普通の建設会社の事務の仕事だと思ったら、社長が思いっきりヤクザだった。
「おう!こないカワイコちゃんなら、我が社の看板娘にうってつけやなぁ」
なんて言いながら近づいてくる真島社長の姿に圧倒されていたけれど、よく見たらここの社員全員その筋の人だ。フロント企業というやつなのだろう。
「ここの仕事はまぁ大変やがオモロいことばっかやで。あんた、頑張りや」
蛇に睨まれた蛙状態で肯くと、真島社長はずかずか歩いてどこかに行ってしまった。面接という段階をすっ飛ばして、西田さんが入社の証としてヘルメットを寄越してくる。
こうして足を踏み入れて10秒で正式採用が決まったらしい。いまだに蛇の睨みが解けないまま、わたしは呆然としていた。




真島建設はアットホームな職場環境を謳っているらしく、確かに社員同士の距離が近めだと思う。わたしという異分子がすぐに受け入れられたのがその証拠だ。喋ってみたら皆ぶっ飛んでるけど気のいい人ばかりだった。ドスを持って飛び出していく人とか、銃の手入れをしている人とか、物騒な行動が目につくこともあったが、基本的にはわたしの前では控えようとしてくれているらしい。「おっと、ちゃん、おったんか、すまんなぁ」なんて気遣ってくれる。
だが親玉にあたる真島社長はそうではなくて、血痕のついてボッコボコになった角材を持ち歩いていたり、社員に怒鳴り散らしてケツバットしたり、めちゃくちゃ過ぎて怖かった。怖かったけど、慣れた。慣れって怖い。


ある日、書類に不備を出してしまった。
これは気の抜けない職場だ、と生きてて一番本気を出して仕事していたのに、いつのまにか気の緩みが出てしまったのだろう。慣れた頃に事故を起こす、とよく言うが、この職場の場合社長の制裁に直結している。ついにこの日が来たか、恐れていたのに。
ちゃん、ちょっとこっち来なさい」
社長室という名のプレハブに、社長直々に呼び出されて覚悟を決めた。なるようにしかならないのだ。逃げて助かるわけもない。
「この不備、あんたが出したんやろ?西田のやつが、自分がやった言うてあんたのこと庇っとったが」
ブラインドの隙間を縫う陽射しを背景に、書類の束を指先でパラパラめくって、社長は険しい顔をしている。彼が坐ることの珍しいデスクの前で、わたしは直立不動で立っていた。
「はい……。わたしがやりました。以後気を付けます、申し訳ございません」
「自分が何やったかわかっとるか?」
「はい」
怒鳴られたらショック死する自信がある。目を閉じてその時を待っていたが、社長は「わかってんねやったらええわ」とあっさり言った。
「……」
「ほな仕事戻り」
「え、えぇ?いいんですか?」
ずっこけそうになりながら食いつくと、社長は怪訝そうに眉をひそめる。
「なんや?よくないんか?」
「いや、だって、わたし、てっきり殴られると思ってたんです」
「あぁ?」
社長はますます顔をしかめて、そのあとちょっとだけニヤリとした。笑うと口の端が驚くほど吊り上って怖すぎる。
「殴られる覚悟でここ来たんかいな。ええ度胸しとるやないけ」
だが、笑ったのは一瞬のことで、彼はすぐ真顔になった。真顔は真顔なんだけど、瞳が楽しそうに生き生きしている感じがする。
「人間誰しもミスする生きもんや。それに甘えんと自分で落とし前つけようっちゅう覚悟持てるやつァそうおらん。その根性、俺ァ買うたるで」
「!?」
──歯ァ食いしばれや」
「ギャー!!ちょっ……」


