「ハァ、なんでこないなとこに入っとんや親父は。来るんも一苦労や」
ぼやきながら、真島さんが線香に火を点ける。礼服姿の彼の向こうで、彼の舎弟が、桶やら花やらを抱えて、わらわらと水場を占領しているのが見える。
整備された美しい墓地に、切り開かれたように大きく広がる青空と、くちなしや紫陽花の艶のある緑の生垣と、白い玉砂利の地面。墓地と言う特殊な状況下における条件をすべてクリアしたうえで保たれた美しさ。
華やかでありながら、静謐で、生き物の気配がしない。




真島さんとふと目が合う。
彼は、苦笑いするように、ちょっと顔をゆがめて、「久しぶり」と言った。その響きは、どこかしら彼らしくない、くせのない発音だった。
「久しぶり」
同じ言葉で返すわたしに、彼はあのときのような笑顔を、浮かべた。




……嶋野さんが死んでしまってから、極道という極端な世界のひとたちと関わるのは、嶋野さんの法事くらいのものとなった。もともと、ふつうに生きているだけだったわたしには、彼らの騒々しさは理解しがたいものだったが、いまでは、もし自分が同じ立場の男だったら、あの輪に溶け込んでいるのだろうと、思う。
いつ死んでしまうかわからないから。死と隣り合わせだから。だからあんなに、お酒を飲むのも、墓石を磨くのも、大口を開けて笑うのも、懸命なのだ。気を張っているのだ。
わたしなんて、いまだに、嶋野さんの死もよくわかっていない。
あのひとがもういないということはわかっている。このお墓の下でちっちゃくなってしまったことも。ただ、普段は考えないようにしていたから、嶋野さんの不在をあまり思い出さないようにしていたから、そうすると、初めからわたしは一人だったんだって。ずっとひとりで生きてきたんだって思ってしまう。
けれども、真島さんが目の前にいるときは、“ああ、嶋野さん、死んじゃったんだ”とぼんやりと感じた。
目の前にいる真島さんの切れ長の瞳がそう思わせるのか、真島さんといるときのわたしがそう思ってしまうのか、よくわからない。
嶋野さんが死んでしまったという現実に帰って、途方に暮れてしまう。


「ここまでどやって来たん、車か?」
「電車乗りついで。駅からはタクシーで」
「そぉか……、帰りは送ってくわ。ちゃんまだあっこに住んどんのやろ」
「うん、すごい助かる。ありがとう」
「アンタも律儀な女やなぁ」
神室町から出てったら楽なるやろに……と囁く真島さんに、わたしは、目の前のぴかぴかの墓石をみつめる。濡れてつやつやした墓石は、ちょうど嶋野さんの頭の幅と同じくらいで。嶋野さんもつるっつるで、石みたいな頭だった。
神室町を出ていったら楽になると真島さんは言うが、このわたしにどこにいけばいいと彼は思っているのだろうか。
「アンタには喪服は似合わんで」
「えー?大人っぽいと思ったんだけど」
「ふん。そやなァ?そそられるわ」
「あはは、でしょ。」
乾いた声でやり取りして、ふたりで墓石に目をやる。
わたしには真島さんの知らない嶋野さんの思い出があるし、真島さんにもわたしの知らない嶋野さんの思い出があるだろう。
でも、わたしの持っているぶんは、真島さんの持っているぶんよりも、ずっと小さくて、ささやかなんだろうなと思った。
太い腕に抱かれて、バルコニーでシャンパンを飲んだこととか、眠りに就いていても寝言で“オゥ殺したるわボケが……”と物騒なことをつぶやいていたこととか、抱きしめられたときのお酒とたばこの匂いとか、泡風呂が好きだったこととか、銃を見せびらかして悪い笑顔を浮かべていたこととか、いつでもわたしを持ち上げたがったこととか、……楽しかった思い出がひとつひとつ荒々しく流れでる。
楽しかったというのはわたしの気持ではなくて、楽しそうだった、幸せそうだった嶋野さんの顔、ということだ。


あの低い声、もう聞けなくなっちゃったんだな。
睨みを利かせる顔や、お酒を飲んで女のひとに囲まれてにやにやしてる顔や、大きく口を開けて笑っている顔は写真に残っているけれど。
他の女のひとと遊びに行ってたのがバレて、わたしを強引に抱き寄せた猫撫で声、とか。
名前を呼んだり、
真島さんの話をする声とか……もうこの世には残っていない。テープやビデオが残っているわけではないし、わたしの頭の中にある嶋野さんの声、消えてしまったら、もう永久に無くなってしまう。


