「こないなアホは初めて見たわ」 正面から聞こえる暗闇の中で真島さんの声。 桐生さんと思われる喉の奥で笑うような声が、柄本先生の器具を片づける音と衣擦れの音と共に聞こえてくる。 「大事ないが、あすの朝にもう一度往診に来よう。それまで包帯を取らないようにな」 丁寧に巻かれた包帯の下にあるわたしの両目が、何度もぴくぴくとひきつった。 「はい……柄本先生、ありがとうございました」 自分の声が思ったより弱々しくて、気分まで落ち込んでくる。柄本先生の白衣が翻るのは想像できるが、いま、桐生さんと真島さんが何をしているのか、どんな顔をしているのか、わたしにはわからない。 「ああ。しかし、今夜は目が遣えないから、階段などには近寄らないほうがいいだろう。なるべくじっと坐っているんだ」 「はい。」 「身の回りを世話をしてくれるひとは?」 「えっと……」と口籠る。入院なんて大げさなことはいやだが、わたしは生憎一人暮らしだ。 返答しかねていると、桐生さんが、「俺も真島の兄さんもいるし、大丈夫だ」と低い声で言ったのが聞こえた。 「桐生はともかく、真島がいるとなると余計に心配だが」 「うっさい」と真島さんが不機嫌そうに呟くかたわらで、桐生さんが「遥を呼んで来よう。女同士でいれば楽だろう」と言う。 「そうか。なら、まあ、大丈夫だろう」 これで話は纏まった。あすの朝、十時に来ると言い残した柄本先生に頭を下げていると、真島さんに「そっちは壁や」と意地悪く言われて、気まずくなる。 「しっかし、催涙スプレーを自分に浴びせるたぁなァ」 「らしいな」 「アホや。間抜けや。」 「ふふ。鈍臭くないとは言えないな」 「アホに凶器持たしたら何しよるかわっからんの」 「危うく俺たちが浴びせられていたかもしれなかった」 「………面目ないです」とわたしが縮こまって言う。 眼球をがっつり洗浄されたが、まだ包帯の下の両目はうずうずと痛むし、涙っぽい。 あした柄本先生に包帯を解かれたとき、きっと目やにだらけなのだろうと思うと気が重い。 それにしても…… 桐生さんが笑ってくれているから救いはあるものの、真島さんがさっきからトゲトゲしていて申し訳がない。きっと、すごく、思っている以上に迷惑なのに違いなかった。 わたしのせいで、今夜はここに足止めを食うことになったのだ。 「あの、真島さん」 と声を絞り出すと、桐生さんの声が返ってきた。 「兄さんなら、いま出かけて行った。どうしたんだ?」 「え、あ、ううん。そうなんだ。」 何の音も気配もなく、いつの間に……と驚いたが、内心、ちょっと安心もしていた。 そっか、真島さん……わたしのせいでここに留まる、なんてことをしないひとでよかった。罪悪感から解放されることができる。 ため息をついて、肩の力を抜くと、桐生さんが毛布をそっと体に掛けてくれた。 「すこし眠っておくといい。遥にここへ来るよう連絡しておいた。もう少ししたら来れるそうだ」 「あ、うん。桐生さん、ごめんね。遥ちゃんにまで迷惑かけて……」 「気にすることはない。なにか、食べるものを買ってくる」 桐生さんが、口元だけの男性らしい、柔和な微笑を浮かべる姿が見えるような気がした。 「うん、ありがとう」 「十分ほどかかる。大丈夫か?」 「うん。大丈夫」 「そうか。なにかあったら、これを。メモリを呼び出してあるから、ボタンを押せば俺に電話がつながる」 電話の子機を握らされる。わたしはもう一度お礼を言い、きっと、優しい顔をしているであろう桐生さんにお辞儀した。 「それじゃ、行ってくる」 「うん。」 こつ、こつ、こつ、 カチャ、 パタン。 扉の閉まった向こうで、さらに小さな足音が、遠ざかっていき、やがてなにも聞こえなくなった。 わたしはため息をついて、そっと体を横たえる。 