目を開けると黄金の陽光が窓の輪郭を描いて机の上を照らしていた。風はそよとも吹かず、生ぬるい空気が袖口から皮膚を撫でまわすようだ。席についたままわたしはまどろんでいたらしい……。
教室の中は誰もおらず、古い床の木材の匂い、蒸すような息苦しさが立ちこめている。
わたしは瞬きをする。ここに来たときと同じように……なかば放心状態で……背筋をぴんと伸ばして黒板を眺めている。
一人きりになりたかった。
使用されていない教室、それも人気のない、足音や話し声もしないような場所は、この広いホグワーツといえども容易には見つけられない。だから、条件のそろったこの場所を見つけたとき、わたしは躊躇なく中に入って、扉を閉めて、窓ぎわの席に着いた。
まるで居残りを命じられた生徒のようだ。誰かに見つかったら、そう思われたほうが都合がいい。
心がぽっかりと空いているのが自分でもわかる。心というものが二つあり、その一つを失くしてしまったのだ。まだ半分は残っているけれど、上手に機能していない。失くしてしまったほうは、そのうち、知らないあいだに戻って来るだろう。そういうものだ、この手の問題は時間が解決してくれるとよく云うのだから。
不思議なことに、マルフォイのことが原因でこんなにぼんやりしているのに、マルフォイのことを考えたり、思い出したりするのは、わたしには難しかった。それくらいぼんやりしているのだ。
しかし、カメラのフラッシュに目を焼かれたときのように、マルフォイの姿が、瞬きの、外の光と目蓋の闇が交差する瞬間にぱっと見えてしまう。
そこに見えるマルフォイの姿。あんなに見詰めあったのに、真正面の顔ではない。どこか遠くを眺めている横顔。いつもきっちりと整えている髪が、一筋乱れて、さらりとこめかみに掛っている……去年の夏の光景だろうか?
こんなにつらいなら、付き合うじゃなかった、と思ったり、思わなかったりする。
思わなかったりする、というのは、別に逆のことを考えているのではなくて、なんにも考えない状態になることだ。
心の整理をつけなければならないのはわかっているけれど、どうすればいいのかわからない。なにから手をつければいいのか。後からぐらぐらと揺れて、崩れてしまうのは目に見えているのに。
何回も何回もやらなければいけないのか……こんなにしんどいのに。
こんなにマルフォイのことを好きなのに、別れなければならない。別れなければいけない。別れなければいけない。
きのうわんわん泣いたからか、涙はもう出てこなかった。いや、たぶんすぐに出るだろう。いまは泣きたくないから、マルフォイとの思い出、記憶の一つ一つを浚っていないだけで、涙腺はすぐに緩むだろう。
ため息をつこうとしたけど、上くちびるが引き攣って、口を開けることができない。
いま抱えている問題が解決すれば、マルフォイの手を取ることができるのに。彼の滑らかな白い手、肉のない薄く長い指に指をからめ、その爪に接吻することができたら……どんなに幸せだろう……。
実際に何度もそうしたことがある。誰もいない部屋を二人で探しまわった。時間はいつでもよかった。朝も昼も夜も、二人が、二人でいたいと思ったとき……それは常のことだった、だから、目が合えば、お茶をするときにそうするように、軽い感じで二人で立ち上がって、廊下に出るのだ。
「きょうは人気が多すぎるな」
「じゃあ東のあそこは?ほら、三階のさ。なんかの用具室の隣の」
「あそこはグリフィンドール寮の連中が使ってる。そんな薄汚いところには行けない」
「そんなこと云ったらどこの部屋もグリフィンドールの生徒が一度は出入りしてるよ」
