真島社長は、誰に対しても笑いかけるし、なんだかんだ優しい。
顔を近づけてからかうけれど、体に触れることはない。こわいことを言って見せるけど、それも彼なりの注意なのだ。社長は女の人に対してはぜんぶそうで、わたしにもそうで、他意など全然なくて。この人のことを好きになったらきっと不幸になる、とわたしは思っていた。
社長が優しくて、怒りっぽくて、危なくて、兄のようにからかって笑いかけてくるとき、わたしは、なんだか泣きたい気持になった。
そのたび自分の未来を予知できたからである。
きっと一生忘れられなくて、一生憧れていて、だけど、一生苦しいままだろうって。




*




ちゃん。なんや酔うてんのか』
お風呂上りに電話に出ると、社長は開口一番にそう言った。彼の声の後ろから、パチンコ店のじゃらじゃらとうるさい雑音や、通行人が彼に対して怯えたのであろう「ひっ」という声などが、いっぺんに聞こえてきた。神室町の天下一通りを大股で闊歩している彼の姿を思い浮かべながら、化粧台に坐って携帯を握りなおす。鏡に映ったわたし、たしかに酔っぱらっているみたい。
「違いますよ、お風呂入ってたんです」
『ほぉ、ほないまアパートか』
アパート、という発音にいやに関西風のアクセントをつけながら、彼が言う。
「はい。社長はどうしてます?」
『俺なぁ、いまあんたのアパートの近くにおんねや。夜桜がどうやとか言うとったやろ?』
わたしは、驚いて目を見開いた。きのう、近所で桜のライトアップが……と話したことを、彼は覚えていたのだ。そのとき彼は──ほお、そらええやないか、ほんなら行くかもしれん──としれっと言ってたけれど、まさか本当に来るとは思わなかった。だが、考えてみれば社長が社交辞令を口にする人ではないってことくらい、わかりきっていたことではないか。
「そうなんですか?じゃあわたしも行きましょうか」
『ほな、アパートまで迎えに行くわ。あと十五分で着く』
「わかりました、ではのちほど」
『ああ』


通話の途切れる音を聞いて、携帯を置いて、深呼吸をひとつ。髪を急いで乾かして、肌色や眉の形を薄化粧で整えて、さっき磨いた歯をもう一度磨いて、リップクリームを塗った。湯上りのやわらかい皮膚に、肌触りのいい服を纏い、ばたばたと支度を済ませると、十五分経っていた。その瞬間、携帯のバイブが作動する。社長からのメールだった。“ついた”の三文字だけが、ぶっきらぼうにあの人の来訪を伝えてくれている。
玄関の扉を開けると、はたしてそのとおり、彼は立っていた。アパートの塀をはみ出た、長身の肩と頭。夜の住宅街にたたずむその姿に、わたしは、わかっていたはずなのに驚いてしまう。
まさか社長が、ほんとうに、わたしの家まで来るとは。思ってもみなかった。この瞬間、実際にこの光景を目にするまでは。
なにかのまぼろしじゃないかって。


階段を駆け下りて近づいていくと、夜風にのって、ふわりと紫煙のかけらが鼻孔をくすぐった。彼はうつむき、たばこをくゆらせていた。赤々と燃えるたばこの光が、彼の白い顔と、くちびるの血色とを、ぼうっと照らしていた。
「急に付き合わせてもうたなぁ」
と彼はゆっくり言う。その声を聞き、切れ長の三白眼に一瞥されたとき、これがまぼろしではないことを知った。
わたしは、なんだか、自分が突然情けなくなってきた。わたしと彼が対等な関係でないことを、まざまざと思い知ったからである。……これは社長の気まぐれなんだから。わたしは、なにも考えず、付き合いのよい小娘をただ演じていればよいのだ。ひとりであれこれ考えて、期待したり、やきもきしたりするのは、相手が社長では、疲れてしまうだけなのだ。他の男が相手ならば、期待も失望も、生活のうるおいになるだろう。経験にもなろう。だが、社長ではいけない。社長の思考回路なんて、わたしに読めるわけないし。考えれば考えるだけ、疑惑の中に取り残されて、苦悩し、溺れてしまうだけに違いない。フラットな気持でいなければ。
ドキドキしてもいいけれど、見返りを求めてはいけない。
これは、完全に片想い。


「社長、花見なんてするんですね」
「おう、するで。行事と自然は大切にする主義や」
「宴会が好きなだけじゃないんですか?」
「おお?それやったら、いまから宴会や言うたら付き合うてくれんのかいな」
「えっ、それはちょっと。」
「冗談や。たまには静かに、あんたみたいな人と花ぁ見たなってなぁ」
社長はくちびるに薄笑いを浮かべてそう言う。あんたみたいな人──わたしみたいな人。わたしみたいな人って、どういう人なんだろう。そして彼には、わたしみたいな人がいっぱいいるんだろうなぁ……ふと考えて、かぶりを振るう。


街道は紺色の暗闇に包まれていた。白い街灯の光が、つやのある夜空を照りかえしている。住宅街を歩いているうちは、家々のテレビや電気の光、音声や、お風呂の気配などが、しとしとと伝わってきていた。
だが、それもいまは過去のものとなった。社長とふたり、ひとけのない夜道を歩いている。
アパートのまえでは長かった彼のたばこも、いまは半分まで短くなっていた。社長はそれを道に放って、尖った革靴の底で揉み消した。


「もうすぐか?」
「はい。もうちょっとですよ」
「けっこうひとけのない道やないの」
「はい。昼間はそれはすごい人なんですけどね」
「ほお。ライトアップいうたらもっと人が集まってそうなもんやけどなぁ」
「こっちからは裏手なので。またいで大通りからいくと、混雑してるかと思います」


