「………なんやおかしい思てたわ」


真島さんが、ベッドに坐って、はぁ、とため息をついた。
まだびっくりして、体が硬直したままなのを感じながら、わたしは、真島さんの足元のカーペットに坐る。思った以上の気まずさに、舌が引っ込んでしまったような気がした。
それに、真島さん自体が、すごく遠くに感じられる。
時計を見ると、二十時を少し過ぎたころだった。不採用の通知を受け取ったのは十九時前だったから、あれから一時間ほどしか経過していないのに、なんという状況の変化であろう。
あんなに落ち込んだ不採用の結果も、いまは、なんの影響も持たない、ただの紙切れでしかなかった。
そのあと起きた出来事が、わたしには事件過ぎたのだ。


「あの……真島さん、ひどいこと言ってごめんなさい」
「あーもうええ」
あほらしわ!と手を一度振って見せる真島さんは、ほんとにもう気にしてなさそうだったので、ほっとする。
けれど。
気持を知られて、こんなにだるそうな顔をされるなんて……と悲しくなる。
でも、彼の気持を想像するのはそう難しいことではない。このひとが、部下の妹、しかも子どものころから世話を焼いてきたわたしからの好意に、戸惑ったり面倒に思うのは当然のことだ。
絶対にこいつだけはありえない、と思う相手から好かれても、迷惑でしかないだろう。
わたしの場合に置き換えてみれば、例えば実の兄から告白されるようなものかもしれない……想像するだけでオエッとなるし、真島さんにとっては、ちょうどそれにあたるのかもしれない。
もしそうだったら、“二度と来ないで”と言い放ったこと以上に、彼にストレスを与えてしまうことになる。


「真島さん……ごめんなさい」
「ええて。」
「いや、そのことじゃなくて。……その。好きになっちゃって。」
壁に目をやっていた真島さんが、ベッドに坐ってから初めてわたしを見た。
彫りの深い瞳、薄い目蓋、刻み込まれたくま、こけた頬。
大好きだなぁと思った姿も、いまは、知らないひとみたいに怖く感じる。
まるで十年前、初めて会ったときのように。
兄の後ろから、脅えながら見上げたときのように。
「なんも謝ることはないわ」
「………。でも、真島さん、もうここには来ないでしょ?」
「………」


ここに来なくなったら、それが一番つらいな、とわたしは思った。
真島さんを嫌な気持にさせてしまうことより、真島さんがわたしを嫌うことより、ここに来なくなってしまう、永遠に二人きりになることがなくなってしまう、と考えると背筋が凍るようだ。
真島さんに無理やり見せられたゾンビ映画より、どんな都市伝説より、それが一番恐ろしい。
二度と会えなくなる、と言うことはおそらくないだろう。
真島組とわたしたち兄妹の関係がまるで家族ぐるみのような雰囲気なのは周知のことだし、集まりなんかでおさんどんに駆り出されて、少なくとも遠目にこのひとを見ることくらいはできよう。
でも、この部屋に眠りに来る真島さんや、安心しきって膝に頭を載せる真島さんや、軽口をたたく真島さん、突然ゲラゲラ笑いだす真島さん、アイスクリームを持って入ってくる真島さんには、会えなくなる。


そんなのは、つらすぎる。とても、耐えられない。
そんなのは、卒業できないことよりも、就職できないことよりも。
真島さんに最愛の彼女がいることより、ずっとずっとつらいことだ。


