいりました。いかがでしょう」
「お〜。そこ置いといてや。」
「お茶をどうぞ。お疲れでしたら肩を揉みましょうか?」
「ええ、ええ。そないなこと、あんたにさせられんわ」
しっし、と手で追い払う仕草をして見せるが、本気で邪険にしているふうではない。もしかすると、女子供に格別甘い人なのかもしれない。そしてそこには下心というものが一切介在しないことも察した。自分が性的な目線を持たれているかどうかくらいはわかる。


「なんやおまえも暇しとんのか?」
「実はそうなんです。社長とお話したいなと」
「そうか。ほなまあ、お話しよか」
社長はデスクから軽い身のこなしでパイプベンチに移動する。どかっと坐り込んでから、となりのシートをポンと叩いた。
「ぼっと立ってんと坐り」
なんだか嬉しくなって、わたしはいわれたとおり隣に坐った。周囲の極道たちは、ほっとしたふうに銘々仕事に戻っていく。
かちっと音を立てて、たばこに火を灯し、深々と煙を吸い込んだ。その仕草、いくらでも眺めていられる。なにか絵になる、特別な情景に見えた。

「どや。最近は。いじめられとらんか?」
「皆さんとってもよくして下さいますよ」
「たまにゃ蹴ったってもええからな。西田とか喜ぶやろ」
「まさか。社長は最近どうなんですか?」
「俺かぁ?いまはデカい仕事もないからのぉ。体が鈍ってしゃーないわぁ」
明るい物言いと裏腹に、口許に陰りがある。本当に退屈なんだろうな、と思った。


「社長って……」
「ん?」
「あの。彼女……とか」
「あ?」
「彼女とか、いるんですか?」


ごく小声で、社長にだけ聞こえるように。そうしたはずなのに、その瞬間、プレハブ小屋の室内がしんと静まり返った気がした。息を殺したのは、わたしだけかも知れないけれど。
社長は幸いにも、殺気を醸し出してはいなかった。しかしわたしの質問はさぞ突飛であったらしく、眉が怪訝そうに歪められる。


「あんた好奇心旺盛やのう!」
「すごく気になってしまって。不躾にすみません」
「そないなことが気になんのか。まあ〜教えたってもええが……あんま誰彼構わず訊く内容やないなぁ。キャバ嬢やないんやから」
「キャバ嬢じゃなくても気になりますよ」


社長って、キャバとか行くんだな。行ってそうだけど、行ってないわけないけど、なんというか、ちょっと意外な気も確かにした。
ギラギラした世界にいる人だから、もちろん夜の街は彼にお似合いだ。
だからこそ、プライベートでは完全に電源を切るイメージがあったのかもしれない。
それでは、社長の女性関係はキャバクラとか、クラブとか、いわゆるネオン街の蝶みたいなタイプなんだろうか。まあ、わたしみたいなザ・OLみたいな感じではないのだろう。いずれにせよ、美しさも、度胸もある、気風のいい女性に違いない。


「どないしても気になるんやったら、俺の口を割らせてみたらどうや?」
初めて面白いものに出会ったみたいに、社長がにやりと笑う。
「うーん、そうですか」


なるほど、そう来たか。まさか色仕掛けは通用しまい。わたしのなかで色恋に興味のないランキング一位が社長、二位が南さんだ。女性としての切り札も使えないいま、社長を白状させる手段は限られてくる。わたしに度胸があれば拳でぶつかっていく手段もあろうが。
しかし、真に受けて検討しているわたしに、社長はもはや呆れ顔で手を振った。
「……考えてることが手に取るようにわかる娘やのう。可ぁ愛らしく“教えてくださ〜い”言うたらええだけやないかい。おまえ俺に殴りかかることも考えとったやろ?」
「一瞬考えはしましたが、さすがに実行には移しません。命が惜しいので。」
「ヒッヒ。ようわかっとるやないけ。んで、どうすんねや。可愛くおねだりすんねやったら、俺の口もゆるぅなるで」
「……。キャラじゃないので、いますぐには難しいです。いつかまた、チャレンジさせてください」


社長は、にやりとも、呆れ顔もしなかった。
ただ、喉の奥でくつくつ静かに笑った。
彼が普通に笑うと、それだけで雰囲気ががらりと変わる。
騒々しさや物々しさとは一転し、空気まで穏やかになる。目を奪う情景だから。
それほど、きれいな横顔だった。


「殴りかかってくるより難しそうに考えとるやないか。せやけど……気に入ったで。は、嘘のつけん子やなぁ」


かすれた低い声は、そっと響いて、しばらく鼓膜に残っていた。
社長の切れ長の瞳が、まばたきのあと、ふわっと細められる。
そのとき、社長の匂いがして、胸が詰まった。


あ、まずいな。
と思った。
わたし、社長のこと、好きになってしまいそう。