「待って。真島さん、戻りましょうよ」
「べつに付いてこんでええって」
ざくざくと早歩きで砂浜を行ってしまう姿が、どんどん遠ざかっていく。
夜の波は墨のように漆黒で、白い半月のある風景は完全にモノクロームだ。前を歩く浴衣を纏った真島さんの後姿も、濃い影に包まれていて、その輪郭線だけを、月光の白に照らしている。
風が出ている。旅館の突っかけを履いて追いかけてきたので、砂が混じって足の裏が痛い。
追いかけて、その名前を呼んだら止まってくれるのではないか、と思ったが、真島さんが歩を緩める気配もなくて。わたしは髪を振り乱して、必死に追いかけているけれども、脚の長さの違いからか、真島さんが砂の上をまるでアスファルトの上にいるかのように難なく歩いているからなのか、全然追いつける気がしない。
前髪の下の額に汗を感じて、もう一度「真島さん」と呼ぶと、掠れた喉がひゅう、と音を立てる。
ざぶん。
波が、大きく砂浜を打った。


「なんやなんか用か」
ようやく真島さんが立ち止まってくれたのは、それからすぐのことだった。
砂浜の遊泳場もほとんど中腹に差し掛かっており、振り返ると、自分と真島さんの下駄の足跡が、ずっと奥にある旅館の中庭から伸びている。
まだ、あの中庭に面した広場で、極道のひとたちがワイワイ騒いでいるのだろうが、その歓声は、波の音に呑まれてここまでは雑音になってしまう。
かと思えば、ワハハハと一際大きな笑い声が、こんなところにまで響いてきた。
「チッ、あれうちの組のモンやな。」
「南さんですかね?」
「あいつの土壇場なる前に誰かどついて止めてくれんかな」
「ふふ……それは真島さんの仕事です。あー、いい気持」
「……」


海のみなもを滑って通る風が、わたしの髪と浴衣の袂をばたばたと揺らしていった。旅館を出たときはむっとしたように感じられた潮の匂いも、いまは鼻が慣れて、海水の持つ独特の重たさや迫力も、感じられなくなっている。丁度、湖でも眺めているような気分だった。
海、というものは、もっとうるさくて、もっとくどいものな印象があるが、いまは暗闇に包まれて、その規模を判別しかねる。
ひとが誰もいない、というせいもあるだろう。


「真島さん、街に行くんですか?旅館戻らないんですか?」
「あぁ。ちいと気晴らしにな」
「暴れに行くんじゃないでしょうね?」
「アホ、いらん心配や。」
「わたしも行きたいな。ご一緒して付き合ってもいいですか?」
「帰りぃや。あんた、そない恰好で街にゃ行けんやろ」
「温泉街ですもの、旅館の浴衣は正装みたいなもんです。真島さんも同じ恰好じゃないですか」
「男と女はなぁ、ちゃうねん」
退屈そうな顔が、白い月光に照らされる。
腕を組んで、すこし黙っているこのひとの顔を見上げながら、わたしは、このひとが宴会の席を抜け出したがるなんて何事だろう、と考えていた。
少なくとも今までは一度もこんなことはなかった。一番大騒ぎしていたし、今夜も、みんなが飲みすぎて出来上がるまではそのように見えた。
わたしにだけは盃の矛先が向けられなかったので、比較的しゃんとしているけれども、あの旅館の宴会場の現在の形相はひどいものだ。寝てつぶれてるひとか、まだ飲んでくだをまいているか、その両パターンに捉われてしまった。


「外にお酒飲みに行くんですか?」
「おう、まあそんなとこや」
「真島さんが消えちゃったら、真島組のひと、ハメ外し過ぎちゃうかも。」
「なんかあったら東山のせいやな。躾がなっとらんねん」
「その東山さんならもうぐでぐでに酔いつぶれてましたよ。真島さんが飲ませすぎるから」
「極道が下戸じゃ舐められてしまいや。ま、あんたみたいなお姫様には関係ないがな」
「お姫様って……なんですかそれ」
「フン」
お姫様。だなんて、生まれて初めて称されて、わたしは露骨に戸惑いを覚える。
それが、突き放すような言葉に感じられたから。決して、わたしを誉める言葉ではなくて、どちらかといえば嘲笑するような意味を含んでいるような気がして。


どん、と波が波にぶつかり合い、砕ける音がした。
夜の暗さに目が慣れて、真島さんの顔がさっきよりもよく見える。何一つ高い建物もないこの風景で、月光が、分け隔てなくすべてを照らしているのだ。
砂浜はゆるい傾斜になっていて、遊泳場のぐるりを囲む旅館や民宿の照明が、植え込みの奥で星のまたたきのように微かに輝いている。
すぐそこにひとがたくさんいるのに、まっすぐ走って建物の中に入れば誰かに必ず鉢合うのに、わたしと真島さんのいる歪曲を描く波打ち際は、誰も侵入できない、密室のように思われた。
それは、わたしと真島さんの気配が誰にも気づかれないのに反し、わたしたち以外の笑い声などが、こちらには聞こえてくるからだろう。