「そんなん言うてへんやろ。泣くなや、泣き虫やのぉ」
「………、泣いてないけどね。」
「ええからはよここ坐れ!」
泣いてはいないけれども、蒼褪めて涙目にはなっている、多分。
真島さんが、ぱんと自分の隣であるシーツを叩いたので、わたしは、一瞬、呆然として立ち尽くしてしまった。
隣に坐れ、なんて想定外の命令だった。真正面に坐って、お説教とかなら、まだわからないでもないけれど。血の気の引いた自分の頬に熱がともるのを感じる。なんて忙しい顔色だろう。
おずおずと近寄って、ベッドの端に、少し離れて坐る。
自分の心の平静のために、少しの距離感は必要だ。会えなくなるのは死ぬほどいやなくせに、ぴったりくっ付いて坐る勇気もない。
「………ハァー。で、なんやねん、は俺にどないしてほしいんや。ええ、言うてみい」
「え?ど、どないしてって……」
…………。
真島さんにしてほしいこと。
髪を撫でたり、顔に触れたり、意味もなく見つめたり、………あのヴィヴィアンの女の子に許していることを、わたしにも、させてほしい。
しかし、このあとお説教タイムが待っているかと思うと、あまり迂闊なことは答えられない。
けれども、少なくとも、真島さんが変に気を回して、ここを避ける、と言う選択肢はなくなったように思われた。わたしには、いまは、それだけで十分に感じられる。
嫌わないで、避けないで、いままでどおりにしてて。
でも、きっと、数日したら、もっとよくばりになっている。


「……、……」
押し黙るわたしに呆れたような顔で、真島さんが言う。
「なァ?なんもないんか。」
「…………」
「惚れとったらいろいろあるやろ?付き合うてくれとか、いっぺん寝てくれとか、旅行いけとか」
「………全部。」
「んん?」
「全部、して」
押し黙った後なので、なんだか変な具合に声が出る。
全部、付き合うとか、一緒に寝るとか、旅行とか、提案されたら、全部してほしくなった。
もちろん、断られて、叱られるのはわかっているけど。
「そのうちの全部して」
全部してほしいし、わたしだけ見てて。
嫌なら諦めるけど。言ってみるだけは許されるなら。
「……えぇ根性しとる」
真島さんが微かに笑う。黒い瞳に宿る光が、呆れによるものか、好奇心によるものか、わたしにはわからないけれど。


「せやけどなァ、俺には、いま突然を女として見ることはできへん」
「………うん」
「我が子とまでは言わんが、ま、親戚くらいには思うとる」
「………うん」
ぽろりと落ちた涙は、悲しみによるものと言うよりも、抑えて抑えていた感情が蓋から漏れ出てしまって、感極まったためによる、生理現象のようなものだった。
真島さんが、わたしのことを女のひととして見てないことくらい、百も承知なことなので、それほどショックではない。そのくらいのことは想定内だ。
それでもいい。付き合うなんて、夢の中の話なことくらい、わたしだってわかる、もう大人なんだから。
それでもいいから、傍にいてほしい。
ほかに女の子がいてもいいから。


「それでもええ言うんやったら、ええで」
真島さんが、脚を組んで、その膝に手を置く。
涙を拭いながら、わたしがきょとんとしていると、彼はその膝に置いた手を、わたしの髪にやった。革手袋のしなやかな指が、わたしの髪を梳く。
「ええって。」
「なにが……。」
「全部、やったるわ」
の望むこと、全部。
そう言った。


すばやく真島さんの上半身が動いて、わたしの顔の前に、真島さんの顔が現れる。
驚くことも忘れてぼうっとしているくちびるに、彼のくちびるが音を立てて、ちゅっと触れた。


「……え……」
互いの顔に互いの影が伸びるほどの近い距離で、彼の表情のない顔、目だけぎらぎらしたそれが、もう一度近づいた。
こんどは、くちびるが触れず、彼の長い舌が、ぺろりとわたしのくちびるの真ん中を舐めて、離れていった。
まるで味見したみたいに。


「…………えええええ?」
こ、腰が抜けそうなんですけど。
驚愕して、体に血液がどくどくと大わらわで巡りはじめる。心臓がばくばくしているし、顔が熱いし、真島さんは真面目な顔をしているし。
え、いま、キスされた ……の?どうして……。