硬い革張りのソファはひんやりしていて、幾分か熱を持った顔に心地よい。桐生さんの掛けてくれた毛布に包まって、包帯の下の目をすこし開けてみる。ずきっと刺すような痛みがして、慌ててもう一度目を閉じた。 たぶん、腫れている感じはしないので、時間が経てば自然と治癒されるだろう。武器の整備なんて面白そうだなあ、と好奇心から顔を出して、こうやって馬鹿を見たわけだが、同じ轍は二度と踏まないのがわたしだ。もう二度とやらないし、催涙スプレーなんて、絶対に触ったりしない。 (……あ、やばい、ちょっとトイレ行きたいかも……) あまり考えないようにしつつ、たぶんあと三十分ほどもしたら、尿意が確かなものになっていそうだ。 遥ちゃん、それまでに顔出してくれるといいなぁ……。 ……………。 ため息が出る。 目が見えないというのは、思った以上に不便だ。 たった一日のことで、しかもわたしには幸い桐生さんや遥ちゃんという世話をしてくれるひとがいるから、じっと坐っていればいいだけのことなのに、物理的にというだけではなく心理的にもものすごく疲労を感じる。 いま何時なのかわからないし、自分の髪がどんなに乱れていて、どんな服を着ているかもあまりよくわかっていない。 こういうときは、眠ってやり過ごすに限る。 ゆうべ、遅くまで漫画を読んでいてよかった。 眠気が、呼びこまずとも自ずとわたしに入ってくる。 うとうとして、顎がカクンと落ちるたびに目を開けそうになるのを繰り返していると、ずっと奥で、鉄扉が、ギィ、と開く音が聞こえた。 ………こつ、こつ、こつ、 カチャ、 パタン。 誰かが入ってくる音。かさかさ、とビニル袋のこすれる音がして、わたしは、横たわったまま、痛む目をすこし開ける。 包帯越しに、黒が滲んで透ける。さっきは照明で白っぽかった視界が、いまは、ただの暗闇しか見えなかった。ということは、いまは電気がついていないのだ。 桐生さんに違いない。人が戻ってきたことに安心して、けれども眠くて体を起こすのがつらくて、じっとしたまま「おかえりなさい」とわたしが言う。 かさ、とビニル袋をテーブルに置く音がした。 そして、こつ、こつ、こつ。と足音が、こちらにやってくる。 ぎし、とわたしの横たわるソファの背もたれに手を掛ける音、そして、わたしの顔を覗き込む気配がした。 (………あ) 外の匂いが、した。 顔の前に、誰かの体温、浅い呼吸の気配がする。 顔を背けず、じっとしていると、ぎしっとソファが音を立てて。 くちびるにやわらかくくちびるが触れた。 鼻先がわたしの鼻筋に当たる。 そのひとが、わたしの肩を抱き起し、くちびるにくちびるを寄せたまま、ため息を吐いた。 相手の手が、わたしの肋骨に触れる。そのままするりと背中に回され、大きな掌で、上半身をしっかりと支えられて、わたしは安心してそれに体重をかける。 心地よいしっとりしたキス。 彼のくちびるがわたしのくちびるを何度も優しく挟むので、わたしも、同じことをやり返した。 わたしからの反応に昂ったのか、背中を支えていた腕が、ぎゅっとわたしの体を締め付ける。 あたたかい腕の中で、目が痛むのも忘れて、口付けが音もなく交わされる。 ぎりぎりのところで、遠慮がちになって、舌を入れない、そんな、探るような感触。 心が幸福で満たされていくのを感じながら、せっぷんするくちびるの隙間から、熱い吐息が漏れる。 そして、感極まって、彼の名前をつぶやいた──「桐生さん……。」 一瞬間をおいて、くちびるが、さっとわたしから離れた。 わたしを抱きしめる腕も、力を失くして、ひんやりとした外気の中にわたしの体を離した。 ぎし、と音がして、相手が、ソファから下りたのも、振動と共に伝わってくる。 