「自分が見ていなければまだ我慢できるんだ。見たことがあるからな。そんなところではゆっくりできない」
彼は笑っていた。
わたしも笑っていた。
一番気にいっていたのは、城の外の温室の奥にある、小さな古い温室。壁が透けているし、暑いったらない。だからあそこは、夏には向かわない。でも、そこに向かう道中、欅の回廊があり、丸い梢が差す中を、ぶらぶらと歩くのが好きだった。
わたしと彼は、普通のカップルがそうするように、手をつないだり、甘い言葉を交わしたりしない。マルフォイがそういう人ではないからだ。デートも二人きりになるための散歩くらいのもので、ホグズミード休暇だって別々に向かったし、長期休暇は二度ほどお茶をしただけで、それ以外に手紙すらよこさなかった。
もしかしたらわたしたちは冷めきったように見えただろうか──愛情が強張り、ほどけ、落ちていってしまったかのように。実際には、わたしたちは深く互いを大切に想っていた。それは間違いない。当事者でなければ確信できないだろう。
わたしたちは学校の話をし、呪文の話をし、将来の話をした。
「学校を卒業したら、どこかゆったり旅行しよう」とわたしは云う。彼はお茶を飲むべくカップに手を伸ばして、嘲るような独特の笑みを浮かべながら、「どこへ?」と云う。
「ヨーロッパがいいな。イタリア、フランス、オーストリア」
「絶対にいやだね。在英の外国魔法使いを見てみろよ、あんな連中ばかりの場所なんて絶対に行きたくない。だが国内なら付きあってやらないこともない。エディンバラなんかどうだろう?」
あの目、あの間、あの言葉、頬を撫でる手。なんという幸福だろう。なんと懐かしいのだろう。
マルフォイはまた別のときこうも云った。
「卒業して五年経ったら、たぶん全員もう散り散りになってるだろうな」
「そうだね。きっとみんな仕事とか忙しいもん。わたしとマルフォイだって、半年に一度しか会えないような感じになってたりして」
「さあ、どうかな。もしかしたら毎日会ってるかもしれない」
「なにそれ、プロポーズ?」
「下女として雇ってやろう」
「絶対やだ。マルフォイ人遣い荒いもん」
「半年に一度しか会えないよりはマシだ」
………。
気がつくと、大粒の涙が、ぼたっと机の上に落ちた。知らない間に、わたしは机の上で頭を抱えるような姿勢になっていた。髪を掻きあげ、額を支える両手が、汗で湿っている。頭や顔だけでなくて、首や、肩まで発熱していることがわかる。熱くて燃えるようだ。
わたしとマルフォイは、卒業後、旅行することはないし、結婚はおろか、二度と会わずじまいだろう。
このままふたりの人生が交差することはなく、それそれ別の方面に伸びてしまって、何年かしたら、お互いのことなど思い出さずに済む日もくる。
わたしとマルフォイとが一緒にいて、常に互いに目をやったり、肩と肩をさりげなく重ねたり、他愛のない会話にくすくす笑った出来事、思い出、感覚は、風化して、目に見えなくなる。
苦痛や胸を締め付けるような恋しさも、何日か繰り返してベッドで目を覚ますたびに消えてゆき、やがて、また元の自分に戻るのだ。元々マルフォイと付き合っていなかった頃の自分に。
現に、マルフォイと付き合った日々は、すでに過去のものとなった。もう戻れない。
何も知らなかったあのころ、ただマルフォイがわたしのことを好きで、自分もマルフォイを好きだと云う以外には予感すらもなかったほんの一週間前に、わたしは帰りたい。そしてそのまま永遠に同じ日を繰り返したい。
ヴォルデモート……死喰い人……スリザリン………マルフォイ、ああ、なんということだろう………。