「え、なに?」
「おまえ、男とこないなことしたことあんのか?」
「ないです。」
いまなら、なんでも自供してしまいそうな精神状態なので、馬鹿正直に答えてしまう。
真島さんは、わたしが前に“もしわたしが彼氏いたことないって言ったら、引くんだろうなー”と想像した通り、うんざりした顔で、そぉか……と言った。
だって、ずっと好きなひとがいたから。そのひとのことを想い続けているのに、どうしてほかの男のひととキスなんてできるだろう?
「めんどい女やのォ、おまえは……手間かかるし世話焼けるし、おまけに生娘かい」
「すみません……だって、しょうがないでしょ、相手がいないんだから」
「“だってぇ〜しょぉがないでしょぉ”ちゃうわ、アホ。ぼーっとしとるからや」
「声真似しないでよ。」
「ハァ……。。おまえに女を感じんのはいつなるやろなァ。いまは、犬にでもチューしとる気分や」
「……」
真っ赤な顔のまま、じっとしているわたしに、真島さんがふと笑う。
「幸せか?」
「……ん。」
「そぉか、ならよかった」


顔を離した真島さんが、優しそうに笑ったので、あ……と思った。
胸がちくりとした。
十年前のことを思い出したからだ。兄の陰に隠れてこそこそしてるわたしに、真島さんがニヤニヤして“嬢ちゃん、おっちゃんが案内したる、こっち来てみい”と言ったこと。
両親を失って、よるべない子どもであったわたしと兄を元気づけてくれた、あの真島さんと、いまキスしてわたしを見ている真島さんが、同じだったから。
同じ顔で笑ってる。


「……ほな、寝るか」
「え、寝る?あ、じゃわたし……」
そういえば、不採用とかでゴタゴタしていたけれど、元をただせば、彼はうちに寝にきたのだった。
ふと我に返って、ベッドから下りようとしたわたしの手を、あの革手袋の手が掴む。
「一緒に寝るで。そうしたいんやろ」
「え……でもわたしまだ眠くない」
「アホな娘やのォ〜。頭が痛なるわ。ええ、そこで待っとれ、電気消す」
ベッドから起き上がった彼が、いつもそうするように豆電球だけを残して照明を落とす。
たちまちあたりがセピア色に包まれる。真島さんの肌はより白く、髪や瞳はより黒く、茶色っぽい照明に包まれた彼が、振り返ってベッドに坐るわたしを見た。
「それ、そこ寝ろや」
「え。あ、うん??」
「大の字なんなって。俺も入れてくれ。せっまいベッドやのォ……」
「ギャアア……!!なんで脱いでんの?!」
「そら彼女と寝んのに遠慮はいらんやろ、俺は本来全裸で寝る派や」
「ヒイイ、ち、近寄んないで!!」
「ハア……黙っとれ」