社長は、聞いているのかいないのかよくわからない、どこか気だるげな横顔で、まえを見据えていた。
彼が黙りこむと、わたしの意識も、すうっと薄れて、ただそばにいることに満たされているような、平和な安らぎを感じることができた。社長の沈黙には、そのような作用があった。彼はいまなにを考えているのだろうなんて、全然考えなかった。沈黙の中に深い憩いがあることに、わたしは感謝していた。
暴れて返り血をつけている彼、ゾンビ映画を観て笑っている彼、自由奔放で大胆な彼、それらをわたしは見てきているけれども、沈黙を守るときの横顔が、一番、彼の本質が見えるときなのではないか、と思う。
そうしてそこに居合わせていることを、嬉しく思う。知り合ったばかりのころは、彼のこうした一面は、全然みることができなかった。だから、胸が苦しい、けれども、しあわせに思う。


やがて、東の方角に、紫に霞む桜の一房が、漆喰塗の塀からはみ出ているのが見えてきた。
直線を描いた光が、夜空に向かって淡く弱々しく伸びている。その光を吸って、桜は、本来の色よりも濃く、紫の雲みたいに、夜空の中に浮いていた。それがあまりに湿っぽく、あでやかなので、まるで大輪の花のように、強い芳香をもっているのではないかと錯覚させるが、匂いといえば、社長のたばこの匂いがそよと香っただけだった。
社長は、「おお!きたなあ!」といって、おそろしいほどに口角を吊り上げた。


「これやこれ。これが見た〜なったんや」
「社長のお気に召してよかったです」
「くぅ〜たまらんのう。酒と喧嘩の匂いまでしてきよる。あの塀の中はお祭り騒ぎやろうか?」
「えーと、まあそうでしょうね」
やっぱり、それが目当てだったかぁ。
肩をすくめたい気持が半分、そしてやっぱり、社長はそうでなくっちゃなという気持が半分。
このまま夜桜をみたら、相手がいれば喧嘩があって、そのあとはきっとお酒を飲みにいって、気づいたら西田さんたちが駆り出されていて、あの地獄のマラソンのようなカラオケがあって……そんなことを想定できる。
突然社長は、急ぐでもなく、立ち止まった。
「?」と思いながら、彼の横顔を見上げて凍りついた。社長、めちゃくちゃこわい顔してる……。ニヤニヤ歯を見せて笑いながら、目をらんらんとさせて、うろうろと塀の外を歩き始める。獲物は中にある、じっくり頃合いを見計らおう……とでもいうように。サバンナの飢えた肉食獣だ……もちろん獲物はわたしではない。柄が悪く喧嘩の強いおっさんが、社長の狙いなのだ。


「社長。顔、こわいです」
「そうか?顔に出とったか?いや〜テンションが上がってしもてのう」
「通報される顔でしたよ」
「うっさい!きょうは大人しいしとる気分やし安心せえ」
「そうなんですか?」
「おぉ。言うたやろ、静かにと花見する気分やて」


ちら、と社長を見上げると、ご機嫌に微笑する彼の、それは端正な横顔がある。白い横顔ごしに広がった、燃えるような夜桜が、社長の持つオーラみたいだ。
わたしは、きゅっと締めつけられるような苦しさを感じる。苦しくて、じわ〜っと熱くて、ほのかに痛くて、でも、それが気持いい。
この苦しさが一生つづくなら、一生片想いのままならば、それはそれでしあわせだろう。すくなくとも社長がそばにいない虚無の毎日よりは、ずっと。


「なんやええ匂いがしてるわ」
「タコ焼き屋さんが来てるみたいですね」
「ちゃうわ!どないなデリカシーしとんねん」
「はい?」
「自分の匂いのことに決まっとるやないか」
「へ?わたし?」
「風呂上りなんやろ。桜に匂いがついとったら、こないな感じなんやろなぁ」


ぬっと顔が下がってきた……と思ったら、つむじのあたりに鼻を突っ込まれて、ギャッと叫びそうになる。わたしが赤くなって慌てていると、社長はからかうようにヒヒッと笑った。


「ほな行くで」
「……はい」
ポケットに手を突っ込んで、彼がわたしに肘を向けてくる。
ふしぎに思ってその肘をよけると、じろりと横目で睨まれた。
「ほれ。つかまっとらんかい」
肘を左右に動かしながら。


わたしが面食らいつつも、そっと肘に手を伸ばすと……社長が歩き始めたので、引きずられるようにわたしも歩いた。
つかまっとらんかいって……腕を組んでもいいっていうことだろうか。
おずおずと伸ばした手を、彼の手首に這わせて──自分の腕と彼の腕を絡ませる。
真島社長はもう夜桜のことに夢中で、腕の所在など気にしていなさそうだ。塀の中に入ると、人々がライトアップされた景観を楽しんでいる。社長の蛇革のジャケットのひんやりざらざらした感触、その下にある彼の体温。桜吹雪が舞って、わたしは急いで目を閉じた。目を開けると、そこにある、社長のまじめな瞳。ひらひら舞い落ちる、ちいさな桜模様。
「どないした?」と思いのほか優しい声を掛けられる。


「なんやちゃん、黙りこくって」
……社長、くちびるに桜がついてます。
でも、
なんだか似合っているから、もったいない気がして、まだ伝える気になれない。


「……いいえ。べつに」
「変なやつ」
社長がふっと笑った。桜のいたずらが可笑しくて、取ってあげるのも楽しみで。わたしも笑った。しあわせな片想いだと、うれしくて笑った。