ゆっくり伸びてきた、革手袋の長い指。わたしのほっぺたを優しくつねった。


「お仕置きや。気ぃ済んだか?」
カラカラ笑いながら、社長はわたしを通りすぎて大股でどこかに行ってしまった。
社長室に、ミスした書類とほっぺたを抑える自分が取り残される。
彼の気配が完全に消えてから、わたしはデスクによろよろ寄りかかった。
胸がバクバクしている。怖すぎたし、死ぬかと思った。よかった……!!!
社長の指、ちょっとだけ煙草の匂いがしたなぁ……。革手袋がひんやりしていたな。
だんだん顔を触られたことにドキドキしてきた。優しい感触だったから。社長は脅かすように不気味な真顔で手を伸ばしてきたけれど、つねった瞬間は既に、優しい顔になっていた。
痛みは全くなかったのに、指先のいたずらな感触が、ずっと頬を熱くしていた。
いやいや、ドキドキするような相手じゃないのに……。深呼吸して、気を引き締めて外に出る。
西田さんが、社長に蹴られたらしくお尻を抑えて悶絶していた。




*




社長は基本的に現場で監督しているけれど、ふっと姿を消したり、一週間出社しなかったりする。このところ姿を見ないなと思ったら、なんと顔を見せなかっただけでずっと社長室にいたということもあったし、神出鬼没でたびたび驚かされる。まさに鬼神のようないでたちだし。
しかし彼がここにいないとき、果たしてどこでなにをしているのかは考えないようにしていた。知らなくてもいいことが世の中にはあるのだ。
、親父知らんか?」
南さんに声を掛けられて、わたしは社長は社長室にいる旨を伝えた。さっき確かに、社長室のソファで寝ていたのを見たからだ。
「親父寝てんのか、ほうか……」
「お急ぎなら、起きてこられたときに伝言しますよ」
「お、頼めるか?」
「メモに書きますね」
「あー、そうやなぁ、まず出だしは、for親父殿」
「え……?forいります?」
「ほんでな、この辺、薔薇とドクロのイラスト入れてくれ」
「こうですか」
「おっ、ええやないか!ほんで、この文字入れてくれや。枠は黒く塗りつぶしてな」
「はい」
「地獄の番犬っちゅー意味らしい!俺みたいやろ?」
「そうですね」


メモを書き終わり、南さんが満足して出ていったのを見届けてから、30分ほど経ったであろうか。社長は相変わらず社長室から出てこない。急ぎの案件と南さんは言っていたし、もしかしたら一声掛けたほうがよいのだろうか。考えあぐねていたが、とりあえずお茶を淹れて持っていく体で様子を伺うことにした。
玉露とメモの載った盆を手に、扉に声を掛けるが返事はない。どうしよう、なんだか急にすごくドキドキしてきた。社長は、絶対にいる。この中にいる。彼の存在を示す不穏なオーラが、扉ごしにもわたしを不安にさせているのだ。


かちゃ……と扉は押すだけで簡単に開いた。
中から、ひやりとした空気が漂ってくる。革張りのソファに、社長が横になっている姿が見えた。ローテーブルの灰皿に、煙草が数本転がっている。彼の手許には、金属バットが立てかけられていた。
「……」
息を殺しながら、そっと近づいて、テーブルにお茶とメモを置く。まだ一息つくのは早い。音を立てないように注意して……気配を感じさせないように立ち去らなければ。
しかし、好奇心が顔を出してしまった。見ないように、見ないようにと意識していたのに、つい、ちらとその寝顔を見てしまったのだ。
微かに眉間に皺を寄せて、ただ目を閉じているだけのような乱れのない顔で、彼は眠っていた。
長い睫毛が、つややかに目蓋を縁どって、彫りの深い顔立ちに華やかに映えている。一度も日に焼けたことがなさそうな生白い肌に、コントラストの鮮やかな黒い髪と眉、赤いくちびる。
なんだろうこの人。めちゃくちゃな人なのにこんなに顔は美人で、なんだかもう圧倒された。彼は、その風体と性格がインパクト大きいから、顔なんてまともに視界に入ってこなかったけれど、なんでこんなに美人なんだろう。美人である必要なんてまったくないのに、本当に無駄に美人だ。


