「なんでもいいじゃわからない」
とマルフォイは言った。そのブロンドの髪には、なめらかな絹のような光沢があり、その人を馬鹿にしたような瞳には、穏やかな湖畔を思わせるきらめきがあり、その青白い肌には、磨きこまれた象牙の色艶があった。履いている革靴までぴかぴかだった。彼の右斜めから差す西日が、背景の教室を金色に染め上げ、彼を中世に存在した貴族のポートレートに仕立て上げていた。
「なんでもいいの。いま、欲しいものなんてないの」
水晶と黒曜石の駒がチェスボードに取り置かれていて、先ほど行われていたゲームの内容をありありと残していた。マルフォイは、そこからホーンの駒を──わたしが彼を最後に追いやったきっかけの駒を取り上げ、手の中でくるりと回した。
「きみに負けるとは驚きだ。なぜこんなディフェンスを思いついた?」
「本で読んだの。でもわたしもまさか勝つなんて」
「ふん、くそおもしろくないが、仕方ない。約束は約束だ。なにをほしい?なにを望む?」
一度でも勝てたらいうことを聞いてやる、と得意げに宣言したことを言っているのだ。マルフォイは。わたしは、どうせならうんとものすごいことを言って、びっくりさせてやろうと思っていた。でも、いざそうなると、なにも頭に浮かんでこなかった。
「じゃあ、キスして」
とわたしは言った。なぜ、そんなことを言ったのか、よくわからない。しかもそのときのわたしの頭には、「キス」なんて単語すら思い浮かんでいなかったのに。
けれども、言ってしまったことに後悔はなかった。マルフォイのようなつんと取り澄ました、俗世とは少し違う空気をまとった人間が、どんなキスをするのか気になった。普段のマルフォイは、キスというもの自体とは無縁のところにいるかのように思われた。挨拶の手へのキスも、昔の慣習に従ってくちびるを触れることをしなかったし、侮蔑的に歪む上くちびると、やや薄い下くちびるの隙間から、どんな感情が籠められているのかを知りたくなった。
「気が進まないが」
マルフォイはわたしに歩み寄り、不機嫌そうにわたしを見下ろした。右手がわたしの腰にあてがわれた、と思うと、ぐいっと抱き寄せられた。彼の手はホーンを握ったままだったので、腰の皮膚に食い込んで痛い。
そう思ったのもつかの間、すぐにくちびるにくちびるが触れた。わたしが知っているキスは、キスの前に見つめ合って、はっと息を飲み込んで、胸がキューっとなるものだったけれど、マルフォイのそれは別物だ。なんの前置きもない。
でも、早急に動かすでもなく、触れあったままわずかにしかくちびるを動かさない……まるでふたりのくちびるが、しっくりと馴染む箇所に出会うまで慎重に探るようにするのは、いいな、と思った。
お互いの吐息を食べてしまうみたいに、大事に舌の上で味わうのも。くちびるだけでなく、ぎゅっと体と体をくっつけて、頬や首の裏を撫でるのも、よかった。
くちびるって、こんなに動くんだ。とわたしは思った。
くちびる自体は動いていないけれど、その表面、やわらかくてすこし冷たいくちびるの皮膚は、じわじわと呼応しあうかのように熱を持ち始める。じれったい舌が押し入って、唇の裏や頬の内側を愛撫したりする。口の中は、なんて瑞々しいのだろう。硬いのはつるつるした歯だけで、そのほかは、うねうねと動くし、生温かくて、やわらかだった。
「はあ…」とマルフォイは、接吻したまま、くちびるの隙間から吐息をもらした。それは紙切れ一枚すら揺さぶることもできなさそうな微弱なものだったが、焼けてしまいそうに熱かった。
その切ない吐息が頬を撫でたとき、頭の中がしびれて、膝がかすかに震えた。
わたしの体は、中軸が力を失ったために、がたんと机の上によろける。マルフォイはそんなわたしの腰をやはり抱いたまま、しっとりしたくちびるで、わたしのくちびるを貪った。首を傾げて角度を変えたり、ついばんでわざと音を立てたり、マルフォイの石鹸の淡い香りを胸いっぱいに吸い込んだり、した。
キスした瞬間に、マルフォイはただの男の子になった。もう神秘的な、性のにおいを感じさせないベールを脱ぎ棄ててしまった。キスを一緒に楽しんでいる、同級生の男の子……。
あまりに目立つし、硬派を気取っているし、淡々としているから、なんとなく同じ人間じゃないような、まったく別の所に住んでいる存在のように感じていた。たとえ、放課後、教室に居残ってチェス・ゲームをするような関係だとしても。
けれどくちびるを重ねたら、その肉体に触れ、体重を感じたら、彼の存在は現実的なものに認識された。
ちょっと性格に難があるけれど、きれいな顔の、素直じゃない、それでいてぶっきらぼうで、だけどきざな、男の子なのだ。


くちびるを一度深く交えてから、わたしと彼は顔を離した。お互いのまつげの影が、お互いの頬に交差するほど近い距離で、わたしはごくりと生唾を飲んだ。
「もし、このままもう一度キスをしたら、取り返しがつかないことになると思うの」
「どんな?」
「わたしとマルフォイは、恋人じゃないのに、そのまま服を脱いでしまう気がする」
「…………。それは……確かに、あまりよくない」
「わたしもそう思う。わたしそんなキャラじゃないし。でもわたしたちは若いし、しかもわたしはたぶん流されやすい」
「いやいやいや。もうしないから安心しろ、おまえがチェスで勝って、こうしろと望んだからしただけだ。二度はない。」
「そっかー」
と言いつつも、わたしと彼の顔は近いままで、彼の手のホーンはわたしの腰に食い込んだままだった。
きっと彼はわたしになにか言いたいことがある。わたしを見つめる瞳は、強く熱心で、情熱的だ。
このひとがわたしのことをとても好きだったらいいのに。


「ねえ、もう一度してみない?わたしは、口にちょっと触れるだけなら、大丈夫だと思う」
「んー……」
「ね?」
「おまえ、誰とでもこういうことしてるんじゃないだろうな?」
わたしはびっくりして、目を見開いた。心外だと思うより先に、マルフォイもそんなことを考える発想があったのかとびっくりした。
「してないよ!マルフォイはどうなの?」
「するか、このぼくを誰だと思ってるんだ。今回だって、ゲームに負けてしぶしぶ行っただけだ」
「しぶしぶ?」
「しぶしぶ。」
ちょうど隙があったので、今度はわたしから、そのくちびるを奪ってみる。もうくちびるは冷え、先ほどのような一体感は損なわれていた。
「………気が進まない?」
わたしは、しょうがないので、ここはわたしが大人になって、マルフォイに「しぶしぶ、気が進まないまま」という言い訳を作っておいてあげることにした。もう一度キスをしたら、きっとマルフォイは観念して、わたしのことを好きになるだろう。
彼に似つかわしくない情熱は、野性的欲望というよりは、むしろもっと言葉にできる感情で説明したほうがしっくりくる。おそらく、わたしのことを少なからず想ってくれているに違いない。わたしはたったいま好きになったのだけど。
「気が進まない、仕方がない」
そう言って、頬を赤く染めながら、彼はわたしのくちびるにキスをした。