ちゃん、もう行こか」
「うん、わかった」
わたしが立ち上がるとき、真島さんが体をかがめて、「親父、ほなまた来年。幹部増やしてまた来るわ」と声をかけて、墓石に向かって笑いかけるのが見えた。
ざわざわと風がでてきた。くちなしや紫陽花の生垣の艶のある緑が、硬そうなかさかさという音を立てて揺れる。さきほどまで漂っていた線香の匂いも、強い風の前ではあちこちに散ってしまった。きれいに掃き清められた玉砂利の上に、幾枚かの落ち葉がこぼれていく。
わたしは、振り返って、さっきまでそこにいた墓石に目をやる。
そこには、嶋野さんの気配も、匂いも、影も、何もなかった。嶋野さんの思い出の引っかかりもなかった。ただ、磨き上げられた大きな庵治石があるだけだった。
嶋野さんはどこに行ってしまったのだろう、とわたしは歩きながら思う。
少なくとも、わたしにも、真島さんにも、その行き場はわからない。


真島さんの部下の運転する車の後部座席に乗り、神室町についたのは、すでに日も暮れかかったころだった。なめらかなカーブを切り、ピンク通りを横切っていく。
墓地とは、真逆の風景だな、とわたしは思った。ごみごみした雑踏、ネオン、じゃらじゃらと煩い宣伝音、どこにでも人の気配がある。嶋野さんの性格を考えれば、きっと、神室町に埋めてもらったほうが彼は喜んだだろう。でも、眠るときくらいは静かなところで就いていてほしい、というのは遺された側の意見だろうか。
真上に電飾がきたので、強い光が、波のようにフロントガラスから車内を通っていった。
その光で目覚めたのか、ずっとわたしのとなりで脚を組んで目を閉じていた真島さんが、ゆっくり口を開く。
ちゃんちって、いま、どないなっとんや」
「……え?わたしんち?前と変わらないよ」
「そぉか」
「うん、まえは、嶋野さんに連れられて、真島さんもよく遊びに来てくれたよね。元をただせば、嶋野さんが買ってくれたマンションだし」
「ふぅん」
沈黙したわたしたちの間に、ウウウウ……と車のエンジン音が重くのしかかる。その音はずっとしていたのだろうが、いまのいままで気づかなかった。
「なんや、このまま帰るのも妙やのぉ。ちょっと飲んでいかへんか」
「ん。お酒?」
「あぁ。一杯くらい付き合うてや、ちゃん。久々やし」
「うん、いいよ。でも一回着替えたいんだけど」
「ええで。車で待ってるわ」
「そのままわたしんちで飲む?」
わたしの顔に走った緊張を、彼は気づいただろうか。凍りつくような空気の中、やっぱりエンジンの音がやけにうるさく感じられる。
なんだか、妙なことを誘ってしまったみたいだ。わたしは早口でまくしたてた。
「あ、ワインがあるの。友だちにもらったんだけど、一人じゃ飲み干せないから。真島さんが構わなければ、だけど」
「そやなァ……ワインは好きやわ」
薄暗い中で、真島さんのため息が聞こえる。
運転手の真島さんの部下が、ルームミラーでちらとわたしを見たような気がした。
真島さんはどんな顔をしているのだろうと気になって、わたしは、そっと彼の、痩せた横顔に目をやる。表情のない端正な顔立ち、黒い睫毛、灰色の陰りを帯びた眼差し。昔となんにも変っていないけど、遠い姿。
車は、音もなく、振動もなく、わたしのマンションの駐車場に回り込んだ。




