真島さんの口説き文句をかわしたり聞き流したりしながら、それでも、もし本当にこの人の女になったら、どうなるのだろうとずっと思っていた。 奪われてしまったのは、体が先か、心が先だったか。記憶がおぼろげであっても、時がいくら流れようと、真島さん自身に変化はない。 いつも、まるで初めて体を重ねたときのような激しさで抱いてくれる。 その後の横顔が好きだった。腕枕をしてくれながら、黙って窓べの夜を眺めている。恐ろしいほど自分は彼にのめり込んでいる──そんな自覚をもたらす、静かだが、深くて熱い闇を思わせる横顔なのだ。 「寝られんのかいな」 天井に向かってまばたきをしていると、わたしを抱き寄せながら真島さんが、ふと口を開いた。さっきまで窓を見つめていた隻眼が、こちらに向いている。 いつも真島さんは、夜が明ける前に、眠っているわたしを置いてひとり、素肌に蛇革のジャケットを羽織って出ていってしまう──そんな彼の姿を思い描くと、胸がちくりと痛くなる。そんなことをまざまざと考えていると、眠れなくなっていた。 「うん、ちょっと」 「なんや?雨が降ろうが槍が降ろうが、いつも口開けて爆睡しとる女が」 「え?口開いてるのわたし」 「おう、たまにワシが閉じたっとるくらい開けとるで」 「えー!うそでしょ!?」 真島さんは喉の奥で低く笑って、「どっちやろな」と意地悪な顔をする。それで、わたしはもうこの話題には乗らないと決心した。わたしの寝顔がどうかなんて、自分じゃわからないのだから分が悪い。 「……真島さんこそ、寝ないの?」 「まだ子どもの寝る時間や。眠うないわ」 「真島さんの寝顔って、あんまり見たことないかも」 「その前にが寝とるからやろ」 「まあ、そうなんだけど。いつもどこで寝てるの?」 「ここか、事務所か、それか……」 布団から出した長い指を下りながら、彼はすこし間を置く。嫌な予感がして、わたしも黙った。 「他の女のとこや」 「そんなの絶対いないじゃん」 「絶対?ヘッ!甘ァく見られたもんや。ほな賭けるか?」 「いいよ、500円ね」 「なんや、その信用しとんのかしてないんか半端な額は」 ばさっ、と掛け布団が宙を舞い、真島さんがわたしに圧し掛かってくる。 薄闇の中、鮮やかな刺青が視界に残像を刻む。青、赤、白、蛇、桜……その極彩色が皮膚の伸展に応じてゆらゆらと揺れているようだ。こわくて、恐ろしくて、それで、とても美しい。 その刺青がわたしの身体を呑みこむ錯覚に襲われる。行為の最中に見ることがある……この人が肉食の獣となる瞬間を。激しい快感が見せる幻なのだろうか。 「なあ……なんで顔隠すねん。……こっち向けや」 シーツに顔を押し付けていると、ぐいっと頬を掴んで仰向けにされる。 「おまえの顔見るとなぁ、こっちゃたまらんのや」 冗談のたぐいかと思いきや、真島さんは口角を吊り上げ、目のあたりに恍惚の気色を浮かべている。きっと彼にとって喧嘩と性は同じ衝動なのだろう。抱かれていると、殺されている、と思ったことが、幾度となくあった。まるでねっとりと捕食されているかのようなのだ。 その顔で、歪んだ笑みで、熱を帯びた視線で、激しく子宮を突き上げられている。朦朧とする意識の中、彼の狂気が垣間見えた。 * 「真島さん」 「ん……」 「あのね……」 「なんや」 布団の中で裸で寄り添って、考え事をしている。 それぞれの状況、それぞれの考え方。わたしと真島さんは別々の人間だから、一緒にいても別々のことを考える。 わたしは真島さんをわかりたいとは全く思わないけれど、ずっと一緒にいたいと願った。 「もっぺん欲しくなったんか?」 くすぐるように彼のくちびるが、きわどいところに触れてくる。違う違う、と身をよじって逃げて、布団の中でしばらく二人でドタバタしていた。 シーツの洗剤の匂いの奥に、真島さんの髪のスッとする匂いがする。真島さんは目を伏せている。 もしもうひとつ目があったら、どうなっていたのだろう。笑ってしまうほど端正な顔立ちに、ひとつだけしかない瞳。切れ長の、目が合うだけで怪我しそうな好戦的な瞳が、もし双眸揃っていたなら──わたしは、いまの真島さんが好きだな、と思った。