わたしは椅子を引いて立ちあがった。机の上に落ちた大粒の涙は魔法で吹き消し、きちんと椅子を机の下に収めてから、扉のほうに歩いていった。
部屋に戻ろう、でも、自分がスリザリン寮生なことを恨めしい。
二度とマルフォイと顔を合したくない。
いいや、本当は彼の姿を見たい。
ずっと見ていたい。
でも彼がわたしに気づいてはならないのだ。


「わたしたち別れなきゃね」
ゆうべ、わたしはマグルの作った十九世紀の豪奢な椅子に坐りながら、息を吐きながら、疲弊しきって、呻くように云った。
マルフォイはわたしを見下ろして立っていた。ポケットに手を突っ込んで、白い膜のように埃が覆った床を、さきほど忙しなく歩きまわったために、あちこちにマルフォイの足跡が散っていた。
「…………」
ほの暗い室内でも、マルフォイの顔は青ざめ、目がぎらぎらとし、彼が狼狽していることがわかった。マルフォイはずっと大人のように見えた。ほんの数日間で、マルフォイはいくつも歳をとってしまったようだった。
“わたしのことを手放したくないから、危険を承知で傍にいてほしいと云ってください”とわたしは思った。
死んでもいいから別れるという言葉を口にしないほしかった。マルフォイの口からその言葉を聞いたら、わたしは、わたし自身がどうなるかをはっきりと悟った。別れるという言葉だけは云わないで。その言葉を聞いたら、わたしは、二度と笑えない一生を耐えなければならないだろう……。
「わかった。そうしよう」
随分間をおいてからマルフォイがついに云った。「別れよう」
あのとき、なにか、耳の奥が震えるような、変な感覚に陥った。一瞬、聞き間違いではないかと疑った。
でも、わたしは泣いていて、マルフォイはわたしを慰めず、ただいつもよりも酷い顔色で、立っていた。
だから、別れようと云われたのは間違いではなかったのだ。
あのことがなければ──わたしたちはずっと一緒にいただろう。ドラマチックな告白があったわけじゃない。運命的な出会いでもない。
ただ、一緒にいるのがとても居心地がよかった。わたしたちは互いの欠点をも気に入っていた。こんなに一緒にいて休まる人はいない、とわたしは思ったし、マルフォイもそうだったろう。音楽や月明かりなどは必要なくて、ただ一対の茶わんがあれば、二人でどこでも心地よい場所に変えてきた。
結婚だってしていたに違いない。彼は「卒業して、すぐと云うわけじゃない。二人の気分が合えば、書類にサインすればいいだけの話だからな。いつだってできる。式のことは、母ときみの母君ときみとで、なにもかも万事やってくれるだろうと期待している。ぼくは関与しない」と一度だけ、結婚のことについて触れた。
そのときのわたしの胸の内を彼は知っていただろうか?わたしと同じくらいの幸福感を、彼も感じただろうか。
はっきりとあのとき目に見えた、マルフォイと共に朝食をとり、向かい合ってコーヒーを飲んでいる姿。わたしもマルフォイも仕事のためきちんとした服を身につけている。いまより十歳ほど年をとった二人。子どもはまだいないらしい……。



あの幻はすぐに消えうせた。うしろから、マルフォイが走ってやってきた。
廊下はがらんとしている。あの角を曲がればすぐに人の気配が届いてくるだろう。
午下がりの柔らかな光が、幾条も、細かいレースのカーテン越しに透け、混じり合い、ぼんやりした光の絨毯を敷いていた。
マルフォイの淡い金色の髪は、不思議と、この金色の風景では、白金のように見える。青白い額、小さな顔、白い首。よく見なれた姿。でももうわたしのものではない。気軽に触れられない。
「マルフォイ、どうしたの」
マルフォイはわたしの姿に目を細めていたが、それを失態だとでも感じたのか、すぐに顔を強張らせた。
「捜していたんだ」
「なんで?」
わたしたちは、向かい合って、しばらく互いの顔を見詰めあった。マルフォイの瞳……灰色の瞳……。わたしは無表情でそれを見詰めた。マルフォイもわたしの瞳を熱心に見詰めた。
「ゆうべからひどく……」マルフォイの声は掠れていた。きっと久々に声を出したのだろう。「後悔していた。きみと二度と関わりを持てないだなんて考えられない……」彼はそこですこし顎を引いた。
「それで?」
自分でもびっくりするくらい冷淡な声が出た。マルフォイは、わたしがすっかり彼に愛想を尽かしたのだと思っただろうか?とにかく、そんな感じの声だった。きっと自分の表情もそんな感じだろう。
「今回のことですべて方がついたら、迎えに来る。だから、それまで、待っていてほしい」
わたしは自分の顔から血の気が引いていくのも、それなのに心臓がどくどくとうるさくなってくるのも、両方感じ取れた。
その言葉を、ずっと待っていた。すべて打ち明けてくれたゆうべ、その言葉を期待していた。“待っていてほしい”。わたしに待っていてほしいと云ってほしかった。そうすれば、けさのわたしは、まったく別の決意の準備に踏み切っていただろう。
、きみがいないとだめなんだ。本当に気が狂いそうになる。ゆうべから地獄のようだった。半日すら耐えられない」
マルフォイは手を伸ばして、わたしの右手をとった。その手を握り、そっと一歩近寄った。
でも、マルフォイ、あなたは、たくさんのマグルを殺す。もしかしたら、わたしの友人やその友人や、繋がりのある人をも……。
ゆうべのうちにそれを云ってくれていれば、わたしは、悪党になる決意をしただろうか?自分も人殺しの味方と云う立場を呑みこめただろうか。わからない。でも、きっとそうしただろう。