「ごっつい久しぶりやなぁ、なんも変わってへんやないか」
案内したリビングにつくなり、彼はそう言うが、実際はそうではない。
物が減ったし、リビングにあった嶋野さんのものは全部クロゼットに押し込んでしまった。
作家物の食器や、クリスタルのグラスも、ぜんぶ奥にしまっていて、食器棚には普段使用する、さほど高価でないものしか入っていない。
テレビや絨毯はそのままだけども。真島さんを招いていたころのような、高級な装いはすべて片づけて、いまでは、わたしによる生活感が、あちこちに感じられるような部屋になった。
嶋野さんの匂いなんて、もう、かけらも残っていない。
あのソファに坐って、わたしを膝に載せたがった彼の姿も、いまは、思い出せなくなってきた。
わたしは、嶋野さんを愛していたのだろうか。
嶋野さんの日常に溶け込み、彼の腕に抱かれて眠った日々には、心の平安があった。微笑も、生活もあった。でも、愛だったのかはもうわからない。当時は愛していて、いまは愛していないだけなのか。嶋野さんの思い出を、すべて包んでずっと持っていたいのに、ひとつひとつ、ぽろぽろと落としてしまって、しかも、落としたことにも気づいていない。
“人は二度死ぬ、肉体の死と、記憶から忘れ去られるときの死”という言葉をなにかの本で目にしたとき、わたしはぎくりとした。
わたしの心の中にいる嶋野さん、もう、半分、消えかけてしまってる。


「待ってね、いまワイン取ってくる」
ちゃん」
「なに?」
別室に着替えに行こうとしかけたわたしの前に、真島さんが一歩踏み出した。
真正面から見上げた彼の顔に、奇妙な既視感を覚える。
ちょうど同じ位置で、わたしを見つめて立っているこのひと。
場所はここで、時間も同じくらいで……。以前にも、ここで、彼に呼び止められたことがあったのだろうか。
キャンパス地のランプシェードを透けた照明が、真島さんの顔の陰影をくっきりと照らしている。凹凸のある顔、しゅっとしまった顎。瞳は、わたしが知っているよりも鋭くてぎらりとしている。さっきは、あんなに気だるそうだったのに。
真島さんの革手袋をしたしなやかな指が、わたしの右手をそっと取り上げる。
あ、と思う間もなく、その手を引かれ、わたしの体と顔が、彼の体にぶつかった。
「真島さん」
「先に済まそうや」
長い腕が、すっぽりとわたしの背中を覆ってしまう。
「あ、ちょっと……待って」
「待てへん」
「ワイン持ってくるから、」
「そんなん、いらんやろ、こんなときに」
「え、でも、真島さん……」


鼓動が、いままで眠っていたのではないかと思うほどに、突然ばくばくと騒ぎ出す。
もがいて、その腕を逃れようとしたが、力が強くでびくともしない。
まるで木の幹のようにしっかりした腕で、しかも彼は、わたしがもがいていることにすら気づいていなさそうなほど、微動だにしていない。
体のまわりいっぱいを包む真島さんの腕、体、首。
男のひとに抱きしめられたら、こんなふうだった、と思った。
あたたかくて、力強くて、息苦しくて、胸が痛む。ずっと味わっていない感覚だった。抱きしめられたら、心が、すべて傾いてしまう。
真島さんの匂い。好きな匂い。初めて吸い込んだ彼の香りは、微かにスッとする、ハーブのようで、わたしの部屋やわたし自身にはひとかけらも存在しないものだった。


脚が震えているのは、子どもみたいに、若い娘のように、脅えて戸惑っているからではない。息遣いや、煩わしげにまさぐる指や、ぎゅっと抱き留める腕が、嶋野さんみたいだったから。
目を閉じたら、嶋野さんが、わたしの体をむさぼっているかのようだった。
だが、目を開けると現実が帰ってくる。真島さんのくちびるや、掠れた声や、たまらない指は、嶋野さんほど豪快で激しくなく、早急でもなく、わたしを求めているものでもなく。
冷静さに欠いた行動をとりながら、真島さんの彫りの深い右目が、なにか別のことを考えているような、そんなふうに見えて、わたしのほうこそ心の平衡が乱れてしまう。


ファスナーを探しさまよう指が、焦れたのか、そのままスカートの裾を手繰り寄せる。
いまどこがどうなっているのか、体を体に押さえつけられて、わたしの目は真島さんの肩口と、その向こうの部屋の様子しか見ることができない。
だが、あのソファで、コーヒーを飲む嶋野さんの膝に坐ったり、あのバルコニーから、花火を見上げたり、あのテーブルで、わたしの料理を二人で食べた、そんなことが、いまになって鮮明によみがえってくる。
普段は、ちっとも出てこないくせに。
他の男のひとといるときに限って。