異様なほど素早く衣類を脱ぎ払って、真島さんがほんとにモロに全裸で、ベッドに入ってくる。
壁にくっ付いて、なるべく体が接触しないように、出来る限り縮こまっているわたしを、後ろから「もっとこっちに来てみい」と腕が伸びてくる。
手袋をしていない、剥き出しの手が、わたしの首に触れ、肩を抱き、髪を撫でた。
「寝るで。」
「………」
。……」
ぷっ、くくく、と噴き出す声と振動が、薄手の掛布団を伝って感じられる。真島さんが笑っているのだ。たぶんわたしが震えているからだろう。
「ほんま、可愛いやっちゃ。ええ?取って喰われる思てんのか?」
「………そういうわけじゃないけど」
「まあそのうち慣れるやろ。こっち向けって」
「……うう……」
震えながら、そっと寝返りを打って、壁側から真島さん側に体を向ける。わたしの頭の下に腕を通して、もう片方の腕でわたしの肩を抱いた彼の、にやけた顔がすぐ目の前にあって、目がちかちかした。
睫毛が長くて、鼻筋、くちびるが整っているから。目が、こわいから。なぜか笑っているから。
ドキドキしながら、もう一方では、どこか冷静に坐りこんでいるわたしがいる。
さっき、真島さんは“犬にでもチューしとる気分”と言ったけれど、いまも、そうなのだろうとわたしは思った。震えて、どきどきして、こわがりつつ期待しているわたし…なんて馬鹿なのだろう。
飼い犬だから優しくする。頭を撫でて、キスして、悪いことをしたらその手を引いてやる。大人しくしていたらご褒美をやる……。
わたしはずっとそうだったのだ、と思った。真島さんにとって、わたしは、犬と同じであるに違いない。弱っていて、癇癪を起しているから、こうして宥めてくれているのだ。
「………」
それに、あのヴィヴィアンの女の子。
あの女の子みたいに、扱ってもらうには、どうすればいいのだろう?
──このあいだ、一緒にいた女の子、彼女なの?」
「あぁ?」
「泰平通りで。わたしを見かけたって、言ってたでしょ、あのとき一緒にいた女の子。誰なの」
「……覚えとらん。おったかァそないな女」
「全身ヴィヴィアンの女の子だよ」
「さァ、道でも訊かれたんちゃうか?」
「……この世に真島さんしかいない限り、真島さんに道を訊くひとはいないと思うけど。」
「フン……の心配せなならんような相手やないって」
もうそれ以上言うな、と言わんばかりに、くちびるを塞がれる。
ん、と驚いてくちびるを引っ込めるわたしに、執拗なくちびるが口元を奪いに来る。
頭を抑えられているため、逃れることができなくて、舌が捻じ込んできたとき、「んー!!」と声を出して抗議したけれど、それが、留まることはなかった。
口の中をつるっとした舌が滑って、器用に、わたしの舌に絡まってくる。もがいて、顔を離すと、舌から逃れることはできたが、くちびるは触れたままだった。


キスしたまま目をそっと開けると、目を開けたままの真島さんの右目を目が合う。
何か考えているみたいな、そういう、遠い目をしていた。
「……あ。」
と、真島さんが言う。
「?」
「………その気になったわ」
「ん?……」
ちゃん」
「え……!?」
甘えたような腕が、わたしの腰に回され、彼のくちびるが、わたしの耳や首筋に触れる。横向きになっていたわたしの体を仰向けにして、彼は、わたしの腰の上で跨ってきた。
「え、ちょ、ちょっとなに?」
「しー。大人しいしとったら痛ないって」
「はい!?」
「静かに天井のシミでも数えとけ」
「え……っ??」
て、天井にシミなんてないけど……と思いつつ馬鹿正直に天井を眺めていると、彼のくちびるが鎖骨に触れ、手が、スウェットのズボンを下着ごと脱がしにかかったので、わたしは声にならない悲鳴を上げた。
「やだ!やめてやめて!タンマタンマ!」
「元気ええなァ。さすが活きがちゃうわァ」
「やーだーあーあーあー………ハア。」
「おう、観念せえや」
「………」
ばさ、と音を立てて、ズボンと下着を投げ捨てられる。
青くなって、当然大事なところを隠そうとするが、その手をあっさりと退けられて、わたしはもう腹をくくることにした。
これは抵抗しても無駄だ。真島さん、力強いし。
それに、手。
いつも革手袋に包まれた手が、いまは、裸のまま、わたしの体に触れている。
指の腹や、手のひらの感触。形のいい爪。浮き上がった節々。
それだけで、いつもと違うというだけで、真島さんの知らなかった一面を目の当たりにしたような気がした。