すこしの沈黙の後、真島さんがふらりと歩き出した。
さっきわたしを置いていったときと同じで、また追いかけなければならないのかという焦りに駆られで、ふたたび小走りでその足跡を踏む。
「真島さん、飲みに行くならわたしも連れてってください。付き合います」
「ひっつこいひとやなぁ、べつに飲みに行くて決めたわけやない」
はぁ、と息切れしそうなわたしが、真島さんに追いついて、顔を上げたとき、あ、違う、と思った。
追いついたのではなく、彼が、わたしを待っていたのだった。その顔の端正な暗い右目が、冷たくわたしを見下ろしていた。
「じゃ、どこに?」
「憂さ晴らしに行くだけや」
「暴れに行くんですか?」
「ちゃうて。旅のエチケットはわきまえとんで。あんた、なんや、止めに来てんのか」
「違いますよ。でも、宴会に戻っても酔っ払いさんに絡まれるだけだし」
「あんたに?そないな不逞の輩おんのかいな。かなんなぁ……」
そう言って、声のトーンを高くした柔軟な関西弁が、なんだか、いつも知っている真島さんだったから、わたしはほっとした。
さっきまで、ちょっとこわくて、冷たいな、と思っていたから。
「でも戻り」
「えー……」
「部屋帰って鍵かけてテレビでも観とけばええ。あしたも早いんやしな」
「真島さんひとりで行くのずるいですよ。美味しいもの食べに行くんでしょ?」
「悪いことは言わん。戻ったほうがええで」
真島さんが、ふ、と笑ったくちびるが、すぐに無表情になるのが見えた。
彼は、腕まくりしていた袂を下ろして、腕を組んで、体をかがめた。
しなやかな半身が、ぐっと下がって、白い顔がすぐわたしの顔の前に現れた。


「………」


びっくりして目を閉じている間に、顔は離れて行った。
目を開けると、真島さんが、もう体をまっすぐにして、腕を組んだまま右側に視線をやっていた。
何事もなく、わたしの鼻筋に重なった鼻筋、くちびるに触れたくちびるの感触だけを置いて。
波の音が、さわさわと聞こえてくる。
心を奪われて、ぼうっとその音に意識を漂わせていると、真島さんが、「あぁ、」と短い声を漏らした。その声のくちびるが、もう一度わたしにキスをする。
目を閉じて受け入れたキスが、一度ついばんだら、海風に乾いていたくちびるが、湿り気と熱を帯びた。
真島さんの手が、わたしの肩を掴んで、そのままぐいっと抱き寄せられる。
体が大きく揺れたことに驚いて、キスしながら目を開けると、真島さんの伏せられた長い睫毛の目蓋があって、胸がじんじんとした。真島さんとキスしている、という現実が、とたんにわたしの中に認識されたのだ。
真島さんを好きだな、と思う腕で、彼の浴衣の腕にもつれかかる。硬い張り詰めた筋肉が、わたしの手の下でぐうっと動くのを感じた。


「ええなぁ」と真島さんは言った。
眉を寄せて、口元だけに笑みだけ浮かべて、その顔に、わたしは彼が興奮したら、こういう顔をするんだ、と思った。
その顔、まえにも見たことがある。
闘技場に行くとき、軍議のあとや、桐生さんに会いに行くとき、……そしていま。


真島さんの鼻孔を抜けた息から、甘い匂いがした。日本酒の匂いだ。真島さん、お酒をたくさん飲んでいたけれど、抱き寄せた体が熱に浮かされた肌をしているわけではなかった。
こうして触れてみて、ほんとにうわばみなんだなあ、と実感する。
あんなに飲んでいたのに、その生白い肌はいつもと同じだ。
お酒のそのままの匂いのするキスに、わたしのほうが酔っぱらってしまいそうだった。
だらしなく着た浴衣の襟ぐりから、派手な桜と白蛇の刺青が覗く。筋肉の凹凸のある皮膚に描かれたその鮮やかな色彩が、月光と海の景色の中で、ひときわ目立った。
くちびるが離れ、真島さんがわたしの首筋に顔をうずめた。こそばゆいところに、息や、くちびるが掛かって、浴衣の下の汗ばんだ皮膚にぞわりと鳥肌が立つ。
汗をかいた手で、くすぐったいくちびるから首を庇おうとしたら、強引な左手が振りほどいて、わたしのお尻をぐうっと握った。
その手の大きさに息が止まる。体に触れられたときの感覚で、改めて思った。このひとが好きなのだと。ずっと一緒にいたいのだと。
「真島さ……ん」
甘い声が漏れる。
縋るようにその白い首にしがみ付いたとき、彼の手が、ぴくと止まった。