「マルフォイ。わたし、付いていけない。マルフォイのことを人殺し……と思いながら、隣にはいられない」
マルフォイの、いつも冷たくてひやりとした手は、熱を持ち、いままで感じたことのないような温度になっていた。マルフォイはわたしをじっと見詰め、「それもそうだな」と云った。
「たしかにきみの云う通りだ。それでも一緒にいてほしい。ぼくのことをどう思ってくれても構わないから……」
「やめてよ。きのう、散々話したでしょ?いまは人恋しいから、マルフォイはわたしに一緒にいてほしいと思ってる。でも一段落ついたら、あんなことを知り合った二人では、絶対に長続きしないよ。現にわたし、マルフォイのこと……」わたしは一気にまくしたてて、くちびるを噛んだ。躊躇ってから云った。「もう好きじゃない」
「………」
マルフォイははっきりと動揺を見せたが、しかし、何も云わなかった。ただ、黙って、わたしの手を離した。
「無理でしょ、普通、ばかみたいだもん。絶対無理。応援なんてできないし、わたしは犯罪者なんて心底軽蔑する。マルフォイとは違うんだよ。“名前を云ってはいけないあの人”のことも、マグルのことも、なにもかもどうでもいいの。そんなことに熱くなれないの」
マルフォイの握っていた手、いまはもう自由になったそこが、ひりひりと痛い気がした。
ここまで云えば、マルフォイは諦めるだろう……わたしを軽蔑するだろう。
わたしは、本当にこの恋が終わったことを知った。ゆうべとは違う、完全に違う。もう離れた場所から好きでいることもできないし、誰にも云えない、マルフォイのことを見守ることもできない……。
目の前が真っ暗になる感じがしたが、しかしそれは気のせいだった。そこにはマルフォイが立っていた。
本当は、近いうちにいつか必ずこうなることをわたしは知っていた。ゆうべ別れ話をしたときから。マルフォイはたぶんわたしのことを追ってくれるだろう、でも、そのときわたしは止めを刺さなければならない。
こうなることが本当に怖かった。
マルフォイのことを傷つけなければならない。彼の静かな顔、一見冷静そうなそれが、いま、苦しみの中にあるものだとわたしにはよくわかった。眉と瞳のあたりには力が抜け、しかしくちびるのあたりはぎゅっと強張っていた。
……」
「もう話しかけないで。わたしまで仲間だと思われたら困る」
「………」

わたしの名前を呼ぶ声、その耳に心地よい響きは、二人でよく笑っていたあのころと、まったく同じだ。
もう二度と彼はわたしの名前を呼ぶこともなく、目も合わさず、接触しなくなる。
わたしがそうさせたのだ。わたしがそれを望んだのだ。自分の身辺のほうが大切だったから。
マルフォイの顔は、さっき見たときより、暗闇の中をさ迷っているときのように、不安げで、悲しそうだった。
わたしは、男の人が、こんなに悲しみの中にいるのを、見たことがなかった。
……よくわかった。とても身勝手なことを云って申し訳なかった。……」
「………」
かすかに震えるくちびるを噤み、マルフォイは、もう一度じっとわたしを見詰めた。お互いが見つめあう瞬間──これが最後であることを、わたしはよく知っていた。だから、わたしもマルフォイを必死になって見詰めた。その顔を脳に焼き付けるのだ。
「本当に悪かった。今までありがとう」
「………う、ん。もういいの。こっちこそ、いままで、ありがとう……体に気をつけて」


マルフォイはなにも云わず、名残惜しそうにわたしを見詰め、それから、踵を返した。
彼が元やってきた道を、まっすぐに歩いていった。
その背中を見詰めていると、視界の半分にぼんやり霞む小さな四角い画面に、いままでのことがざっと映し出された。
初めて出会ったときのこと、告白の前にキスをしたこと、何でもないことのようにわたしのことを恋人だと云ったこと、初めて学校の外でお茶をしたこと、湯気とか、匂い、腕の温度、くちびると、かたわらの寝顔。
それらは、いままで付き合った二年間の出来事だったり、夢に描いた未来のことでもあった。


マルフォイは角を曲がるとき、立ちどまって、もう一度わたしを見た。
しかし、その顔は、あまりに遠くにありすぎて、どんな表情か見えなかった。
マルフォイもわたしの顔はぼんやりとしか見えなかっただろう。


そして、素早い動作で曲がり角の向こうに姿を消した。
パチンと映像も消え去った……さようなら。