ちゃん」
テーブルのふちに坐らされて、脚の間に真島さんの体が割り込んでくる。服も全然脱いでいないのに、ここはベッドではないのに、きょうは嶋野さんのお墓参りだったのに……と考えるかたわら、いいや、だからこそか、と納得する自分もいた。
わたしの頬に乱れた髪をかきわけて、目線の近いところにある真島さんのくちびるが、わたしの頬に触れる。一度ぱくりと頬の皮膚を啄んだ、薄いそれが、わたしのくちびるに触れた。
乾いたキスも、くちびるの奥から触れる水分で、途端に瑞々しくなる。
器用な長い舌が、尖って、硬くなって、口の中に躊躇いなく入ってくる。ときどき、歯と歯がそっと重なってかちっと音がなる、おぼれそうなキス、だがそれはすぐに終わった。
ふたたび、くちびるで触れるキスとなった。濡れた薄皮同士が馴染みあって、さっきよりもずっと気持がいい。
その間にも、ストッキングと下着を脱がす手が、スカートの下でぐっと動き続けている。かちゃと金属の音がしたのは、目を閉じていても、真島さんがベルトを緩めたからだとわかる。入ってくる瞬間、わたしは固く目をつむって、感覚が鈍感になることを祈った。絶対に痛い、と思ったから。久しぶりだし、血も出るだろう。
一度ですんなりとは入らなかった。すべりの悪い状態で、何度かの段階を経て、ようやく根本と根本がくっつく。閉じていた目蓋をゆるめると、真島さんと目があった。いま、体の中に入っている彼の目が。
「ぜんぶ、入ったで」
「うん」
「苦しいか?」
「ううん、大丈夫」
「苦しいのは、俺だけみたいやな」
日光の下では、真っ黒だった瞳が、電球の下では、微かに灰色がかって見える。眉間にしわを寄せて、ぐっと背中や脚の筋肉をしなやかに動かす彼の、たまらない顔に、ため息が出た。
痛い。片脚を抱きかかえられて、わたしの腰が上を向いたことによって、一番奥に突き刺さる。
痛い、痛い。痛くて、息ができない。
あまりにも硬くて、あまりにも熱くて。


ちゃん、」


呼ばれたと思って真島さんを見ると、彼は、顔をややゆがめて、つらそうに、目を閉じていた。
だから、呼ばれたのではなくて、ただ睦言の中、わたしの名前を呟いたにすぎなかった。
ため息交じりの声に体がぞくっとする。


初めて、嶋野さんに抱かれたときのことを思い出した。
あのときわたしはまだ若くて、小娘で。年齢的にはあまり変わっていないけれど、心はもっと弱虫だった。


、おまえ。真島に惚れとんのやろ?”
と、嶋野さんは言った。
あの、低い声。


( 真島さん、真島さん……… )
あのとき──心の中で、困惑しながら、真島さんの名前をつぶやき、震えていた、あの感情が、いまになってわたしに襲い掛かってくる。


あのとき、素直にそうだと言っていれば、どうなっていたのだろう……?


真島さん。真島さん。わたしの気持、気付いていたくせに、あっさり無視して、いまになって簡単にわたしを抱きしめている。
わたしの気持を無視して、ひやかして、去っていったのも、いま、わたしの中に入って、眉間にしわを寄せて笑っているのも、どうしてなのか、わたしにはわからない。
ずっと一緒にいて、こうしていてほしい、と思う甘えた部分と、もう二度と、これきりにして会わないほうがいいと意地っ張りの部分が、わたしの中で渦巻いて、溶け合うことがない。
真島さん。
抱かれたら、また、気持がやわらかく熱されて、息を吹き返したようだ。
でも、きっと、終わってしまったら、真島さんを愛しいと思う気持は、風に晒されて渇いてしまうのだろう。
「真島さん……」
「なんや」
「どうしてこうしてるんだろうね?」
かたかたとテーブルの動く音が響く。
息を切らすわたしに、真島さんが微かに笑ったかに見えた。
「そら、アンタのことが好きやからや」
ぐう、と奥に、奥にと刺さって、もうそれ以上いかないところを、さらに差し込まれる。眉をしかめるわたしをじっと見つめる彼の右目が、なんとなく寂しそうで、わたしは、彼にキスした。
「うそつき」
「嘘ちゃうで。これが証拠や」
一番奥をぐりぐりしながら言う彼にわたしも笑う。
「ねえ、ずっとこうしてたい」
「あぁ?ずっとかい……、そら……難しい」
目の前で息を吐く彼に、わたしもとてもたまらなくなる。声を殺していると、全身の血液が集まって来たのかと思うくらい顔が熱い。真っ赤な顔で、真島さんのことはもちろん、嶋野さんのことまで考えて、痛みもまだあって、でも内側が収縮する感じが気持よくもあり。涙も出てこない。
ちゃん」
ずうっとがくがくと突き上げられていた。
うわ言のように囁く真島さんの顔を見たら、彼がもう限界なことを知った。