「……!」
びくっと自分の身体が竦んだ。
社長の隻眼が、突然クワッと開いて、わたしを射抜いたので。
「なんや、ちゃんかい……おっちゃんの寝込みなんか襲ったら危ないで」
低い声がため息交じりに響く。なんだかぞわっとした。
「いえ……すみません、よく寝ていらっしゃるから、お声を掛けてよいものかと」
「……ん?これは」
「南さんから、お急ぎのご様子で言付かったメモです」
「なんやこのヘッタクソな絵は。あいつ、歌もイマイチやが絵はもっとひどいのう!なんやこれは?豚の絵か?」
「ドクロですよ……描いたのわたしです……」
「……。」
社長はメモを眺めながら、よう見たら味わいがあるのう……なんて呟いている。
わたしは気分を害していたが、しかし社長のとぼけた様子が可笑しくもあった。それで笑っていると、社長が起き掛けの気だるそうな様子のまま、わたしを眺めて……うっすら微笑した。


「あんた、笑ったらカワエエなぁ。」
「え?」
「笑っとるとこ初めて見たわ」
「そ……そうですか?」
「おぉ。むさ苦しい極道に囲まれて縮こまっとったやろ?ようやく慣れてきたんとちゃうか?」
「……そうですね、そうかもしれません」
「あんたが頑張っとるのは知ってるで。なんや困ったことあったら俺に言いや」
「はい」
「こないな絵の注文されたときとか、な」


くちびるの端を歪めて、社長は目を細める。
わたしは、男の人がこんなに綺麗に笑うのを初めて見た。
懐の深さ、というものを感じたのかもしれない。とにかく彼が、酸いも甘いも知った大人の男であり……本当にわたしが困ったとき、頼りになる度量があるのだと安心できる、そんな優しさを見た気がした。
「はい。ありがとうございます。でも、イラストは別に嫌だったわけじゃないのでいいですよ」
「そうか、好きでやったんか……そのわりに独特の作風やな」
「……ヘタで悪かったですね」
「ほんでもこんだけ堂々と描く度胸があんねんから、あんた真島組の気風持っとるっちゅうことや」
「……」
そんなに言うほどヘタじゃないだろうと思うが、わたしはなにも言わなかった。
玉露の甘い匂いが、湯呑からやわやわと漂っている。社長はメモを握ったまま、玉露を一息に飲み干して立ちあがった。並んで立つと、背が異様に高くてびっくりする。


「それはそうと。ちゃん、今夜あたりヒマか?」


──えっ?!」


「メシいこうや。ええ店あんねん」
「え……?!えーと」
え!?二人で?
いや、それは……とアワアワしているわたしをよそに、社長は続けて言う。


「パーッと歓迎会するで。きょうは都合悪いんか?」
「あ、……、あ、歓迎会ですか。大丈夫です。」
よっしゃ、と呟いて、大きな切れ長の瞳で天井を仰いだ。
「仕事終わったら大勢で繰り出すとしよかァ」
「はい、ありがとうございます。楽しみにしてます」


社長はわたしの肩をぽんと叩いて、横目でわたしを眺めながら、ゆっくり通りすぎた。「お腹、空かしときや」と言って、ヘルメットをかぶって、颯爽と現場に向かって出ていった。
なんだ、歓迎会か……とほっと安堵のため息をつく。なんだってなんだ、ガッカリしたわけでもないのに──だけど焦った、口説かれてるのかと勘違いしてしまった。
湯呑を盆に回収して、自分も社長室を後にする。給湯室に向かってテクテク歩きながら、ふと、もしも、と思った。思ってしまった。


……もしも口説かれていたのだったら、わたしは、なんて答えていたのだろうって。
付いていくのだろうか?いやぁ、さすがにそれはないなぁ。ヤクザのおじさんと二人でとか、色んな意味で危ないし。まあ、そもそも社長は女性に不自由していないだろう。きっといっぱい、彼の傍には、色んな女の人が。
……ザー、とシンクで湯呑を洗いながら、ふと、自分が猫背になっていることに気がついた。
あれ……わたし、やっぱりガッカリしてる?