いったい、どうしたのだろう? なぜ急にキスをやめたのだろう? なんだかすごく嫌な予感がして、心臓がばくばくと騒ぎはじめる。 張り詰めた空気の中、無言の“彼”が、大変狼狽しているのが、なんだか、目に見えるような気がした……はっと息をのむ、微かな聴覚をくすぐる音がしたから。 「……すまん、」 一言。 低い声がそう告げたのが聞こえた。 すまん。 その声………ひどく聞き覚えのある声。 まさか、そんな……と顔が強張るが、いま、わたしのまえで、なにがどうなっているのか、まったくわからない。 だが、たぶん、“彼”は黙ってわたしを見ているのだろう。わたしが狼狽しているのを見て、思うところがあるのだろう。 桐生さんではないその声……。 すまんという謝罪の意味。 がたんと音がした。“彼”が、一歩後ずさりして、テーブルにぶつかったらしかった。こつん、と踵を翻す音。 かつかつかつ、ガチャ。 バタン。 かつかつかつかつかつ……… 大変な早歩きで、その音が部屋を出て行った。 やがて、何も聞こえなくなり、完全に静寂が、あたりを覆ったことを知る。 掌にじわりと冷たい汗が流れるし、すっかり気が動転して、けれども立ち上がって部屋をうろつきまわることもできなくて。 じっと坐っていたら、背中を掻きまわす感触と、強く吸い込まなければわからないほどささやかなハッカのような匂いが、またわたしを抱きしめる。 ずれ落ちた毛布を手繰り寄せて、頭からそれを覆うとしたが、横と縦が反対で、どこが角っこかもわからなくて、何度かやり直して。 あたりはしんと静まり返っているのに、自分の心臓がどくどくと脈打っていて、その音がわたしの敏感になりがちな耳を占領している。 “すまん、” 真島さん………だ、とわたしは思った。 真島さんに違いなかった。 真島さんにキスされたのだ、わたしは。今も生々しく体中を包んだ、腕の感触、指が骨を探るように背中をすべり、熱に浮かされたようなキスをした、その相手が、真島さんだったのだ。 どうして、とわたしは思った。 どうして真島さんがわたしにキスをしたのか、 途中でやめたのはなぜだったのか、 どうして、まるで、真島さんが傷ついたみたいに、去っていったのか。 あの謝罪は、どういう意味だったのか。 (だって、わかるわけないじゃない) 目が見えないんだから。 わたしは、桐生さんのくちびるの感触も知らないし。 ましてや、真島さんが、あんなに情熱的で、でもためらいがちにキスする人だったなんて、知らなかった。 目が痛いな、と思った。目が痛くて、見えなくて、不便だから、こんなことになってしまったのだ。 真島さんじゃなければよかったのに。 あのキスをしたひとが、真島さん以外だったら誰でもよかった。 真島さんじゃなければ、こんなに胸が痛むことはなかった。 第三者に、わたしの桐生さんへの気持を知られてしまったことにただ落ち込んでいればいいだけだったのに。 それに。こんなにくちびるが、肩や背中が、真島さんの触れていったところが、痛むこともなかった。 “すまん”という声を受け入れた耳も。 彼の吐息を吸い込んだ胸も。 痛い。 真島さん……桐生さんに間違われて、どう思っただろう。 もし彼がとても傷ついた顔をしていて、もしわたしがそれを見ることができていたら、そのときはきっと、この痛みが、こんなものでは済まなかっただろう、とわたしは思った。 真島さんのくちびる、鼻筋、瞳、頬、肩、シルエット、歩くときのくせ。 見えなくてもこんなに覚えているのに、彼がどんな顔でわたしにキスしたのか、どんな顔で謝ったのか、ちっとも想像することができない。 どうしてキスしたのか、謝ったのか、去っていったのか。 教えてほしいけど、知ったらもっと、この痛みが深手を負ってしまう。 |