真島さんの首やうなじにしがみついて、彼の動きが早まるのをじっとこらえて受け入れる。
わたしは、このあとシャワーを浴びて、おたがいの汗や分泌物が洗い清められるのはもったいない、と考えていた。いま、ふたりの肌を伝うものが、たまらなく愛おしかった。
がつがつとした動きに合わせて、テーブルも激しく揺れる。
小さく息を漏らしただけで、声には出さず、彼がわたしの中で出したのがわかった。脈打つ感覚と汗、鋭い眼差し。じわじわと満たされていく感覚。はぁ、と疲れたため息を漏らして、まだ入ったまま、真島さんがわたしに簡素なキスをする。
ちゃん」
「ん?」
「アンタはすごい。俺ぁもうあかん思ったで……」
「そ、そうかな。そんなことないと思うけど……。」
「惚れとるとなんでも感激してまうからなァ」
顔をこわばらせるわたしに、真島さんは、苦笑いする。
「そんな嫌な顔すんなや……嫌われてるみたいや」
引き抜いて、下を向いた彼が、一瞬くちびるを寄せたが、顔を近づけたまま、くちびるが触れることはなかった。
ただ、わたしの頬のそばで右目がまばたきした。長い睫毛が上下する。
中に出されたものが、つると下って、ストッキングのたゆんだ部分に滑り落ちた。


「……親父に操立てとんのか?」
低い、まじめな声に胸を打たれて、わたしは、真島さんの視線から目を逸らした。瞳を見ていたら、きっと、恋に落ちてしまう。
「なんで?そんなわけないでしょ、いま真島さんとしたこと考えてみてよ」
「せやったら、なんでここ出て行かんのや。売っぱらって、ちゃうとこ行ったらええやん。アンタが盆だけやのうて月命日まであない遠くまで墓参りしとるん、知っとんやで」
「………」
だって。
お墓参りしないと、わたしは、嶋野さんを忘れてしまう。
決して、想いが深いから、嶋野さんが大切だから、しょっちゅう通ってるわけではない。
心の中にいる嶋野さんが消えてしまうのがこわいだけだ。
わたし自身がとても薄情な気がして。
あんなに一緒にいたのに。


「なあ、もうええやん。」
「わたし……」
「惚れてんねや。わかってるやろ?」
「………」
「もうずっと前からや。アンタが、親父のもんになる、そのまえから」
ちゃん。
そう呼ぶ声。
初めて会ったときから、真島さんは、わたしにはどこか他人行儀だった。他の女の子には呼び捨てで、気安く肩を叩いたのに、わたしには、指一本触れなかった。
ただ、ときどき目を見ていた。
なんだか、とても優しい目で。
いつもはこわい顔しているのに。
「…………」


、おまえ。真島に惚れとんのやろ?”
嶋野さんの声がふたたび脳裏をよぎる。
それはわたしだけの秘密だったから。真島さんへの気持は誰にも打ち明けたくなかったから、首を振って否定した。
あのとき、うん、と答えていたら………。
とはいえ、あの選択肢を後悔してるわけではない。
嶋野さんの愛情や、乱暴な優しさに、わたしは驚かされすぎた。
もう一度あの大きな手で、腕で、包み込まれたかった。
嶋野さんに会いたくてたまらなかった。
いまになって込み上げる愛しさに戸惑って苦笑いする。
後悔しているのは、もっと思い出を大切にしておけばよかったということ。
わざと意識的に嶋野さんを排除して、考えないようにして、嶋野さんの死を受け止めず生きてきた。だから涙は出ないし、平気だし、寂しくなかった。
もっと思い出して。受け入れてきたらよかったのに。
いまさら考えてももう遅い。もう、嶋野さんの姿は、あまりに靄がかかりすぎてる……。