「………」
視線を感じて顔を上げると、真島さんが、無言でわたしを見つめていた。


「………真島さん」
その瞳を見て、とても不安になる。
彼の中に湧き上がった興奮が、いまは消え去り、冷たい水が湛えられているようだったから。


「………悪い、萎えた」
「……」
心臓が、凍りついた。その目を見ていたら。
「あんたこないなとこおったらあかん。はよ帰り」


「……──
言葉を失ってじっとしているわたしの体から手を離して、真島さんは、その手をひらひらと揺すって見せた。
おどけたみたいな顔で笑っているけれど、瞳が、もうすっかり冷めきってしまったんだなあとはっきりと示している。
その瞳が、もうわたしには興味を失くしてしまったことを。
「ちいと飲んだら戻ってくる。安心せえ暴れたりせんから」
言葉を失くして佇むわたしに背を向けて、真島さんが歩き出す。乱れた浴衣の裾と袂を、風にばたばたと揺られながら。


まだ、胸がぎゅうっと痛くて、体が冷水を浴びたようにぎしぎしに強張っていて、動くことができない。すこしずつ、真島さんが遠ざかってしまうことは、わかっているのだけれど、この状況でほんとに去っていかれるとは、わたしは、信じたくなかった。
どうして行ってしまうのだろう。わたしのなにがいけなかったんだろう、と淀んだ頭の中でぐるぐる考えるが、答えが出てくるわけもない。
しがみついたから駄目だったのだろうか?
それとも、最初からそんなつもりはなくて。からかっただけだったのか………。


必死にその背中を見ていたら、なんだか、強張り続けた自分の体から、力が抜けて、そのまま崩れ落ちそうになった。
ずっとずっと、そばで見ていた背中。
追いかけ続けていこうって決めていた。真島さんが素っ気なくても、手を振りほどかれても、わたしには妙に他人行儀でも。ずっと、ずうっと追いかけていこうって。
でももう、無理。もう、わたし歩けない。


……と言うか。こんな恥ずかしい目にあって、なんということだろうとわたしは思った。どうして、こんなひどいことをするのだろう。
鬼、馬鹿、とだんだん腹が立ってきて、遠ざかる背中に睨みかける。
ちゃぷ、と波の音がした。この波に、全部、洗われればいいのに、とわたしは思った。
さっきのキスも、抱擁も、全部、なかったことにしてしまえられればいいのに。
まだくちびるがひりひりするような、強く擦れあった感触と熱と。息遣いが、こんなにも残っている。
わたしがここで真島さんに行かないで、と思っても、真島さんの鬼、と恨んでも、真島さんにはひとつも届かない。
真島さん、真島吾朗、ばか。大嫌いだ。
ほんとにすぐ嫌いになれればいいのに。


(……)


(………ばかはわたしだな)


ため息を漏らして、乱れた浴衣を整える。
潮気を含んだ重い夜の風が、髪や顔の肌に吹きすさんで、くちびるや体に残った熱を冷やしていく。
自然と、かーっと熱くなった恥ずかしさや怒りも、小さくしぼんでしまった。
そうなったら、体にぐっと感じた疲労感も消えていった。まだまだ追いかけていけるなと思った。


旅館に戻ろうなんて、微塵も思わなかった。
いつもならすごすごと帰っているのだろうけれど、でも、もうなんでもいいや。あんな恥ずかしいことをされて、責任とれ!……とは言えないが、もうこわいものなんてない。
ここで帰ったら、きっとまた、お姫様、と馬鹿にされるのだろうから。


「真島さん、待ってください」
そんなに時間はたっていないはずなのに、真島さんの姿はだいぶ遠くまで行ってしまっていた。
夜風に髪を巻かれながら。いくつかの波が足元に掛かるのを越え、ざくざくと走って追って、その背中に荒々しく声をかける。
「あぁ?……あんたほんま、ひっつこいのう……」


じろりと振り向いた眼帯の横顔に、うっと言葉に詰まって、後悔する。
追いかけてやるという気もすぐに吹っ飛んで、いつものわたしに逆戻りした。
彼の、鼻筋の向こうの右目がまばたいた。
長い睫毛の影が、月光の下に伸びている。
「……ご、ごめんなさい。」
「なんで謝るんや?」
「だって、ヒツコイって……。」
「ハン、謝るんやったら最初っからせんかったらええねん」