彼が美しいのは、容貌の話ではなくて、その火花の散るような生き方によるものなのだろう。隻眼は、その象徴なのだ。 「そういうわけじゃなくて」 「おう」 「……」 下を見ると、自分の足はすっぽり布団にくるまっているが、真島さんの足がはみ出している。 血色の乏しい白い足を眺めながら、わたしは、いやだなぁ、と思った。 焦点をすこし遠くにやると、いつも不吉な予感が迫ってくる。 まるで影のように、隙を見せるとその思考に囚われてしまう。 いつか突然、真島さんが死んでしまうという予感。 初めて会ったときから、ずっと感じてた。 きっといつか真島さんは、鮮やかな生き様を散らして、いなくなってしまう。 わたしがゆっくり眠っているあいだや、のんきにお風呂に入っているあいだに、なんの予感ももたらさず、満足のいく死に場所を見つけてしまう。 そして彼の死を、数日たったニュースで報道されてから初めて知るのだ。 その日を、きょうではないか、あすではないか、と毎日想像しつづけている。 「どうした?」 ときおり、標準語みたいなイントネーションで、低く彼は言う。こんなふうにわたしを覗きこみながら。 どこにもいかないで、 ずっとそばにいて、 わたしのことだけを見てて、 そんな、夢みたいな言葉が思い浮かぶ。 そんなこと、言えるわけがない。あぶくのように消えてしまう、なんの価値もない願望だ。それを真島さんに求めるほど愚直にはなれない。真島さんを困らせたくないし、ええで、と嘘をつかれたくないし、すまんな、と謝られたくもない。 だから、言わない。黙っていることが、唯一意地を張れる手段だった。 「ううん。ね、なんかお腹すかない?」 「あ?なんや、ええ運動しすぎたかぁ?」 「あーはいはい。それより、どっかお店行こうよ」 「ほな神室町でパッとやるか」 「パッとはしなくていいよ、ふつうでいいよ」 「注文の多い娘やのう……」 簡単に身支度を整えてアパートを出ると、まだ10月だというのに真冬の匂いがした。 ひやっとした空気を吸い込んで、気づけば真島さんの鼻がちょっとだけ赤い。 雨が降ったらしく、アスファルトは鏡のように街灯を照り返している。吐く息が白くて楽しい。 「なに食べようかな?」 「好きなもん食うたらええ」 ふっと洩れた一笑が、白くけぶってすぐに消えた。 高いところにある彼の隻眼が、わたしをじっと見つめている。 彼の瞳に映った街灯の光が、実際のそれよりも鋭い。 「……おまえのや」 突然、革手袋をした親指で、真島さんはなにかをぴしっと弾いた。 それは、きれいな弧を描いてわたしの手の中に落ちてきた。 銀色のメダル──ではなく、500円硬貨。 何の変哲もない、だけど真島さんの体温をほのかに残している。 「え?なに、これ」 「忘れたんか?賭けたやろ」 「……」 「おまえの、勝ちや」 すぐにそっぽ向く、遠い横顔。 (あ……他に女がいるとか、どうとか言ってたっけ) 手の中の500円玉を握りしめると、なにか、じわりと胸があたたかい。 真島さんに他に女の人がいるなんて、微塵も疑ったことはない。仮にそうだとしてもわたしには関係ないことだ。 その事実よりも、それを伝えようとしてくれた気持が嬉しかった。素直じゃない方法だけど。 「ありがとう。おまもりにしようかな」 「ふん……」 「ふふふ」 「なに笑てんねん」 「だって、嬉しいんだもの」 真島さんの袖を引っ張ると、大きな手がぬっと手首を掴んでくれた。……それなのに黙りこんでいる、不機嫌そうな横顔。微かな、真島さんの体温。 この何気ない日常的な夜を、後々になってきっと思い出すのだろう。 いつか、真島さんは本当にわたしを置いていなくなってしまう。そのことを否定したり、彼の生き方を捻じ曲げようとしたくはない。わたしはわたしで、真島さんは真島さんだからだ。 尊重するということは、ほのかな諦めを要する。過度に執着せず、信用し見守るということだ。 彼がそうしてくれているように、わたしも彼を尊重したい。 神室町までまだすこし遠い。 濡れた道は暗闇に紛れて、先が見えないけれど、強引な手が引っ張ってくれている。 幸せで、胸が痛いな。愛しくて、苦しくなる。 この痛みと苦しみがもうすこし、ほんのすこしだけでも、長く続くことを願った。 |