ちゃん。俺ァ親父から、いっぺんだけアンタのこと言われたことがある」
「え?なんて?」
「………。“わしになんかあったらを頼む”」
「え、う……うそでしょ?」
少なくとも嶋野さんが、自分に何かあったら、なんて言うはずがない。あんなに自信家だったんだから。
真島さんもくつくつ笑って、うそや、とはっきりと述べた。
「ほんまはな。“に手ェ出しよったら殺したる”って釘刺されとった」
「………それは……言いそう。すごく。」
真島さんがわたしの両腕を革手袋の手でそっと掴んで、二の腕を何度か撫でる。あたたかくてくすぐったくて、わたしも笑う。
「親父は気ィ付いとったんかもしれん。俺が、アンタに惚れとったんを」
「………そうかも。わたしもたまに探り入れられてたし」
「そうなんか。男の嫉妬は醜いのォ……」
「うん。でも、そのわりに、わたしといるとき、真島さんの話ばっかりしてた」
「可っ愛いとこあるおっさんやったからなァ」
「…………。」
嶋野さん。
あの大らかな笑み。不敵な態度。すごく頼りになる性格。への字のくちびる。
思い出すときに、罪悪感でひりひりしていた胸が、いまは、それほど敏感ではない。
嶋野さん。もうここにはいないけど、まだ忘れなくてもいいし、きれいに忘れてしまってもいいのかな。
そう思うと気が楽になる。ずいぶん、知らない間に、変なふうに考えすぎていたみたいだ。


「俺がアンタに惚れてる言うんは、考えといてくれたら俺ァ嬉しいし、忘れてくれても構へん。せやけど」
テーブルに腰かけたままのわたしの腰を持って、フローリングの床に立たせられる。さっきまで目線が近かったのに、突然の身長差にちょっと驚かされる。嶋野さんのほうがずっと大きかったけど。
「これからはちょくちょく顔だすわ。ここに住んでんねやったらな」
「……うん。どうぞ。おかまいもできませんけど」
そうやって何度か真島さんが来てくれてるうちに、真島さんのこと好きになったら、どうなるのだろう。
嶋野さんは怒るだろう。“真島みたいな気違いはさっさと忘れェ”ってよく言ってたし……でも、最後はきっと許してくれる。あの豪快な笑顔で。


「ほな、スッキリしたとこで帰るわ」
「え?シャワー浴びていきなよ!そのままじゃ……それにワインは?」
「えぇわ。ワインはまた今度にしよ。ごっつう眠なった」
「ええ〜……」
さっさと身支度を整えた彼は、ここに来たときと同じ、一寸の乱れのない姿に戻った。
なんというフットワークの軽さだろうとちょっと呆れるけれども、嶋野さんもそうだったなあ、と笑う。
女性に対してのアフターケアなんて、ちっとも念頭にないのだ。
「おやすみ、ちゃん。邪魔したわ」
「うん。じゃあね?」
ぱりっとした恰好の彼に比べて、わたしはなんてはしたない姿だろう。仕方なく、慌てて色んなものが付着したストッキングを脱ぎ捨て、下着だけ穿きなおして、玄関に向かう彼の背中を追いかける。歩いている途中で、まだ残っていたものが、下着に落ちてきてぞわっとする。まったく、なんてひとだろう。


「つぎいつ来るの?」
靴を履いた真島さんが、わたしに振り返る。
まるで、彼女気取りみたいだ、これでは。変なことを訊いてしまった気がして赤くなる。
「なんや。寂しいんかい」
「えー……」
にやにや笑う顔につられて笑ってしまう。嬉しそうな顔。
このひとの手を取ったら、どんなふうなのだろう。このひとの生活に入ってみたときは、どんな感じがするのだろう。
一瞬だけ、真島さんと一緒に暮らしている自分が、やわらかな霧の向こうで見ることができた。
いまと大差ない生活だが、真島さんを愛していて、幸せそうに暮らしている自分が。
「またあした来るわ」
「え、あした?」
「あぁ。ワイン飲もか」
「………うん。わかった。」


これから、わたしは自分がどうなるのか、どうしたいのか、いまはまだわからない。
でも、あした、ほんとに真島さんが来てくれたら、なにかわかるかも。
そのときの気持に、素直に従ってみよう、と思った。
真島さんの気持に添うのもいいし、嶋野さんの時間を、まだ、ゆっくり確かめるのもいい……。


真島さんが、頭をかがめて、玄関をくぐる。
「ほんなら、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」




“ほなまたあしたな。よぉやすめや”
“おやすみなさい、嶋野さん”




変なの、背丈は全然違うのに。
真島さんのその背中に、嶋野さんのかつての姿が、見えた気がした。