「もうええ感じやな」
「………」
。こっち見てみい」
「………」
「ほら、ここ、や」
ぐいっと、手を掴まれて、上体を引き起こされる。
恥ずかしくて目をそむけていたが、恐る恐る、真島さんの言うところに目をやる。硬く突きあがった、つやのある、なんだか恐ろしいそれが、暗闇の中で、わたしの中に入る角度で宛がわれている。一瞬だけ見てすぐ顔を背けると、真島さんが、ぐっと腰を押しつけてきた。
「痛い。」
「これが入ったら、は俺の女や、ちょっと辛抱せえ」
「………い、いた、あの、ほんとに痛っ……」
「見てみい、……半分入っとる」
「………うー……あ…ちょっと、マジで痛い……イタタ、痛い……」
痛くて痛くて、冷や汗が出てくる。顔をしかめて、容赦なく、より痛いところに押し込んでくる真島さんに泣きべそをかきそうになりながら、シーツを掴んで、目を閉じて耐える。

歯を食いしばって目を閉じるわたしの顎を、つと持ち上げて。
目を開けたら、すぐ真島さんのくちびるがあった。
彼が、わたしの目蓋に口付て、わたしの両脚を抱えながら、覆いかぶさってくる。
「奥まで入ったわ、ちょっとはみでとるが」
「………」
「痛いか?」
「死んでしまいそう……」
「そぉか。何回かしたら、ええようになるやろ、たぶん」
「………痛っ。」


ず、ず、とゆっくり動き始めた腰に、体の内側が湿ってくる。まるで焼き鏝で内臓を突っ突かれているようだ。そっと目蓋を持ち上げると、痛みで歪む視界に、真島さんの、無駄のない筋張った腹部の筋肉が、しなやかに動いているのが見えた。
俯く真島さんの頬がわたしのこめかみに触れる。髭と頬と髪の感触、真島さんの胸とわたしの胸の間に溜まった熱気、ぎし、ぎしと弾むスプリングの音。頭がくらくらしてくる。
固くシーツを掴んでいた手をほどいて、そっと、真島さんのうなじと首に腕を回してみる。
……ずっとこうしてみたかった。このひとの首に腕を回して、しがみついてみたかった。


彼の肩越しに、彼の背中が見える。上下する体、派手な刺青の般若と目が合う。
──あ……、わたし、真島さんに抱かれてる。
あのとき見上げていた刺青と同じ、その背中を持つひとに。
上下するたびに、彼の体中の筋肉が、ゆっくりと、緊張し、弛緩するのが見えた。
ぐうっと強張る肩、脚も。
美しい、まるで野生の動物のような、無駄のない体。
痛む傍らでじっと見とれていると、わたしの頬に、真島さんのくちびるが触れる。
髭が当たるのがくすぐったくて目を閉じると、痛いのに、体に粟立つ快い感覚が胸から広がっていく。キスされると、まるで愛されているみたいだ。
心から大切にされているような気がする。


十分ばかり揺すぶられ続けたかと思うけれど、もしかしたらそんなに経っていないのかもしれない。骨盤が疲れたなあ、痛いなあ、と思い始めた頃、真島さんが耳元でささやいた。

「なにっ?」
「ピル飲んどるな?」
「……なんで飲んでると思うの?」
「飲んどかんかい……淑女のたしなみやで?」
「だから何で生娘のわたしが飲んでると思うのか訊きたいんですけど……」
「この際、俺んとこに永久就職すんのはどや?」
「!!ちょ、ちょっと、やめて!」
「そか……あかんか……」
そらあかんわなァ……と呟いた真島さんが、目をつむって、体を一瞬震わせる。


規則的だった動きが、すこしずつ激しくがつがつとしたものに変わる。
息ができず、薄目を開けて真島さんを見ると、彼も痛そうな顔をしていた。
あ……その顔、見たことない、初めて見た顔だ。