月にふと雲が掛かって、鋭かった光が夜に滲む。
見上げた真島さんの顔も、よく見えなくなった。
「でも、追いかけなきゃ気まずいじゃないですか」
だが、彼が、にやりと笑った気がした。


「まあええか。あーもうどーでもええなぁ帰ろか」
「え?飲みに行かないんですか?」
「もうええわ」
「え、旅館戻るんですか?」
呆れたような、怒ったような、それでいて笑っている顔に、わたしは露骨に戸惑った。
「あんたみたいなお姫様連れて飲みなんか行けるかいな。帰って宴会仕切り直しや」


あ……また。わたしは、そう言われるのだ。名前も呼ばないくせに。
あんたあんた、お姫様お姫様って。
だが、今度は、なんだか優しい気がする。もう、侮蔑的な感じではないような。
ぼんやりしているわたしに、「とろとろすんな」と真島さんが言う。
慌てて、来た道を振り返る。長い波打ち際を、二人ぶんの足跡が続いている。一人ぶんは、足跡ともつかない、下手な歩き方でぐしゃぐしゃな窪みになっているだけなのだけども。
ひらひら揺れる真島さんの袂に、そっと手を伸ばしてみたら、どんな顔をするのだろう、とわたしは思った。
すこし先を歩くこのひとの腕に触れてみたら。
一緒に帰ってくれるという真島さんの腕ならば、許されるのではないだろうか。


「………真島さん」
「あー?」
指で、そっとその左腕の袂を掴んで、手繰り寄せる。
真島さんの、鈍い月光を浴びた、右目に浮かぶささやかな光が、ちらっと揺れた。
キスをされたときと別の感覚のどきどきが胸を打つ。慣れないことに指が震える。でも、赤くなっていても、汗をかいていても、この暗闇の中、厚手の綿の浴衣越しでは伝わらないだろう。
「………」
眉間にしわを寄せて、どうというわけでもなさそうに、わたしの動向を眺める真島さんの腕を、ぐっと力を込めて抱きしめる。振りほどかれないように、満身の力を込めて。
「余計歩きにくないか?」
「大丈夫です。足場が悪くって。つかまっててもいいですか」
自分の顔が緊張で強張るのがわかる。
……お願いだから断らないで。これで断られたら、さっきより落ち込んでしまう。


わたしの頭よりも高い位置にあるところから、ふんと鼻で笑う気配がした。
無言でも、容認されたような気がして。嬉しい。


腕に腕をからめて、自分の体を見下ろしながら、真島さんの歩く振動によろめきつつ歩いていたら、なんだか、温泉の、石けんの、そのような匂いが顔の前に触れる。
さっき抱きしめられて、キスされたときにはしなかった。


「真島組の連中は悪化しとんのやろか」
「真島さんが仕切ったらまた威勢を取り戻すんじゃないですか?さっきぐだぐだでしたけど」
「ほおお。ま、いっちょあのアホども盛り上げたるか。あんたも飲み直しやで」
「え!?わ、わたしは遠慮しておきます……。」
「付き合う言うてたやないかい。女に二言はないやろな?」
「えー、だって、そんなー……。どうして皆さん飲ませたがるんです?南さんもわたしに飲めぇって絡んできてましたよ。水を日本酒のふりして飲んだら信じてくれましたけど」
「アホやなあいつ」
「逆に、西田さんには、お酒くださいって言ったらオレンジジュース渡されましたよ。わたし途中までカシスオレンジだと思って飲んで酔ったつもりになってました。でもあれって、西田さんの気遣いですよね。優しいなあ」
「フン、ちゃんの天然が出よったなァ。西田のボケもいらん気ィまわしよって」


ニヤ、と笑うこわい顔を見上げたら、名前を呼ばれていて。
それだけのことがとても嬉しくて、頬が緩んだ。
わたしのことを呼ぶ“ちゃん”という声。ほんとに久しぶりに聞いた気がする。
もう一度呼んでほしいけれども、なんて言えばいいのだろう?
名前を呼んで、なんて言っても、きっと、怪訝な顔をされるだけに違いない。


「自分眠そうやな」
「え?」
「眠そうやなって」
「誰がですか?」
「あんたや!ほかにだぁれがおんねん」
「ふふ……あんたって、わたし?」
「ア〜?まぁた天然かいな!そや、あんたやあんた。」


ちゃんや。
という声が、強い波のざぶりという音と重なって、耳に届いた。
旅館まで、まだ距離がある。
振り向いたら、行ったり来たりをした砂浜のふたりの足跡が、途中から横並びに続いているのが見えた。
キスよりも、抱擁よりも嬉しい出来事が、この光景に全部詰まっている。
波の音と、真島さんのわたしを呼ぶ声を反芻していたら、そうしたらもう一度聞こえた気がして、穏やかな吐息がくちびるの隙間からこぼれ落ちた。