激しいひと時は時間にすればそれほど長くはなかった。
どくどくと熱く腹部に掛ける彼の、熱いため息に、ぞくりとする。


乱れたシーツ、床に落ちた枕、なぜか捲れているカーペット、脱ぎ散らかした衣類に体液。
放心しながら部屋の様子を眺めているわたしに、真島さんが、ベッドを下りて、ティッシュを持って戻ってくる。
「あぁあぁ、こない汚して」
動いたらあかんで、と言いながら、彼が自分の掛けたものを拭うために、ティッシュを滑らせる。
まだ息が荒い彼の横顔を見ながら、汚したのはあなたですけどね……と思いつつ、わたしの体力が限りなくゼロに近いので、何も言うことができない。
「ほら、ええ娘がパンツ穿かんでどうすんねや」
「……はい。」
取っ払われた下着とスウェットを返却されて、わたしは、もぞもぞとそれを身に着ける。
ベッドから出ると、真島さんが、冷蔵庫から水を汲んで持ってきてくれた。別にほしくはなかったけれど、一口飲むと、思ったより水分を消費していたらしく、ごくごくと飲むことができた。
ふたりでベッドの端に腰かけて、なんとなく気まずい雰囲気を感じながら、しばらく黙り込む。
全裸のままでいられるのではと危惧したが、革のパンツを穿いてくれた真島さんにほっとしながら、そっと横顔を見ると、気だるげに前を見ている彼が口を開いた。
「……アイス、もう溶けてんちゃうか。」
「え?……あ、忘れてた……ごめんなさい。もう冷凍庫に入らなくって。すぐ食べなくちゃいけなかったのに」
テーブルに置かれたジェラテリアの箱に手を伸ばして容器に触れると、もう溶けてしまって、わたしはがっかりした。残された冷気がひんやりとして、火照った手に心地よい。
「冷凍庫いっぱいてなんでや」
「真島さんが補充してくれるからアイスでいっぱいなの」
「そうなんか?ほな、溶けたやつ冷凍庫入れて凍らして、前のぶんはいま食ったらええやん」
「あ、そっか。食感変わりそうだけど。それいいね。真島さんも食べるでしょ?」
「俺かぁ?俺ぁ……」
断りそうな雰囲気だったので、有無を言わせずわたしが早口で言う。
「二つ食べなきゃ入らないんだから食べてよね。」
「……おう。」
ちょっと弱ったような声に、わたしは気づかれないように笑った。




すこし時間をおいてから食べようということになり。シャワーを一緒に浴びたり、なんとなくもう一回することになってしまったりしているうちに、日付が変わってしまった。
二回目が終わった後の真島さんは、もう若くないので流石にくたびれたらしく、はぁ〜しんど……などと言って、どかっとベッドに坐る。
わたしはわたしで、まだ痛いような気がして、真島さんの疲労と原因は同じなのに別の理由で疲れ果てている。
テレビをつけると、知らないお笑い芸人の深夜番組が流れていた。つまんないトークに白けながら、冷凍庫からアイスクリーム、バニラとストロベリーとスプーン二つを持ってくる。
「どっち食べる?」
「バニラやな。アイス言うたら。」
「はい。」
「おう」
彼の隣に坐って、一口口に入れる。ストロベリーの甘酸っぱい香と舌でとろけるふんわり感に嬉しくなる。
アイスって、やっぱりいいなあ。
「うーん、久々に食うと旨いなあ」
「ね。おいしー。ストロベリー一口どうぞ」
「おぉ」
真島さんはわたしのストロベリーを一口食べて、しみじみした感じで「やっぱバニラやわ」と言って自分のアイスクリームを食べはじめた。
。おまえな。就活、別に無理せんでええで」
「え?……なに急に」
就活のことなんてすっかり忘れていたから、面食らって、彫りの深い横顔をじっと見つめる。彼は、一口バニラを食べて、それからわたしの顔を見た。青白いテレビの光を浴びた、すこし歪んだ笑みを浮かべる彼の顔は、なんだか、いつもよりもっとずっと近くて、特別なものに感じられる。それに、とっても恥ずかしい。
「大学院いくなり、なんなりで、いろいろ選択肢はあるやろが。落ち込んでんと、ようけ考えてみい」
「え……あ、うん」
もうすでにまったく落ち込んでいなかっただけに、逆に、なんだかわたしはちょっと傷ついた。
わたしのこと抱いてくれたのも、付き合うと言ってくれたのも、わたしが第一志望に落ちて落ち込んでいたからなのだろうか。
すべて慰めによるものだったら、それこそ、泣いてしまいそうな事態だ。
「べつに真島建設に就職してもええんやし。どや?社長秘書なんか。週休二日制、賞与二回、けっこうええやろ、全員極道者やけどな。おまえにだけは福利厚生もつけといたるわ」
「え……そ、それは結構です。」
「ふふん。ま、嫌なったらぱっとやめたったらええねん。気晴らしにな。就活なんかどうでもええ」


その愛情が、わたしを女のひととして見ているものじゃなくても。
………わたしを慰めようとしてくれている真島さんの愛情が、わたしが考えいていたよりもずっとわたしに注がれていることを知ることができた。
いつも“就活がんばれや”と言っていたくせに、ちょっと落ち込んでみたら“就活せんでええ”だなんて。ほんとに、なんていうか……可愛がってくれているんだなあって。家族みたいに。
「でも、わたし、もうちょっと頑張ってみる。もしかしたら敗者復活戦とかで、第一志望から連絡くるかもしれないし……まだ、ほかにも最終選考残った企業あるし」
「そぉか?……そか。ああ。偉いな、は。頑張り屋やなァ」
「でも、ほんとにだめだったら大学院行っちゃうかも……兄の負担になるけど……」
「そんときは俺が出したるわ。なんもは考えんでええ、自分のことだけ考えとったらええ」
「……………うん、ありがと」
「ん?……おぉ。にしても、おまえの兄貴に、おまえに手ぇ付けてしもた言うたらどない顔すんのやろなァ……ケケケ。楽しみやのォ。」
「え!?ちょ……変なこと言わなくていいよ!!」
「イヤァ殴りかかってこられたらどないしよ!怖いわァ。」
「なんでそんなに邪悪に笑ってるのさ。真島さんに殴りかかるわけないでしょ……」
「代わりに“苛めんな”て冴島にしばかれそうやな。あいつおまえの兄貴気に入っとるし」
「ふふ、そうだね。……ねえ?」
「ん?」
「わたしのこと、好き?女のひととして、見てくれる?」


俯きながら、ピンクのアイスクリームに混じる赤い果肉を見つめて言う。
「家族として見てもいるし、自分の女として見てもいる」
バニラのアイスクリーム。半分ほど減ったそれを、「もういらんわ」とわたしに押し付けて、真島さんが言う。
「……そうなの?」
「それって最強ちゃうか?」
「うん、たしかに。」
「よかったのー。まあ、そのうち、実感するときもくるやろ」
「………ありがと」
最強。たしかに、最強だなあ、と思って、頬が緩んでくる。
もしほんとだったら、これ以上望むことはできないし、そんなにすごい愛情を実感したら、溶けてしまいそうだなぁとにやけてしまうほどに。


「しかしアイスってそない食えへんな。もう飽きたわ」
「そ?おいしいよ?」
「なんや、好きなんか。もう飽き飽きしとんのかと思ったわ。冷凍庫いっぱいに放っといてるくらいなんやから。」
「うん。これからもお土産はアイスクリームがいいな」
「そうかァ?ほんなら、そうしたる」
なんぼでも、と言いながら、真島さんのくちびるが、わたしの瞳の下に触れる。アイスクリームを食べていたくちびるがひんやりしていて、興奮して熱のこもった肌にとても気持いい。


「でも、味はいろんなのにして……チョコとかヨーグルトとか……」
「………わかったわ」




日替わりにしたる、とにやにや笑う真島さんを見ていたら、
たしかに溶けてしまいそうだなぁと言うほどの愛情を、感じることができた。